飯降よしゑ(よしえ)(後の永尾よしゑ)

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「飯降よしゑ(よしえ)(後の永尾よしゑ)」を確認しておく。〔参考文献〕植田英蔵「新版飯降伊蔵伝」(善本杜、平成7年)。天理教道友社編「天の定規一本席・飯降伊蔵の生涯」(平成9年)。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【飯降よしゑ(よしえ)履歴】
 1866(慶応2)年8.17日、大和国添上郡轢本村高品(現、天理市轢本町高品)に、父伊蔵、母おさとの長女として生まれた。 
 1936(昭和11)年4.29日、出直した(享年71歳)。

 1866(慶応2)年8.17日、大和国添上郡轢本村高品(現、天理市轢本町高品)に、父伊蔵、母おさとの長女として生まれた。教祖に命名して頂く。父伊蔵は念願の子どもを授けて頂いたお礼に教阻(おやさま)の許へ伺うと、教祖は、「何でもよきことは『よしよし』というのやから」とおおせられ、よしゑと名付けられた。よしゑは母に背負われ、手を引かれながら教祖のもとへ連れられて育った。
 明治10年、よしゑが12歳の時、右手の人差し指が痛むので母とともに教祖に伺うと、教祖は、「三味線を持て」と仰せになり、旦上皇も素直にお受けすると指の痛みは嘘のように消えてしまった。父の伊蔵が、「城下町の郡山へでも習いに行かせましょうか」と申し上げると、教祖は、「習いにやるのでもない、この屋敷から教え出すものばかりや」と仰せになり、よしゑは明治10年(1877)から3年間教祖の許へ習いに通った。
 明治13年9月30日(陰暦8月26日)初めて鳴物をそろえてのおつとめがおこなわれた。この時よしゑは三味線をつとめた。
 明治15年、教祖の仰せで家族とともにお屋敷へ住み込む。
 明治16年の雨乞づとめには、教祖より頂いた赤衣を着て三味線をつとめる。
 明治20年、教祖の身上がせまり一同の者が決死のおつとめにかかった時も、三味線をつとめた。
 明治20年4月、よしゑは園原村の上田楢治郎と結婚する。「おさしづ」で、「行くのでも無ければやるのでもないで。一寸理を繋ぎに行くのやで。行ってもじきに帰るのやで」と仰せられ、お言葉通り永尾家を立てることになった。
 小さい頃から教祖の側で仕込まれたよしゑは、衣食住においても物の大切さをいつも人に説き、自分もかたく守り通した。尊いつとめ人衆の理を頂き、本部のおつとめには生涯鳴物をつとめた。
 1936(昭和11)年4.29日、出直した(享年71歳)。

【飯降よしゑ(よしえ)逸話】
 教祖伝逸話篇53「この屋敷から」、54「心で弾け」、74「神の理を立てる」、109「ようし、ようし」、111「朝、起こされるのと」、112「一に愛想」、188「 屋敷の常詰」。
 教祖伝逸話篇53「この屋敷から」。
 明治十年、飯降よしゑ十二才の時、ある日、指先が痛んで仕方がないので、教祖にお伺いに上がったところ、「三味線を持て」と、仰せになった。それで、早速その心を定めたが、当時櫟本の高品には、三味線を教えてくれる所はない。「郡山へでも、習いに行きましょうか」 と、お伺いすると、教祖は、「習いにやるのでもなければ、教えに来てもらうのでもないで。この屋敷から教え出すものばかりや。世界から教えてもらうものは、何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや」と、仰せられ、御自身で手を取って、直き直きお教え下されたのが、おつとめの三味線である。

