教祖伝逸話篇「199、一つやで。起こせは講社を起せの意味や」。
明治15年、兵神真明講周旋方の本田せいは二度目のおぢば帰りをした。その時、持病の脹満で又お腹が大きくなりかけていた。それをごらんになった教祖は、『おせいさん、おせいさん、あんた、そのお腹かかえているのは、辛かろうな。けど、この世のほこりやないで。前々生から負うてるで。神様が、きっと救けて下さるで。心変えなさんなや。なんでもと思うて、この紐放しなさんなや。あんた、前々生のことは、何んにも知らんのやから、ゆるして下さいとお願いして、神様にお礼申していたらよいのやで』とお言葉を下された。
それから、せいは、三代積み重ねたほこりを思うと一日としてジッとしていられなかった。そのお腹をかかえて、毎日おたすけに廻わった。せいは、どんな寒中でも、水行をしてからおたすけにやらせて頂いた。だんだん人が集まるようになると、神酒徳利に水を入れて神前に供え、これによって又不思議なたすけを続々とお見せ頂いた。
こうして、数年間、熱心におたすけに東奔西走していたが、明治19年秋、49才の時、又々脹満が悪化して一命も危ないという容態になって来た。そして、苦しいので、起こせとか、寝させとか言いつづけた。それで、その頃の講元、端田久吉がおぢばへ帰り、仲田儀三郎の取次ぎで教祖にお目にかかり、事の由を申し上げると、教祖は、『寝させ起こせは聞き違いやで。講社から起こせということやで。死ぬのやない。早よう去んで、しっかりとおつとめしなされ』と仰せ下された。そこで、端田等は急いで神戸へもどり夜昼六座、三日三夜のお願い勤めをした。が三日目が来ても効しは見えない。そこで更に三日三夜のお願い勤めをしたがますます悪くなり、六日目からは歯を食いしばってしまって、28日間死人同様寝通してしまった。その間毎日、お神水を頂かせ、金米糖の御供三粒を行平で炊いて、竹の管で日に三度ずつ頂かせていた。医者に頼んでも、今度は死ぬと言って診に来てもくれない。然るに、その28日間、毎日々々、小便が出て出て仕方がない。日に二十数度も出た。こうして、28日目の朝、妹の灘谷すゑが、着物を着替えさせようとすると、あの大きかった太鼓腹がすっかり引っ込んでいた。余りの事に、すゑは、エッと驚きの声をあげた。その声で、せいは初めて目を開いて、あたりを見廻わした。そこで、すゑが、『おばん聞こえるか』と言うと、せいは、『勿体ない、勿体ない』と初めてものを言った。その日、お粥の薄いのを炊いて食べさせると、二口食べて、『ああ、おいしいよ。勿体ないよ』と言い、次で梅干で二杯食べ、次にはトロロも食べて、日一日と力づいて来た。が、赤ん坊と同じで、すっかり出流れで、物忘れして仕方がない。
そこで、約一ヵ月後、周旋方の片岡吉五郎が代参でおぢばへ帰って、教祖にこのことを申し上げると、教祖は、『無理ない、無理ない。一つやで。これが、生きて出直しやで。未だ年は若い。一つやで。何も分からん。二つ三つにならな、ほんまの事分からんで』と仰せ下された。せいは、すっかり何も彼も忘れて、着物を縫うたら寸法が違う、三味線も弾けんという程であったが、二年、三年と経つうちに、だんだんものが分かり出し、四年目ぐらいから、元通りにして頂いた。こうして、49才から79才まで30年間、第二の人生をお与え頂き、なお一段と、たすけ一条に丹精させて頂いた。註 夜昼六座とは、坐り勤めとてをどり前半・後半の一座を、夜三度昼三度繰り返して勤めるのである。これを三日三夜というと、このお願い勤めに出させて頂く者は、三昼夜ほとんど不眠不休であった。 |
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