村田イエ

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【村田イエ履歴
 稿本天理教教祖伝逸話篇44「雪の日」、50「 幸助とすま」、51「家の宝」、89「食べ残しの甘酒」、162「 親が代わりに」、179「神様、笑うてござる」。

村田イエ
 「44. 雪の日」。
 明治八、九年頃、増井りんが信心しはじめて、熱心にお屋敷帰りの最中のことであった。正月十日、その日は朝から大雪であったが、りんは河内からお屋敷へ帰らせて頂くため、大和路まで来た時、雪はいよいよ降りつのり、途中から風さえ加わる中を、ちょうど額田部の高橋の上まで出た。この橋は、当時は幅三尺程の欄干のない橋であったので、これは危ないと思い、雪の降り積もっている橋の上を、跣足になって這うて進んだ。そして、ようやくにして、橋の中程まで進んだ時、吹雪が一時にドッと来たので、身体が揺れて、川の中へ落ちそうになった。こんなことが何回もあったが、その度に、蟻のようにペタリと雪の上に這いつくばって、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、一生懸命にお願いしつつ、やっとの思いで高橋を渡り切って宮堂に入り、二階堂を経て、午後四時頃お屋敷へたどりついた、そして、つとめ場所の、障子を開けて、中へ入ると、村田イヱが、「ああ、今、教祖が、窓から外をお眺めになって、『まあまあ、こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。ああ、難儀やろうな』と、仰せられていたところでした」と、言った。

 りんは、お屋敷へ無事帰らせて頂けた事を、「ああ、結構やなあ」と、ただただ喜ばせて頂くばかりであった。しかし、河内からお屋敷まで七里半の道を、吹雪に吹きまくられながら帰らせて頂いたので、手も足も凍えてしまって自由を失っていた。それで、そこに居合わせた人々が、紐を解き、手を取って、種々と世話をし、火鉢の三つも寄せて温めてくれ、身体もようやく温まって来たので、早速と教祖へ御挨拶に上がると、教祖は、「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ、その中にて喜んでいたなあ。さあ/\親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ」と、仰せられて、りんの冷え切った手を、両方のお手で、しっかりとお握り下された。それは、ちょうど火鉢の上に手をあてたと言うか、何んとも言いあらわしようのない温かみを感じて、勿体ないやら有難いやらで、りんは胸が一杯になった。
 「50. 幸助とすま」。
 明治十年三月のこと。桝井キクは、娘のマス(註、後の村田すま)を連れて、三日間生家のレンドに招かれ、二十日の日に帰宅したが、翌朝、マスは、激しい頭痛でなかなか起きられない。が、厳しくしつけねば、と思って叱ると、やっと起きた。が、翌二十二日になっても、未だ身体がすっきりしない。それで、マスは、お屋敷へ詣らせて頂こう、と思って、許しを得て、朝八時伊豆七条村の家を出て、十時頃お屋敷へ到着した。すると、教祖は、マスに、「村田、前栽へ嫁付きなはるかえ」と、仰せになった。マスは、突然の事ではあったが、教祖のお言葉に、「はい、有難うございます」 と、お答えした。すると、教祖は、「おまはんだけではいかん。兄さん(註、桝井伊三郎)にも来てもらい」と、仰せられたので、その日は、そのまま伊豆七条村へもどって、兄の伊三郎にこの話をした。その頃には、頭痛は、もう、すっきり治っていた。それで、伊三郎は、神様が仰せ下さるのやから、明早朝伺わせて頂こう、ということになり、翌二十三日朝、お屋敷へ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、「オマスはんを、村田へやんなはるか。やんなはるなら、二十六日の日に、あんたの方から、オマスはんを連れて、ここへ来なはれ」と、仰せになったので、伊三郎は、「有難うございます」 と、お礼申し上げて、伊豆七条村へもどった。

 翌二十四日、前栽の村田イヱが、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、「オイヱはん、おまはんの来るのを、せんど待ちかねてるね。おまはんの方へ嫁はんあげるが、要らんかえ」と、仰せになったので、イヱは、「有難うございます」 と、お答えした。すると、教祖は、「二十六日の日に、桝井の方から連れて来てやさかいに、おまはんの方へ連れてかえり」と、仰せ下された。二十六日の朝、桝井の家からは、いろいろと御馳走を作って重箱に入れ、母のキクと兄夫婦とマスの四人が、お屋敷へ帰って来た。前栽からは、味醂をはじめ、いろいろの御馳走を入れた重箱を持って、親の幸右衞門、イヱ夫婦と亀松(註、当時二十六才)が、お屋敷へ帰って来た。そこで、教祖のお部屋、即ち中南の間で、まず教祖にお盃を召し上がって頂き、そのお流れを、亀松とマスが頂戴した。教祖は、「今一寸前栽へ行くだけで、直きここへ帰って来るねで」と、お言葉を下された。この時、マスは、教祖からすまと名前を頂いて、改名し、亀松は、後、明治十二年、教祖から幸助と名前を頂いて、改名した。

