桝井伊三郎&おさめ(西尾ナラギク)

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【桝井伊三郎(ますい いさぶろう)履歴】
 1850(嘉永3)年2.12日、大和国添下郡伊豆七条村(現・奈良県大和郡山市伊豆七条町)生まれ。嘉蔵‐伊右衛門から改名。
 1910(明治43)年7.1日、出直し(享年61歳)。

 1850(嘉永3)年2.12日、大和国添下(上?)郡伊豆七条村(現・奈良県大和郡山市伊豆七条町)で農業を営む伊三郎、キクの三男として生まれる。
 幼名を嘉蔵といい、ついで伊右衛門と呼ばれ、父伊三郎が明治元年(1868)に出直したのち、19歳のとき、伊右衛門から改名、伊三郎を襲名した。
 1863(文久3)年、母キクが夫の喘息で難渋しているため、あちらこちらの神仏に願いをかけていたが、よくならなくて、困り果てていた。隣家で傘屋を営んでいる矢迫仙助から、庄屋敷の神さんに参るよう勧められ、早速庄屋敷へ急いだ。そして教祖(おやさま)に初めて会った。教祖は、キクを見るなり「待っていた、待っていた」と言葉をかけてくださった。教祖の温かくやわらかな心に、キクはいっぺんに心を引かれた。夫の病気は、ほどなく治まった。病をきっかけに帰参、伊三郎を連れて帰るようになる。
 明治7年(1874)6月18日の夜の「かぐら本づとめ」のとき、教祖よりのお言葉で「月よみのみこと」の座についた。それ以後、「かんろだい」を囲んでの「本づとめ」のときは、常に「月よみのみこと」の役割を受け持つことになった。
 同年12月26日、教祖は初めて赤衣(あかき)を召されて、自ら、「月日のやしろ」であることの理を、形で鮮明にされ、同日、4人の人に「さづけ」(さずけ)を渡され、伊三郎は「かんろだいてをどりのさづけ」をいただいた。この日が、身上たすけ(人間の病気や怪我などの救済)のためにさづけの理を渡された始まりとなった。
 明治9年春の初め頃、伊三郎は中山秀司のお供をして、堺県庁へ出かけて、蒸風呂と宿屋業の許可をもらってきた。この営業が始まると、伊三郎は風呂たきや宿屋の番頭もした。来客は教祖のお話を聞きに来る人が主で、朝と晩はおかゆ、朝帰る人たちだけはご飯を食べられたという。
 この年8月17日、式下郡小坂村(現、奈良県磯城郡田原本町)へ辻忠作、仲田儀三郎などと、雨乞づとめに出張している。
 この年、教祖の仲人で西尾ナラギク(結婚時、仲人の教祖より「おさめ」という名を付けて頂き改名、桝井おさめ)と結婚した。挙式は扇子一対をかわすという簡単なものだった。翌年には妹のマス(結婚時にすまと改名)も教祖の仲人で村田亀松(後の幸助)と結婚している。
 教祖の傍で務める一方、伊豆七条村で多くの人々を導いた。
 明治16年8月15日、三島村での雨乞づとめに加わったというので、50銭の科料となった。
 明治19年2月18日、教祖最後の御苦労の節で、櫟本分署で12日間拘引となったが、伊三郎も10日間拘引された。
 明治20年2月18日(陰暦正月26日)午後のおつとめに、伊三郎は「かぐら」と「てをどり」を勤めた。
 明治21年、天理教会所設置が東京で認可され、この設置とともに、天理教会本部理事を命ぜられた。またこの年7月には伊豆七条村から引き移り、教会本部のうちに一戸建てを建てて住まいした。
 明治35年7月の「教会取締条規」の制定によって全国を10教区に分けて取締員が任命されたが、伊三郎は第7教区(岡山、広島、鳥取、島根、山口)と第8教区(徳島、香川、愛媛、高知)を担当する。
 同40年5月の「教会組合規程」によって、組合長となり岡山、香川、徳島の各県を担当した。
 明治41年12月14日天理教教庁録事、本部員を拝命。
 1910(明治43)年7.1日、出直し(享年61歳)。

