諸井国三郎先生について

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【諸井国三郎(もろい くにさぶろう)】
 1840(天保11)年7.20日、遠江国山名郡広岡村下貫名(現・静岡県袋井市広岡)生まれ。  1918(大正7)年6.22日、出直し(享年79歳)。

 1840(天保11)年7.20日、遠江国山名郡広岡村下貫名(現・静岡県袋井市広岡)生まれ。
 16歳の時、江戸に出て士官する。
 維新後の明治6年、帰郷して養蚕、製糸、機業を手広く営む。
 1882(明治15)年、諸井家に寄留していた吉本八十次が、織物教師・井上マンの歯痛をおたすけしたのがきっかけでにをいがかかる。翌1883(明治16)年、三女の甲子の咽喉痛病から夫婦で信心の心を定め入信、この年初参拝。
 遠江真明講(山名大教会の前身)を結成、講元。
 本席よりおさづけ(明治20年7月14日)。
 明治22年、山名分教会(現大教会)設立、初代会長。東北各県や台湾布教に励む。
 1918(大正7)年6.22日、出直し(享年79歳)。

【諸井国三郎逸話】
 教祖伝逸話篇118「神の方には」、139「フラフを立てて」、151「をびや許し」、187「 ぢば一つに」。
 教祖伝逸話篇118「神の方には」。
 明治十六年二月十日(陰暦正月三日)、諸井国三郎が、初めておぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂くと、「こうして、手を出してごらん」と、仰せになって、掌を畳に付けてお見せになる。それで、その通りにすると、中指と薬指とを中へ曲げ、人差指と小指とで、諸井の手の甲の皮を挾んで、お上げになる。そして、「引っ張って、取りなされ」と、仰せになるから、引っ張ってみるが、自分の手の皮が痛いばかりで、離れない。そこで、「恐れ入りました」と、申し上げると、今度は、「私の手を持ってごらん」と、仰せになって、御自分の手首をお握らせになる。そうして、教祖もまた諸井の手をお握りになって、両方の手と手を掴み合わせると、「しっかり力を入れて握りや」と、仰せになる。そして、「しかし、私が痛いと言うたら、やめてくれるのやで」と、仰せられた。それで、一生懸命に力を入れて握ると、力を入れれば入れる程、自分の手が痛くなる。教祖は、「もっと力はないのかえ」と、仰っしゃるが、力を出せば出す程、自分の手が痛くなるので、「恐れ入りました」と、申し上げると、教祖は、手の力をおゆるめになって、「それきり、力は出ないのかえ。神の方には倍の力や」と、仰せられた。
 教祖伝逸話篇139「フラフを立てて」。
 明治十七年一月二十一日(陰暦 前年十二月二十四日)、諸井国三郎は、第三回目のおぢば帰りを志し、同行十名と共に出発し、二十二日に豊橋へ着いた。船の出るのが夕方であったので、町中を歩いていると、一軒の提灯屋が目についた。そこで、思い付いて、大幅の天竺木綿を四尺程買い求め、提灯屋に頼んで旗を作らせた。その旗は、白地の中央に日の丸を描き、その中に、天輪王講社と大きく墨書し、その左下に小さく遠江真明組と書いたものであった。一行は、この旗を先頭に立てて、伊勢湾を渡り、泊まりを重ねて、二十六日、丹波市の扇屋庄兵衞方に一泊した。翌二十七日朝、六台の人力車を連らね、その先頭の一人乗りにはこの旗を立てて諸井が、つづく五台は、いずれも二人乗りで二人ずつ乗っていた。お屋敷の表門通りへ来ると、一人の巡査が、見張りに立っていて、いろいろと訊問したが、返答が明瞭であったため、住所姓名を控えられただけですんだ。お屋敷へ到着してみると、教祖が、数日前から、「ああ、だるいだるい。遠方から子供が来るで。ああ、見える、見える。フラフを立てて来るで」と、仰せになっていたので、お側の人々は、何んの事かと思っていたが、この旗を見るに及んで、成る程、教祖には、ごらんになる前から、この旗が見えていたのであるなあ、と感じ入った、という。

