大和磯城郡桧垣村の人、永原の中村直藏(二宮尊徳翁の弟子、贈從五位通称善五郎)という農業の先生について修業、明治十七八年所謂「坊主こぼち」の流行した頃、珍しい南瓜や綿の種などをもって全国に勤農講演行脚をされた。生れは河内で鴻田家へ養子に来た人である。百姓によく丹精し、桧垣の鴻田と言えば、地方の有志や警察上中流の人達で知らぬ者のない人望があった。明治十五年五十五才の時次女りきの眼病より入信し、山沢良次郎さんが明治十六年出直したあとおやしきへ引寄せられた。その頃読み書きの出来る人が尠(すくなか)ったので、それ迠に村役もし世界でも顔が利いた人で読み書き講演も出来るので重宝がられ、明治廿一年教会本部が出来てからは祝詞書きと説教とがその受持のように成っていた。その時分説教日が月に二三回あって、説教の際には狩衣をつけ冠をかむり笏板もってやったものである。美鬚をはやした格服のよい茨木基敬さんと二人が交替でつとめられた。息子の利吉さんの話に
「親父が目をふさいで熱心に説教をしていたが、ふと目を開けると聴手が一人も居なかったことがあった」とある。勤農の旅先新潟で道の種をおろしたのが今新潟大教会となっている。
品行方正、先生方の中では一番の早起で、御神饌が先生の受持のようになっていた。老年になって耳が遠くなり、初試験を辻忠作先生と二人でやっておられた。明治三十六年七月廿九日七十六才で出直しされた。
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