【梶本(山澤)逸話】 |
教祖伝逸話篇110「魂は生き通し」、124「鉋屑の紐」、126「講社のめどに」、150「柿」、157「ええ手やなあ」、168「船遊び」、169「よう似合うやろな」。
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教祖伝逸話篇110「魂は生き通し」。
教祖は、参拝人のない時は、お居間に一人でおいでになるのが常であった。そんな時は、よく、反故の紙の皺を伸ばしたり、御供を入れる袋を折ったりなされていた。お側の者が、「お一人で、お寂しゅうございましょう」と、申し上げると、教祖は、「こかんや秀司が来てくれるから、少しも寂しいことはないで」と、仰せられるのであった。又、教祖がお居間に一人でおいでになるのに、時々、誰かとお話しになっているようなお声が、聞こえることもあった。又、ある夜遅く、お側に仕える梶本ひさに、「秀司やこかんが、遠方から帰って来たので、こんなに足がねまった。一つ、揉んでんか」と、仰せになったこともある。又、ある時、味醂を召し上がっていたが、三杯お口にされて、「正善、玉姫も、一しょに飲んでいるのや」と、仰せられたこともあった。
註 梶本ひさは、明治二十年結婚して、山沢ひさとなる。
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教祖伝逸話篇124「鉋屑の紐」。
明治十六年、御休息所普請中のこと。梶本ひさは、夜々に教祖から裁縫を教えて頂いていた。ある夜、一寸角程の小布を縫い合わせて、袋を作ることをお教え頂いて、袋が出来たが、さて、この袋に通す紐がない。「どうしようか」と思っていると、教祖は、「おひさや、あの鉋屑を取っておいで」と仰せられたので、その鉋屑を拾うて来ると、教祖は、早速、器用に、それを三つ組の紐に編んで、袋の口にお通し下された。教祖は、こういう巾着を持って、櫟本の梶本の家へ、チョイチョイお越しになった。その度に、家の子にも、近所の子にもやるように、お菓子を袋に入れて持って来て下さる。その巾着の端布には、赤いのも、黄色いのもあった。そして、その紐は鉋屑で、それも、三つ組もあり、スーッと紙のように薄く削った鉋屑を、コヨリにして紐にしたものもあった。
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教祖伝逸話篇126「講社のめどに」。
明治十六年十一月(陰暦十月)御休息所が落成し、教祖は、十一月二十五日(陰暦十月二十六日)の真夜中にお移り下されたので、梅谷四郎兵衞は、道具も片付け、明日は大阪へかえろうと思って、二十六日夜、小二階で床についた。すると、仲田儀三郎が、緋縮緬の半襦袢を三宝に載せて、「この間中は御苦労であった。教祖は、『これを、明心組の講社のめどに』下さる、とのお言葉であるから、有難く頂戴するように」とのことである。すると間もなく、山本利三郎が、赤衣を恭々しく捧げて、「『これは着古しやけれど、子供等の着物にでも、仕立て直してやってくれ』との教祖のお言葉である。」と、唐縮緬の単衣を差し出した。重ね重ねの面目に、「結構な事じゃ、ああ忝ない」と、手を出して頂戴しようとしたところで、目が覚めた。それは夢であった。こうなると目が冴えて、再び眠ることが出来ない。とかくするうちに夜も明けた。身仕度をし、朝食も頂いて休憩していると、仲田が赤衣を捧げてやって来た。「『これは、明心組の講社のめどに』下さる、との教祖のお言葉である」と、昨夜の夢をそのままに告げた。はて、不思議な事じゃと思いながら、有難く頂戴した。すると、今度は、山本が入って来た。そして、これも昨夜の夢と符節を合わす如く、「『着古しじゃけれど、子供にやってくれ』と、教祖が仰せ下された」と、赤地唐縮緬の単衣を眼前に置いた。それで、有難く頂戴すると、次は、梶本ひさが、上が赤で下が白の五升の重ね餅を持って来て、「教祖が、『子供達に上げてくれ』と、仰せられます」と、伝えた。四郎兵衞は、教祖の重ね重ねの親心を、心の奥底深く感銘すると共に、昨夜の夢と思い合わせて、全く不思議な親神様のお働きに、いつまでも忘れられない強い感激を覚えた。
