1900年 | 明治33年 | 明治教典など編纂に着手する |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.11日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「明治教典など編纂に着手する」を確認しておく。「別章【明治33年お指図】」。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
1.4日、橋本清の演説を筆記した「天理教会内幕」を雑誌、その筋へ送りしにつき、神道本局より、1.6日までにその箇条ごとの答弁書を差し出すよう申し来る。1.6日、神道本局より、橋本清の「天理教会内幕」に関する質問あり。答弁の為、山中彦七、松村吉太郎両名が上京し、上申書を提出する。 |
1.4日、松村吉太郎、山中彦七の上京に当たってのお指図。
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「叉、時々いかなる事であるかと尋ねるが理である。ほり流してはいかん。時々どうであろうかと尋ねにゃなろまい。ほっておいては、こらどういうものや、なんとも云うて来んなあ、と云うようなもの。せいていたら、ほっとけん。ほっておいては後回しになるようなもの」。 |
【本席身上と上田ナライト引き寄せ問答】 | |||
3.21日、お指図。「本席様御身上御障りにつき、甘露台へ御本席様の身上速か快復次第神様へ御指図を戴き、何か運ばして貰ひますからとお願してさ(?)りますが、その事今日まで延行相成り右事情願い」。
押して、「ひかへと仰被下ますは奈良糸様の運び方の事であります哉願い」。
国々処々から帰り来る道の子供達に本席様御身上にてお授けを渡す理がかけて、幾万の者に何日も/\指おり待たすようなことがあっては、世界にどうひゞくか、あとへつづく為にひかえをつくる上から、多くの中つれもどりた者に早く運びをつけるよう、とせき込んでおられる。今日まで何度もそのことにつきお指図があっても、なかなかその段取りがならなかった。が、いよいよ上田家の者達にその心を聞かれたところ、明治三十三年四月三日には、上田家の者達の決心をはっきり申上げておられる。「家内一同よせて貰いたく、たとえどんな苦労あるとも結講であります」。このお返事により、大変御満足のお指図があり、いよいよ上田家はおぢばへお引き寄せられることになった。上田家の屋敷は、人間生みおろしの時の御一服場所として理がある、とのお言葉により屋敷はそのまま御本部の管理をうけることとなった。 ※1「ずつなみ(ずつない)」‥疲れる《奈良県方言》。術ない。シンドイ、エライと同じ。キヅツナイともいう。《南大和》~後略。(「天理教校論叢10号」120頁より)(「上田ナライト様について(その十一)①」参照) 「上田奈良糸様建物の願(上田たき身上障りから神様へ御願ひ申せし、そのお指図に奈良糸様しきりて引寄せるやう運べと仰せ被下しに付き、詰員一同相談の上本部長様へ申上げ、建物北の大裏の石屋の仕事場のそばあたりへ建てといふ事でありますから御許願)」。
と言うお指図があったが、その運びができなかった。 |
「教祖から順序の道、一つの理聞いて居る。裏一つの理、表一つの理、二つは一つの理」。 |
【上田ナライトが、家族もろ共におぢばに移り住む】 |
4月、教祖の葬式参列後、園原に戻り、おぢばと園原を行き来していた上田ナライトが、家内中に身上の患いに悩む者が 続き、母たき、妹ナラトメ、そして17歳の甥楢太郎とともにおぢばに移り住んだ。後の西手洗場のあたりで、当時は三島村の一番賑やかな通りの近くに御本部の借家があり、その中の六畳二間程の所に伏せ込んだ。その後もナライト様の建物を建てるようとのおさしづが度々為されている。 |
「残らず手繋いでこそ世上から見て鏡通りと云う」。 |
「なにほど発明利巧や知者や学者でも、いくものやない。ただ言葉で八方と云う。まだ鮮やか分からん。(中略) この道、何ももんかたないところから、天より天下りて始め掛けたる道、誰も分からんから天より天下りて始めた道、誰が掛かりたかて、そら分からん。(中略) そこで、どうしよう、こうしよう思うたて、一時になるものやない。なれど年限経って通り抜けにゃならん。どうで危ないところも、恐い事もあろう々、年限かさならにやできやせん」。 |
「それぞれ出て来る、連れ戻りたる。来いというて来るモノない。皆肥えや。どんな者もこんな者も年限の内に立ち寄る。金銭出して、やとわれん。(中略) そこで、ぼつぼつ掛かるが良い。この道具に使う、急いたところが行くものやない」。 |
7.10日、船場分教会類焼につき、一同御詫びの上、あと/\心得のため願(去る六月二十七日東手なる紙屑屋より出火類焼に付)。
