※みちのとも大正8年8月号~9月号掲載の桝井孝四郎「故桝井伊三郎小伝(上)(下)。旧字・旧仮名遣いを適宜改めている。 |
ーー伝記として書く考えであったが、色々と重なった用事があった為に、その材料を充分に蒐(あつ)めることができなかった。それに古い時分のことであるので、我が父のことでありながら、それが明瞭に知り得ない点も数々あったりしたので、只ほんの少し、確かであると思った事実だけを、聞いたままに記しておく。いづれまとまった、一冊の伝記を書き上げる考えで居る。できあがればいづれ又皆様に一読をして頂きたいと思う。そんなに充分に材料も蒐(あつ)まらないのに、それに又忙しい中でもあるのに、無理に書く必要もないのであるが、丁度父伊三郎が亡くなってより、この年のこの月原稿を書きつつあるこの七月が、十年目に当るのである。だからその十年祭を迎えるにあたってその父を思い出す為でもある。--
伊三郎は、嘉永三年二月十二日に、大和の国添上郡伊豆七條に生れた。その家は勿論百姓であった。伊三郎の名は一番最初の若い時分には、嘉蔵と云った。その名がどうしたのか伊右衛門と変えられて、伊三郎の父が死ぬるまでその名でもって呼ばれていた。処が彼の父が死んだ時に、復々(またまた)名前が変えられた。それが即ち彼の墓まで持って行った伊三郎の名それである。この伊三郎は実は彼の父の名前であって、父が死んだので、その後を継いだ名前である。その時の彼は十九才で、彼の父は四十四才でこの世を去った。
□桝井家の信仰の始まり
伊三郎の入信をば年代の上で示したならば、元治元年七月十四日であるとされている。が桝井家の信仰は彼の母即ちおきくより始まっている。だから彼の入信の始めを説くには、その母の事を少し話す必要がある。彼の母きくは、その頃非常に何かにつけて信神家であったらしい。と云うのは彼女の夫は常に弱くて病身者らしかった。だから奈良の二月堂に裸足(はだし)参りをしたり、稲荷さんに参ったり、***を信心したりして居った。こうして信心参りをして或る日の事、彼女が一生懸命に神様を拝んでいると、左の袂(たもと)が不意に重くなった。何だろうと調べて見ると、その袂に石が這入(はい)ってあった。それが丁度伊三郎の胤(やど※2)った時であると云っていたそうである。とにかく伊三郎の母は何かによらず信心深い女であった。伊三郎はこの腹の中に生れたのである。(つづく)
※1‥「庚申(こうしん)」‥庚(かのえ)申(さる)の日に祭る神。道教で、この日、人体中の三尸虫が睡眠中に上天して人間の罪過を司命道人に訴えるといい、仏教の信仰と混合して俗間に信仰された。
※2「胤(いん)」‥.織諭7貪?鮗?鰻僂い聖丗后7譴垢検▲辰亜子孫が先祖代々を受け継ぐ。
(※1~2、三省堂「新明解漢和辞典」より) |
「故桝井伊三郎小伝(その二)」。
(つづき)処が伊三郎の父が、喘息(ぜんそく)にかかって病んだのは、元治元年の頃で、伊三郎が十四五の時であった。彼の母は、一層信神心が湧いて、何処かの神様にお助けを願われまいものだろうか、神を漁(あさ)り廻っていた時であった。すると隣に傘屋の仙助さんと云う人があって、「おきくさん、あなたがそんなに信心者やったら、あの庄屋敷の神さんに一遍(※1)参って来たらどうやね」と云う事であった。おきくは早速その時を待たず、その神に心を引かれて庄屋敷へ行った。そして御教祖に初めての拝顔を得た。すると教祖は、きくの顔を見るなり、『待った/\』と仰ったそうである。(※2) さもなくとも、信心深い彼女であるのに、こうして教祖に面会するなり、優しく『待った/\』と云われると、猶更(なおさ)ら彼女の心はこの温かい、和(やわ)らかな心に引かされて、今日参れば、その翌日復(また)参らずには居られないのであった。だから彼女の外々(ほか/\)の信心参りもすっかり、この庄屋敷の神様一つに移って了(しま)ったのであった。