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教祖伝逸話篇150「柿」。
明治十七年十月、その頃、毎月のようにおぢば帰りをさせて頂いていた土佐卯之助は、三十三名の団参を作って、二十三日に出発、二十七日におぢばへ到着した。一同が、教祖にお目通りさせて頂いて退出しようとした時、教祖は、「一寸お待ち」と、土佐をお呼び止めになった。そして、「おひさ、柿持っておいで」と、孫娘の梶本ひさにお言い付けになった。それで、ひさは、大きな篭に、赤々と熟した柿を、沢山運んで来た。すると、教祖は、その一つを取ってみずから、皮をおむきになり、二つに割って、「さあ、お上がり」と、その半分を土佐に下され、御自身は、もう一つの半分を、おいしそうに召し上がられた。やがて、土佐も、頂いた柿を食べはじめた。教祖は、満足げにその様子を見ておられたが、土佐が食べ終るより早く、次の柿をおむきになって、「さあ、もう一つお上がり。私も頂くで」と、仰せになって、又、半分を下され、もう一つの半分を、御自分がお召し上がりになった。こうして、次々と柿を下されたが、土佐は、御自分もお上がり下さるのは、遠慮させまいとの親心から、と思うと、胸に迫るものがあった。教祖は、つづいて、「遠慮なくお上がり」と、仰せ下されたが、土佐は、「私は、もう十分に頂きました。宿では、信者が待っておりますから、これを頂いて行って、皆に分けてやります」と言って、自分が最後に頂いた一切れを、押し頂いて、懐紙に包もうとすると、教祖は、ひさに目くばせなされたので、ひさは、土佐の両の掌に一杯、両の袂にも一杯、柿を入れた。こうして、重たい程の柿を頂戴したのであった。
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教祖伝逸話篇157「ええ手やなあ」。
教祖が、お疲れの時に、梶本ひさが、「按摩をさして頂きましょう」と申し上げると、「揉んでおくれ」と仰せられる。そこで、按摩させてもらうと、後で、ひさの手を取って、「この手は、ええ手やなあ」と言うて、ひさの手を撫でて下された。又、教祖は、よく、「親に孝行は、銭金要らん。とかく、按摩で堪能させ」と歌うように仰せられた、という。
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教祖伝逸話篇168「船遊び」。
教祖は、ある時、梶本ひさ(註、後の山沢ひさ)に向かって、「一度船遊びしてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ」と、仰せられた。海の外までも親神様の思召しの弘まる日を、見抜き見通されてのお言葉と伝えられる。
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教祖伝逸話篇169「よう似合うやろな」。
教祖は、お年を召されてから、お側に仕えていた梶本ひさに、「何なりと、ほしいものがあったら、そう言いや」又、「何か買いたいものがあったら、これ、お祖母さんのに買いました。と言うて、持って来るねで」と、仰せになった。ある時のこと、行商の反物屋から、派手な反物をお買い求めになり、「これ、私によう似合うやろな」と、言いながら、御自分の肩先におかけになって、ニッコリ遊ばされ、それから、「これは、おまえのに取ってお置き」と、仰せになって、ひさにお与えになった。
又、ある時のこと。長崎から来たというベッコウ細工屋から、小さな珊瑚珠のカンザシをお買い求めになり、やはり、御自分のお髪に一度おさしになってから、「これ、ええやろうな」と、仰せられて後、 「さあ、これを、おまえに上げよう」と、仰せになって、ひさに下された。このように、教祖は、一旦御自分の持物としてお買い求めになり、然る後、人々に下さることが間々あった。それは、人々に気がねさせないよう、という御配慮からと拝察されるが、人々は、教祖のお心のこもった頂きものに、一入感激の思いを深くするのであった。
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