【桝井伊三郎逸話】
 教祖伝逸話篇16「子供が親のために」、57「男の子は、父親付きで」、122「理さえあるならば」、137「言葉一つ」。
 天理教教祖伝逸話篇16「子供が親のために
 桝井伊三郎の母キクが病気になり、次第に重く、危篤の容態になって来たので、伊三郎は夜の明けるのを待ちかねて、伊豆七条村を出発し、50町の道のりを歩いてお屋敷へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いて、「母親の身上の患いを、どうかお救け下さいませ。」と、お願いすると、教祖は、「伊三郎さん、せっかくやけれども、身上救からんで」と、仰せになった。これを承って、他ならぬ教祖の仰せであるから、伊三郎は、「さようでございますか」と言って、そのまま御前を引き下がって、家へかえって来た。が、家へ着いて、目の前に、病気で苦しんでいる母親の姿を見ていると、心が変わって来て、「ああ、どうでも救けてもらいたいなあ」という気持で一杯になって来た。それで、再びお屋敷へ帰って、「どうかお願いです。ならん中を救けて頂きとうございます」 と願うと、教祖は、重ねて、「伊三郎さん、気の毒やけれども、救からん」と、仰せになった。教祖に、こう仰せ頂くと、伊三郎は、「ああやむをえない」と、その時は得心した。が、家にもどって、苦しみ悩んでいる母親の姿を見た時、子供としてジッとしていられなくなった。又、トボトボと50町の道のりを歩いて、お屋敷へ着いた時には、もう、夜になっていた。教祖は、もう、お寝みになった、と聞いたのに、更にお願いした。「ならん中でございましょうが、何んとか、お救け頂きとうございます」と。すると、教祖は、「救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」と、仰せ下された。この有難いお言葉を頂戴して、キクは、救からん命を救けて頂き、88才まで長命させて頂いた。
 元治元年、伊三郎15歳のとき、母キクが病気になった。それ以前にも、母とともに教祖のところへ参拝していた伊三郎は、母の苦しむ姿を見るに見かね、夜の明けるのを待ちかねるようにして、教祖のもとへ願いに行った。すると教祖は「せっかくやけども、身上(みじょう)救(たす)からんで」と言われた。伊三郎は家へ帰った。家では母が苦しそうにしている。それを見ては母をたすけてくださいと、再び教祖のもとへお願いに行った。すると教祖は「気の毒やけども、救からん」と言われる。伊三郎は家に帰った。家では母が苦しんでいる。それを見ては、たすけてくださいと、三たび、教祖のもとへお願いに行った。日は暮れて夜になっていた。すると教祖は、「子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」と言われた。伊三郎は転げるようにして家に帰った。数日後、母の病気は、すっかり直ってしまった。伊三郎は、キクの危篤を三度のおやしき詣でで助けて頂き熱心になる。
 教祖伝逸話篇122「理さえあるならば」。
 明治十六年夏、大和一帯は大旱魃であった。桝井伊三郎は、未だ伊豆七条村で百姓をしていたが、連日お屋敷へ詰めて、百姓仕事のお手伝いをしていた。すると、家から使いが来て、「村では、田の水かいで忙しいことや。村中一人残らず出ているのに、伊三郎さんは一寸も見えん、と言うて喧しいことや。一寸かえって来て顔を見せてもらいたい」と言うて、呼びに来た。伊三郎は、かねてから、「我が田は、どうなっても構わん」と覚悟していたので、「せっかくやが、かえられん」と、アッサリ返事して使いの者をかえした。が、その後で、思案した。「この大旱魃に、お屋敷へたとい一杯の水でも入れさせてもらえば、こんな結構なことはない、と、自分は満足している。しかし、そのために隣近所の者に不足さしていては申し訳ない」と。そこで、「ああ言うて返事はしたが、一度顔を見せて来よう」と思い定め、教祖の御前へ御挨拶のために参上した。すると、教祖は、「上から雨が降らいでも、理さえあるならば、下からでも水気を上げてやろう」と、お言葉を下された。こうして、村へもどってみると、村中は、野井戸の水かいで、昼夜兼行の大騒動である。伊三郎は、女房のおさめと共に田へ出て、夜おそくまで水かいをした。しかし、その水は、一滴も我が田へは入れず、人様の田ばかりへ入れた。そしておさめは、かんろだいの近くの水溜まりから、水を頂いて、それに我が家の水をまぜて、朝夕一度ずつ、日に二度、藁しべで我が田の周囲へ置いて廻わった。こうして数日後、夜の明け切らぬうちに、おさめが、我が田は、どうなっているかと、見廻わりに行くと、不思議なことには、水一杯入れた覚えのない我が田一面に、地中から水気が浮き上がっていた。おさめは、改めて、教祖のお言葉を思い出し、成る程仰せ通り間違いはない、と、深く心に感銘した。その年の秋は、村中は不作であったのに、桝井の家では、段に一石六斗という収穫をお与え頂いたのである。
 教祖伝逸話篇137「言葉一つ」。
 或る時、教祖が、桝井伊三郎に次のようにお諭しされた。『内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気侭癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる』、『伊三郎さん、あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように』。桝井は、女房が告口をしたのかしら、と思ったが、いやいや神様は見抜き見通しであらせられる、と思い返して、今後は一切腹を立てません、と心を定めた。すると、不思議にも、家へかえって女房に何を言われても、一寸も腹が立たぬようになった。

【香志朗/故桝井伊三郎小伝】
 「故桝井伊三郎小伝(その一)」。
 ※みちのとも大正8年8月号~9月号掲載の桝井孝四郎「故桝井伊三郎小伝(上)(下)。旧字・旧仮名遣いを適宜改めている。
 ーー伝記として書く考えであったが、色々と重なった用事があった為に、その材料を充分に蒐(あつ)めることができなかった。それに古い時分のことであるので、我が父のことでありながら、それが明瞭に知り得ない点も数々あったりしたので、只ほんの少し、確かであると思った事実だけを、聞いたままに記しておく。いづれまとまった、一冊の伝記を書き上げる考えで居る。できあがればいづれ又皆様に一読をして頂きたいと思う。そんなに充分に材料も蒐(あつ)まらないのに、それに又忙しい中でもあるのに、無理に書く必要もないのであるが、丁度父伊三郎が亡くなってより、この年のこの月原稿を書きつつあるこの七月が、十年目に当るのである。だからその十年祭を迎えるにあたってその父を思い出す為でもある。--

 伊三郎は、嘉永三年二月十二日に、大和の国添上郡伊豆七條に生れた。その家は勿論百姓であった。伊三郎の名は一番最初の若い時分には、嘉蔵と云った。その名がどうしたのか伊右衛門と変えられて、伊三郎の父が死ぬるまでその名でもって呼ばれていた。処が彼の父が死んだ時に、復々(またまた)名前が変えられた。それが即ち彼の墓まで持って行った伊三郎の名それである。この伊三郎は実は彼の父の名前であって、父が死んだので、その後を継いだ名前である。その時の彼は十九才で、彼の父は四十四才でこの世を去った。

 □桝井家の信仰の始まり

 伊三郎の入信をば年代の上で示したならば、元治元年七月十四日であるとされている。が桝井家の信仰は彼の母即ちおきくより始まっている。だから彼の入信の始めを説くには、その母の事を少し話す必要がある。彼の母きくは、その頃非常に何かにつけて信神家であったらしい。と云うのは彼女の夫は常に弱くて病身者らしかった。だから奈良の二月堂に裸足(はだし)参りをしたり、稲荷さんに参ったり、***を信心したりして居った。こうして信心参りをして或る日の事、彼女が一生懸命に神様を拝んでいると、左の袂(たもと)が不意に重くなった。何だろうと調べて見ると、その袂に石が這入(はい)ってあった。それが丁度伊三郎の胤(やど※2)った時であると云っていたそうである。とにかく伊三郎の母は何かによらず信心深い女であった。伊三郎はこの腹の中に生れたのである。(つづく)

