加見兵四郎

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【加見兵四郎(かみ ひょうしろう)履歴】
 天保14年、生れ。
 大正7年、出直し(享年76歳)。

 天保14年、生れ。
 1873(明治6)年、妹・きくから勧められ入信。以来、妻・つねのをびや許し、自分と長女の眼病の御守護を頂く。
 布教に励み、心勇講の結成と敷島の教会設立に貢献する。伊勢地方へも布教。
 明治26年、教会設立。東海初代会長。
 大正7年、出直し(享年76歳)。

【加見兵四郎逸話】
 34「月日許した」、167「人助けたら」。
 34「月日許した」。
 明治6年春、加見兵四郎は妻つねを娶った。その後、つねが懐妊した時、兵四郎は、をびや許しを頂きにおぢばへ帰って来た。教祖は、「このお洗米を、自分の思う程持っておかえり」と、仰せになり、つづいて、直き直きお諭し下された。「さあ/\それはなあ、そのお洗米を三つに分けて、うちへかえりたら、その一つ分を家内に頂かし、産気ついたら、又その一つ分を頂かし、産み下ろしたら、残りの一つ分を頂かすのやで。そうしたなら、これまでのようにもたれ物要らず、毒いみ要らず、腹帯要らず、低い枕で、常の通りでよいのやで。すこしも心配するやないで。心配したらいかんで。疑うてはならんで。ここはなあ、人間はじめた屋敷やで。親里やで。必ず、疑うやないで。月日許したと言うたら、許したのやで」と。
 167「人助けたら」。
 加見兵四郎は、明治18年9月1日、当時13才の長女きみが、突然、両眼がほとんど見えなくなり、同年10月7日から、兵四郎もまた目のお手入れを頂き、目が見えぬようになったので、11月1日、妻つねに申し付けて、おぢばへ代参させた。教祖は、「この目はなあ、難しい目ではあらせん。神様は一寸指で押さえているのやで。そのなあ、押さえているというのは、ためしと手引きにかかりているのや程に」と、仰せになり、つづいて、「人言伝ては、人言伝て。人頼みは、人頼み。人の口一人くぐれば一人、二人くぐれば二人。人の口くぐるだけ、話が狂う。狂うた話した分にゃ、世界で誤ちが出来るで。誤ち出来た分にゃ、どうもならん。よって、本人が出て来るがよい。その上、しっかり諭してやるで」と、お諭し下された。つねが家にもどって、この話を伝えると、兵四郎は、「成る程、その通りや」と、心から感激して、3日朝、笠間から4里の道を、片手には杖、片手は妻に引いてもらって、お屋敷へ帰って来た。教祖は、先ず、「さあさあ」と、仰せあり、それから約2時間にわたって、元初まりのお話をお聞かせ下された。その時の教祖のお声の大きさは、あたりの建具がピリピリと震動した程であった。そのお言葉がすむや否や、ハッと思うと、目はいつとなく、何んとなしに鮮やかとなり、帰宅してみると、長女きみの目も鮮やかに御守護頂いていた。しかし、その後、兵四郎の目は、毎朝8時頃までというものは、ボーッとして遠目は少しもきかず、どう思案しても御利やくない故に、翌明治19年正月に、又、おぢばへ帰って、お伺い願うと、「それはなあ、手引きがすんで、ためしがすまんのやで。ためしというは、人救けたら我が身救かる、という。我が身思うてはならん。どうでも、人を救けたい、救かってもらいたい、という一心に取り直すなら、身上は鮮やかやで」とのお諭しを頂いた。よって、その後、熱心におたすけに奔走するうちに、自分の身上も、すっきりお救け頂いた。





(私論.私見)