【増井りん逸話】 |
教祖伝逸話篇36「定めた心」、44「雪の日」、45 「心の皺を」 、46「何から何まで」、47「 先を楽しめ」、65「 用に使うとて」、77「 栗の節句」。 |
教祖伝逸話篇36「増井りん/定めた心」。
明治七年十二月四日(陰暦十月二十六日)朝、増井りんは、起き上がろうとすると、不思議や両眼が腫れ上がって、非常な痛みを感じた。日に日に悪化し、医者に診てもらうと、ソコヒとのことである。そこで、驚いて、医者の手を尽くしたが、とうとう失明してしまった。夫になくなられてから二年後のことである。こうして、一家の者が悲嘆の涙にくれている時、年末年始の頃、(陰暦十一月下旬)当時十二才の長男幾太郎が、竜田へ行って、道連れになった人から、「大和庄屋敷の天竜さんは、何んでもよく救けて下さる。三日三夜の祈祷で救かる」という話を聞いてもどった。それで早速、親子が、大和の方を向いて、三日三夜お願いしたが、一向に効能はあらわれない。そこで、男衆の為八を庄屋敷へ代参させることになった。朝暗いうちに大県を出発して、昼前にお屋敷へ着いた為八は、赤衣を召された教祖を拝み、取次の方々から教の理を承り、その上、角目角目を書いてもらって、戻って来た。これを幾太郎が読み、りんが聞き、「こうして、教の理を聞かせて頂いた上からは、自分の身上はどうなっても結構でございます。我が家のいんねん果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも、たすけ一条のため通らせて頂きます。今後、親子三人は、たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます。」と、家族一同、堅い心定めをした。りんは言うに及ばず、幾太郎と八才のとみゑも水行して、一家揃うて三日三夜のお願いに取りかかった。おぢばの方を向いて、なむてんりわうのみこと と、繰り返し繰り返して、お願いしたのである。やがて、まる三日目の夜明けが来た。火鉢の前で、お願い中端座しつづけていたりんの横にいたとみゑが、戸の隙間から差して来る光を見て、思わず、「あ、お母さん、夜が明けました。」と、言った。その声に、りんが、表玄関の方を見ると、戸の隙間から、一条の光がもれている。夢かと思いながら、つと立って玄関まで走り、雨戸をくると、外は、昔と変わらぬ朝の光を受けて輝いていた。不思議な全快の御守護を頂いたのである。りんは、早速、おぢばへお礼詣りをした。取次の仲田儀三郎を通してお礼を申し上げると、お言葉があった。「さあ/\一夜の間に目が潰れたのやなあ。さあ/\いんねん、いんねん。神が引き寄せたのやで。よう来た、よう来た。佐右衛門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう、聞かしてやってくれまするよう」と、仰せ下された。その晩は泊めて頂いて、翌日は、仲田から教の理を聞かせてもらい、朝夕のお勤めの手振りを習いなどしていると、又、教祖からお言葉があった。「さあ/\いんねんの魂、神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せねばならんのであるから、する事なす事違う。違うはずや。あったから、どうしてもようならん。ようならんはずや。違う事しているもの。ようならなかったなあ。さあ/\いんねん、いんねん。佐右衛門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。さあ、手をのけたら、直ぐ見える。見えるであろう。さあ/\勇め、勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めんめんの心次第やで」と、仰せ下された。その日もまた泊めて頂き、その翌朝、河内へもどらせて頂こうと、仲田を通して申し上げてもらうと、教祖は、「遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷越えて来たのやなあ。さあ/\その定めた心を受け取るで。楽しめ、楽しめ。さあ/\着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。長あいこと勤めるのやで。さあ/\楽しめ、楽しめ、楽しめ」と、お言葉を下された。りんは、ものも言えず、ただ感激の涙にくれた。時に、増井りん、三十二才であった。
註 仲田儀三郎、前名は佐右衛門。明治六年頃、亮・助・衛門廃止の時に、儀三郎と改名した。
ここでまず述べる事は、増井りん先生のお引き寄せも、先人の入信のきっかけによくみられる「庄屋敷の天竜さんの噂」であったということ。しかし、後述のお言葉に「用に使わねばならんという道具は痛めてでも引き寄せねばならん」とあることから、それはあくまでも神の成す事であると捉えられる。それは「おふでさき」に、
なんどきにかいりてきてもめへ/\の 心あるとハさらにをもうな (十一 78)
どのよふなものもしんからとくしんを さしてかいるでこれをみていよ (十一 79)