※1‥「庚申(こうしん)」‥庚(かのえ)申(さる)の日に祭る神。道教で、この日、人体中の三尸虫が睡眠中に上天して人間の罪過を司命道人に訴えるといい、仏教の信仰と混合して俗間に信仰された。
※2「胤(いん)」‥.織諭7貪?鮗?鰻僂い聖丗后7譴垢検▲辰亜子孫が先祖代々を受け継ぐ。
(※1~2、三省堂「新明解漢和辞典」より)
 「故桝井伊三郎小伝(その二)」。
 (つづき)処が伊三郎の父が、喘息(ぜんそく)にかかって病んだのは、元治元年の頃で、伊三郎が十四五の時であった。彼の母は、一層信神心が湧いて、何処かの神様にお助けを願われまいものだろうか、神を漁(あさ)り廻っていた時であった。すると隣に傘屋の仙助さんと云う人があって、「おきくさん、あなたがそんなに信心者やったら、あの庄屋敷の神さんに一遍(※1)参って来たらどうやね」と云う事であった。おきくは早速その時を待たず、その神に心を引かれて庄屋敷へ行った。そして御教祖に初めての拝顔を得た。すると教祖は、きくの顔を見るなり、『待った/\』と仰ったそうである。(※2) さもなくとも、信心深い彼女であるのに、こうして教祖に面会するなり、優しく『待った/\』と云われると、猶更(なおさ)ら彼女の心はこの温かい、和(やわ)らかな心に引かされて、今日参れば、その翌日復(また)参らずには居られないのであった。だから彼女の外々(ほか/\)の信心参りもすっかり、この庄屋敷の神様一つに移って了(しま)ったのであった。

 人が自分勝手に信心参りをするのだから、外(ほか)の者に別に関係のない事であるのだが、この頃に庄屋敷の神様へ参ると云う事は、非常に人の目を不思議に引いたものであった。従って人笑いとなった事は夥(おびただ)しいものであった。その笑いくらいは耳を閉ざして通ればそれでよいのであるが、その通る道へ出ては、色々と邪魔さへもしたものである。伊三郎の母にしてもしもこの時に信心の心が弱かったら、その邪魔に彼女の心も挫(くじ)かれてしまっていたに違いないのであったが、『三十年先きには、陽気な暮らしをさせてやろう』と繰り返し/\仰せ下さる教祖の其の言葉を、どうしても信ぜずにはおられなかった。従って庄屋敷へ向く足が繁(しげ)くならずには居れなかった。そして殆(ほと)んど毎日、日に一度は庄屋敷へ参拝をさせて頂いて居るのではあるが、もしも用事の為めに、来られないと云う様な日があったら、他の神様を信心していた時の様にその日は、煮物を断ったり、塩気を断ったりしていた。そんな事をした翌日お参りをさせて頂くと、きっと(厳しく)、教祖は『おきくさん、そんな事をする事いらん、親は何にも、小(ちいさ)い子供を苦しめたくない、子供の楽しみを、見てこそ神は喜こぶのや』と仰せ下された(※4)。これを聞いてからの彼女は誠になる程と、有難く心に響いて、一層の信心者になって了ったのである。(つづく)

※1‥原文は「一偏」とあるが、誤字。
※2‥逸話篇10「えらい遠廻わりをして」参照
※4‥逸話篇161「子供の楽しむのを」参照
 「故桝井伊三郎小伝(その三)」。
 (つづき)そして又その頃の事である。冬の寒い日に一週間の願(がん)をかけて、その一週間目の朝、門前の川で裸足参りをしたその足を洗って足袋を履いて(※1)いると、小寒様がお越しになって、「おきくさん、神様は助けんとお出(い)でにならん、三年先きか、十年先きか、三十年先きかにきっと結構な道になるで」と仰ったそうである。ここでも亦彼女の信仰の心は、固くならずには居れなかった。

 こうして信心に固まっていた彼女は、その心が神に通じて、今では斯云(こうい)うものはないが
 九ッ、こゝまでしんじんしてからハ、ひとつのかうをもみにやならぬ
 十ド、このたびみえました、あふぎのうかゞひこれふしぎ(※2)
と御神楽歌にある、その扇のうかゞいを彼女は頂きました。それは慶応二年六月の事であった。そして何を彼女に願っても、彼女がその扇を持って、じっと目を閉じて坐ると、すぐ神が移りになったと云う事であった。

 さて伊三郎の事を云うについて、彼の為人(ひととなり)や性質について少し申しておく必要があるで(※3)、彼は非常に優しい男であった。殊に言葉使いと云う事について注意をした男で、人に対して呼び捨てにすると云う様な事は滅多にない。身内の者においても左様(そう)であった。だから若い時分に、村の青年達がよく集って話をする時にでも、彼はその友達の相手を呼ぶのに、吾々には、あり勝ちの事ではあるが、決して「さん」をつけずに呼ぶ様な事は滅多になかった。従って彼を呼ぶ村の青年にしても、誰一人として、彼に対して、さんをつけずに呼んだ事はないとの事である。彼は又、腹を立てると云う事を知らなかったと云ってもよい程に、彼の顔からは、ニコ/\した笑味(えみ)の皺がとれた事がなかった。そして非常に遠慮勝ちな消極的な人であった。

 これは少し極端であるかも知れないが、家で何か食べている際に、門前を通り合せる人があったら、その人が誰れであろうが、とにかく引き入れて、一緒に食べさすと云う主義であった。或る時なんかは、夏の暑い日の事であったが、家で西瓜を割って喰っている時に、ふとそこを通り合った人があった。「あんた一寸お這入り、暑いのに」と云って、その人を引き入れて西瓜を食べさせた事があった。後からあれは誰なんですと尋ねると、「さあ何処の人やろう」と云って一向平気であった。家内の者は顔を見合すより外はなかった。とにかくこう云う調子で彼には、他人やろうが、身内の者やろうが区別がなかった。殊に物貰いの乞食なんかゞ来ると、滅多に空手(からて)では帰さなかった。とり分け伊勢の神楽が笛太鼓で賑やかに囃(はや)し立てゝ来ると、沢山のお金をやって、必ず門前で舞わせて、昔にやったこの道の初めの神楽勤めを懐(した)い出したかの様な喜悦の情が一杯に、外目にも伺われるくらいに嬉しさに満ちて、見ていたものであった。

