中山たまへ

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【中山たまへ(なかやま たまへ】
 明治10年、生れる。中山秀司、まつえの一子。
 昭和13年、出直し(享年62歳)。
 明治10年、生れる。中山秀司、まつえの一子。
 明治14年に父、翌年に母を亡くし、教祖に育てられた。
 明治23年、初代真柱と結婚。
 明治43年、天理教婦人会が創設され、婦人会長に就任。
 大正7年、これより20年間にわたり「おさづけの理」を渡された。
 大正13年、初代真柱出直し後は「御母堂様」と呼ばれた。
 昭和13年、出直し(享年62歳)。

【中山たまへ逸話】
 89「食べ残しの甘酒」、。
 89「食べ残しの甘酒」。
 教祖にお食事を差し上げる前に、誰かがコッソリと摘まみ喰いでもして置こうものなら、いくら教祖が召し上がろうとなされても、どうしても、箸をお持ちになったお手が上がらないのであった。明治14年のこと。ある日、お屋敷の前へ甘酒屋がやって来た。この甘酒屋は、丹波市から、いつも昼寝起き時分にやって来るのであったが、その日、当時未だ5才のたまへが、それを見て、付添いの村田イヱに、「あの甘酒を買うて、お祖母さんに上げよう。」 と、言ったので、イヱは、早速、それを買い求めて、教祖におすすめした。教祖は、孫娘のやさしい心をお喜びになって、甘酒の茶碗をお取り上げになった。ところが、教祖が、茶碗を口の方へ持って行かれると、教祖のお手は、そのまま茶碗と共に上の方へ差し上げられて、どうしても、お飲みになる事は出来なかった。イヱは、それを見て、「いと、これは、教祖にお上げしてはいけません」と言って、茶碗をお返し願った。考えてみると、その甘酒は、あちこちで商売して、お屋敷の前へ来た時は、食べ残し同然であったのである。
 134「思い出」。
 明治16、7年頃のこと。孫のたまへと、2つ年下の曽孫のモトの2人で、「お祖母ちゃん、およつおくれ」と言うて、せがみに行くと、教祖は、お手を眉のあたりにかざして、こちらをごらんになりながら、「ああ、たまさんとオモトか、一寸待ちや。」と、仰っしゃって、お坐りになっている背後の袋戸棚から出して、2人の掌に載せて下さるのが、いつも金米糖であった。又、ある日のこと、例によって二人で遊びに行くと、教祖は、「たまさんとオモトと、二人おいで。さあ負うたろ」と、仰せになって、2人一しょに、教祖の背中におんぶして下さった。二人は、子供心に、「お祖母ちゃん、力あるなあ」と感心した、という。




(私論.私見)