増野正兵衛&いと

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年2.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【増野正兵衛(ますの しょうべえ)履歴】
 1849(嘉永2)年3.1日、長州萩(現・山口県萩市)生まれ。
 1914(大正3)年11.12日、出直し(享年66歳)。

 1849(嘉永2).3.1日、長州萩(現・山口県萩市)で、代々長州の旧萩藩の藩士の増野家の増野庄兵衛(父は高杉晋作の子分)の長男として生まれる。
 明治2年、天皇の親衛隊員として上京。その後鉄道員となる。
 明治11年、神戸三宮駅の助役。体調を崩し、小間物屋を開業する。
 1884(明治17)年、自身の脚気と、妻いとがソコヒを患い失明寸前となった時、幼なじみからにをいをかけられたのがきっかけで入信。その年初参拝。お道の御用に心血を注ぐ。
 1887(明治20)年5.4日、本席よりおさづけを受ける。
 1889(明治22)年12.31日、お屋敷に移り住む。
 後の本部員。要職を歴任する。
 1914(大正3)年11.12日、出直し(享年66歳)。
 増野道興(鼓雪)は息子。

【増野正兵衛逸話】
 稿本天理教教祖伝逸話篇145「いつも住みよい所へ」。
 明治17年2月のこと。増野正兵衞の妻いとは、親しい間柄の神戸三宮の小山弥左衞門の娘お蝶を訪ねたところ、お蝶から、「天理王命様は、まことに霊験のあらたかな神様である」と聞いた。当時いとは、3年越しのソコヒを患うており、何人もの名医にかかったが、如何とも為すすべはなく、今はただ失明を待つばかり、という状態であった。又、正兵衞自身も、ここ十数年来脚気などの病に悩まされ、医薬の手を尽しながら、尚全快せず、曇天のような日々を送っていた。それで、それなら一つ、話を聞いてみよう。ということになった。そこで、早速使いを走らせ、2月15日、初めて、小山弥左衞門から、お話を聞かせてもらうこととなった。急いで神床を設け神様をお祀りして、夫婦揃うてお話を聞かせて頂いた。その時の話に、「身上の患いは、八つのほこりのあらわれである。これをさんげすれば、身上は必ずお救け下さるに違いない。真実誠の心になって、神様にもたれなさい」又、「食物は皆、親神様のお与えであるから、毒になるものは一つもない」と。そこで、病気のためここ数年来やめていた好きな酒であるが、その日のお神酒を頂いて試してみた。 ところが、翌朝は、頗る爽快である。一方、いとの目も、一夜のうちに白黒が分かるようになった。それで、夫婦揃うて、神様にお礼申し上げ、小山宅へも行ってこの喜びを告げ、帰宅してみると、こは如何に、日暮も待たず、又、盲目同様になった。その時、夫婦が相談したのに、「一夜の間に、神様の自由をお見せ頂いたのであるから、生涯道の上に夫婦が心を揃えて働かせて頂く、と心を定めたなら、必ずお救け頂けるに違いない」と語り合い、夫婦心を合わせて、熱心に朝夕神前にお勤めして、心をこめてお願いした。すると、正兵衞は15日間、いとは30日間で、すっきり御守護頂いた。ソコヒの目は、元通りよく見えるようになったのである。その喜びに、4月6日(陰暦3月11日)、初めておぢばへお詣りした。しかも、その日は、教祖が奈良監獄署からお帰りの日であったので、奈良までお迎えしてお伴して帰り、9日まで滞在させて頂いた。教祖は、「正兵衞さん、よう訪ねてくれた。いずれはこの屋敷へ来んならんで」と、やさしくお言葉を下された。このお言葉に強く感激した正兵衞は、商売も放って置かんばかりにして、おぢばと神戸の間を往復して、にをいがけ・おたすけに奔走した。が、おぢばを離れると、どういうものか、身体の調子が良くない。 そこで伺うと、教祖は、「いつも住みよい所へ住むが宜かろう」と、お言葉を下された。この時、正兵衞は、どうでもお屋敷へ寄せて頂こうと、堅く決心したのである。

【増野正兵衛評伝】
 「増野正兵衛先生について」。
 増野正兵衛
 長州萩の藩士で、毛利候に随身して江戸にゆき、明治維新となって、明治五年に新橋横浜間の鉄道開通后間もなく新橋駅でつとめ、その后神戸の三宮駅に転勤し、夫人に三宮で小間物屋をやらせている内、夫人の目のわづらいから入信されたことは前述の通りで、よく現金が動く関係から、草創時代のおやしきにつくしきられた。尓来(爾来。それ以来。それ以後)、本部の会計となって、生涯をそれに果されたのである。