 ほんの少し斯うした性質が伊三郎のそれであった、と云う事を一寸申しあげておいて、彼伊三郎の事について移って行こう。(つづく)

※1‥原文は狎釮い騰瓩如誤字。
※2‥みかぐらうた 六下り目九ッ~十ド。誤字・脱字は修正した。
※3‥文法的におかしい。猊要があるで、瓩任呂覆、猊要があるが、瓩、猊要がある。瓩もしれない。
 「故桝井伊三郎小伝(その四)」。
 (つづき)伊三郎の母は、前にも云った様に、庄屋敷へ参る事を忘れなかった。その頃彼女が参る時に、伊三郎も矢張り彼女の影の様に、その後についていた。だから勿論伊三郎にも充分に信心と云う心が、母が凝り固まれば、固まる程、彼の心も固くなって行った。しかし彼は未だ若かった。最初の参り初めは未だやっと十四を数えるか、数えぬかの村でならば、遊び盛りの若者であった。だから、「一人で今日は、母の代りに参って来ておくれんか」と云われて、神様に投げる賽銭をチャント懐中に入れてやって、これをお上げ申して来るのやで、と母から云われて出るのであったが、ともすると、その賽銭を投げ得ずに帰って来たりする事があった、そして、「賽銭を投げようと思うたが、余り人がジロジロ私を見ていたので恥しかった」と云って、母にその賽銭を手渡した事もあった。母は之れを聞いて、決して怒る訳には行かなかった。「未だ年若い、恥かし盛りの十四や、十五で無理はない」と云っていた。実は彼が参拝をして、しかもお賽銭を投げるのが、人が見て笑いはしまいだろうか、と思う程にも、その時分の、庄屋敷の神様は人目から不思議な、奇体なものに思われていたのであった。伊三郎も初めは、恥かしかった。心が若かっただけ、恥かし味が、信仰の上に走っていたが、母の参る時、その母が参る道々で、人に笑われ、人に邪魔されてまでも行く、その母に後(うしろ)ついで行く(※1)事を、嫌う程には、信神心が薄くはなかった。

 或る日の事、伊三郎は、母に連れられて来て、その時分に庄屋敷の神様の内は、お百姓であったので、その農事の仕事を手伝っていた。するとふと教祖の目に触れて、『あれは誰れの息子やな、おきくさん』とお尋ねになった。「あれは私の、長男の伊三郎です」と云ったのが、抑々(そも/\)伊三郎が、永(なが)の年月、離れようとしてその温かみのある心に離れられず、死ぬるまで実に五十年足らずのその永の年月、心の縋(すが)りとして随(つ)いて来た、その教祖との初めての挨拶であった。

 一度でも教祖に会ってその説かれる話を、たとえ一言でも聴かして頂いたら、それでもう生涯切れない因縁の絆で結ばれて了うに違いない。であるのに人は概して喰わず嫌いの者である。一度教祖に接して、その甘味(うまみ)を噛みしめた伊三郎はどうしてもそのうま味を忘れる事ができなかった。それから後の彼と云うものは、その心の内に恥かし味と云うものもなかった。攻撃の苦しみと云うものもなかった。左様したものは、皆な只一目教祖に接した、そしてそこから得た甘味(うまみ)にすっかり変えられて了ったのである。

 彼はもう人前で賽銭を投げるくらいに、躊躇(ちゅうちょ)はせなかった。人が見ていようが、その人に頓着なく、神様の御用をさせて頂こうと思い立って、そこらを奇麗に掃除をする為めに、裸足で、尻端折って、箒(ほうき)を持つ様になった。

 こうして、母も信神すれば、伊三郎も信神すると云う風であったので、伊三郎の父の喘息も一ぱしは助けて頂いた。そしてその後四年間は生きて居ったが、助けて頂いて四年目に出直しになった。一ぱし助けて下されたのは、つまり神様の御守護の程を見せて下されたのであった。そして四年間はこの世において頂いたが、その四年の後に病んで死んで行く時に、教祖が仰せられた。 『父のこうして病んで死ぬるのは、これは前生の因縁やから致し方ない。病んで因縁を果たしたのや、さかいに今度(此度)生れて来たら、病けなしにして帰えらしてやろう』と仰ったそうである。(つづく)

※1‥文法的におかしいが、原文通り
 「故桝井伊三郎小伝(その五)」。
 (つづき)伊三郎も、母もこうして信神をしていながら、彼は年若かにして父を失い、彼女は未だそんなにも老いたとは云わぬ内に、夫に死に別れたとは云え、その信仰は決して、練(ねり)のかえると云う様な事はなかった。彼等は教祖の言葉を信じた。『こんど生れて来たら、病気(やまいけ)なしにして帰えらしてやろう』と仰ったその言葉を信じて、このたびたっしゃな身上をかりて帰って来る。その人を日に/\楽しんで待っていた。(ほんの信仰始めの方を述べただけであるが、この度(たび)は、これで切っておく 続きは追って次号に載せる)

 大正八年八月号みちのとも「故桝井伊三郎小伝(上)」香志朗著 60~65ページより。故 桝 井 伊 三 郎 小 伝 (下)   香 志 朗

 (前にも断っておいた様に、その出来事のあった年代とか、或はその他についても、余りに明瞭しない点が数々あるので、勿論書いてゆくその出来事も、年代の順を追っていないから、そのおつもりにて御読みを願います)

 丁度御神楽歌の御製作のあった年であった。参拝する人も日に/\多くなって来た。従ってどうしても教会組織の様なものにしなければならないと云う事になった。さて如何にして、教会をおくべきであるかと相談の結果、とにかく京都の神祇管領、吉田家へ上願すべしであると、云う事になって、それに上願する様な運びになった。そして布教する事も許されなければならない、その必要もあった。(その年は慶応三年の七月の二十三日であった) それで秀司先生がその出願にお越しになる事になった。その時に、伊三郎もそのお供をして行く事を許された。しかし未だ年若く其の時はやっと十七歳であった。

