(前川)喜三郎&たけ 前裁村(天理市)

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【(前川)喜三郎履歴】
 1827(文政10)年10.26日、大和国式上郡大豆越村(現・奈良県桜井市大豆越)生まれ。近隣に聞える田地持ちで、村の役職を務める。
 1902(明治35)年11.22日。出直し(享年76歳)。

 1827(文政10)年10.26日、大和国式上郡大豆越村(現・奈良県桜井市大豆越)生まれ。
 近隣に聞える田地持ちで、村の役職を務める。
 1864(文久4)年、妻そのの痔の病を助けられ入信。天理教の草創期にお屋敷と深い関りを持って活躍する。
 教祖から扇・御幣・肥・物種のさづけを頂く。妻その扇のさづけ。
 1867(慶応3)年、教祖直々に「おつとめ」の地歌と手振りを教わった。
 1902(明治35)年11.22日。出直し(享年76歳)。
 妻そのは山澤良治郎の姉、娘こいそは山田伊八郎(敷島大教会)の妻。息子・彦七は天理教校初代校長、姉るいは岡本重治郎の妻。

【(前川)喜三郎逸話】
 教祖伝逸話篇11「神が引き寄せた」、12「肥のさづけ」、14「染物」、15「この物種は」、20「女児出産」、21「結構や、結構や」、28「道は下から」、63「目に見えん徳」、66「安産」、84「南半国」、185「どこい働きに」。
 教祖伝逸話篇66「安産」。
 前川喜三郎の妻たけが、長女きみを妊娠した時、をびや許しを頂きに、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、教祖は、「よう帰って来た」と、仰せられ、更に、「出産の時は、人の世話になること要らぬ」と、お言葉を下された。たけは、産気づいた時、家には誰も居なかったので、教祖の仰せ通り、自分で湯を沸かし、盥も用意し、自分で臍の緒を切り、後産の始末もし、赤児には産湯をつかわせ、着物も着せ、全く人の世話にならずに、親神様の自由自在の御守護によって、安産させて頂いた。

 註 前川きみの出生は、明治13年1月15日である。よってをびや許しを頂いたのは、その前年明治12年と推定される。




(私論.私見)