増野正兵衛
長州萩の藩士で、毛利候に随身して江戸にゆき、明治維新となって、明治五年に新橋横浜間の鉄道開通后間もなく新橋駅でつとめ、その后神戸の三宮駅に転勤し、夫人に三宮で小間物屋をやらせている内、夫人の目のわづらいから入信されたことは前述の通りで、よく現金が動く関係から、草創時代のおやしきにつくしきられた。尓来(爾来。それ以来。それ以後)、本部の会計となって、生涯をそれに果されたのである。
増野先生はお酒が好きで、少しほろりとした位の時に、とても良い御教理を説かれた。酒気のない時は何かしおれてお元気がなかった。ところが梅谷先生(四郎兵衛)は酒がきらいで、酒を飲んで御教理をとりつぐのは以てのほかの事だと言われたが、この二人と清水の父とは、堅造とむつかしやの三人男であった。平野(楢蔵)先生は、「あの三人は堅すぎて話にも箸にもかからへん」と言っておられたが、初代真柱様はこの三人を特に信用しておられた。
先生は本教草創時代から本部の要職を歴任し、大正三年初代真柱様御出直に先立つこと二ヶ月、大阪教務支庁長在任中、御津大教会の事情治めに行っておられ、急性肺炎で出直された。葬儀は御身上思わしくなかった初代真柱様が親ら(みずから)斎主となられ、聲涙共に下る(※3)有様で、殆んどお言葉が出ない程であった。余程お力にしていて下されたのであろう。(「清水由松傳稿本」116~117ページより)
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