    □ お 授 け

 伊三郎のお授けを貰ったのは、その年月は何時の頃であったのか、誰れ彼れに聞いて見るが、一寸解かり兼ねている。何んでも、辻忠作さんが頂かれて、すぐその後であったとの事ではあるが、確かに解からない。彼が身上にお障りを頂いたので、これも何かの神様のお知らし(※1)には違いないと云うので、テク/\とやって来ると、なる程大きな、徳をやろうと云って、待ってお出でになっている時であった。そしてこう仰った。『四にしっくり真実を見て、甘露台のお授けをさづけよう』との事であった。ここ処において彼は、末永い働き道具の、末代の徳を頂いたのである。そして次手(ついで)ながらに云っておくが、彼にはお守り(信符)と云うものを持っていなかった。それで不思議に思ったので何時か尋ねた事があった。成る程彼は信符は持っていなかったが、それにはこう云う訳がある。『お前はよう守るなァ。守りはいらん』との教祖様の御言葉であったとの事である。そして彼は甘露台のお勤めの時には常に月夜見の命の座であった。勿論これは、最初の御神楽勤めの時に御言葉があったからである。(つづく)
 「故桝井伊三郎小伝(その六) 」。
 (つづき)御本部なる中山家の初めは、御承知の如く百姓であった。だから最初の信心参りをしていた先生方は、誰れにいたしましても、皆々お百姓を手伝わして貰っていたのである。処でこうした百姓では、極く初めの信心参りの少ない内は未だよかったのであるが、結構な神様であると云う事が、実にすばらしい勢(いきおい)を持って拡がって行ったものである。従ってその参拝人も日に/\多くなって来た。しかしその当時では、中山家にては、人を集める事すら許されていないし、それかと云って集ってくる人を、返やす訳にも行かず、実にお困りになった。そこで皆様が考えて考えた末、こう定(きま)ったのである。

 それは、何か営業するに限ると云う事になって、秀司先生を営業主として、時の県、即ち堺県へ出願に出ると云う事になったのである。その年は、明治九年の事であった。営業は蒸風呂と、宿屋業とであった。伊三郎はその時にも、先生の御供をして、やらして頂いた。そして風呂屋、宿屋が始まると、風呂たきもさせて頂いた事は勿論であるし、宿屋の番頭として働かして頂いた事も勿論である。そしてこういう話を聞いた。と云うのは、宿屋であると云うても、実はそれは名のみなのであって、喰べ物なんかも、決して他の宿屋の様な御馳走(ごちそう)はない。それに宿(とま)る為めに来ると云うよりか、有り難い、神様の為に来る人が主であったので、朝晩は爐かい瓠腹1)であった。そしてその朝帰って行く人だけには、温飯(ぬくめし)を喰べさしたとの事である。そして夜分なんか、皆が一緒に寝ているのであるが、それ神様の御話が始まると云えば、皆がムクムクと起きて来て、皆な熱心に聴いた人斗(ばか)りであったとの事である。

   □ 御 小 寒 様 の 墓 掘 り

 明治八年の八月であった。奈良県より取調の件ありと云って出張した事があった。そして不都合の点ありと云って、御教祖を初め、秀司先生に出頭せよとの事になった。その際の御教祖の拘留は三日間であったが、その拘留もすませて帰えられた日、その日が日もあろうに、御小寒子様の御出直しの日であった。御教祖御拘留から、御帰りになるは有難いが、その日もあろうに、御小寒子様の御出直しを思うと誰れしも、涙を絞らずには居られなかった。

 処でさて御葬式を出すと云うても、その当時はこうして御教祖が御拘留や、何んどとの音沙汰のあった時分の頃であったから、集ってくる人と云っても、実に少数で、実に其の手のあるやなしやの騒ぎであった。その時であった。「本当に忙しかった。でも私は口にも云えぬ結講な徳を積ませて頂いたと思って、実に喜んでいる。墓地の穴を掘る者もないと云うので、その穴も掘らして頂いた、お柩(ひつぎ)も担(かつ)いでやらして頂いた。それどころではない。最後の爐Δ崚鬮瓩泙任気擦督困い董△修譴蓮拭晴燭ら何にまで、お世話をさせて頂いたのや」と云って伊三郎は時折り思い出したかの様な顔持(おもも)ちをして、喜んでいた事が屡々(しば/\)あった。誰れが、人の墓掘りをして、喜ぶものがあろう、人と思えばそれきりだが、もし神様と思えば何んで一代の光栄として、喜こばずには、居られようか。(つづく)

※1「おかい」‥粥。カユのユがヤ行転訛し頭に御をつけた形。(「大和方言集」新藤正雄著より)
 「故桝井伊三郎小伝(その七) 」。
 (つづき) □ 伊三郎の結婚

 伊三郎が結婚したのは明治九年の事であった。彼はその時丁度廿七歳であった。彼の同村に西尾庄助と云う家があった。その西尾の方も早くから庄屋敷の神様を信心して、お地場へ参拝をして居った。だから御教祖にもお目にかゝったりして、桝井家の御教祖に知られて居る如く、西尾の治道(はるみち)村に信心して居る事も知られていた。その西尾の家の長女に、ならぎくと云う女があった。それが伊三郎の嫁となったのである。その二人が夫婦になった、お仲人は、御教祖様がして下さったとの事である。それはこうである。