人が自分勝手に信心参りをするのだから、外(ほか)の者に別に関係のない事であるのだが、この頃に庄屋敷の神様へ参ると云う事は、非常に人の目を不思議に引いたものであった。従って人笑いとなった事は夥(おびただ)しいものであった。その笑いくらいは耳を閉ざして通ればそれでよいのであるが、その通る道へ出ては、色々と邪魔さへもしたものである。伊三郎の母にしてもしもこの時に信心の心が弱かったら、その邪魔に彼女の心も挫(くじ)かれてしまっていたに違いないのであったが、『三十年先きには、陽気な暮らしをさせてやろう』と繰り返し/\仰せ下さる教祖の其の言葉を、どうしても信ぜずにはおられなかった。従って庄屋敷へ向く足が繁(しげ)くならずには居れなかった。そして殆(ほと)んど毎日、日に一度は庄屋敷へ参拝をさせて頂いて居るのではあるが、もしも用事の為めに、来られないと云う様な日があったら、他の神様を信心していた時の様にその日は、煮物を断ったり、塩気を断ったりしていた。そんな事をした翌日お参りをさせて頂くと、きっと(厳しく)、教祖は『おきくさん、そんな事をする事いらん、親は何にも、小(ちいさ)い子供を苦しめたくない、子供の楽しみを、見てこそ神は喜こぶのや』と仰せ下された(※4)。これを聞いてからの彼女は誠になる程と、有難く心に響いて、一層の信心者になって了ったのである。(つづく)
※1‥原文は「一偏」とあるが、誤字。
※2‥逸話篇10「えらい遠廻わりをして」参照
※4‥逸話篇161「子供の楽しむのを」参照 |
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「故桝井伊三郎小伝(その三)」。
(つづき)そして又その頃の事である。冬の寒い日に一週間の願(がん)をかけて、その一週間目の朝、門前の川で裸足参りをしたその足を洗って足袋を履いて(※1)いると、小寒様がお越しになって、「おきくさん、神様は助けんとお出(い)でにならん、三年先きか、十年先きか、三十年先きかにきっと結構な道になるで」と仰ったそうである。ここでも亦彼女の信仰の心は、固くならずには居れなかった。
こうして信心に固まっていた彼女は、その心が神に通じて、今では斯云(こうい)うものはないが
九ッ、こゝまでしんじんしてからハ、ひとつのかうをもみにやならぬ
十ド、このたびみえました、あふぎのうかゞひこれふしぎ(※2)
と御神楽歌にある、その扇のうかゞいを彼女は頂きました。それは慶応二年六月の事であった。そして何を彼女に願っても、彼女がその扇を持って、じっと目を閉じて坐ると、すぐ神が移りになったと云う事であった。
さて伊三郎の事を云うについて、彼の為人(ひととなり)や性質について少し申しておく必要があるで(※3)、彼は非常に優しい男であった。殊に言葉使いと云う事について注意をした男で、人に対して呼び捨てにすると云う様な事は滅多にない。身内の者においても左様(そう)であった。だから若い時分に、村の青年達がよく集って話をする時にでも、彼はその友達の相手を呼ぶのに、吾々には、あり勝ちの事ではあるが、決して「さん」をつけずに呼ぶ様な事は滅多になかった。従って彼を呼ぶ村の青年にしても、誰一人として、彼に対して、さんをつけずに呼んだ事はないとの事である。彼は又、腹を立てると云う事を知らなかったと云ってもよい程に、彼の顔からは、ニコ/\した笑味(えみ)の皺がとれた事がなかった。そして非常に遠慮勝ちな消極的な人であった。
これは少し極端であるかも知れないが、家で何か食べている際に、門前を通り合せる人があったら、その人が誰れであろうが、とにかく引き入れて、一緒に食べさすと云う主義であった。或る時なんかは、夏の暑い日の事であったが、家で西瓜を割って喰っている時に、ふとそこを通り合った人があった。「あんた一寸お這入り、暑いのに」と云って、その人を引き入れて西瓜を食べさせた事があった。後からあれは誰なんですと尋ねると、「さあ何処の人やろう」と云って一向平気であった。家内の者は顔を見合すより外はなかった。とにかくこう云う調子で彼には、他人やろうが、身内の者やろうが区別がなかった。殊に物貰いの乞食なんかゞ来ると、滅多に空手(からて)では帰さなかった。とり分け伊勢の神楽が笛太鼓で賑やかに囃(はや)し立てゝ来ると、沢山のお金をやって、必ず門前で舞わせて、昔にやったこの道の初めの神楽勤めを懐(した)い出したかの様な喜悦の情が一杯に、外目にも伺われるくらいに嬉しさに満ちて、見ていたものであった。
