平野楢蔵&トラ

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.2.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【平野楢蔵(ひらの ならぞう)履歴】
 1846(弘化3)年9.3日、河内国高安郡恩智村(現・大阪府八尾市恩智)生まれ。
 1907(明治40)年6.17日、出直し(享年63歳)。

 1846(弘化3)年9.3日、河内国高安郡恩智村(現・大阪府八尾市恩智)生まれ。
 10歳で両親と死別し、長じて侠客の仲間に入り、「恩智樽」の異名をとる。
 1880(明治13)年、生家・森家より平野家(郡山洞泉寺町‐現・大和郡山市洞泉寺)の平野富蔵の養子となり、その娘とらの婿養子となる。
 侠客「恩智楢」として名を馳せていた。
 1884(明治17)年、幻覚(精神障害)に悩まされ、翌年姉婿・森清治郎より匂いをかけられる。神経病をたすけられ入信。
 1886(明治19)年、服部川で賭博をしている最中に発作を起こし人事不省となるが、お願いづとめで4時間後によみがえり、初参拝。以後、夫婦で熱心に布教に励む。明治20年のおつとめで地方をつとめる。
 天龍講(郡山大教会の前身)講元。
 明治21年12.11日、郡山分教会(現大教会)設立お許し。明治22年2.5日、地方庁認可。同4.16日、平野楢蔵が教会長拝命。同7.2日、開えん式。
 1907(明治40)年6.17日、出直し(享年63歳)。

【平野楢蔵逸話】
 稿本天理教教祖伝逸話篇188「屋敷の常詰」、189「夫婦の心」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇188「屋敷の常詰」。
 明治19年8月25日(陰暦7月26日)の昼のこと、奈良警察署の署長と名乗る、背の低いズングリ太った男が、お屋敷へ訪ねて来た。そして、教祖にお目にかかって、かえって行った。その夜、お屋敷の門を、破れんばかりにたたく者があるので、飯降よしゑが、「どなたか」と尋ねると、「昼来た奈良署長やが、一寸門を開けてくれ」と言うので、不審に思いながらも戸を開けると、五、六人の壮漢がなだれ込んで来て、「今夜は、この屋敷を黒焦げにしてやる」と、口々に叫びながら台所の方へ乱入した。よしゑは驚いて、直ぐ開き戸の中へ逃げ込んで、中から栓をさした。この開き戸からは、直ぐ教祖のお居間へ通じるようになっていたのである。彼らは台所の火鉢を投げ付け、灰が座敷中に立ちこめた。茶碗や皿も、木葉微塵に打ち砕かれた。二階で会議をしていた取次の人々は、階下でのあわただしい足音、喚き叫ぶ声、器具の壊れる音を聞いて、梯子段を走って下りた。そして、暴徒を相手に命がけで防ぎたたかった。折しも、ちょうどお日待ちで、村人達が近所の家に集会していたので、この騒ぎを聞き付け、大勢駈け付けて来た。そして、皆んな寄って暴徒を組み伏せ、警察へ通知した。平野楢蔵は、6人の暴徒を、旅宿「豆腐屋」へ連れて行き、懇々と説諭の上、かえしてやった。この日、教祖は、平野に、「この者は度胸を見せたのやで。明日から、屋敷の常詰にする」との有難いお言葉を下された。
 189「夫婦の心」。
 平野楢蔵が、明治19年夏、布教のため、家業を廃して谷底を通っている時に、夫婦とも心を定め、「教祖のことを思えば、我々、3日や5日食べずにいるとも、いとわぬ」と決心して、夏のことであったので、平野は、単衣1枚に浴衣1枚、妻のトラは、浴衣1枚ぎりになって、おたすけに廻わっていた。その頃、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、「この道は、夫婦の心が台や。夫婦の心の真実見定めた。いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実、見定めた。さあ、1年経てば、打ち分け場所を許す程に」と、お言葉を下された、という。

【平野楢蔵評伝】
 「平野楢蔵先生について」。
 板倉槌三郎先生の十八才位の時、郡山で腹の腫物か何かを助けて頂いて入信されたが、又戻って生死の境に立つえらい目にあって、直にさんげして道一筋になられたと聞いている。いつも、「わしは別席もようせんし、こまこいことも何もできん。その代りむつかしいことや、生命がけの仕事ならわしや何時でもさしてもらう」というておられた。会議とか何か重要なことには出られ、留守でない限りは毎日真柱様や本席様の御機嫌伺いに出られ、その度毎にお初穂や珍しいものや御馳走さしあげられた。そして本席様の身上の時には、早速かけつけて肩ぬぎしてあんまされた。なかなか上手であった。たとへ自分が身上で苦しくとも押してつとめられた。本席様御最后の時も、咳が出て随分苦しいのに毎日介抱された。「えろう肩が凝ってづつないから、清水さんちょっともんで……」といわれるのでもましてもらったが、とてもとてもこりつめて私の手には負えなかった。まるで松の荒皮をもんでいるようなものであった。郡山詰所の会長宅では、荒くれの青年さんが四五人もかかって、かわりかわりあんました位であった。