 註 フラフは、元来オランダ語で、vlag と書く。旗の意。明治十二年、堺県令に対して呈出した「蒸気浴フラフ御願」の中にも「私宅地ニ於テ蒸気浴目印フラフ上度候間」という一文がある。これを見ても、フラフが、旗を意味する帰化日本語として、コレラ、ガラス、ドンタクなどと共に、当時、広く使用されていたことを知る。
 教祖伝逸話篇151「をびや許し」。
 明治十七年秋の頃、諸井国三郎が、四人目の子供が生まれる時、をびや許しを頂きたいと、願うて出た。その時、教祖が、御手ずから御供を包んで下さろうとすると、側に居た高井直吉が、「それは、私が包ませて頂きましょう」と言って、紙を切って折ったが、その紙は曲がっていた。教祖は、高井の折るのをジッとごらんになっていたが、良いとも悪いとも仰せられず、静かに紙を出して、「鋏を出しておくれ」と、仰せになった。側の者が鋏を出すと、それを持って、キチンと紙を切って、その上へ四半斤ばかりの金米糖を出して、三粒ずつ三包み包んで、「これが、をびや許しやで。これで、高枕もせず腹帯もせんでよいで。それから、今は柿の時やでな、柿を食べてもだんないで」と、仰せになり、残った袋の金米糖を、「これは、常の御供やで。三つずつ包み、誰にやってもよいで」と、仰せられて、お下げ下された。

 註 これは、産後の腹帯のこと、岩田帯とは別のもの。
 教祖伝逸話篇187「ぢば一つに」。
 明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい」とお願いしたところ、教祖は、「さあ/\小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで」と、お言葉を下された。

【諸井国三郎の「教祖のおもかげ」】
 「教祖のおもかげ(その一)」、「教祖のおもかげ(その二)」、「教祖のおもかげ(その三)」。(大正五年一月発行「山名大教会初代会長夫妻自伝」(文進堂)、諸井国三郎さんのお話より)
 教祖という方は、これは云う迄もない空前絶後の偉人であらせられたが、そのお楽しみと申しては唯帰って来る子供(信徒未信徒)をどうして満足させて帰そうかと、そればかりお考えになって、御自分では何を食おうとか、あれを衣ようとか、どんな家に住もうとか云う御考えは少しもなかった。ただもう神と子供のことばかり、明けても暮れてもそれより外、他念というものは更になかった。それで御地場に帰ってお目通りを願って、「今日は御地場へ帰らして戴いて有難う御座ります」と申上げると、『あゝ遠州の講元さんかえ、よう帰って来なされた。内には変りはないかえ』とお尋ねになる。「有難う御座ります。神様の御蔭で皆達者に暮させて頂いて居ります」。『そりゃ結講やな』と仰せになる。そのお言葉と云い御容子と云い、何とも云うことの出来ぬ自愛が溢れていた。しかして往々地方の出来事や不時の災難等について申上げると、言葉の切れる迄黙って御聞きになっていられるが、言葉が切れると、『この処は神一条の屋敷やで。世界の事は聞きもせん。聞かせもせんで』と仰せになる。それから段々神様はこう仰った、ああ仰ったと御聞かせになった。
 これは私が第一回に登参した時の事であるが、教祖の前に出ると、『講元さん、こうして手を出して御覧なさい』と仰せになって、掌を畳に付けてお見せになる。それでその通りにすると、中指と薬指とを中へ曲げ、人指し指と小指とで私の手の甲の皮を挟(はさ)んでお上げになる。しかして、『引っ張って取りなされ』と仰せになるから引っ張ってみるが、自分の皮が痛いばかりで放れない。そこで、「恐れ入りました」と申上げると、今度は、『私の手を持ってごらん』と云って、手首を握らせる。そうすると又御教祖も私の手を御持ちになりて、両方の手と手をつかみ合せなさると、『しっかり力を入れてにぎれ』と仰しゃる。『しかし私が痛いと云ったら、止めてくれるのやで』と。それで一生懸命に力を入れてにぎると、にぎればにぎる程自分の手が痛くなる。教祖様は、『もっと力はないのか』と仰るが、出せば出すほど痛くなるから、「恐れ入りました」と申上げると、手をお緩めになって、『それきり力はないのかえ?神の方には倍の力や』と云ってお笑いになる。その次には背中で合掌に組んで、背向きになって御示しになり、『こうしてごらんなさい』と仰せられるから、そうしてみても中々出来ない。それでこれも「恐れ入りました」と申上げると、『誰にでも出来るのやがな』と仰せになって笑っておいでになったが、徳がそこまで進んでいないからどうしても出来ない。これは今から考えて見ると、神の自由用を実地に御示しになったものと恐察するのである。それからもう一つ、直接聴かして戴いた御言葉の中で有難い御言葉は、『道について来ても足場になるなよ。足場というものは普請が出来上がれば取り払うてしまう。何でも国の柱となれ』※1とお聴かせ下すった御言葉である。(後略)
  教祖と申す方は至って謙遜な方で、私共の前をお通りになる時でも手を下げて御通りになった。また人のする事に、これはいかんあれはいかんと仰せになったことがない。それにはこういう話がある。

