板倉槌三郎先生について

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「板倉槌三郎」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【板倉槌三郎(いたくら つちさぶろう)履歴】
 1860(万延元)年2.18日、河内国高安郡恩智村(現・大阪府八尾市恩智)生まれ。
 1937(昭和12)年2.27日、出直し(享年78歳)。

 1876(明治9)年、17歳の時、兄の病をきっかけに教理に感銘して入信。以来、足繁くお屋敷へ通う。
 大正普請、昭和普請をはじめ、本部の重い任務を歴任する。
 中河分教会(現大教会)2代会長・平安支教会(現大教会)2代会長・水口大教会2代会長。
 1937(昭和12)年2.27日、出直し(享年78歳)。

【板倉槌三郎逸話】
 教祖伝逸話篇56「ゆうべは御苦労やった」。
 教祖伝逸話篇56「ゆうべは御苦労やった」
 本部神殿で、当番を勤めながら井筒貞彦が、板倉槌三郎に尋ねた。「先生は、何遍も警察などに御苦労なされて、その中、ようまあ、信仰をお続けになりましたね。」 と、言うと、板倉槌三郎は、「わしは、お屋敷へ三遍目に帰って来た時、三人の巡査が来よって、丹波市分署の豚箱へ入れられた。あの時、他の人と一晩中、お道を離れようか、と相談したが、しかし、もう一回教祖にお会いしてからにしようと思って、お屋敷へもどって来た。すると、教祖が、『ゆうべは、御苦労やったなあ』と、しみじみと、且つニコヤカに仰せ下された。わしは、その御一言で、これからはもう、かえって、何遍でも苦労しよう、という気になってしもうた」と、答えた。これは、神殿が、未だ北礼拝場だけだった昭和6、7年頃、井筒が、板倉槌三郎から聞いた話である。

【板倉槌三郎本部員講話】
 教祖時代の信仰に生きる板倉槌三郎本部員は、それを次のように指摘した。これは四十年祭後のことであるが、教祖時代の信仰からの比較であるから、その主旨は当然この時代に大しても適用性を持つものと考えられる。
 お道は皆一戸の信徒もないところから四方八方に流れて、年限経って教会を願うようになったのである。 教会を頂くと所長様や会長様である。自分の力でなったのやない。神様のお力、御教祖様のお力でならしてもろうたんだ。世界でも、〝神官社壇の鼠〟ということがある。つまり氏子から上がったお金や品物を下げて自分が食って通るからであるが、天理教の宣教所長が信徒から上がったものを食って、社壇の鼠になっているようではどうもならん。所長が社壇の鼠になって神様をダシにおまんま食べているようでは神様のために働いているのやない。自分のために働いているのじゃ。そんなものは何の役にも立たない。飯食って、くそたれて、つまり、人糞製造機じゃ。どうも人間というものは欲深い。少しよくなると増長する。その慢心が邪魔になる。この慢心を意見してやろうと、神様はおたすけがあがらないようになさる。

 今の教師は信徒が十名二十名できたら講元様、教会こしらえて所長様、先生然として上から下を向いている。御教祖存命中とは全然精神が違う。昔の真実と今の真実は比較にならん。その頃は下から上へ上っていったが、今は上から下を向きたがる。今日の道は、いささか道に働いて、苦労の道をちょっと通って、早く大先生になりたい、何でも早く上へ上がりたいと、水に浮いている浮草のように根が定まらぬから落ちるより他に道がない。どうでも自分の真実の心の種を蒔きおろすことが肝要や。そうすればおたすけもあがる。御利益が現れる。それで片っ端から人々は信徒になる。改心しよる。牡丹餅持ってこい、銭持ってこい、酒もってこいと言わいでも、一人で寄ってくる。今日はどうも名称に丸もたれや。苦労を嫌い、不自由を嫌うて、所長然、会長然、先生然と構えて、替盆で飯食わせにゃ不足を言う。種蒔くことを知らずに、苦労せずに、徳とることばかり考えている。それで親神様の御守護がない。そんなものに御守護があったら、増長して死んでしまわにゃならん。




(私論.私見)