【梶本宗太郎逸話】 |
教祖伝逸話篇113「子守歌」、192「トンビトート」、193「早よう一人で」。
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教祖伝逸話篇113「子守歌」。
教祖は、時々次のような子守歌をお歌いになっていた、という。
一、弁慶は、有馬の国で育てられ、三つの上は四つ五つ、七つ道具を背に負い、五条の橋にと急がれる。
二、甚二郎兵衞は、手盥持って、釣瓶で水を汲んで、手水使うて、神さん拝んで、シャンシャン。
梶本宗太郎が、20代の時に、山沢ひさから聞いたものである。 |
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教祖伝逸話篇192「トンビトート」。
明治19年頃、梶本宗太郎が、7つ頃の話。教祖が、蜜柑を下さった。蜜柑の一袋の筋を取って、背中の方から指を入れて、「トンビトート、カラスカーカー」と、仰っしゃって、「指を出しや」と、仰せられ、指を出すと、その上へ載せて下さる。それを、喜んで頂いた。又、蜜柑の袋をもろうて、こっちも真似して、指にさして、教祖のところへヒヨーッと持って行くと、教祖は、それを召し上がって下さった。 |
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教祖伝逸話篇193「早よう一人で」。
これは、梶本宗太郎の思い出話である。教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同志遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ」とでも言うたのであろう。3遍も4遍も行ったように思う。それでも、「今、やったやないか」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。これは、家内の母、山沢ひさに聞くと、そうである。櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。私は、曽孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、「早よう、一人で来るようになったらなあ」と、仰せ下された、という。私の弟の島村国治郎が生まれた時には、「色の白い、綺麗な子やなあ」と、言うて、抱いて下された、という。この話は、家の母のウノにも、山沢の母にも、よく聞いた。吉川(註、吉川万次郎)と私と2人、同時に教祖の背中に負うてもろうた事がある。そして、東の門長屋の所まで、藤倉草履(註、表を藺で編んだ草履)みたいなものをはいて、おいで下された事がある。教祖のお声は、やさしい声やった。お姿は、スラリとしたお姿やった。お顔は面長で、おまささんは、一寸円顔やが、口もとや顎は、そのままや。お身体付きは、おまささんは、頑丈な方やったが、教祖は、やさしい方やった。御腰は、曲っていなかった。 |
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