 私共で”おろく”(註・諸井さんの娘さん)の出来る前に一人子供があったが、その子供の生まれる時”をびや許し(※1)”の御願いをした。その時教祖お手づから包んで下さろうとすると、側に高井先生が居て、「それは私が包ませて戴きましょう」と云って御紙を切って折ったのが曲っていた。教祖は高井さんの折る所をジッと御覧になっていたが、良いとも悪いとも仰せられず、静かに紙を出し、『ハサミを貸しておくれ』と云って、ハサミをとってキチンと紙を切って、その中へ四半斤(※2)ばかりの金平糖を出して、三粒づつ三包つつんで、『これが”をびや許し”やで。これで高枕もせず腹帯もせんで良いで。それから今は柿の時だでな。柿を食べても大事ないで』。残った袋の金平糖を、『これは常の御供だで、三つづゝ包み誰にやっても良いで』と云ってお下げになった。
 「諸井国三郎先生について」。
 遠州磐田郡久努村の出身で明治十六年二月の入信である。とても負け嫌いの度胸のある大法師であった(抱負師、悪い意味では謀反師)。初代真柱様や松村吉太郎先生とも意見が合わぬ時は、真向から反対された。明治廿一年教会本部創立の際には非常な貢献をし、初代真柱様のお力となり、明治二十二年には山名分教会を創立し、又台湾布教に先鞭をつけ道の為貢献する所が多かった。日露戦后不景気の為教会は負債に苦しみ、その結果生命保険会社を創立し、その資金を融通することになって難関を切抜けようとしたが思うようにゆかず、本部としても「みちのとも」に廣告して、それに関係することないよう警告された。当時本部はそれをさしとめようとされる。諸井先生はやろうとされるので、一時はどうなるかと思う程であった。同先生の没後先妻たまさんの養子清麿さんと、后妻そのさんの娘ろくさんの養子慶五郎さんとの間に、継嗣問題が起り、慶五郎さんは養嗣子だから、諸井家を継承して山名大教会長となるべきだと主張するし、清麿さんは姉婿だからこちらこそ継承者だと主張して、双方ゆづらず、遂に山名を二分して名京と山名とにし、山名を慶五郎さん、名京を清麿さんが継いで、円満解決を見たのである。國三郎先生が本部員になられたのは、明治二十四五年頃であったと思う。実際から言えば御昇天后あたりにあるべきが遅れたのである。天性なかなか剛腹ではあったが、心はいたって親切であった。そして初代真柱様に対しても遠慮なく正面きって反対されたが、それは皆道の為を思っての事であり、松村(吉)先生ともよく対立され、又本部員会議では井筒五三郎さんと、なかなか激しいやりとりもあった。これは先生の性格の然らしむる所であろう。

 保険会社の件の時には、初代真柱様は十ヶ所ほどの有力な直轄教会長を呼んで、それに関係せぬよう注意をお与えになった。そして松村(吉)先生は「断然諸井先生を辞職させよ」と強硬に主張されたが、初代真柱様がまあまあと抑えられて事なく済んだ。然し当時は全教内から事の成行きがとても気づかわれたが、その后何事もなく治りがついた。出直されたのは大正七年六月廿二日七十九才であった。