ほんの少し斯うした性質が伊三郎のそれであった、と云う事を一寸申しあげておいて、彼伊三郎の事について移って行こう。(つづく)
※1‥原文は狎釮い騰瓩如誤字。
※2‥みかぐらうた 六下り目九ッ~十ド。誤字・脱字は修正した。
※3‥文法的におかしい。猊要があるで、瓩任呂覆、猊要があるが、瓩、猊要がある。瓩もしれない。 |
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「故桝井伊三郎小伝(その四)」。
(つづき)伊三郎の母は、前にも云った様に、庄屋敷へ参る事を忘れなかった。その頃彼女が参る時に、伊三郎も矢張り彼女の影の様に、その後についていた。だから勿論伊三郎にも充分に信心と云う心が、母が凝り固まれば、固まる程、彼の心も固くなって行った。しかし彼は未だ若かった。最初の参り初めは未だやっと十四を数えるか、数えぬかの村でならば、遊び盛りの若者であった。だから、「一人で今日は、母の代りに参って来ておくれんか」と云われて、神様に投げる賽銭をチャント懐中に入れてやって、これをお上げ申して来るのやで、と母から云われて出るのであったが、ともすると、その賽銭を投げ得ずに帰って来たりする事があった、そして、「賽銭を投げようと思うたが、余り人がジロジロ私を見ていたので恥しかった」と云って、母にその賽銭を手渡した事もあった。母は之れを聞いて、決して怒る訳には行かなかった。「未だ年若い、恥かし盛りの十四や、十五で無理はない」と云っていた。実は彼が参拝をして、しかもお賽銭を投げるのが、人が見て笑いはしまいだろうか、と思う程にも、その時分の、庄屋敷の神様は人目から不思議な、奇体なものに思われていたのであった。伊三郎も初めは、恥かしかった。心が若かっただけ、恥かし味が、信仰の上に走っていたが、母の参る時、その母が参る道々で、人に笑われ、人に邪魔されてまでも行く、その母に後(うしろ)ついで行く(※1)事を、嫌う程には、信神心が薄くはなかった。
或る日の事、伊三郎は、母に連れられて来て、その時分に庄屋敷の神様の内は、お百姓であったので、その農事の仕事を手伝っていた。するとふと教祖の目に触れて、『あれは誰れの息子やな、おきくさん』とお尋ねになった。「あれは私の、長男の伊三郎です」と云ったのが、抑々(そも/\)伊三郎が、永(なが)の年月、離れようとしてその温かみのある心に離れられず、死ぬるまで実に五十年足らずのその永の年月、心の縋(すが)りとして随(つ)いて来た、その教祖との初めての挨拶であった。
一度でも教祖に会ってその説かれる話を、たとえ一言でも聴かして頂いたら、それでもう生涯切れない因縁の絆で結ばれて了うに違いない。であるのに人は概して喰わず嫌いの者である。一度教祖に接して、その甘味(うまみ)を噛みしめた伊三郎はどうしてもそのうま味を忘れる事ができなかった。それから後の彼と云うものは、その心の内に恥かし味と云うものもなかった。攻撃の苦しみと云うものもなかった。左様したものは、皆な只一目教祖に接した、そしてそこから得た甘味(うまみ)にすっかり変えられて了ったのである。
彼はもう人前で賽銭を投げるくらいに、躊躇(ちゅうちょ)はせなかった。人が見ていようが、その人に頓着なく、神様の御用をさせて頂こうと思い立って、そこらを奇麗に掃除をする為めに、裸足で、尻端折って、箒(ほうき)を持つ様になった。
こうして、母も信神すれば、伊三郎も信神すると云う風であったので、伊三郎の父の喘息も一ぱしは助けて頂いた。そしてその後四年間は生きて居ったが、助けて頂いて四年目に出直しになった。一ぱし助けて下されたのは、つまり神様の御守護の程を見せて下されたのであった。そして四年間はこの世において頂いたが、その四年の後に病んで死んで行く時に、教祖が仰せられた。 『父のこうして病んで死ぬるのは、これは前生の因縁やから致し方ない。病んで因縁を果たしたのや、さかいに今度(此度)生れて来たら、病けなしにして帰えらしてやろう』と仰ったそうである。(つづく)
