久保小三郎

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「久保小三郎」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【東尾(久保)小三郎履歴】
 1855(安政2)年11.13日、奈良県添上郡矢田原村(現、奈良市矢田原町)に、東尾小四郎の二男として生まれる。
 1928(昭和3)年5.4日、出直し(享年74歳)。

 1855(安政2)年11.13日、奈良県添上郡矢田原村(現、奈良市矢田原町)に、東尾小四郎の二男として生まれる。
 1872(明治5).9月、小三郎(18歳)は同村久保家に婿養子(妻、同家長女ナラヱ)として迎えられる。
 長男・楢治郎の眼の障りをご守護頂いて入信。小三郎の入信は、高井猶吉の布教により、長男楢治郎(当時7、8歳)の眼の障りをたすけられたことによる(『稿本天理教教祖伝逸話篇』226-227頁)。
 明治18年、宮森与三郎・高井猶吉の布教により、田原村を初めとする近隣の村々に道がついた。
 明治19年、明元講(田原の前身)を結成。
 明治20年頃、両人の布教による100戸余りの講社を合併し、田原村に明元講結成のお許しを頂いた。この時、日頃から熱心であった久保小三郎が初代講元に選ばれた。
 明治23年1.13日、田原村字矢田原(現、奈良市矢田原町乙146番地)に田原支教会のお許しを頂き、小三郎が初代会長に就任した。以後、官憲による厳しい反対攻撃の中、小三郎は教勢の拡大に務めた。
 明治42年2.28日、子息楢治郎に会長を譲る。
 1928(昭和3)年5.4日、出直し(享年74歳)。

【久保小三郎逸話】
 教祖伝逸話篇135「皆丸い心で」。
 明治十六、七年頃の話。久保小三郎が、子供の楢治郎の眼病を救けて頂いて、お礼詣りに、妻子を連れておぢばへ帰らせて頂いた時のことである。教祖は、赤衣を召してお居間に端座して居られた。取次に導かれて御前へ出た小三郎夫婦は、畏れ多さに、頭も上げられない程恐縮していた。しかし、楢治郎は、当時七、八才の子供のこととて、気がねもなくあたりを見廻わしていると、教祖の側らに置いてあった葡萄が目に付いた。それで、その葡萄をジッと見詰めていると、教祖は、静かにその一房をお手になされて、「よう帰って来なはったなあ。これを上げましょう。世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。この道は、先永う楽しんで通る道や程に」と、仰せになって、それを楢治郎に下された。

【久保楢治郎()】
 明治11年、生れる。久保小三郎の長男。
 昭和27年、出直し(享年76歳)。
 明治26年、本部青年となり、同僚と大分県佐賀関へ布教に出る。栃木県や香川県で布教する。
 明治42年、田原教会の二代会長に就任。




(私論.私見)