 増野先生はお酒が好きで、少しほろりとした位の時に、とても良い御教理を説かれた。酒気のない時は何かしおれてお元気がなかった。ところが梅谷先生(四郎兵衛)は酒がきらいで、酒を飲んで御教理をとりつぐのは以てのほかの事だと言われたが、この二人と清水の父とは、堅造とむつかしやの三人男であった。平野(楢蔵)先生は、「あの三人は堅すぎて話にも箸にもかからへん」と言っておられたが、初代真柱様はこの三人を特に信用しておられた。

 先生は本教草創時代から本部の要職を歴任し、大正三年初代真柱様御出直に先立つこと二ヶ月、大阪教務支庁長在任中、御津大教会の事情治めに行っておられ、急性肺炎で出直された。葬儀は御身上思わしくなかった初代真柱様が親ら(みずから)斎主となられ、聲涙共に下る(※3)有様で、殆んどお言葉が出ない程であった。余程お力にしていて下されたのであろう。(「清水由松傳稿本」116~117ページより)
 「故増野先生伝より 」(大正八年三月号みちのとも記載42Pの、増野正兵衛先生の伝記より)。
 明治十七年三十五歳を以て神に引寄せられて以来、先生の信念は益々進修(しんしゅう※1)した。始めて教祖に接して、深い感到(かんとう※1)を胸に印された先生は、一歩々々地場に引寄せられて行った。月に一回が二回となり、三回となり年を重ねる毎に教祖の膝下へ通う日が繁くなった。

 明治十九年五月十日、先生は地場に詣(まい)られると、仲田左衛門氏から、教祖が古記(こふき)を造れとの事である故執筆して呉れとの依頼があった。然し当時は、神様の御話しなど心覚えに筆記することは高慢と退けられていたので一応神様へ御伺い申上げると、古記を造ることは大変遅れている急ぐ急ぐ筆を執らにゃならんという意の御指図であった。然るに十三日になって、仲田氏は声出でず足腰立たぬようになって遂に二十五日出直されたので、古記の事も中座した。(※2) 先生が滞在中、十一日の事であった。教祖は御居室の縁先きに出て先生と背比べをなさり、先生を負うて上段の間まで歩まれた。六月二日、先生は教祖の下へ金平糖を御供えすると、教祖は三粒を御口へ入れて、直ちに先生の口へ移された。其時『心一つで此屋敷へふせ込む』という御言葉があった。

 松村吉太郎、増野正兵衛編、共同刊行「天理教祝詞集」(Tenrikyo noritoshu)(明34.12)。

[目次]

  • 目次
  • 主神教祖祭祀之部
  • 春季大祭祝詞
  • 秋季大祭祝詞
  • 月並祭祝詞
  • 教祖祭祝詞
  • 教会開講式祝詞
  • 主神仮殿遷座祝詞
  • 教祖神霊仮殿遷座祝詞
  • 主神新殿遷座祝詞
  • 教祖神霊新殿遷座祝詞
  • 主神鎮座祝詞
  • 教祖神霊鎮座祝詞
  • 信徒入社式祝詞
  • 同誓詞
  • 毎朝神拝祝詞
  • 恒例祝祭之部
  • 一月一日祭祝詞
  • 祈年祭祝詞
  • 紀元節祝詞
  • 春季霊祭祝詞
  • 神武天皇祭祝詞
  • 六月大祓祝詞
  • 神◇祭祝詞
  • 天長節祝詞
  • 新◇祭祝詞
  • 除夜祭祝詞
  • 臨時祭祀之部
  • 祓祝詞
  • 地鎮祭祝詞
  • 柱立祭祝詞
  • 上棟祭祝詞
  • 大殿祭祝詞
  • 祈雨祝詞
  • 祈晴祝詞
  • 除蝗祝詞
  • 除疫祝詞
  • 道路開鑿起工式祝詞
  • 道路開通式祝詞
  • 架橋起工式祝詞
  • 架橋成功式祝詞
  • 学校開場式祝詞
  • 祈旅行安全祝詞
  • 祈海上安全祝詞
  • 祈漁猟祝詞
  • 諸祈願報賽祝詞
  • 成年式祝詞
  • 婚姻式祝詞
  • 誕生式祝詞
  • 命名式祝詞
  • 初詣祝詞
  • 葬儀霊祭之部
  • 遷霊詞
  • 鎮霊詞
  • 発葬詞
  • 誄詞
  • 埋葬詞
  • 火葬詞
  • 葬後霊祭詞
  • 十日祭詞
  • 五十日祭詞
  • 百日祭詞
  • 壱年祭詞
  • 五年祭詞
  • 改祭詞
  • 遠祖祭詞
  • 信徒合祀祭詞
  • 信徒合霊祭詞




(私論.私見)