 「清水由松傳稿本」123~125ページより

【諸井国三郎評伝】
 「山名大教会はじまり物語」。
 天理教教会本部の部下教会の中で最も歴史ある教会「山名大教会」の初代会長 諸井國三郎の出生から、信仰との不思議な出逢い、そして教会ができるまでの物語です。
① 諸井國三郎の出生と仕官
 天理教山名大教会は、明治21年(1888年)に設立された天理教教会本部の最初の直轄教会として、同年12月5日に設立を許されました。創立者である初代会長・諸井國三郎(もろいくにさぶろう)は、天保11年(1840年)、遠江国山名郡広岡村下貫名(現在の静岡県袋井市)において組頭(名主を助けて村の事務を取り扱う役)諸井十郎兵衛の三男に生まれ、幼名を龍蔵といいました。幼い頃から明敏精悍な性格で農事にはなじめなかったことから、16歳で國三郎と改名して侍奉公を志して江戸に出て旗本に士官を果しました。文久3年(1863年)に、14代将軍徳川家茂の上洛に付いて、その警護の銃隊の一員に選ばれ、水戸で起った天狗党の乱では、歩兵取締として参戦、大砲や小銃の弾が雨のように飛び交う中で奮戦するなど、國三郎は、幕末・明治維新の激動期を侍として生きぬきました。その後、間もなく幕府の解体によって、明治6年(1873年)、33歳で侍を辞して郷里へ戻ります。侍をやめるにあたり國三郎は、明治の新しい国づくりに寄与することを理想として、郷里遠州の地で農業を基礎とした新しい殖産(しょくさん)を興そうと考えました。
② 故郷に戻った國三郎と負債を抱えた村
 郷里に戻った國三郎は、まず原谷川の氾らんで荒れた土地を購入して開墾し、そこで養蚕(ようさん)と製糸(せいし)と機業(はたぎょう)を始めました。江戸時代末期の農村は民力が衰え、さらに飢饉(ききん)などによって負債を抱えて困窮する所が多かったようですが、その頃の広岡村は大きな負債を抱えて村民が苦しんでいました。江戸から帰った國三郎は、村方から依頼されて、村の負債整理を引き受けて日当は1文として受けずに奔走しました。村の負債を返済する手段として國三郎はいろいろな方法を試みましたが、特に当時農村の復興に大きな功績を残した二宮尊徳の報徳仕法を実行したようです。

 その方法は、自家に太鼓を吊るし、夜の白むのを待って打つ太鼓を合図に村方が夜なべに作った縄や草履を集めてまわり、それを売って負債返却の資金にしたりしました。また、道路の修繕や橋梁の架設に力を注いだり、将来のために青少年の教育の重要性を考えて夜学を起したりしました。その当初には、3ヵ年の間、油や炭を自費で負担し、広岡村の刮目舎(かつもくしゃ)小学校(袋井東小学校の前身)の創設にあたっても建築係として尽力し村の発展向上に尽くしました。


 村の負債も8年ほどでほぼ整理がついた頃、事業が手広くなって手が離せなくなってきたこともあって國三郎は、村の役向きを辞退して事業に専念しました。國三郎は、自伝の中で「自分の心がけは国家主義で、心の国家の上において、国利民福の増進を図るのが私の主義である。養蚕や製糸や機業に手を染めたのも、自分一身の利益を求めてのことではない」と述べています。慣れない商売でありましたが、精魂込めて作った製品は、やがて認められ表彰されるような品を生み出していきました。そして近村の希望者には、だれ彼の別なく、絹機(きぬはた)などを無料で教えて、地域産業の啓蒙に心を尽くしました。このように明治維新後の新たな国づくりが進む中、國三郎は農村においてその一役を担うことを我が使命と感じて、国利民福の理想実現に向けて突き進んでいきました。
③ 不思議な信仰との出逢い
 そんな國三郎のもとに天理教の教えを伝えたのは、明治15年(1882年)秋に不思議な縁で諸井家を訪れた一人の青年でした。青年は、吉本八十次(きちもとやそじ)といいました。八十次は、東京から大阪への旅の途中、相州の馬入川(現在の神奈川県、相模川)を渡し船で渡り歩いていると、前をとぼとぼと歩いている男に追いついてしまい、その男と言葉を交わしました。その男は、國三郎の番頭でした。男は、諸井國三郎の命で八王子に商用に出向いていましたが、帰途の横浜でお金を使い込んでしまい、逃げ出そうとも考えましたが、妻が諸井家で糸引きとして働いていたので逃げることもできず、途方に暮れてとぼとぼ歩いたのでした。男は、何も知らない吉本に、「私は遠州の諸井國三郎という者だが、横浜での商いの帰り、川へ財布を落としてしまった。家に着けば返すから道中賄ってもらえまいか」と嘘を言うと、吉本は快くそれを引き受けました。諸井宅のある袋井(現在の静岡県袋井市)近くまでたどり着くと、男は吉本に本当のことを白状し、その上「君は八王子の人で、桑の耕作が上手なので連れてきたということにしてくれ」と頼み込んだので、人のよい吉本もそれを引き受けて、不思議な縁で諸井家に住み込んで働くことになりました。吉本は、非常に正直者で、陰日向なくよく働きました。

