【松尾市兵衛逸話】 |
教祖伝逸話篇25「七十五日の断食」、26「麻と絹と木綿の話」、27「目出度い日」。 |
教祖伝逸話篇25「七十五日の断食」。
明治5年、教祖75才の時、75日の断食の最中に、竜田の北にある東若井村の松尾市兵衞の宅へ、おたすけに赴かれた時のこと。 教祖はお屋敷を御出発の時に、小さい盃に三杯の味醂と、生の茄子の輪切り三箇を、召し上がってから、
「参りましょう」と、仰せられた。その時、「駕篭でお越し願います」 と、申し上げると、「ためしやで」と仰せられ、いとも足取り軽く歩まれた。かくて、松尾の家へ到着されると、涙を流さんばかりに喜んだ市兵衞夫婦は、断食中四里の道のりを歩いてお越し下された教祖のお疲れを思い、心からなる御馳走を拵えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、「えらい御馳走やな。おおきに。その心だけ食べて置くで。もう、これで満腹や。さあ、早ようこれをお下げ下され。その代わり、水と塩を持って来て置いて下され」と、仰せになった。市兵衞の妻ハルが、御馳走が気に入らないので仰せになるのか、と思って、お尋ねすると、「どれもこれも、わしの好きなものばかりや。とても、おいしそうに出来ている」と、仰せになった。それで、ハルは、「何一つ、手も付けて頂けず、水と塩とだけ出せ、と仰せられても、出来ません」と申し上げると、「わしは、今、神様の思召しによって、食を断っているのや。お腹は、いつも一杯や。お気持は、よう分かる。そしたら、どうや。あんたが箸を持って、わしに食べさしてくれんか」と、仰せられた。それで、ハルは、喜んでお膳を前に進め、お茶碗に御飯を入れ、「それでは、お上がり下さいませ。」 と、申し上げてから、箸に御飯を載せて、待っておられる教祖の方へ差し出そうとしたところ、どうした事か、膝がガクガクと揺れて、箸の上の御飯と茶碗を、一の膳の上に落としてしまった。ハルは、平身低頭お詫び申し上げて、ニコニコと微笑をたたえて見ておられる教祖の御前から、膳部を引き下げ、再び調えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、「御苦労さんな事や。また食べさせてくれはるのかいな」と、仰せになって、口をお開けになった。そこで、ハルが、再び茶碗を持ち、箸に御飯を載せて、お口の方へ持って行こうとしたところ、右手の、親指と人差指が、痛いような痙攣を起こして、箸と御飯を、教祖のお膝の上に落としてしまった。ハルは、全く身の縮む思いで、重ねての粗相をお詫び申し上げると、教祖は、「あんたのお心は有難いが、何遍しても同じ事や。神様が、お止めになったのや。さあ/\早く、膳部を皆お下げ下され」と、いたわりのお言葉を下された。こうして御滞在がつづいたが、この様子が伝わって、5日目頃、お屋敷から、こかん、飯降、櫟枝の与平の三人が迎えに来た。その時さらに、こかんから、食事を召し上がるようすすめると、教祖は、「おまえら、わしが勝手に食べぬように思うけれど、そうやないで。食べられぬのやで。そんなら、おまえ食べさせて見なされ」と、仰せられたので、こかんが、食べて頂こうとすると、箸が、跳んで行くように上へつり上がってしまったので、皆々成る程と感じ入った。こうして、断食は、ついにお帰りの日までつづいた。お帰りの時には、秀司が迎えに来て、市兵衞もお伴して、平等寺村の小東の家から、駕篭を借りて来て竜田までお召し願うたが、その時、「目眩いがする」と、仰せられたので、それからは、仰せのままにお歩き頂いた。「親神様が『駕篭に乗るのやないで。歩け』と、仰せになった」と、お聞かせ下された。
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教祖伝逸話篇26「麻と絹と木綿の話」。