※1‥文法的におかしいが、原文通り |
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「故桝井伊三郎小伝(その五)」。
(つづき)伊三郎も、母もこうして信神をしていながら、彼は年若かにして父を失い、彼女は未だそんなにも老いたとは云わぬ内に、夫に死に別れたとは云え、その信仰は決して、練(ねり)のかえると云う様な事はなかった。彼等は教祖の言葉を信じた。『こんど生れて来たら、病気(やまいけ)なしにして帰えらしてやろう』と仰ったその言葉を信じて、このたびたっしゃな身上をかりて帰って来る。その人を日に/\楽しんで待っていた。(ほんの信仰始めの方を述べただけであるが、この度(たび)は、これで切っておく 続きは追って次号に載せる)
大正八年八月号みちのとも「故桝井伊三郎小伝(上)」香志朗著 60~65ページより。故 桝 井 伊 三 郎 小 伝 (下) 香 志 朗
(前にも断っておいた様に、その出来事のあった年代とか、或はその他についても、余りに明瞭しない点が数々あるので、勿論書いてゆくその出来事も、年代の順を追っていないから、そのおつもりにて御読みを願います)
丁度御神楽歌の御製作のあった年であった。参拝する人も日に/\多くなって来た。従ってどうしても教会組織の様なものにしなければならないと云う事になった。さて如何にして、教会をおくべきであるかと相談の結果、とにかく京都の神祇管領、吉田家へ上願すべしであると、云う事になって、それに上願する様な運びになった。そして布教する事も許されなければならない、その必要もあった。(その年は慶応三年の七月の二十三日であった) それで秀司先生がその出願にお越しになる事になった。その時に、伊三郎もそのお供をして行く事を許された。しかし未だ年若く其の時はやっと十七歳であった。
□ お 授 け
伊三郎のお授けを貰ったのは、その年月は何時の頃であったのか、誰れ彼れに聞いて見るが、一寸解かり兼ねている。何んでも、辻忠作さんが頂かれて、すぐその後であったとの事ではあるが、確かに解からない。彼が身上にお障りを頂いたので、これも何かの神様のお知らし(※1)には違いないと云うので、テク/\とやって来ると、なる程大きな、徳をやろうと云って、待ってお出でになっている時であった。そしてこう仰った。『四にしっくり真実を見て、甘露台のお授けをさづけよう』との事であった。ここ処において彼は、末永い働き道具の、末代の徳を頂いたのである。そして次手(ついで)ながらに云っておくが、彼にはお守り(信符)と云うものを持っていなかった。それで不思議に思ったので何時か尋ねた事があった。成る程彼は信符は持っていなかったが、それにはこう云う訳がある。『お前はよう守るなァ。守りはいらん』との教祖様の御言葉であったとの事である。そして彼は甘露台のお勤めの時には常に月夜見の命の座であった。勿論これは、最初の御神楽勤めの時に御言葉があったからである。(つづく) |
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「故桝井伊三郎小伝(その六) 」。
(つづき)御本部なる中山家の初めは、御承知の如く百姓であった。だから最初の信心参りをしていた先生方は、誰れにいたしましても、皆々お百姓を手伝わして貰っていたのである。処でこうした百姓では、極く初めの信心参りの少ない内は未だよかったのであるが、結構な神様であると云う事が、実にすばらしい勢(いきおい)を持って拡がって行ったものである。従ってその参拝人も日に/\多くなって来た。しかしその当時では、中山家にては、人を集める事すら許されていないし、それかと云って集ってくる人を、返やす訳にも行かず、実にお困りになった。そこで皆様が考えて考えた末、こう定(きま)ったのである。