 『二人とも私の方へ貰うのや、ふせ込みや』と甚だ高慢らしく聞えるが、こう仰せになって『私が仲媒(なこうど)をすると云うても私が行けないから』との事で、堀内の与助さんと云う人を頼んで、この人に治道の西尾家へ、こう/\であると云って貰いに行かしになった。さてこう話がなってくると、何んで両方に話の纏(まとま)らない筈があろうか。これより確かな神の言葉はない、と云って、両方では大賛成の内に、その話が定(きま)る事になった。さてそれでは何か両方共にお祝いをせなければならんと云うので、その事を、御教祖に伺い上ると、『此方(こちら)からやったら、又向うからも心配せにゃならん。大層かけてしたて、箪笥(たんす)の底へ入れておいたら、切れ屑も一緒やさかいに、そんな事しな。その代りに扇子一対』と仰った。この言葉を聴いて、なる程と両方でうなずいた。それで盃の当日となって、両方から御教祖の居間へ出合った。そしてその時の祝の盃は、教祖様の日々お召し上がりなって居られた、その盃をお借り申して、させて頂く事になった。それから御教祖が、二人の手をお握りになって、『之れでちゃんとおさまったで』と仰った。此処で、嫁がならぎくと云う名であったのだが、『これでおさまったから「おさめ」や』と云って、ならぎくの名を、おさめと変えて、おつけ下された。だからそれ以後、彼女の呼び名は、おさめである。

 普通であったならば、両方から、御互いに親類達を呼んで御馳走を仕合わなければならないのであったが、両家では、親類と云う事に重きを置かないで、御教祖の言葉に依って、結婚をしたと云うのであるから、両方からは、重箱に握飯(にぎりめし)やその他の色々の物を持って来て、その盃の場へ居合せて下さった皆々様方に喰べて頂いた。勿論そこに居合せていた人々は、お道に熱心なお方である事は云うまでもない。こうした事々を、今から私が考えさせて頂くと、この頃のお道の信神友達は親類以上に親しかったものである様に思われて、なる程世界一列兄弟の感がヒシ/\と味われる様な気がする。(つづく)
 「故桝井伊三郎小伝(その八) 」。
 (つづき)終尾(しゅび)よく、その事も済んだ。その夕方帰って行く時に御教祖が仰った。『与助さん、もう送って行く事いらん、おきくさん(伊三郎母)連れて帰んなはれ、そして行く/\は内へ貰うのや』。そのおさめは、今尚神様の御加護を得て、御教祖の側近く置いて頂いて居る。

 伊三郎の父が死んだ。その時に、『お前の父の病むのは之れは前生の因縁やから、しょうがない。やさかいに、此度は病けなしにして帰してやろう』(※2)
と御教祖の御言葉を聞いて、家内のものは、何時たっしゃな身上を借りて、帰ってくるのやろうかと、その日を待っていた。その父は丁度、死んでより十年目に、伊三郎と、おさめの間に生れ出て来た。その年は、明治十年の事であった。その父が生れ代って来る時に、未だ腹の内にある間から、御教祖は、『安(やす)う待っている』と仰って、その名を安松と前以てお名を附けて置いて下さった。生れた子は、案に違わず勿論男の子であった。それが安松である。だから安松は伊三郎の父の生れ代りである。

 神様のお言葉の如くに、安松は本当に病けなしに、何処悪いと云った事もなく、毎日々々御本部で勤めている。話は少し枝葉になるが、その安松を連れて御教祖の処へ挨拶に行った事があった。すると御教祖は、一匹の黒犬をその安松に下さった。そしてこうお云いになった。『神様が隅とれ/\と仰ったので、その御言葉通りにしたら あんなものが、出来たのや』。なる程それを見せて頂くと、一枚の布で犬の手も出来て居れば、頭も耳も、尾も出来て居るのである。実にその出来塩梅(あんばい。料理の味加減の意)は、真似をしても、出来想にない程にも、巧妙に出来ている。御教祖の御手でお造りになったには、違いないが、それをお造りになるにおいて、手をこう動かし、こうすると云う具合に、働くその心は勿論神様が御教祖に宿って、左様(※4)なさって居られるのであるから。その犬を貰った時には、之れは犬には違いないが、それでも何処か違って居る様な気がするなァ、と云い合っていた。それもその筈であった。成る程今から見て見ると、純日本犬と違っていた。唐犬(※5)そっくりその儘である。その時分には、滅多に唐犬なんかは、見ようと思っても居なかったものであったが、それは未だに家の宝として残してある。(つづく)

※1「終尾(しゅうび)」‥物事の終り。しまい。終末。(goo辞書より)
※5「唐犬(とうけん)」‥江戸初期に渡来した舶来犬の一種。大形で、主に猟犬として大名に飼われた。オランダ犬。(goo辞書より)http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/155588/m0u/
 「故桝井伊三郎小伝(その九) 」。
 (つづき)□ 雨 乞 い 勤 め

 伊三郎が家を出て、御本部へ来る時は、何時でも、いとま乞い(※1)をして、家を出てくる事を忘れなかった。と云うのは、何日何ん時(いつなんどき)、家を出たなりで家に帰られずに、警察へ、連れて行かれるかも知れない、と云う事であったから、そして必らず、其時に、弁当を二三日分を持ってくる事も忘れなかった。二三日はどんな事があっても喰う事に、心を引かれずに精一杯働かせて頂ける様にとの為めであった。

 彼は何時もの様に、治道(はるみち)からやって来た。どこの田もここの田も、見る田、見る田には、一つも水気がなかった。庄屋敷でも水がない。雨が降らぬと大騒ぎをしていた。村方からは、どうか雨の降るものなら、降らして貰いたいものやと云って、雨乞い勤めをお願いに来た。と云って、そんなお勤めをしたら、警察から八釜しく云われる事は定(きま)っている。如何にすべきか、いづれをとるべきかに迷った。が、最後は人助けのこの道である。身は犠牲になっても、そのお勤めをせにゃならんと云う事になった。それはあの明治十六年の時のそれである。(※2)『雨降るも神、降らぬも神、真実の心あればどんな自由でもする』。

 彼等にはそれ以外に頼寄(たのみよ)る言葉がない。一心になって村の領分の隅々でお勤めをした。そして管長様なり、本席様なりは、甘露台の前でお願いになる。すると案に違わず大雨が降って来た。彼等は喜んで帰って来て、甘露台の所でお礼をしていた。その時に、四人の巡査がかけつけて、彼等を拘引して行ったのである。その時に彼伊三郎は、お面を附けていたので、三拾二銭五厘の科料に処せられた。(つづく)