 註 飯降よしゑは、明治二十一年結婚して、永尾よしゑとなる。

 教祖伝逸話篇54「心で弾け」。
 飯降よしゑは、明治十年十二才の時から三年間、教祖から直き直き三味線をお教え頂いたが、その間いろいろと心がけをお仕込み頂いた。教祖は、「どうでも、道具は揃えにゃあかんで」、「稽古出来てなければ、道具の前に坐って、心で弾け。その心を受け取る」、「よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ッと鳴るやろが。そうして、稽古するのや」と。
 教祖伝逸話篇74「神の理を立てる」。
 明治十三年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急き込み下された。警察の見張、干渉の激しい時であったから、人々が躊躇していると、教祖は、「人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さあ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、二つ一つの返答をせよ」と、刻限を以て、厳しくお急き込み下された。そこで、皆々相談の上、「心を定めておつとめをさしてもらおう」ということになった。

 ところが、おつとめの手は、めいめいに稽古も出来ていたが、かぐらづとめの人衆は、未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、これもお決め頂いて、勤めさせて頂くことになった。又、女鳴物は、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト、琴は辻とめぎくの三人が、教祖からお定め頂いていたが、男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄かのことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手には出来ないという上から、教祖に、この旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は、「さあ/\鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神がゆるす。皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け」という意味のお言葉を下されたので、皆、安心して、勇んで勤めた。山沢為造は、十二下りのてをどりに出させて頂いた。場所は、つとめ場所の北の上段の間の、南につづく八畳の間であった。
 教祖伝逸話篇109「ようし、ようし」。
 ある時、飯降よしゑ(註、後の永尾よしゑ)が、「ちよとはなし、と、よろづよの終りに、何んで、ようし、ようしと言うのですか」と、伺うと、教祖は、「ちよとはなし、と、よろづよの仕舞に、ようし、ようしと言うが、これは、どうでも言わなならん。ようし、ようしに、悪い事はないやろ」と、お聞かせ下された。
 教祖伝逸話篇111「朝、起こされるのと」。
 教祖が、飯降よしゑにお聞かせ下されたお話に、「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで」と。
 教祖伝逸話篇112「一に愛想」。
 教祖が、ある日、飯降よしゑにお聞かせ下された。「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで」。又、「人間の反故を、作らんようにしておくれ」、「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」、「すたりもの身につくで。いやしいのと違う」と。
 教祖伝逸話篇188「屋敷の常詰」。
 明治十九年八月二十五日(陰暦七月二十六日)の昼のこと、奈良警察署の署長と名乗る、背の低いズングリ太った男が、お屋敷へ訪ねて来た。そして、教祖にお目にかかって、かえって行った。その夜、お屋敷の門を、破れんばかりにたたく者があるので、飯降よしゑが、「どなたか」と、尋ねると、「昼来た奈良署長やが、一寸門を開けてくれ」と言うので、不審に思いながらも、戸を開けると、五、六人の壮漢が、なだれ込んで来て、「今夜は、この屋敷を黒焦げにしてやる」と、口々に叫びながら、台所の方へ乱入した。よしゑは驚いて、直ぐ開き戸の中へ逃げ込んで、中から栓をさした。この開き戸からは、直ぐ教祖のお居間へ通じるようになっていたのである。彼等は、台所の火鉢を投げ付け、灰が座敷中に立ちこめた。茶碗や皿も、木葉微塵に打ち砕かれた。二階で会議をしていた取次の人々は、階下でのあわただしい足音、喚き叫ぶ声、器具の壊れる音を聞いて、梯子段を走って下りた。そして、暴徒を相手に、命がけで防ぎたたかった。折しも、ちょうどお日待ちで、村人達が、近所の家に集会していたので、この騒ぎを聞き付け、大勢駆け付けて来た。そして、皆んな寄って暴徒を組み伏せ、警察へ通知した。

 平野楢蔵は、六人の暴徒を、旅宿「豆腐屋」へ連れて行き、懇々と説諭の上、かえしてやった。この日、教祖は、平野に、「この者の度胸を見せたのやで。明日から、屋敷の常詰にする」との有難いお言葉を下された。

 註 お日待ち 前夜から集まって、潔斉して翌朝の日の出を拝むこと。それから転じて、農村などで、田植や収穫の後などに、村の者が集まって会食し娯楽すること。





(私論.私見)