とのようにある通りではないかとも思う。神の手引きで、おぢばへ直に代参させ、自身が信じ仰ぐべき神名を知ってこそ、御守護を頂いたのである。また、その夜明けの御守護頂いた話として、「・・・當時の有様を偲ぶものとして五十年後の今日私の左のうでに今尚一つの斑點が残ってゐます。これは光のさし込んで来るのを見た時夢中で前の火鉢をサッと抑へて立ち上ったのですが、そのひゃうしにこん/\とにへくり返ってゐた湯が引っくり返りまして、腕にぶつかゝったものでござりまする」(「みちのとも」昭和三年十二月号「長いことつとめるのやで」より)と、増井りん先生はその時同時に一生ものの傷を負ったという。それはまるで、その日の事を生涯忘れぬ為のしるしのように。その後、自らがおぢばへ帰参した際、「さあ/\勇め、勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めん/\の心次第やで」とのお言葉を頂かれる。この言葉もまた大変意味深い。勇んで掛かれば、いざ難儀しようと言っても、その心次第によっては、それは難儀では無くなる。そうした「たんのう」の心を持って、「難儀するのやない」前生のさんげをするのだ、と仰せ下されたのかとも思える。まさに前述で増井りん先生は「いんねん果たし」を心定めしたように。「たんのう」こそが「前生いんねんのさんげ」と仰る如く、この言葉は「さあ/\いんねん、いんねん」の諭しであることが分かるのではないか。
と、以上が増井りん入信のきっかけの逸話に、私が読んで感じた事であるが・・・さて、以下ここからが本題の話となる。この逸話を繙く上で、見ればもう一つの側面を実はもっている。とはいえ、これ以上は長くなるので、私がこの逸話で一番述べたい本題は次回に譲ることにする。そこで、最後に一つ聞きたい事がある。この話を音読した人は感じた事があるかもしれないが、「佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう」の部分が繰り返し強調され、少し「くどく」言われたようにも思われやしないだろうか。いかがであろう。それが何故なのか・・・増井りんと仲田佐右衞門、このお言葉の重要性について次に述べていこうと思う。
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教祖伝逸話篇44「雪の日」。
明治八、九年頃、増井りんが信心しはじめて、熱心にお屋敷帰りの最中のことであった。正月十日、その日は朝から大雪であったが、りんは河内からお屋敷へ帰らせて頂くため、大和路まで来た時、雪はいよいよ降りつのり、途中から風さえ加わる中を、ちょうど額田部の高橋の上まで出た。この橋は、当時は幅三尺程の欄干のない橋であったので、これは危ないと思い、雪の降り積もっている橋の上を、跣足になって這うて進んだ。そして、ようやくにして、橋の中程まで進んだ時、吹雪が一時にドッと来たので、身体が揺れて、川の中へ落ちそうになった。こんなことが何回もあったが、その度に、蟻のようにペタリと雪の上に這いつくばって、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、一生懸命にお願いしつつ、やっとの思いで高橋を渡り切って宮堂に入り、二階堂を経て、午後四時頃お屋敷へたどりついた、そして、つとめ場所の、障子を開けて、中へ入ると、村田イヱが、「ああ、今、教祖が、窓から外をお眺めになって、『まあまあ、こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。ああ、難儀やろうな』と、仰せられていたところでした」と、言った。りんは、お屋敷へ無事帰らせて頂けた事を、「ああ、結構やなあ。」と、ただただ喜ばせて頂くばかりであった。しかし、河内からお屋敷まで七里半の道を、吹雪に吹きまくられながら帰らせて頂いたので、手も足も凍えてしまって自由を失っていた。それで、そこに居合わせた人々が、紐を解き、手を取って、種々と世話をし、火鉢の三つも寄せて温めてくれ、身体もようやく温まって来たので、早速と教祖へ御挨拶に上がると、教祖は、 「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ、その中にて喜んでいたなあ。さあ/\親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ」と、仰せられて、りんの冷え切った手を、両方のお手で、しっかりとお握り下された。それは、ちょうど火鉢の上に手をあてたと言うか、何んとも言いあらわしようのない温かみを感じて、勿体ないやら有難いやらで、りんは胸が一杯になった。 |
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教祖伝逸話篇45 「心の皺を」。
教祖は、一枚の紙も、反故やからとて粗末になさらず、おひねりの紙なども、丁寧に皺を伸ばして、座布団の下に敷いて、御用にお使いなされた。お話に、「皺だらけになった紙を、そのまま置けば、落とし紙か鼻紙にするより仕様ないで。これを丁寧に皺を伸ばして置いたなら、何んなりとも使われる。落とし紙や鼻紙になったら、もう一度引き上げることは出来ぬやろ。人のたすけもこの理やで。心の皺を、話の理で伸ばしてやるのやで。心も、皺だらけになったら、落とし紙のようなものやろ。そこを、落とさずに救けるが、この道の理やで」と、お聞かせ下された。