※2‥稿本天理教教祖伝「第九章 御苦労」258~264ページ参照
 「故桝井伊三郎小伝(その十) 」。
 (つづき)□ 櫟 本 警 察 へ 拘 引

 伊三郎が治道の自分の家に居った時に、身上に障りがあって、何んでか知らん、と思って、本部へ来ると、屹度(きっと)その時には本部には何か節があった。従ってこうして身上にお知らせ下されて、お呼び寄せになったから、本部に起った節には滅多に逃れた事がなかった。そしてその頃、本部へこうして来る時であるが、同じ道を来たならば、余りに毎日の様に通うものだから、時々その村の人が悪口を云ったりするので、道を変えて通っていた。その時に着て行く着物にしても、田の所までは、田にでも行く時の様な、風をして、田で庄屋敷行きの着物に着変えて行く事にしていた。そして何時警察へ引かれて行ってもよい様に、足袋は二枚穿(ば)き、着物は充分に重着(かさねぎ)をして行った。

 明治十九年の事であった。そして正月の寒い頃の事であった。もうこの頃には、ぼつぼつ講者達が、何々講と云った様な講を組織してお地場へ帰って来る様になった。しかし未だ警察からの干渉は喧(やかま)しいので、とても本部には寄りつけない。そこでその側の豆腐屋へ集って、大きな声で神楽勤めをし初めた。そしてその時の参拝にお供(そなえ)や、御神符を与えたと云う理由で、警察が来て、忽(たちま)ちに参拝人を帰らして終(しま)った。そしてその後で御教祖を櫟本署へ連れて行った。その時である。冬の寒中に、板間の上で下駄を枕にお寝(やす)みになったと云うのは。かくして御教祖は十二日間の拘引をされ、伊三郎は十日間の拘引を喰った。これが御教祖の御昇天の前年の事であって、実に最後の御入獄であった。山澤おひさ様の御附きそいとして行かれたのもこの時である。(※1)

 御教祖はこうした御難儀を、しかも何の罪もなくしてお受けになっていながら、獄吏(※2)には非常なる慈悲の御心でお接しになって、夜分なんか遅くなると、外をうどん屋が通れば、それを買ってあげてくれ、とも仰ったし、菓子屋が来れば、さぞあの人達も御苦労に、たいくつやろうからと云って、菓子を買っておやりとも、仰ったとの事である。

 伊三郎はその時に、いやな匂(におい)をする、はげたお椀(わん)で喰べさせられた。その気持の悪かった事が骨身にしみたと見えて、その時以来は非常に食器のはげたのを気にする様になった。「人には決して、粗末な、はげたものを出すものじゃない」とは彼の口ぐせであった。

 この櫟本の警察へ拘引されになった、その翌年に御教祖は御昇天遊ばされた。そして天理教会なるものがその翌年に設置する事を許される様になった。
その設置と共に、彼は前管長公より天理教会本部理事を命ぜられる事になった。彼の教導職を受けたのは、これより先きで明治十八年五月廿日の日附を以て、試補(※3)を拝命する事になった。そして教会の整理員としては、先ず最初に、即ち明治三十年十一月に中河分教会のそれに命ぜられたのを初めとして、島ヶ原、八木、梅谷、河原町、旭日、高知等がある。こうした色々の事は、彼の後年の事であるから強いて云う必要もないからここに略しておく。(つづく)

※1‥稿本天理教教祖伝282~292ページ参照
※2「獄吏(ごくり)」‥監獄の役人。
※3「試補(しほ)」‥本官に任命されるまで、実地で見習いをする者。
(※2~3、小学館「現代国語例解辞典」より)
 「故桝井伊三郎小伝(その十一) 」。
 (つづき)桝井家が七條村から引き移って来たのは、明治廿一年七月頃であった。そして始めの間は、本部の内らに、***發あって、そこで住(すま)っている事になっていた。それが伊三郎の身上からして、家を一戸建てる事になって、役員は本部にまさかの用事がある時には、近所に居なけれや困るとの前管長のお言葉によって極く近くの現在住っている、本部の地所を借りて、建てる事になった。その家が、彼のこの世の名残りの住いとして、目を閉じたその家である。

 彼の出直したのは、前にも云った如く、今から丁度十年前の六月三十一日の正十二時であった。彼はその年の四月頃から、ぼつ/\いけなかった。その或る日の事、庭に大きな榊(さかき)があった。その大きな榊が枯れて来たのを見て、そしてその横に細(こまか)い一本の榊が不思議にも自然と生えて来たのに気づいて、「古木と、新らしいのと建てかえやなァ、己(お)れも病んだら末六十日や」と笑って云った事があった。何を変な事を云うのだろうと思っていたら、それから丁度六十日を数える頃に彼は出直して行った。

 そしてその出直して行く頃は、丁度管長公の不例(ふれい。貴人の病気)の最中であった。只一つ父が気にかゝると云っていたのは、それであった。六月三十一日の朝、即ち彼の最後の日の朝、御本部の奥様からこう云う事を聞いた。「桝井が羽織袴で、永らくお世話になりました。と云って挨拶に来た、と管長様が、今朝目が覚めると仰った」との言葉である。彼は心残りなく、永々(ながなが)と、実に永々と息のあった限りの永い間、実に筆にも、口にもつくし得ぬ程の、そのお礼の言葉を、管長様に申上げて、とう/\身上をお返やし申す事になった。それも指折り数うれば、実に早いものである。もう一昔前の過去になっている。(おわり)

 (いつも定(きま)った様に、忙しい/\と口ぐせの様に云う様だが、この稿をする今も、実に暇がなくて、うまく考えをまとめる暇もない。少し尋ねなければならん、数々の事も尋ねる暇もなしに、書いて終いました。こう云う古い時分の事は、全く我が家の事でありながら材料をあつめるには困難なものですーー九月三日ーー) 大正八年九月号みちのとも「故桝井伊三郎小伝(下)」香志朗著、60~68ページより

【桝井おさめ(ますい おさめ】(西尾ナラギク)
 伊豆七条の人。娘時代から教祖のお側で仕える。
 明治9年、教祖の仲人で、桝井伊三郎と結婚し、教祖からおさめと命名して頂いた。

