井筒梅治郎

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「井筒梅治郎」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【井筒梅治郎(いづつ うめじろう)履歴】
 1838(天保9)年4.28日、摂津国西成郡九条村本田(現・大阪市西区本田)生まれ。
 1896(明治29)年12.31日、出直し(享年59歳)。

 1838(天保9)年4.28日、摂津国西成郡九条村本田(現・大阪市西区本田)生まれ。
 1879(明治12)年、長女たねの「百いぼ」を種市(前田藤助)のお助けでご守護頂き入信。
 同年、隣家の主・中川文吉の突然の失明を種市の依頼で祈願、ご守護頂く。翌年初参拝。
 かんろ台石出しのひのきしんに参加し、真明講(芦津の前身)の講名を拝戴。
 明治20年6月、神水(こうずい)のさづけ。
 明治22年、芦津教会設立、初代会長。
 芦津分教会(現大教会)初代会長。たね(3代会長)。たねの養子・松村五三郎(2代会長)
 1896(明治29)年12.31日、出直し(享年59歳)。

【井筒梅治郎逸話】
 教祖伝逸話篇71「あの雨の中を」、76「牡丹の花盛り」、82「ヨイショ」、165「高う買うて」。
 教祖伝逸話篇71「あの雨の中を」。
 明治十三年四月十四日(陰暦三月五日)、井筒梅治郎夫婦は娘のたねを伴って、初めておぢばへ帰らせて頂いた。大阪を出発したのは、その前日の朝で、豪雨の中を出発したが、おひる頃カラリと晴れ、途中一泊して、到着したのは、その日の午後四時頃であった。早速、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、「あの雨の中を、よう来なさった」と、仰せられ、たねの頭を撫でて下さった。更に、教祖は、「おまえさん方は、大阪から来なさったか。珍しい神様のお引き寄せで、大阪へ大木の根を下ろして下されるのや。子供の身上は案じることはない」と、仰せになって、たねの身体の少し癒え残っていたところに、お紙を貼って下さった。たねが、間もなく全快の御守護を頂いたのは、言うまでもない。梅治郎の信仰は、この、教祖にお目にかかった感激とふしぎなたすけから、激しく燃え上がり、ただ一条に、にをいがけ・おたすけへと進んで行った。
 教祖伝逸話篇76「牡丹の花盛り」
 井筒たねが父から聞いた話。井筒梅治郎は、教祖が、いつも台の上に、ジッとお坐りになっているので、御退屈ではあろうまいか、とお察し申し、どこかへ御案内しようと思って、「さぞ御退屈でございましょう。」 と、申し上げると、教祖は、「ここへ、一寸顔をつけてごらん」と、仰せになって、御自分の片袖を差し出された。それで、梅治郎がその袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りであった。ちょうど、それは牡丹の花の季節であったので、梅治郎は、教祖は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と思って、恐れ入った。
 教祖伝逸話篇82「ヨイショ」
 明治十四年、おぢばの東、滝本の村から、かんろだいの石出しが行われた。この石出しは、山から山の麓までは、真明組の井筒梅治郎、山の麓からお屋敷までは、明心組の梅谷四郎兵衞が、御命を頂いていたというが、その時、ちょうど、お屋敷に滞在中の兵庫真明組の上田藤吉以下十数名の一行は、布留からお屋敷までの石引きに参加させて頂いた。その石は、九つの車に載せられていたが、その一つが、お屋敷の門まで来た時に、動かなくなってしまった。が、ちょうどその時、教祖が、お居間からお出ましになって、「ヨイショ」と、お声をおかけ下さると、皆も一気に押して、ツーッと入ってしまった。一同は、その時の教祖の神々しくも勇ましいお姿に、心から感激した、という。
 教祖伝逸話篇165「高う買うて」。
 明治十八年夏、真明組で、お話に感銘して入信した宮田善蔵は、その後いくばくもなく、今川聖次郎の案内でおぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。当時、善蔵は三十一才、大阪船場の塩町通で足袋商を営んでいた。教祖は、結構なお言葉を諄々とお聞かせ下された。が、入信早々ではあり、身上にふしぎなたすけをお見せ頂いた、という訳でもない善蔵は、初めは、世間話でも聞くような調子で、キセルを手にして煙草を吸いながら聞いていたが、いつの間にやらキセルを置き、畳に手を滑らせ、気のついた時には平伏していた。が、この時賜わったお言葉の中で、「商売人はなあ、高う買うて、安う売るのやで」というお言葉だけが、耳に残った。善蔵には、その意味合いが、一寸も分からなかった。そして思った。「そんな事をしたら、飯の喰いはぐれやないか。百姓の事は御存知でも、商売のことは一向お分かりでない」と思いながら、家路をたどった。

 近所に住む今川とも分かれ、家の敷居を跨ぐや否や、激しい上げ下だしとなって来た。早速、医者を呼んで手当てをしたが効能はない。そこで、今川の連絡で、真明組講元の井筒梅治郎に来てもらった。井筒は宮田の枕もとへ行って、「おぢばへ初めて帰って、何か不足したのではないか」と、問うた。それで宮田は、教祖のお言葉の意味が納得できない由を告げた。すると井筒は、「神様の仰っしゃるのは、他よりも高う仕入れて問屋を喜ばせ、安う売って顧客を喜ばせ、自分は薄口銭に満足して通るのが商売の道や、と、諭されたのや」と説き諭した。善蔵は、これを聞いて初めて成る程と得心した。と共に、たとい暫くの間でも心に不足したことを深くお詫びした。そうするうちに上げ下だしは、いつの間にやら止まってしまい、不思議な助けを頂いた。

【井筒たね(いづつ たね)履歴】
 明治12年、生れ。井筒梅次郎、とよの長女。
 昭和8年、出直し(享年55歳)。
 明治29年、松村五三郎(二代会長)を養子に迎える。大正8年、二代会長の出直しにより三代会長に就任。婦人会本部理事などを務める。




(私論.私見)