それは、何か営業するに限ると云う事になって、秀司先生を営業主として、時の県、即ち堺県へ出願に出ると云う事になったのである。その年は、明治九年の事であった。営業は蒸風呂と、宿屋業とであった。伊三郎はその時にも、先生の御供をして、やらして頂いた。そして風呂屋、宿屋が始まると、風呂たきもさせて頂いた事は勿論であるし、宿屋の番頭として働かして頂いた事も勿論である。そしてこういう話を聞いた。と云うのは、宿屋であると云うても、実はそれは名のみなのであって、喰べ物なんかも、決して他の宿屋の様な御馳走(ごちそう)はない。それに宿(とま)る為めに来ると云うよりか、有り難い、神様の為に来る人が主であったので、朝晩は爐かい瓠腹1)であった。そしてその朝帰って行く人だけには、温飯(ぬくめし)を喰べさしたとの事である。そして夜分なんか、皆が一緒に寝ているのであるが、それ神様の御話が始まると云えば、皆がムクムクと起きて来て、皆な熱心に聴いた人斗(ばか)りであったとの事である。
□ 御 小 寒 様 の 墓 掘 り
明治八年の八月であった。奈良県より取調の件ありと云って出張した事があった。そして不都合の点ありと云って、御教祖を初め、秀司先生に出頭せよとの事になった。その際の御教祖の拘留は三日間であったが、その拘留もすませて帰えられた日、その日が日もあろうに、御小寒子様の御出直しの日であった。御教祖御拘留から、御帰りになるは有難いが、その日もあろうに、御小寒子様の御出直しを思うと誰れしも、涙を絞らずには居られなかった。
処でさて御葬式を出すと云うても、その当時はこうして御教祖が御拘留や、何んどとの音沙汰のあった時分の頃であったから、集ってくる人と云っても、実に少数で、実に其の手のあるやなしやの騒ぎであった。その時であった。「本当に忙しかった。でも私は口にも云えぬ結講な徳を積ませて頂いたと思って、実に喜んでいる。墓地の穴を掘る者もないと云うので、その穴も掘らして頂いた、お柩(ひつぎ)も担(かつ)いでやらして頂いた。それどころではない。最後の爐Δ崚鬮瓩泙任気擦督困い董△修譴蓮拭晴燭ら何にまで、お世話をさせて頂いたのや」と云って伊三郎は時折り思い出したかの様な顔持(おもも)ちをして、喜んでいた事が屡々(しば/\)あった。誰れが、人の墓掘りをして、喜ぶものがあろう、人と思えばそれきりだが、もし神様と思えば何んで一代の光栄として、喜こばずには、居られようか。(つづく)
※1「おかい」‥粥。カユのユがヤ行転訛し頭に御をつけた形。(「大和方言集」新藤正雄著より) |
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「故桝井伊三郎小伝(その七) 」。
(つづき) □ 伊三郎の結婚
伊三郎が結婚したのは明治九年の事であった。彼はその時丁度廿七歳であった。彼の同村に西尾庄助と云う家があった。その西尾の方も早くから庄屋敷の神様を信心して、お地場へ参拝をして居った。だから御教祖にもお目にかゝったりして、桝井家の御教祖に知られて居る如く、西尾の治道(はるみち)村に信心して居る事も知られていた。その西尾の家の長女に、ならぎくと云う女があった。それが伊三郎の嫁となったのである。その二人が夫婦になった、お仲人は、御教祖様がして下さったとの事である。それはこうである。
『二人とも私の方へ貰うのや、ふせ込みや』と甚だ高慢らしく聞えるが、こう仰せになって『私が仲媒(なこうど)をすると云うても私が行けないから』との事で、堀内の与助さんと云う人を頼んで、この人に治道の西尾家へ、こう/\であると云って貰いに行かしになった。さてこう話がなってくると、何んで両方に話の纏(まとま)らない筈があろうか。これより確かな神の言葉はない、と云って、両方では大賛成の内に、その話が定(きま)る事になった。さてそれでは何か両方共にお祝いをせなければならんと云うので、その事を、御教祖に伺い上ると、『此方(こちら)からやったら、又向うからも心配せにゃならん。