 註 レンド レンドは、又レンゾとも言い、百姓の春休みの日。日は、村によって同日ではないが、田植、草取りなどの激しい農作業を目の前にして、餅をつき団子を作りなどして、休養する日。(近畿民俗学会「大和の民俗」、民俗学研究所「綜合日本民俗語彙)

 「51. 家の宝」。
 明治十年六、七月頃(陰暦五月)のある日のこと。村田イヱが、いつものように教祖のお側でお仕えしていると、俄かに、教祖が、「オイヱはん、これ縫うて仕立てておくれ」と、仰せられ、甚平に裁った赤い布をお出しになった。イヱは、「妙やなあ。神様、縫うて、と仰っしゃる」と思いながら、直ぐ縫い上げたら、教祖は、早速それをお召しになった。ちょうどその日の夕方、亀松は、腕が痛んで痛んで困るので、お屋敷へ詣って来ようと思って、帰って来た。教祖は、それをお聞きになって、「そうかや」と、仰せられ、早速寝床へお入りになり、しばらくして、寝床の上にジッとお坐りになり、「亀松が、腕痛いと言うているのやったら、ここへ連れておいで」と、仰せになった。それで、亀松を、御前へ連れて行くと、「さあ/\これは使い切れにするのやないで。家の宝やで。いつでも、さあという時は、これを着て願うねで」と、仰せになり、お召しになっていた赤衣をお脱ぎになって、直き直き、亀松にお着せ下され、「これを着て、早くかんろだいへ行て、あしきはらひたすけたまへ いちれつすますかんろだいのおつとめをしておいで」と、仰せられた。
 「89. 食べ残しの甘酒」。
 教祖にお食事を差し上げる前に、誰かがコッソリと摘まみ喰いでもして置こうものなら、いくら教祖が召し上がろうとなされても、どうしても、箸をお持ちになったお手が上がらないのであった。明治十四年のこと。ある日、お屋敷の前へ甘酒屋がやって来た。この甘酒屋は、丹波市から、いつも昼寝起き時分にやって来るのであったが、その日、当時未だ五才のたまへが、それを見て、付添いの村田イヱに、「あの甘酒を買うて、お祖母さんに上げよう」 と、言ったので、イヱは、早速、それを買い求めて、教祖におすすめした。教祖は、孫娘のやさしい心をお喜びになって、甘酒の茶碗をお取り上げになった。ところが、教祖が、茶碗を口の方へ持って行かれると、教祖のお手は、そのまま茶碗と共に上の方へ差し上げられて、どうしても、お飲みになる事は出来なかった。イヱは、それを見て、「いと、これは、教祖にお上げしてはいけません」と言って、茶碗をお返し願った。考えてみると、その甘酒は、あちこちで商売して、お屋敷の前へ来た時は、食べ残し同然であったのである。
 「162. 親が代わりに」。
 教祖は、平素あまり外へは、お出ましにならなかったから、足がお疲れになるような事はないはずであるのに、時々、「足がねまる」とか、「しんどい」とか、仰せになる事があった。ところが、かよう仰せられた日は必ず、道の子供の誰彼が、意気揚揚として帰って来るのが、常であった。そして、その人々の口から、「ああ、結構や。こうして歩かしてもろても、少しも疲れずに帰らせて頂いた」と、喜びの声を聞くのであった。これは、教祖が、お屋敷で、子供に代わってお疲れ下された賜物だったのである。神一条のこの屋敷へ帰って来る子供が可愛い余りに、教祖は、親として、その身代わりをして、お疲れ下されたのである。

 ある時、村田イヱが、数日間お屋敷の田のお手伝いをしていたが、毎日かなり働いたのにもかかわらず、不思議に腰も手も痛まないのみか、少しの疲れも感じなかった。そこで、「あれだけ働かせてもらいましても、少しも疲れを感じません」と、申し上げると、教祖は、「さようか。わしは毎日々々足がねまってかなわなんだ。おまえさんのねまりが、皆わしのところへ来ていたのやで」と、仰せられた。
 「179. 神様、笑うてござる」。
 ある時、村田イヱが、動悸が出て、次第に募って来て困ったので、教祖にお伺いしたところ、「動悸は、神様、胸が分からん。と言うて、笑うてござるのやで」と、お聞かせ下された。





(私論.私見)