 本席様がおかくれなされた時には、ふんどし一つで身をもって湯棺なり納棺なりつとめられた。庭でも生駒石を持って来て、五萬円もかけて築き、富士山迠こしらえて、どんなにして本席様に満足してもらい喜んで頂こうかというようにつとめられた。見事な菊や朝顔の鉢植をつくっては、毎年真柱様や本席様へさしあげるばかりか、お二方お宅に菊の花壇を造ってお慰め申上げ、また詰所の会長宅にも菊花壇を作って御招待申上られた。この菊造りは盆栽上手の森清次さんが(禮童の父)、大抵丹精して作った。

 神様は平野先生を「道のまないた」と仰言った。本席様は平野先生の心づくしを、とても喜んでおられた反面「何しよるか分らん」というような危惧もおもちになっていたように見受けられた。初代真柱様は又「平野みたいにあんな派手なことして天理に叶うのかのう。堅うやる方が良いのに……私も心配や。教祖の道はそんな道やない……」と時折仰言っていた。
 平野先生は、そうしたことを耳にしても、「自分は悪い方へ無茶して来たんやから、今度は良い方へ無茶して一代果てで結構や」と笑い乍ら言っておられた。
 本席様の御葬儀には、初代真柱様が斎主で、平野先生が副斎主でつとめられた。無学で一丁字も読めん平野先生が、あの長い志のびの祝詞を、若い者に二、三度よましてそれをジット聞いていて覚えこんでしまい、葬場では立派に読まれたのには皆な驚かされた。耳学(みみがく)の良い人で刻限やお指図でも、平野先生が一番よう覚えておられ、刻限の書きとりの抜けている所を「それはこうやった」と明瞭に指示されるのはいつものことのであった。
 先生は又酒も飲まず煙草も喫われなかった。本部へ盆正月のお禮や大祭御禮をさして頂くことも先生が最初されて全部の直轄教会長がそれを見習うたのがしきたりとなっているのである。総べて思いきった「つくすはこぶ」先鞭は皆な郡山がつけたのであって、梅谷四郎兵衛先生は「大祭の御禮なんか、これ迠せなんだのに皆するようになったんかいなあ」と驚いたように言っておられた。

 先生は本席様の御葬式がすんで、十日祭の日に急に出直された。明治四十年六月十七日のことであった。その時私も郡山の詰所へかけたら、二階で三尺帯しめた着流しのままで、ゴロンと横になったまま出直しておられた。本席さんの御葬儀に帰っている担任達に十時頃迠お仕込みしておられたが、その晩悪くなり、飯降政枝さんがかけつけてその様子を見るなり、家へとんで帰り「お願してやってくれ」と、狂人の様に仰言り、本席様の御霊にもお願されたがそのしるしがなかった。脳溢血であった。出直された時には廿八萬円程負債があって、その為詰所も売らねばならん事になり増田甚七さんが言うに言えん泣くに泣けん苦労をしたのである。結局二十萬円にまけさして、本部から一時御融通を願って支拂いをすまし、本部へは毎年一万円宛二十年間にお拂いすることにして治りがついた。そして教祖様四十年祭に本部への返済をすまし大教会の普請を完成し、五十年祭には抜群の働をされた。
 先生の生涯は借金であれだけ豪勢な庭を作ったり普請したり本部へ尽したりされたようなものであった。先生も「借りた金は返す気はあらへん」と冗談にいうておられた。けれども断然それは自分の贅沢にされたのではなかった。上には尽し、難儀の人には恵み、どれだけ多くの人を助けておられるか分らん。なかなか常人の真似のできんことをされた。他所へゆかれても口にこそ出されなかったが、ふしんでもなかなかよく見える人であった。大胆で太っ腹でやり方が規模が大きく、頭も人並みすぐれてよかった。郡山の詰所に富士山の模型を作られてそれを背景にあの立派な庭を造られたが、ああいう設計にはまことに天稟の才をもっていられた。当時四天王の一人と言われたのも当然のことであろう。諸先生の印象を話せばきりがない。この中には大分抜けている人もあるかと思うが、これ位にして置こう。(終り)

 「清水由松傳稿本」131~135pより

【平野トラ(ひらの トラ)】
 安政元年、生れる。郡山洞泉寺町(大和郡山市)で貸し座敷「大和川楼」を営んだ平野富蔵、みすの長女。
 明治32年、出直し(46歳)。
 明治13年、森樽蔵を養嗣子に迎えて結婚。入信後は夫婦で布教に励む。郡山教会初代会長夫人。





(私論.私見)