大層かけてしたて、箪笥(たんす)の底へ入れておいたら、切れ屑も一緒やさかいに、そんな事しな。その代りに扇子一対』と仰った。この言葉を聴いて、なる程と両方でうなずいた。それで盃の当日となって、両方から御教祖の居間へ出合った。そしてその時の祝の盃は、教祖様の日々お召し上がりなって居られた、その盃をお借り申して、させて頂く事になった。それから御教祖が、二人の手をお握りになって、『之れでちゃんとおさまったで』と仰った。此処で、嫁がならぎくと云う名であったのだが、『これでおさまったから「おさめ」や』と云って、ならぎくの名を、おさめと変えて、おつけ下された。だからそれ以後、彼女の呼び名は、おさめである。
普通であったならば、両方から、御互いに親類達を呼んで御馳走を仕合わなければならないのであったが、両家では、親類と云う事に重きを置かないで、御教祖の言葉に依って、結婚をしたと云うのであるから、両方からは、重箱に握飯(にぎりめし)やその他の色々の物を持って来て、その盃の場へ居合せて下さった皆々様方に喰べて頂いた。勿論そこに居合せていた人々は、お道に熱心なお方である事は云うまでもない。こうした事々を、今から私が考えさせて頂くと、この頃のお道の信神友達は親類以上に親しかったものである様に思われて、なる程世界一列兄弟の感がヒシ/\と味われる様な気がする。(つづく)
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「故桝井伊三郎小伝(その八) 」。
(つづき)終尾(しゅび)よく、その事も済んだ。その夕方帰って行く時に御教祖が仰った。『与助さん、もう送って行く事いらん、おきくさん(伊三郎母)連れて帰んなはれ、そして行く/\は内へ貰うのや』。そのおさめは、今尚神様の御加護を得て、御教祖の側近く置いて頂いて居る。
伊三郎の父が死んだ。その時に、『お前の父の病むのは之れは前生の因縁やから、しょうがない。やさかいに、此度は病けなしにして帰してやろう』(※2)
と御教祖の御言葉を聞いて、家内のものは、何時たっしゃな身上を借りて、帰ってくるのやろうかと、その日を待っていた。その父は丁度、死んでより十年目に、伊三郎と、おさめの間に生れ出て来た。その年は、明治十年の事であった。その父が生れ代って来る時に、未だ腹の内にある間から、御教祖は、『安(やす)う待っている』と仰って、その名を安松と前以てお名を附けて置いて下さった。生れた子は、案に違わず勿論男の子であった。それが安松である。だから安松は伊三郎の父の生れ代りである。
神様のお言葉の如くに、安松は本当に病けなしに、何処悪いと云った事もなく、毎日々々御本部で勤めている。話は少し枝葉になるが、その安松を連れて御教祖の処へ挨拶に行った事があった。すると御教祖は、一匹の黒犬をその安松に下さった。そしてこうお云いになった。『神様が隅とれ/\と仰ったので、その御言葉通りにしたら あんなものが、出来たのや』。なる程それを見せて頂くと、一枚の布で犬の手も出来て居れば、頭も耳も、尾も出来て居るのである。実にその出来塩梅(あんばい。料理の味加減の意)は、真似をしても、出来想にない程にも、巧妙に出来ている。御教祖の御手でお造りになったには、違いないが、それをお造りになるにおいて、手をこう動かし、こうすると云う具合に、働くその心は勿論神様が御教祖に宿って、左様(※4)なさって居られるのであるから。その犬を貰った時には、之れは犬には違いないが、それでも何処か違って居る様な気がするなァ、と云い合っていた。それもその筈であった。成る程今から見て見ると、純日本犬と違っていた。唐犬(※5)そっくりその儘である。その時分には、滅多に唐犬なんかは、見ようと思っても居なかったものであったが、それは未だに家の宝として残してある。(つづく)
※1「終尾(しゅうび)」‥物事の終り。しまい。終末。(goo辞書より)