【桝井おさめ逸話】(西尾ナラギク)
 教祖伝逸話篇35「赤衣」37「神妙に働いて下されますなあ」160「柿選び」。
 教祖伝逸話篇35「赤衣」。
 教祖が、初めて赤衣をお召しになったのは、明治7年12月26日(陰暦11月18日)であった。教祖が、急に、「赤衣を着る」と、仰せ出されたので、その日の朝から、まつゑとこかんが、奈良へ布地を買いに出かけて、昼頃に帰って来た。それで、ちょうどその時、お屋敷へ手伝いに来ていた、西尾ナラギク(註、後の桝井おさめ)、桝井マス(註、後の村田すま)、仲田かじなどの女達も手伝うて、教祖が、「出来上がり次第に着る」と、仰せになっているので、大急ぎで仕立てたから、その日の夕方には出来上がり、その夜は、早速、赤衣の着初めをなされた。赤衣を召された教祖が、壇の上にお坐りになり、その日詰めていた人々が、お祝いの味醂を頂戴した、という。
 教祖伝逸話篇37「神妙に働いて下されますなあ」。
 明治7年のこと。ある日、西尾ナラギクがお屋敷へ帰って来て、他の人々と一しょに教祖の御前に集まっていたが、やがて、人々が挨拶してかえろうとすると、教祖は、我が子こかんの名を呼んで、「これおまえ、何か用事がないかいな。この衆等はな、皆、用事出して上げたら、かいると言うてない。何か用事あるかえ」と、仰っしゃった。すると、こかんは、「沢山用事はございますなれど、遠慮して出しませなんだのや」と答えた。その時、教祖は、「そんなら、出してお上げ」と、仰っしゃったので、こかんは、糸紡ぎの用事を出した。人々は、一生懸命紡いで紡錘に巻いていたが、やがて、ナラギクのところで一つ分出来上がった。すると、教祖がお越しになって、ナラギクの肩をポンとおたたきになり、その出来上がったのを、三度お頂きになり、「ナラギクさん(註、当時18才)、こんな時分には物のほしがる最中であるのに、あんたはまあ、若いのに、神妙に働いて下されますなあ。この屋敷は、用事さえする心なら、何んぼでも用事がありますで。用事さえしていれば、去のと思ても去なれぬ屋敷。せいだい働いて置きなされや。先になったら、難儀しようと思たとて難儀出来んのやで。今、しっかり働いて置きなされや」と、仰せになった。

 註 西尾ナラギクは、明治9年結婚の時、教祖のお言葉を頂いて、おさめと改名、桝井おさめとなる。
 160「柿選び」。
 ちょうど、その時は、秋の柿の出盛りの旬であった。桝井おさめは、教祖の御前に出さして頂いていた。柿が盆に載って御前に出ていた。教祖が、その盆に載せてある柿をお取りになるのに、あちらから、又こちらから、いろいろに眺めておられる。その様子を見て、おさめは、「教祖も、柿をお取りになるのに、矢張りお選びになるのやなあ」と思って見ていた。ところが、お取りになったその柿は、一番悪いと思われる柿をお取りになったのである。そして、後の残りの柿を載せた盆を、おさめの方へ押しやって、「さあ、おまはんも一つお上がり」と、仰せになって、柿を下された。この教祖の御様子を見て、おさめは、「ほんに成る程。教祖もお選びになるが、教祖のお選びになるのは、我々人間どもの選ぶのとは違って、一番悪いのをお選りになる。これが教祖の親心や。子供にはうまそうなのを後に残して、これを食べさしてやりたい、という、これが本当に教祖の親心や」と感じ入った。そして、感じ入りながら、教祖の仰せのままに、柿を頂戴したのであった。教祖も、柿をお上がりになった。おさめは、この時の教祖の御様子を、深く肝に銘じ、生涯忘れられなかった、という。

【桝井マス(村田すま)】
 安政4年、桝井伊三郎、キクの娘として生れる。兄は伊三郎(襲名)。明治10年、教祖の仲人で村田亀松(幸助と改名)と結婚。その後、夫婦で長らくお屋敷につとめ切った。天理教婦人会理事などを務める。昭和12年、出直し(享年81歳)。

【桝井孝四郎】
 おさしづの編纂を任されたのは桝井孝四郎[1894-1968]で、その著書「みちの秋」(昭和13年)には編纂に至る経緯、天啓録をまとめた意義、おさしづの解説などが書かれている。教祖の謦咳に接した人たちの次世代にあたるのが桝井先生の世代で、貴重な証言も残されていて興味深い。

 「おさしづに就て」。 

 教祖による天の声はおふでさき1711首に残されている。教祖にも刻限話がたくさんあった。それらは筆記されておらず「聞き流し、説きながしであった」という(p.38-39)。孝四郎の叔母の村田すまの証言などにそのことが書かれている。明治14年に秀司出直し直後、お春、秀司の霊が教祖の肉体を通じて語ったことも、村田すま(孝四郎の叔母)の証言として書かれている。教祖が、秀司のような声、またお春のような声で語ったとされる (p.41-42)。秀司の反省の弁も重要である。「神様の仰ることを止めてきた。どうぞこれからは、之を雛形として神様の云ふ事をを守ってくれ。私はこんなになりました」(p.41)。秀司の人間一条信仰の挫折を語っている。人間の肉体は亡くなっても魂は永遠であり、魂はまた別の肉体を通じて生まれ変わる。その証拠となるようなエピソードとして、亡くった人の霊が存在し、その霊が教祖を媒介(medium)として語る。教祖が霊媒(medium)としての機能を果たしていることに注目したい。本席のおさしづの中でも、秀司の霊が語る場面が確かにあった。その際も、本席は霊媒(medium)としての機能も果たしている。神様の言葉を直接的に受ける神の機械が、霊媒しての機能も果たす。霊媒は、諸宗教の職能の中でもよく発現している。青森のイタコ、沖縄のユタなどもそれにあたる。ただ、親神の顕現である機械の言葉と、亡くなった人の霊の言葉と異なるものである。なお、桝井先生も、こかんが若い神様とよばれ、天啓者の一人であった(p.39)と明白に記している。




(私論.私見)