 そうして2ヵ月がたった年の暮れ、諸井家に勤めていた織物教師・井上マンの歯が痛み出し、二日二晩苦しみました。それを見かねた吉本は、「神様にお願いしてあげましょう」と言って、夜の戸外へ出て、暫くすると茶碗に一杯の水を持ってきて渡しました。水を呑んだ井上マンは、急に眠気を催して床につき、そのまま眠ってしまいました。翌朝には、すっかり治ってしまいケロッとしていましたので、諸井家では大変驚かれました。不思議に思った國三郎は、吉本が信仰している神様がどんな神様かを尋ねました。吉本は、自分がかつて病で失明していたところをたすけられたことを話した上で、親神様がこの世と人間を創造され、今も世界を守護している「元の神・実の神」であること、そして人間の身体は親神様からの借り物であること、病の元は心からと言って心の中に埃のように積もり重なる「おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」の八つの心遣いを自ら反省して掃除することで親神様が守護してくださることなど、親神様の教えを伝えました。吉本の話を聞いた國三郎は、深く感ずるものがありましたが、経営者として事業を営む責任がありましたので、すぐに信仰するわけにはいきませんでした。そのかわり村の病人宅へ吉本を向かわせて、おたすけをさせました。吉本が願うと不思議な御守護がたちまち現れました。しかし、間もなくして吉本は、大和のおやさまのお屋敷に向うといって諸井宅を去りました。
④ 信仰のはじまり
 年が明けて明治16年(1883年)の2月のある日、國三郎の2歳になる娘が喉気(のどけ)の患いで危篤に陥ってしまいました。妻そのは、この上は吉本八十次から聞かされた天理王様の信心でたすけて頂くしかないと國三郎に懇願しました。最初、國三郎は、「お前の信心は、腹のすいたのを徳でなおそうというものだ。そんなものでなおるか」と取り合いませんでしたが、子供をたすけたい一心のそのは折れず、3時間にわたる談じ合いの末に國三郎も心を決めて、夫婦で、「なむ天理王命、これから夫婦とも一心に信心させていただきます。どうぞ、赤児の身上たすけたまえ」と願ったところ、不思議にも子供が乳を飲みはじめるという奇跡が起こりました。そして夜が明ける頃には声を出すまでになり、3日目には、ご飯に汁をかけて食べられるようになり病は全快しました。これが諸井國三郎夫妻の信仰のはじまりです。

 國三郎は、ただちに大和に居られるという生き神様・おやさまのもとへ御礼の旅に出発し、6日間かけてお屋敷に到着しました。おやさまにお目にかかった國三郎は、子供の命をたすけて貰った御礼を申し上げました。するとおやさまは、その場で國三郎に親神様のお話を親しくいろいろとお聞かせくださいました。
⑤ 國三郎が出逢ったおやさまの教え
 國三郎は自伝において、その頃のおやさまは、訪れる人々には、常に「元はじまりのお話」をお教えになったと伝えています。元はじまりのお話とは、親神様がこの世と人間を創造されたお話で、人間存在の目的が「陽気ぐらし」にあることを明言される天理教教義の根幹となるお話です。「陽気ぐらし」とは、親神様の子供である人間が自らの心を澄まして、互いにたすけ合って暮らす世の在りようを意味しています。