※5「唐犬(とうけん)」‥江戸初期に渡来した舶来犬の一種。大形で、主に猟犬として大名に飼われた。オランダ犬。(goo辞書より)http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/155588/m0u/ |
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「故桝井伊三郎小伝(その九) 」。
(つづき)□ 雨 乞 い 勤 め
伊三郎が家を出て、御本部へ来る時は、何時でも、いとま乞い(※1)をして、家を出てくる事を忘れなかった。と云うのは、何日何ん時(いつなんどき)、家を出たなりで家に帰られずに、警察へ、連れて行かれるかも知れない、と云う事であったから、そして必らず、其時に、弁当を二三日分を持ってくる事も忘れなかった。二三日はどんな事があっても喰う事に、心を引かれずに精一杯働かせて頂ける様にとの為めであった。
彼は何時もの様に、治道(はるみち)からやって来た。どこの田もここの田も、見る田、見る田には、一つも水気がなかった。庄屋敷でも水がない。雨が降らぬと大騒ぎをしていた。村方からは、どうか雨の降るものなら、降らして貰いたいものやと云って、雨乞い勤めをお願いに来た。と云って、そんなお勤めをしたら、警察から八釜しく云われる事は定(きま)っている。如何にすべきか、いづれをとるべきかに迷った。が、最後は人助けのこの道である。身は犠牲になっても、そのお勤めをせにゃならんと云う事になった。それはあの明治十六年の時のそれである。(※2)『雨降るも神、降らぬも神、真実の心あればどんな自由でもする』。
彼等にはそれ以外に頼寄(たのみよ)る言葉がない。一心になって村の領分の隅々でお勤めをした。そして管長様なり、本席様なりは、甘露台の前でお願いになる。すると案に違わず大雨が降って来た。彼等は喜んで帰って来て、甘露台の所でお礼をしていた。その時に、四人の巡査がかけつけて、彼等を拘引して行ったのである。その時に彼伊三郎は、お面を附けていたので、三拾二銭五厘の科料に処せられた。(つづく)
※2‥稿本天理教教祖伝「第九章 御苦労」258~264ページ参照 |
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「故桝井伊三郎小伝(その十) 」。
(つづき)□ 櫟 本 警 察 へ 拘 引
伊三郎が治道の自分の家に居った時に、身上に障りがあって、何んでか知らん、と思って、本部へ来ると、屹度(きっと)その時には本部には何か節があった。従ってこうして身上にお知らせ下されて、お呼び寄せになったから、本部に起った節には滅多に逃れた事がなかった。そしてその頃、本部へこうして来る時であるが、同じ道を来たならば、余りに毎日の様に通うものだから、時々その村の人が悪口を云ったりするので、道を変えて通っていた。その時に着て行く着物にしても、田の所までは、田にでも行く時の様な、風をして、田で庄屋敷行きの着物に着変えて行く事にしていた。そして何時警察へ引かれて行ってもよい様に、足袋は二枚穿(ば)き、着物は充分に重着(かさねぎ)をして行った。
明治十九年の事であった。そして正月の寒い頃の事であった。もうこの頃には、ぼつぼつ講者達が、何々講と云った様な講を組織してお地場へ帰って来る様になった。しかし未だ警察からの干渉は喧(やかま)しいので、とても本部には寄りつけない。そこでその側の豆腐屋へ集って、大きな声で神楽勤めをし初めた。そしてその時の参拝にお供(そなえ)や、御神符を与えたと云う理由で、警察が来て、忽(たちま)ちに参拝人を帰らして終(しま)った。そしてその後で御教祖を櫟本署へ連れて行った。その時である。冬の寒中に、板間の上で下駄を枕にお寝(やす)みになったと云うのは。かくして御教祖は十二日間の拘引をされ、伊三郎は十日間の拘引を喰った。これが御教祖の御昇天の前年の事であって、実に最後の御入獄であった。山澤おひさ様の御附きそいとして行かれたのもこの時である。(※1)
