鴻田忠三郎先生について

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【鴻田忠三郎(こうだ ちゅうざぶろう)】
 1828(文政11)年2.22日、河内国丹南郡向野村(現・大阪府羽曳野市向野)生まれ。
 1903(明治36)年7.29日、出直し(享年76歳)。

 1828(文政11)年2.22日、河内国丹南郡向野村(現・大阪府羽曳野市向野)生まれ。高谷利衛門の四男。
 天保3年、生家高谷家より鴻田家(大和国式下郡北檜垣村‐現・奈良県天理市檜垣町)長七の養嗣子となる。
 1881(明治14)年、次女・りきの目の患いから初参拝。
 1881(明治14)年、大日本農会の種芸科農業委員として新潟県勧農場に勤務。のちに新潟大教会誕生。
 1882(明治15)年、御守護給わり入信。以後、赴任地の新潟で布教に励む。
 1883(明治16)年、山澤良治郎出直し後、中山眞之亮の後見役となる。
 1884(明治17)年、教祖は、3.24日から4.5日まで奈良監獄署へ御苦労下された。鴻田忠三郎も10日間入牢拘禁された。
 1887(明治20)年、教祖崩御のおつとめで、かぐらをつとめる。
 1903(明治36)年7.29日、出直し(享年76歳)。

【鴻田忠三郎逸話】
 教祖伝逸話篇62「これより東」、95「道の二百里も」、144「結構の理」。
 教祖伝逸話篇62「これより東」。
 明治11年12月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には、病たすけの神様がござる。」 と聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、3里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。教祖にお目にかかったところ、「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで」と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。明治13年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで」と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ」と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂くようになった。
 教祖伝逸話篇95「道の二百里も」。
 明治14年の暮、当時、新潟県の農事試験場に勤めていた大和国川東村の鴻田忠三郎が、休暇をもらって帰国してみると、2、3年前から眼病を患っていた二女のりきが、いよいよ悪くなり、医薬の力を尽したが、失明は時間の問題であるという程になっていた。家族一同心配しているうちに、年が明けて明治15年となった。年の初めから、この上は、世に名高い大和国音羽山観世音に願をかけようと、相談していると、その話を聞いた同村の宮森与三郎が、訪ねて来てくれた。宮森は、既に数年前から入信していたのである。早速お願いしてもらったところ、翌朝は、手の指や菓子がウッスラと見えるようになった。そこで、音羽山詣りはやめにして、3月5日に、夫婦とりきの3人連れでおぢばへ帰らせて頂き、7日間滞在させて頂いた。その3日目に、妻のさきは、「私の片目を差し上げますから、どうか娘の儀も、片方だけなりとお救け下され。」と、願をかけたところ、その晩から、さきの片目は次第に見えなくなり、その代わりに、娘のりきの片目は、次第によくなって、すっきりお救け頂いた。この不思議なたすけに感泣した忠三郎は、ここに初めて、信心の決心を堅めた。そして、お屋敷で勤めさせて頂きたいとの思いと、新潟は当時歩いて16日かかった上から、県へ辞職願を出したところ、許可はなく、「どうしても帰任せよ」との厳命である。困り果てた忠三郎が、「如何いたしましょうか」と、教祖に伺うと、「道の二百里も橋かけてある。その方一人より渡る者なし」との仰せであった。このお言葉に感激した鴻田は、心の底深くにをいがけ・おたすけを決意して、3月17日新潟に向かって勇んで出発した。こうして、新潟布教の第一歩は踏み出されたのである。
 教祖伝逸話編144「天に届く理、結構の理」
 教祖は、1884年3月24日から4月5日まで奈良監獄署へ御苦労下された。鴻田忠三郎も10日間入牢拘禁された。その間、忠三郎は、獄吏から便所掃除を命ぜられた。忠三郎が掃除を終えて、教祖の御前にもどると、教祖は、「鴻田はん、こんな所へ連れて来て、便所のようなむさい所の掃除をさされて、あんたは、どう思うたかえ」と、お尋ね下されたので、「何をさせて頂いても、神様の御用向きを勤めさせて頂くと思えば、実に結構でございます」と申し上げると、教祖の仰せ下さるには、「そうそう、どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで」と、お諭し下された。

【鴻田忠三郎評伝】
 「鴻田忠三郎先生について」(「清水由松傳稿本」120~121ページより)。
 大和磯城郡桧垣村の人、永原の中村直藏(二宮尊徳翁の弟子、贈從五位通称善五郎)という農業の先生について修業、明治十七八年所謂「坊主こぼち」の流行した頃、珍しい南瓜や綿の種などをもって全国に勤農講演行脚をされた。生れは河内で鴻田家へ養子に来た人である。百姓によく丹精し、桧垣の鴻田と言えば、地方の有志や警察上中流の人達で知らぬ者のない人望があった。明治十五年五十五才の時次女りきの眼病より入信し、山沢良次郎さんが明治十六年出直したあとおやしきへ引寄せられた。その頃読み書きの出来る人が尠(すくなか)ったので、それ迠に村役もし世界でも顔が利いた人で読み書き講演も出来るので重宝がられ、明治廿一年教会本部が出来てからは祝詞書きと説教とがその受持のように成っていた。その時分説教日が月に二三回あって、説教の際には狩衣をつけ冠をかむり笏板もってやったものである。美鬚をはやした格服のよい茨木基敬さんと二人が交替でつとめられた。息子の利吉さんの話に
「親父が目をふさいで熱心に説教をしていたが、ふと目を開けると聴手が一人も居なかったことがあった」とある。勤農の旅先新潟で道の種をおろしたのが今新潟大教会となっている。
 品行方正、先生方の中では一番の早起で、御神饌が先生の受持のようになっていた。老年になって耳が遠くなり、初試験を辻忠作先生と二人でやっておられた。明治三十六年七月廿九日七十六才で出直しされた。




(私論.私見)