板倉槌三郎先生の十八才位の時、郡山で腹の腫物か何かを助けて頂いて入信されたが、又戻って生死の境に立つえらい目にあって、直にさんげして道一筋になられたと聞いている。いつも、「わしは別席もようせんし、こまこいことも何もできん。その代りむつかしいことや、生命がけの仕事ならわしや何時でもさしてもらう」というておられた。会議とか何か重要なことには出られ、留守でない限りは毎日真柱様や本席様の御機嫌伺いに出られ、その度毎にお初穂や珍しいものや御馳走さしあげられた。そして本席様の身上の時には、早速かけつけて肩ぬぎしてあんまされた。なかなか上手であった。たとへ自分が身上で苦しくとも押してつとめられた。本席様御最后の時も、咳が出て随分苦しいのに毎日介抱された。「えろう肩が凝ってづつないから、清水さんちょっともんで……」といわれるのでもましてもらったが、とてもとてもこりつめて私の手には負えなかった。まるで松の荒皮をもんでいるようなものであった。郡山詰所の会長宅では、荒くれの青年さんが四五人もかかって、かわりかわりあんました位であった。
本席様がおかくれなされた時には、ふんどし一つで身をもって湯棺なり納棺なりつとめられた。庭でも生駒石を持って来て、五萬円もかけて築き、富士山迠こしらえて、どんなにして本席様に満足してもらい喜んで頂こうかというようにつとめられた。見事な菊や朝顔の鉢植をつくっては、毎年真柱様や本席様へさしあげるばかりか、お二方お宅に菊の花壇を造ってお慰め申上げ、また詰所の会長宅にも菊花壇を作って御招待申上られた。この菊造りは盆栽上手の森清次さんが(禮童の父)、大抵丹精して作った。
神様は平野先生を「道のまないた」と仰言った。本席様は平野先生の心づくしを、とても喜んでおられた反面「何しよるか分らん」というような危惧もおもちになっていたように見受けられた。初代真柱様は又「平野みたいにあんな派手なことして天理に叶うのかのう。堅うやる方が良いのに……私も心配や。教祖の道はそんな道やない……」と時折仰言っていた。
平野先生は、そうしたことを耳にしても、「自分は悪い方へ無茶して来たんやから、今度は良い方へ無茶して一代果てで結構や」と笑い乍ら言っておられた。
本席様の御葬儀には、初代真柱様が斎主で、平野先生が副斎主でつとめられた。無学で一丁字も読めん平野先生が、あの長い志のびの祝詞を、若い者に二、三度よましてそれをジット聞いていて覚えこんでしまい、葬場では立派に読まれたのには皆な驚かされた。耳学(みみがく)の良い人で刻限やお指図でも、平野先生が一番よう覚えておられ、刻限の書きとりの抜けている所を「それはこうやった」と明瞭に指示されるのはいつものことのであった。
先生は又酒も飲まず煙草も喫われなかった。本部へ盆正月のお禮や大祭御禮をさして頂くことも先生が最初されて全部の直轄教会長がそれを見習うたのがしきたりとなっているのである。総べて思いきった「つくすはこぶ」先鞭は皆な郡山がつけたのであって、梅谷四郎兵衛先生は「大祭の御禮なんか、これ迠せなんだのに皆するようになったんかいなあ」と驚いたように言っておられた。
先生は本席様の御葬式がすんで、十日祭の日に急に出直された。明治四十年六月十七日のことであった。その時私も郡山の詰所へかけたら、二階で三尺帯しめた着流しのままで、ゴロンと横になったまま出直しておられた。本席さんの御葬儀に帰っている担任達に十時頃迠お仕込みしておられたが、その晩悪くなり、飯降政枝さんがかけつけてその様子を見るなり、家へとんで帰り「お願してやってくれ」と、狂人の様に仰言り、本席様の御霊にもお願されたがそのしるしがなかった。脳溢血であった。出直された時には廿八萬円程負債があって、その為詰所も売らねばならん事になり増田甚七さんが言うに言えん泣くに泣けん苦労をしたのである。結局二十萬円にまけさして、本部から一時御融通を願って支拂いをすまし、本部へは毎年一万円宛二十年間にお拂いすることにして治りがついた。そして教祖様四十年祭に本部への返済をすまし大教会の普請を完成し、五十年祭には抜群の働をされた。
先生の生涯は借金であれだけ豪勢な庭を作ったり普請したり本部へ尽したりされたようなものであった。先生も「借りた金は返す気はあらへん」と冗談にいうておられた。けれども断然それは自分の贅沢にされたのではなかった。上には尽し、難儀の人には恵み、どれだけ多くの人を助けておられるか分らん。なかなか常人の真似のできんことをされた。他所へゆかれても口にこそ出されなかったが、ふしんでもなかなかよく見える人であった。大胆で太っ腹でやり方が規模が大きく、頭も人並みすぐれてよかった。郡山の詰所に富士山の模型を作られてそれを背景にあの立派な庭を造られたが、ああいう設計にはまことに天稟の才をもっていられた。当時四天王の一人と言われたのも当然のことであろう。諸先生の印象を話せばきりがない。この中には大分抜けている人もあるかと思うが、これ位にして置こう。(終り)
「清水由松傳稿本」131~135pより
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