御教祖はこうした御難儀を、しかも何の罪もなくしてお受けになっていながら、獄吏(※2)には非常なる慈悲の御心でお接しになって、夜分なんか遅くなると、外をうどん屋が通れば、それを買ってあげてくれ、とも仰ったし、菓子屋が来れば、さぞあの人達も御苦労に、たいくつやろうからと云って、菓子を買っておやりとも、仰ったとの事である。
伊三郎はその時に、いやな匂(におい)をする、はげたお椀(わん)で喰べさせられた。その気持の悪かった事が骨身にしみたと見えて、その時以来は非常に食器のはげたのを気にする様になった。「人には決して、粗末な、はげたものを出すものじゃない」とは彼の口ぐせであった。
この櫟本の警察へ拘引されになった、その翌年に御教祖は御昇天遊ばされた。そして天理教会なるものがその翌年に設置する事を許される様になった。
その設置と共に、彼は前管長公より天理教会本部理事を命ぜられる事になった。彼の教導職を受けたのは、これより先きで明治十八年五月廿日の日附を以て、試補(※3)を拝命する事になった。そして教会の整理員としては、先ず最初に、即ち明治三十年十一月に中河分教会のそれに命ぜられたのを初めとして、島ヶ原、八木、梅谷、河原町、旭日、高知等がある。こうした色々の事は、彼の後年の事であるから強いて云う必要もないからここに略しておく。(つづく)
※1‥稿本天理教教祖伝282~292ページ参照
※2「獄吏(ごくり)」‥監獄の役人。
※3「試補(しほ)」‥本官に任命されるまで、実地で見習いをする者。
(※2~3、小学館「現代国語例解辞典」より) |
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「故桝井伊三郎小伝(その十一) 」。
(つづき)桝井家が七條村から引き移って来たのは、明治廿一年七月頃であった。そして始めの間は、本部の内らに、***發あって、そこで住(すま)っている事になっていた。それが伊三郎の身上からして、家を一戸建てる事になって、役員は本部にまさかの用事がある時には、近所に居なけれや困るとの前管長のお言葉によって極く近くの現在住っている、本部の地所を借りて、建てる事になった。その家が、彼のこの世の名残りの住いとして、目を閉じたその家である。
彼の出直したのは、前にも云った如く、今から丁度十年前の六月三十一日の正十二時であった。彼はその年の四月頃から、ぼつ/\いけなかった。その或る日の事、庭に大きな榊(さかき)があった。その大きな榊が枯れて来たのを見て、そしてその横に細(こまか)い一本の榊が不思議にも自然と生えて来たのに気づいて、「古木と、新らしいのと建てかえやなァ、己(お)れも病んだら末六十日や」と笑って云った事があった。何を変な事を云うのだろうと思っていたら、それから丁度六十日を数える頃に彼は出直して行った。
そしてその出直して行く頃は、丁度管長公の不例(ふれい。貴人の病気)の最中であった。只一つ父が気にかゝると云っていたのは、それであった。六月三十一日の朝、即ち彼の最後の日の朝、御本部の奥様からこう云う事を聞いた。「桝井が羽織袴で、永らくお世話になりました。と云って挨拶に来た、と管長様が、今朝目が覚めると仰った」との言葉である。彼は心残りなく、永々(ながなが)と、実に永々と息のあった限りの永い間、実に筆にも、口にもつくし得ぬ程の、そのお礼の言葉を、管長様に申上げて、とう/\身上をお返やし申す事になった。それも指折り数うれば、実に早いものである。もう一昔前の過去になっている。(おわり)
(いつも定(きま)った様に、忙しい/\と口ぐせの様に云う様だが、この稿をする今も、実に暇がなくて、うまく考えをまとめる暇もない。少し尋ねなければならん、数々の事も尋ねる暇もなしに、書いて終いました。こう云う古い時分の事は、全く我が家の事でありながら材料をあつめるには困難なものですーー九月三日ーー) 大正八年九月号みちのとも「故桝井伊三郎小伝(下)」香志朗著、60~68ページより |
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