梶本惣治郎(かじもとそうじろう)

 更新日/2025(平成31→5.1栄和改元/栄和7)年1.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「梶本惣治郎」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【梶本惣治郎(かじもとそうじろう)履歴】
 1827(文政10)年、大和国添上郡櫟本村(現、天理市櫟本町)で、父惣兵衛、母きみの二男として出生。
 1887(明治20)年5.19日、出直した(61歳)。

 1827(文政10)年、)大和国添上郡櫟本村(現、天理市櫟本町)で、父惣兵衛、母きみの二男として出生。
 1852(嘉永5)年、中山善兵衛、みきの三女はると結婚、子ども7人を授かったが、そのうち三男眞之亮(新治郎)は、中山秀司の長女たまへに入婿、初代真柱となった。櫟本にあって鍛冶屋の業によく励み、晩年は中山家を側面より補佐した。
 1887(明治20)年5.19日、出直した(享年61歳)。

【梶本惣治郎逸話】
 教祖伝逸話篇6「心を見て」。
 嘉永5年、豊田村の辻忠作の姉おこよが、お屋敷へ通うて、教祖からお針を教えて頂いていた頃のこと。教祖の三女おきみの人にすぐれた人柄を見込んで、櫟本の梶本惣治郎の母が、辻家の出であったので、梶本の家へ話したところ、話が進み、辻忠作を仲人として、縁談を申し込んだ。教祖は、「惣治郎ならば、見合いも何もなくとも、心の美しいのを見て、やる」と、仰せられ、この縁談は、目出度く調うた。おきみは、結婚して、おはると改名した。惣治郎は、幼少の頃から気立てがよく素直なため、村でも仏惣治郎と言われていた、という。

【梶本松治郎(かじもと まつじろう)履歴】
 安政4年生まれ。梶本惣治郎、おはるの二男。初代真柱の実兄。
 明治24年、出直し(享年35歳)。
 櫟本村で父の鍛冶職を手伝う。
 明治19年、教祖の最後の御苦労中は、自宅が人々の連絡場所となる。陰に陽にお屋敷の重い役割を果たした。

【梶本宗太郎(かじもと そうたろう)履歴】
 明治13年、櫟本村で生まれる。梶本松治郎、うのの長男。初代真柱の甥に当る。
 昭和30年、出直し(76歳)。

 明治13年、櫟本村で生まれる。梶本松治郎、うのの長男。初代真柱の甥に当る。
 明治26年、諸井政一らと一致幼年会を組織。
 明治32年、家族と共にお屋敷へ入り込む。
 明治40年、山澤サヨと結婚。本部の要職を歴任しながら布教に励む。
 昭和9年、鍛冶惣教会設立、初代会長。
 昭和30年、出直し(享年76歳)。

【梶本宗太郎逸話】
 教祖伝逸話篇113「子守歌」、192「トンビトート」、193「早よう一人で」。
 教祖伝逸話篇113「子守歌」。
 教祖は、時々次のような子守歌をお歌いになっていた、という。
一、弁慶は、有馬の国で育てられ、三つの上は四つ五つ、七つ道具を背に負い、五条の橋にと急がれる。
二、甚二郎兵衞は、手盥持って、釣瓶で水を汲んで、手水使うて、神さん拝んで、シャンシャン。
梶本宗太郎が、20代の時に、山沢ひさから聞いたものである。
 教祖伝逸話篇192「トンビトート」。
 明治19年頃、梶本宗太郎が、7つ頃の話。教祖が、蜜柑を下さった。蜜柑の一袋の筋を取って、背中の方から指を入れて、「トンビトート、カラスカーカー」と、仰っしゃって、「指を出しや」と、仰せられ、指を出すと、その上へ載せて下さる。それを、喜んで頂いた。又、蜜柑の袋をもろうて、こっちも真似して、指にさして、教祖のところへヒヨーッと持って行くと、教祖は、それを召し上がって下さった。
 教祖伝逸話篇193「早よう一人で」。
 これは、梶本宗太郎の思い出話である。教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同志遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ」とでも言うたのであろう。3遍も4遍も行ったように思う。それでも、「今、やったやないか」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。これは、家内の母、山沢ひさに聞くと、そうである。櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。私は、曽孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、「早よう、一人で来るようになったらなあ」と、仰せ下された、という。私の弟の島村国治郎が生まれた時には、「色の白い、綺麗な子やなあ」と、言うて、抱いて下された、という。この話は、家の母のウノにも、山沢の母にも、よく聞いた。吉川(註、吉川万次郎)と私と2人、同時に教祖の背中に負うてもろうた事がある。そして、東の門長屋の所まで、藤倉草履(註、表を藺で編んだ草履)みたいなものをはいて、おいで下された事がある。教祖のお声は、やさしい声やった。お姿は、スラリとしたお姿やった。お顔は面長で、おまささんは、一寸円顔やが、口もとや顎は、そのままや。お身体付きは、おまささんは、頑丈な方やったが、教祖は、やさしい方やった。御腰は、曲っていなかった。

【梶本(島村)国治郎(かじもと くにじろう)履歴】
 明治19年、櫟本村で生まれる。梶本松治郎、うのの二男。初代真柱の甥に当る。
 昭和35年、出直し(75歳)。
 明治19年、櫟本村で生まれる。梶本松治郎、うのの二男。初代真柱の甥に当る。
 明治43年、島村菊太郎(高知教会初代)の養子となる。
 明治44年、高知の二代会長に就任。
 昭和35年、出直し(享年75歳)。

【梶本楢治郎】
 181「教祖の茶碗」。
 教祖のお使いになった茶碗の中には、欠けたのを接いだのがあった。私は、茶碗を見た。模様ものの普通の茶碗に、錦手の瀬戸物で接いであった。これは、本部の宝や。これを見たら、後の者は贅沢出来ん。お皿でも、教祖のお使いになったものの中には、接いだものがあった、と。これは、梶本楢治郎の懐旧談である。




(私論.私見)