ある時、増井りんが、お側に来て、「お手許のおふでさきを写さして頂きたい」とお願いすると、「紙があるかえ」と、お尋ね下されたので、「丹波市へ行て買うて参ります」と申し上げたところ、「そんな事していては遅うなるから、わしが括ってあげよう」と、仰せられ、座布団の下から紙を出し、大きい小さいを構わず、墨のつかぬ紙をよりぬき、御自身でお綴じ下されて、「さあ、わしが読んでやるから、これへお書きよ」とて、お読み下された。りんは、筆を執って書かせて頂いたが、これは、おふでさき第五号で、今も大小不揃いの紙でお綴じ下されたまま保存させて頂いている、という。 |
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教祖伝逸話篇46 「 何から何まで」。
ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が、増井りんに、「それを料理するように」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理しておくれ」 と言った。出刃はなかったのである。りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へもどった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八尾へ出かけて、出刃包丁と薄い刺身包丁と鋏など、一揃い買うて来て、お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで」と促した。教祖にお目にかかって、留守にしたお礼を、申し上げると、教祖は、それをお頂きになって、「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難いなあ」と、仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳に額をすり付けて、むせび泣いた、という。
註 八尾のお逮夜 毎月二回、十一日と二十七日に、八尾の寺と久宝寺の寺との間に出た昼店。 |
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教祖伝逸話篇47 「 先を楽しめ」。
明治九年六月十八日の夜、仲田儀三郎が、「教祖が、よくお話の中に、『松は枯れても、案じなし』と、仰せ下されますので、どこの松であろうかと、話し合うているのですが」と言ったので、増井りんは、「お祓いさんの降った松は枯れる。増井の屋敷の松に、お祓いさんが降ったから、あの松は枯れてしまう。そして、あすこの家は、もうあかん。潰れてしまうで。と、人人が申します」と、人の噂を、そのままに話した。そこで、仲田が、早速このことを、教祖にお伺いすると、教祖は、「さあ/\分かったか、分かったか。今日の日、何か見えるやなけれども、先を楽しめ、楽しめ。松は枯れても案じなよ。人が何んと言うても、言おうとも、人の言う事、心にかけるやない程に」と、仰せ下され、しばらくしてから、「屋敷松、松は枯れても案じなよ。末はたのもし、打ち分け場所」と、重ねてお言葉を下された。 |
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教祖伝逸話篇65 「 用に使うとて」。
明治十二年六月頃のこと。教祖が、毎晩のお話の中で、「守りが要る、守りが要る」と、仰せになるので、取次の仲田儀三郎、辻忠作、山本利八等が相談の上、秀司に願うたところ、「おりんさんが宜かろう」という事になった。そこで、早速、翌日の午前十時頃、秀司、仲田の後に、増井りんがついて、教祖のところへお伺いに行った。秀司から、事の由を申し上げると、教祖は、直ぐに、「直ぐ、直ぐ、直ぐ、直ぐ。用に使うとて引き寄せた。直ぐ、直ぐ、直ぐ。早く、早く。遅れた、遅れた。さあ/\楽しめ、楽しめ。どんな事するのも、何するも、皆、神様の御用と思うてするのやで。する事、なす事、皆、一粒万倍に受け取るのやで。さあ/\早く、早く、早く。直ぐ、直ぐ、直ぐ」と、お言葉を下された。かくて、りんは、その夜から、明治二十年、教祖が御身をかくされるまで、お側近く、お守役を勤めさせて頂いたのである。 |
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教祖伝逸話篇77「栗の節句」。
教祖は、ある時、増井りんに次のようにお諭し下された。『九月九日は、栗の節句と言うているが、栗の節句とは、苦がなくなるということである。栗はイガの剛いものである。そのイガをとれば、中に皮があり、又、渋がある。その皮なり渋をとれば、まことに味のよい実が出て来るで。人間も、理を聞いて、イガや渋をとったら、心にうまい味わいを持つようになるのやで』。 |
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