桝井キク

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【桝井キク履歴】

【桝井キク逸話】
 教祖伝逸話篇10「えらい遠廻わりをして」、16「子供が親のために」、50「幸助とすま」、78「長者屋敷」、161「子供の楽しむのを」。
 教祖伝逸話篇10「えらい遠廻わりをして」。
 文久三年、桝井キク三十九才の時のことである。夫の伊三郎が、ふとした風邪から喘息になり、それがなかなか治らない。キクは、それまでから、神信心の好きな方であったから、近くはもとより、二里三里の所にある詣り所、願い所で、足を運ばない所は、ほとんどないくらいであった。けれども、どうしても治らない。その時、隣家の矢追仙助から、「オキクさん、あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね。」と、すすめられた。目に見えない綱ででも、引き寄せられるような気がして、その足で、おぢばへ駆け付けた。旬が来ていたのである。キクは、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、「待っていた、待っていた」と、可愛い我が子がはるばると帰って来たのを迎える、やさしい温かなお言葉を下された。それで、キクは、「今日まで、あっちこっちと、詣り信心をしておりました」と、申し上げると、教祖は、「あんた、あっちこっちとえらい遠廻わりをしておいでたんやなあ。おかしいなあ。ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに」と、仰せられて、やさしくお笑いになった。このお言葉を聞いて、「ほんに成る程、これこそ本当の親や」と、何んとも言えぬ慕わしさが、キクの胸の底まで沁みわたり、強い感激に打たれたのであった。
 教祖伝逸話篇16「子供が親のために」。
 桝井伊三郎の母キクが病気になり、次第に重く、危篤の容態になって来たので、伊三郎は夜の明けるのを待ちかねて、伊豆七条村を出発し、五十町の道のりを歩いてお屋敷へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いて、「母親の身上の患いを、どうかお救け下さいませ。」と、お願いすると、教祖は、「伊三郎さん、せっかくやけれども、身上救からんで」と、仰せになった。これを承って、他ならぬ教祖の仰せであるから、伊三郎は、「さようでございますか。」と言って、そのまま御前を引き下がって、家へかえって来た。が、家へ着いて、目の前に、病気で苦しんでいる母親の姿を見ていると、心が変わって来て、「ああ、どうでも救けてもらいたいなあ。」という気持で一杯になって来た。それで、再びお屋敷へ帰って、「どうかお願いです。ならん中を救けて頂きとうございます」 と願うと、教祖は、重ねて、「伊三郎さん、気の毒やけれども、救からん」と、仰せになった。教祖に、こう仰せ頂くと、伊三郎は、「ああやむをえない。」と、その時は得心した。が、家にもどって、苦しみ悩んでいる母親の姿を見た時、子供としてジッとしていられなくなった。

 又、トボトボと五十町の道のりを歩いて、お屋敷へ着いた時には、もう、夜になっていた。教祖は、もう、お寝みになった、と聞いたのに、更にお願いした。「ならん中でございましょうが、何んとか、お救け頂きとうございます」と。すると、教祖は、「救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」と、仰せ下された。この有難いお言葉を頂戴して、キクは、救からん命を救けて頂き、八十八才まで長命させて頂いた。

 教祖伝逸話篇50「幸助とすま」。
 明治十年三月のこと。桝井キクは、娘のマス(註、後の村田すま)を連れて、三日間生家のレンドに招かれ、二十日の日に帰宅したが、翌朝、マスは、激しい頭痛でなかなか起きられない。が、厳しくしつけねば、と思って叱ると、やっと起きた。が、翌二十二日になっても、未だ身体がすっきりしない。それで、マスは、お屋敷へ詣らせて頂こう、と思って、許しを得て、朝八時伊豆七条村の家を出て、十時頃お屋敷へ到着した。すると、教祖は、マスに、「村田、前栽へ嫁付きなはるかえ」と、仰せになった。マスは、突然の事ではあったが、教祖のお言葉に、「はい、有難うございます」と、お答えした。すると、教祖は、「おまはんだけではいかん。兄さん(註、桝井伊三郎)にも来てもらい」と、仰せられたので、その日は、そのまま伊豆七条村へもどって、兄の伊三郎にこの話をした。その頃には、頭痛は、もう、すっきり治っていた。

 それで、伊三郎は、神様が仰せ下さるのやから、明早朝伺わせて頂こう、ということになり、翌二十三日朝、お屋敷へ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、「オマスはんを、村田へやんなはるか。やんなはるなら、二十六日の日に、あんたの方から、オマスはんを連れて、ここへ来なはれ」と、仰せになったので、伊三郎は、「有難うございます。」 と、お礼申し上げて、伊豆七条村へもどった。翌二十四日、前栽の村田イヱが、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、「オイヱはん、おまはんの来るのを、せんど待ちかねてるね。おまはんの方へ嫁はんあげるが、要らんかえ」と、仰せになったので、イヱは、「有難うございます。」 と、お答えした。すると、教祖は、「二十六日の日に、桝井の方から連れて来てやさかいに、おまはんの方へ連れてかえり」と、仰せ下された。

 二十六日の朝、桝井の家からは、いろいろと御馳走を作って重箱に入れ、母のキクと兄夫婦とマスの四人が、お屋敷へ帰って来た。前栽からは、味醂をはじめ、いろいろの御馳走を入れた重箱を持って、親の幸右衞門、イヱ夫婦と亀松(註、当時二十六才)が、お屋敷へ帰って来た。そこで、教祖のお部屋、即ち中南の間で、まず教祖にお盃を召し上がって頂き、そのお流れを、亀松とマスが頂戴した。教祖は、「今一寸前栽へ行くだけで、直きここへ帰って来るねで」と、お言葉を下された。この時、マスは、教祖からすまと名前を頂いて、改名し、亀松は、後、明治十二年、教祖から幸助と名前を頂いて、改名した。

 註 レンド レンドは、又レンゾとも言い、百姓の春休みの日。日は、村によって同日ではないが、田植、草取りなどの激しい農作業を目の前にして、餅をつき団子を作りなどして、休養する日。(近畿民俗学会「大和の民俗」、民俗学研究所「綜合日本民俗語彙)

 教祖伝逸話篇78「これが世界の長者屋敷やで」。
 「或るとき、教祖が、桝井キクに次のようにお諭し下された。『お屋敷に居る者は、よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、と思うたら、居られん屋敷やで。よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。これが、世界の長者屋敷やで』」。
 教祖伝逸話篇161「子供の楽しむのを見てこそ神は喜ぶのや」。
 「桝井キクは、毎日のようにお屋敷へ帰らせて頂いていたが、今日は、どうしても帰らせて頂けない、という日もあった。そんな時には、今日は一日中塩気断ち、今日は一日中煮物断ち、というような事をしていた。そういう日の翌日、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が仰せになった。『オキクさん、そんな事、する事要らんのやで。親は、何んにも小さい子供を苦しめたいことはないねで。この神様は、可愛い子供の苦しむのを見てお喜びになるのやないねで。もう、そんな事をする事要らんのやで。子供の楽しむのを見てこそ、神は喜ぶのや」と、やさしくお言葉を下された。何も彼も見抜き見通しであられたのである」。





(私論.私見)