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「この道と云うものは、どういうところから成り立った。遠いところ、高いところは何にも分からせん。一時にできた道やない。細い道からできたもの。そこで、もう遠からず、道見えるで。心しっかり持って皆なのきれいな心より働きする。(中略) 上さへさあと思うたら、これで結構と思うなれど、この道は容易ではいかん。容易では成り立たん。(中略) もう長い間やない。遠からず成って来る。(中略) 俺が許した、彼が許したと云う事はない。ひとり成って来る。(中略) どしどし出すが良い/\、隠し包みしてはならん。十分通り抜けたら、きくものある。で抜けたものある。あちら騒がし、こちら騒がし、こちら聞いたら悪い、叉あちら聞いたら良いと云うものもある。そこで何かの事も、こちらからあちらへ、耳の通り抜けたものに入れば、一時はやわざに火をうつすようなもの。(中略) さあさあ心おきのう出すが良い。まだまだ掛かり掛かり、ひとり分かりてる」。 |
【明治教典末など編纂される】 |
8.1日、当局よりの教義、組織改善要求を受け、教典、教規、礼典、教祖伝、御神楽歌釈義、教務本末などの編纂に着手した。8月から5回に及ぶ請願を経て、明治政府の意向に配慮した「明治教典」などが編纂された。 |
9.9(陰暦8.16)日夜9時頃のお指図。「本席の御身上前日より大變御障りのところへ刻限の御話あり、本部員一 同拝聴す」。
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10.14日、お指図。
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10.16日、お指図。
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10.20日、お指図。
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【飯田岩次郎事情に関するお指図】 | ||
11.22日、「飯田岩次郎事情に関するお指図」。
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【増井りんが本席から「息の授け」を授かる】 |
11.30日、増井りん(1843-1939)が、本席から「息の授け」を授かる。本席は、赤衣に着替えて、これまでのりんの神に対する誠一筋の献身的な働きを労(ねぎら)った後、「さぁさぁ呑み込め、呑み込め。移すぞ移すぞ」と述べて、「息の授け」を授けた。 |
12.17日のお指図。
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(道人の教勢、動勢) |
3月、水屋敷事件で免職された飯田岩治郎が神道大成教直轄の大道教会本部(大道教)を旗揚げしている。 |
(当時の国内社会事情) |
1月、東京市にペスト流行。 |
3月、治安警察法(集会及政社法1890廃止、第17条で労働組合・労働争議・小作争議を禁止)公布される。 |
(田中正造履歴) |
1900(明治33)年、60歳の時、被害民第4回大挙押出し(請願)の途中、川俣事件起きる。憲政本党を脱退する。 |
(宗教界の動き) | ||
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4.26日、内務省社寺局を神社局と宗教局に分離した(内務省に神社局設置)。神社局は地方局や警保局を抜いて最高位の局とされた。出雲大社教や黒住教などの教派神道は一般宗教政策として宗教局の担当とされた。(宗教局はさらに1913年には文部省に移管され、格落ちした) | ||
宗教の宣布・儀式執行目的法人設立に関する規程。 | ||
神官神職懲戒令。 | ||
外地の台湾の台北に台湾神宮(官幣大社)を創建した。以後、台湾には官国幣社5、県社9、以下81社が造られた。 | ||
6.18日、金光教神道公認され一派独立する。出口ナオ大本教( 習合神道) 開教。竹内巨磨御岳教天都教会( 国家神道に圧迫さる)。 | ||
1900(明治33)年、井出国子(井出クニ)37歳の時、親神様の命を受け、夫の吉永源吉と3人の子どもを残して井出千太郎(仙蔵)の許にゆく。嫁ぎ先の井出家も、姑が天理教の信者であった。 | ||
新渡戸稲造『武士道』。 | ||
無教会主義聖書研究会設立・内村鑑三「聖書之研究」創刊。救世軍廃娼運動。 |
(当時の対外事情) |
5月、義和団事件により、日本が清国に出兵。8月、各国連合軍が北京入場。 |
(当時の海外事情) |
(私論.私見)