西浦弥平

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【西浦弥平(にしうら やへい)履歴】
 1844(弘化元)年10.4日、大和国山辺郡園原村(現・奈良県天理市園原町)生まれ。
 1899(明治32)年6.14日、出直し(享年56歳)。

 1844(弘化元)年10.4日、大和国山辺郡園原村(現・奈良県天理市園原町)の農家に生まれる。
 1874(明治7)年、園原村の戸長をつとめていた時、長男楢蔵が医者も見放すような重いジフテリアにかかったところを伸田儀三郎のおたすけによりたすけられる。その後、教祖(おやさま)のもとにお礼に上がり、一家をあげて信仰するようになった。
 1876(明治9)年、隣家の上田ナライトの身上のさわりを機に同家に信仰を伝え、上田嘉治郎(嘉助)、ナライト等を導く。
 明治16年、雨乞いづとめに参加。
 明治20年3.25日、飯降伊蔵が本席に定まった日の深夜、かんろだいのさづけの理をいただく。本席からおさづけを頂いた最初の人となった。れた後、本席となった飯降伊蔵より最初に「かんろだいのさずけ」を頂く。をご守護頂き入信。隣家の上田家に信仰を伝え
 1899(明治32)年6.14日、出直し(享年56歳)。

【西浦弥平逸話】
 稿本天理教教祖伝逸話篇39「もっと結構」
 明治7年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時2才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから、にをいがかかった。お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎が、おたすけに来てくれ、ふしぎなたすけを頂いた。弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい。」 と思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結講でございました。」 と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。

 「西浦弥平先生について」。
 上田奈良糸様(十五六才の時)にお匂いがけしてお屋敷へ連れて詣られ、同じ園原村の人である。最初は父親の上田嘉助さんがなかなか聞かなかったが、奈良糸様の身上がだんだん悪くなったので、やっと本人をつれて運ばれた。その結果奈良糸様が、教祖様から「人足社」としておもらいうけになったことは、人皆の良く知るところである。

 先生はいたっておとなしいかたで、明治廿八年旭日が創立された時には、その理事もつとめ、その后お屋敷へ引き寄せられ、本部員にもおとり立て頂かれた。そして真柱様にも本席様にも御信用頂き、古い時代の事をよく后進に話して聞かされた。惜しいことには学問はなし、草深い田舎で百姓していられた身で度胸もなく余りおとなしく遠慮深すぎて、他の先生方と肩を並べてつとめる事に余程気骨を折られたようで、その為明治三十二年六月十四日五十六才で早く出直しされた。荷が勝ちすぎたのではないかと思う。

 尤も家の因縁で息子さんも夫人も若死にしていあられるところもあろう。総じて人は良いが思い切って因縁きることができなかったのであろう。息子の三治郎さんも本部員を拝命し、会計をつとめておられたが昭和十三年五月十日、57才の若さで出直し、孫の忠雄さんも亦46才で若死してしまった。個人は弱いものである。何でも布教して理の子供与はって置かぬといかん。(「清水由松傳稿本」129~130ページより)




(私論.私見)