茨木基敬先生について

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【茨木基敬】
 「茨木基敬先生について」。
 明治十五年十一月入信。大阪市土佐堀の油屋であった。追々信徒も増加するにつれ一時中途で神代復古などと教の理にないこととなえて皆を困らしたことがあった。明治二十四年北分教会を創設、本席様の御晩年にその部下教会が百三十ヶ所もあるのだから、準員にして頂きたいとお願いされたがお許しがなく、明治四十年本席様がおかくれになって本教が一派独立してから、明治四十二年準員を拝命し、翌四十四年十月廿六日北禮拝殿起工式の日に梶本宗太郎、山田伊八郎、井筒五三郎、畑林為七さんと共に本部員に御任命頂いたが、その后別席にも出ず、間もなく心が狂って、自ら神様になってしまい、天啓があると称し、鳳凰紋の入った装束をつけ、本部へ乗込んで本席の座に座ると言い出した。それを信用して部下教会の人達の中には大分経済的に支援した者もある。そこで本部では茨木会長を免職し、北大教会の神様を伊勢町に奉還し山中彦七さんを後任会長に任命した。次いで生野分教会は分離して本部直轄となり、その后更に山中会長のあとをうけた村田慶藏さんの時殆んどその直属部下を分離して本部直轄としバラバラにしてしまった。
 茨木さんがそんなになる少し前、当番していて掛の青年等に、世界並の八卦見のような話ばかりするので、皆も変だなと思い乍らも気にとめずにいる内、長らく休んで出て来ないと思ったら、右の始末であった。高慢が強すぎてのぼってしまったのであろう。

 「清水由松傳稿本」122~123ページより





(私論.私見)