明治5年、教祖が、松尾の家に御滞在中のことである。お居間へ朝の御挨拶に伺うた市兵衞、ハルの夫婦に、教祖は、「あんた達二人とも、わしの前へ来る時は、いつも羽織を着ているが、今日からは、普段着のままにしなされ。その方が、あんた達も気楽でええやろ」と、仰せになり、二人が恐縮して頭を下げると、「今日は、麻と絹と木綿の話をしよう」と、仰せになって、「麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけのものや。三年も着ると色が来る。色が来てしもたら、値打ちはそれまでや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反故と一しょや。絹は、羽織にしても着物にしても、上品でええなあ。買う時は高いけど、誰でも皆、ほしいもんや。でも、絹のような人になったら、あかんで。新しい間はええけど、一寸古うなったら、どうにもならん。そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりのものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、夏は、汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら、何遍でも洗濯が出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おしめにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところまで使えるのが、木綿や。木綿のような心の人を、神様は、お望みになっているのやで」と、お仕込み下された。以後、市兵衞夫婦は、心に木綿の二字を刻み込み、生涯、木綿以外のものは身につけなかった、という。 |
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教祖伝逸話篇27「目出度い日」。
明治5年7月、教祖が、松尾市兵衞の家へお出かけ下されて、御滞在中の10日目の朝、お部屋へ、市兵衞夫婦が御挨拶に伺うと、「神様をお祀りする気はないかえ」と、お言葉があった。それで、市兵衞が、「祀らせて頂きますが、どこへ祀らせて頂けば宜しうございましょうか」と、伺うと、「あそこがええ」と、仰せになって、指さされたのが、仏壇のある場所であった。余りに突然のことではあり、そこが、先祖代々の仏間である事を思う時、市兵衞夫婦は、全く青天に霹靂を聞く思いがした。が、互いに顔を見合わせて、肯き合うと、市兵衞は、「では、この仏壇は、どこへ動かせば、宜しいのでございましょうか」と、伺うた。すると教祖は、「先祖は、おこりも反対もしやせん。そちらの部屋の、同じような場所へ移させてもらいや」との仰せである。そちらの部屋とは、旧客間のことである。早速と、大工を呼んで、教祖の仰せのまにまに、神床を設計し、仏壇の移転場所も用意して、僧侶の大反対は受けたが、無理矢理、念仏を上げてもらって、その夜、仏壇の移転を無事完了した。そして、次の日から、大工4名で神床の工事に取りかかった。教祖に、「早ようせんと、間に合わんがな」と、お急ぎ頂いて、出来上がったのは、12日目の夕方であった。翌朝、夫婦が、教祖のお部屋へ御挨拶に上がると、教祖はおいでにならず、神床の部屋へ行ってみると、教祖は、新しく出来た神床の前に、ジッとお坐りになっていた。そして、「ようしたな。これでよい、これでよい」と、仰せ下された。それから、長男楢蔵の病室へお越しになり、身動きも出来ない楢蔵の枕もとに、お坐りになり、「頭が痒いやろな」と、仰せになって、御自分の櫛をとって、楢蔵の髪をゆっくりお梳き下された。そして、御自分の部屋へおかえりになった時、「今日は、吉い日やな。目出度い日や。神様を祀る日やからな」と、言って、ニッコリとお笑いになった。夫婦が、「どうしてお祀りするのかしら」 と思っていると、玄関で人の声がした。ハルが出てみると、秀司が、そこに立っていた。早速、座敷へ案内すると、教祖は、「神様を祀る段取りをされたから、御幣を造らせてもらい」と、お命じになり、やがて、御幣が出来上がると、御みずからの手で、神床へ運んで、御祈念下された。「今日から、ここにも神様がおいでになるのやで。目出度いな、ほんとに目出度い」と、心からお喜び下され、「直ぐ帰る」と、仰せになって、お屋敷へお帰りになった。仏壇は、後日、すっきりと取り片付けた。 |
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