 そして、いつもこのお話をされる前におやさまは、「今、世界の人間が、元を知らんから、互いに他人といってねたみ合い、うらみ合い、我さえ良くばで、皆、勝手勝手の心をつかい、はなはだしき者は、敵同士になってねたみ合っているのも、元を聞かしたことがないから、仕方がない。なれど、このままにいては、親が子を殺し、子が親を殺し、いじらしくて見ていられぬ。それでどうしても元を聞かせねばならん」と仰ってからお話を始められ、最後には、「こういうわけゆえ、どんな者でも、仲よくせんければならんで」といってお聞かせになったと伝えています。おやさまの教えは、かつて侍として戦場をくぐり抜けてきた國三郎とって、目から鱗(うろこ)の落ちるような有難いお話であり、もともと持っていた国利民福の理想と相まって、信仰に一層拍車をかけました。
⑥ 講社結成から教会設立まで
 國三郎が初参拝をした同じ頃、一足先に、吉本八十次に病気をたすけられた松下半兵衛等5名が連れ立って伊勢参詣を兼ねて大和までまわり、お屋敷を訪れていました。遠州地方では、伊勢参りから戻ると、「伊勢帰り」といってお祝いをする習慣がありました。そのお祝いの席で、吉本八十次によってたすけられた人たちから、「ぜひ講社(こうしゃ)をつくって信仰しよう」という気運が高まりました。そして國三郎が皆に推されて講元(こうもと)となり、明治16年(1883年)2月26日に、遠州で初めて講社が結成されました。國三郎たちがおたすけに回ると不思議な御守護が次々と現れました。そして講社に加入する信者はますます増えていきました。

 こうして不思議なたすけが次々に現れると、國三郎は、もう一度お屋敷へ参って、深い教理とおやさまが教えられた「おつとめ」をすべて習得したいと熱望するようになり、その年の夏、8月29日に講社の木村林蔵氏と共に袋井を発って、9月3日にお屋敷に到着して2回目の登参を果しました。この滞在中に國三郎は、後の本席・飯降伊蔵を通して親神様から、「さあさあ、珍しい事や、珍しい事や、国へ帰ってつとめをすれば、国六分の人を寄せる。なれど心次第や」という頼もしいお言葉をいただきました。神様のお言葉どおり國三郎が国に帰って講社でつとめを勤めるごとに不思議なたすけは次々と現れ、講社の数も増えていきました。

 講社は、講の組織化とともに「天理王講社 遠江真明組」(てんりおうこうしゃ とおとうみしんめいぐみ)と名称を変え、明治21年(1888年)に天理教教会本部が設置されるや、同じ年の12月5日にいち早く山名分教会として設立のお許しをいただきました。山名分教会が設置されると、その下に部下教会が次々と設立され、信仰の道は遠州から中部、関東、東北へ、さらには台湾へと伸び広がっていきました。

 山名分教会の名称は、明治41年(1908年)に天理教が神道から一派独立をした翌年の明治42年(1909年)に山名大教会と改称しました。その後、山名大教会から分割または分離した大教会は12カ所に上り、現在は、国内に392カ所の分教会、台湾に6カ所の教会があり、親神様の御守護、おやさまのお導きを戴いて、世界一れつ心澄まして互にたすけ合う陽気ぐらし世界実現に向けて更なる歩みを進めています。

【諸井国三郎お指図】
 「明治二十七年五月三十一日、諸井政一身上に付国三郎より願い」。
 さあ/\尋ねる事情/\、いかなる事も尋ねる。身上長らえての事であろう。内々も案じるやろう。案じる事は判っきり要らんで。めん/\諭す理よりよう思やんせよ。いんねんという理を聞き分け。しようと思うて成るやない。しようまいと思うても成って来るのが、いんねんの理と言う。しっかり聞き分け。国内々の理を思やんせよ。何も案じる事要らん。なれど親という、可愛々々の事情から心を沸かす。何も思うやない。案じるやないで。末代生涯の理を十分心に治め。楽しみの理を持ってくれねばならん。これだけ諭しおこう。

 同時、諸井政一寄留の願い。

 さあ/\いんねんの為す業と言う。善き事も、どんな事もいんねん。心通り思わく通り委せおこう。さあ/\いんねんの為す業と言う。善き事も、どんな事もいんねん。心通り思わく通り委せおこう。

 同時、諸井国三郎小児ろくの歯代わり出遅きにつき願い。

 さあ/\事情々々尋ねる処心得んと言う。何にも心得んやない。身上不足とはさらさら思うやないで。何度でも与える処に揃わんと言う。よう聞き分け。何も分からん。小人にあたゑと言う。あたゑのある者に何故身上こうなると思う。いんねん事情を聞き分けてくれにゃならんで。さあ/\事情々々尋ねる処心得んと言う。何にも心得んやない。身上不足とはさらさら思うやないで。何度でも与える処に揃わんと言う。よう聞き分け。何も分からん。小人にあたゑと言う。あたゑのある者に何故身上こうなると思う。いんねん事情を聞き分けてくれにゃならんで。




(私論.私見)