紺谷久平

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【紺谷久平(こんたに きゅうへい)履歴】
 弘化2年、飾磨村(兵庫県姫路市飾磨区)生れる。染物業を営む。 
 昭和5年、出直し(享年86歳)。

 弘化2年、飾磨村(兵庫県姫路市飾磨区)生れる。染物業を営む。 
 明治16年、正木国蔵(後の名東初代)から話を聴き、眼病の御守護を頂いて入信。
 明治23年、飾東教会を設立、初代会長。
 昭和5年、出直し(享年86歳)。

【紺谷久平逸話】
 教祖伝逸話篇140「おおきに」、200「大切にするのやで」。
 教祖伝逸話篇140「おおきに」。
 紺谷久平は、失明をお救け頂いて、そのお礼詣りに、初めておぢばへ帰らせて頂き、明治17年2月16日(陰暦正月20日)朝、村田幸右衞門に連れられて、妻のたけと共に、初めて、教祖にお目通りさせて頂いた。その時、たけが、お供を紙ひねりにして、教祖に差し上げると、教祖は、「播州のおたけさんかえ」と、仰せになり、そのお供を頂くようになされて、「おおきに」と、礼を言うて下された。後年、たけが人に語ったのに、「その時、あんなに喜んで下されるのなら、もっと沢山包ませて頂いて置けばよかったのに、と思った。」という。
 教祖伝逸話篇200「大切にするのやで」。
 明治20年1月11日、紺谷久平は、信者一同が真心をこめて調製した、赤い衣服一枚と、赤の大きな座布団二枚を、同行の者と共に背負うて家を出発し、おぢばに帰らせて頂き、村田幸右衞門宅で宿泊の上、山本利三郎の付添いで、同1月13日、教祖にお目通りした。教祖は、御休息所の上段の間で寝んで居られ、長女おまさが、お側に居た。山本利三郎が衣服を出して、これは、播州飾磨の紺谷久平という講元が、教祖にお召し頂きたいと申して持って帰りました、と申し上げると、教祖は御承知下され、そこで、その赤い衣服を上段の間にお納め下された。つづいて、座布団二枚を出して、山本が、これも日々敷いて頂きたい、と申して持って参りました、と申し上げると、教祖は、それも、お喜び下されて、双方とも御機嫌宜ろしくお納め頂いた。それから仕切りの襖を閉めて、一寸の間、そちらへ寄っておれ、とのことで、山本は下の八畳の間に下りる。紺谷も共に畏まっていると、おまさが襖を開けて山本を呼んだので、山本が教祖のお側へ寄らせて頂くと、赤衣を一着お出しになって、『これをやっておくれ』と、仰せられ、続いて『これは粗末にするのやないで。大切にするのやで。大事にするのやで』と仰せになった。山本は、きっと、その事を申し聞かします、とお答えして、八畳の間に下り、紺谷に、教祖から、そう申された、と詳しく話して聞かせた。こうして、紺谷久平は、赤衣を頂戴したのである」。

【紺谷たけ(こんたに たけ)】
 弘化元年、生れる。土山喜八郎、レイの長女。
 大正7年、出直し(享年75歳)。
 飾東教会初代会長夫人。




(私論.私見)