1894年 明治27年 天理教本部が日清戦争軍費1万円献金

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「天理教本部が日清戦争軍費1万円献金」を確認しておく。「別章【明治27年お指図】」。「神一條(神一条) 資料2 」。 

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【本席住居移転】
 本席は、明治16年頃から22年までは中南(かんろだいの南方)に住居されたが、22年から南の方に小さな家を新築して住まわれ、道の発展とともに御用場をかんろだいの東南に新築して、明治27年の正月からここに移られた(植田英蔵「飯降伊蔵伝」120P)。

【1.11日、刻限御話お指図】
 1.11日夜11時20分、刻限御話。
 「どうでも今度は難しい。世界曇る日が曇る。思わくの道が遠い。思案をせにゃなろまい。どういう風が吹くやら分からん。春風の楽しみの中に、空々夏冬なきの風、あちらでもむら/\、こちらでもむら/\。秋風や冬風は、とんとどうもなろまい。さあさぁ、その風の迫りという、どういう道、言うも一つの道、聞くも一つの道であろ。何でも一つの理がなくば治まろまい。早く道を知らしておかんならん。一日も早く、国々所々道治め掛けたる。早く一つの理を治めてくれ。いかなる理も見え掛ける。道が変わる。秋風かと思えば冬風、あちらでもむら/\、こちらでもむら/\。さあ道を分けるで。早く急ぐで。(中略) 一つの道実の道がある。いつに出るとは分かろまい。年が明けたら出て来る。寄り来る事情に、どんな事持って来るやら分からん。どういう事も治めにゃならん。人が足らいでは、いかな談示も出来ようまい。名称一つの理を許してある。どういう事始まる。難しいてならん。うか/\きょろ/\した道やないで。いかなる日が出て来ても、銘々世界集まるところ、親里と言う/\。」

 日清戦争が始まる半年余り前のお指図で、「おさしづ」で日本の将来を案じて、神一条の道を早く伝えるよう急き込まれている。

 2月、松村吉太郎が、内務省社寺局の呼び出しで東京へ向う。


 4.10日、米国のD・C・グリーン博士が、親里で初代真柱と会い、後に「天理教」発行する。


 4.18日、上田平治出直し(64才)。6.19日、上田平治の妻いそ出直し(59才)。


 本席が、中国、四国地方を巡教。


 5.2日、松村家の宅地約4反7畝21歩、時価160円相当額分を本部へ寄付し、指令第一号で許可された。


 6.6日、日清戦争開始通告。天理教本部は、軍費1万円を献金して国家への忠誠を表明した。


 【6.17日、本席身上お指図】
 明治27年6月17日、本席、腹ひっくり返えるようになり身上につき願い。
 さあさぁ尋ねる処、さあさぁ何日事情/\勤める。勤めをさして居る。今日の日一日世界を楽しんで戻る事情、願い事情頼りない。そのまゝに通さん。又一つ事情でけん。これはどういうものである。何度話しに伝えど、あれこれ言い掛けて、そのまゝ中に事情つかえ埋もれ、先長く声出難くい。運び難くい、困る日できる。誰に頼り席に直る。吹き出せば入り込んで話し。頼り思うな。朝理なくば一日の日経つ。直きにどうなりこうなりこれまで事情。席に順序、理を諭して一日の日席に定め、又席又長い年限に諭し、一日一席定め、他にあちらこちら老母/\いついつまで。共に日々の日が重なり成って、これまでの理起き来る。百十五才長いもの。この度の理によって、席に直り諭する理。声が出んようなれば、どうもなろうまい。若きの理に思われようまい。席に言わん、そのまゝ諭せん。道を用いて、明日の日から事情運ぶ。よう聞き分けてくれ。月が替わればもうあろうかと、遅れてならん、早く道を運び、今以てどう、事情暫く許してある。これをよう聞き分けてくれ。
 同時、押して遅れる事情を願い。
 さあさぁ尋ねる/\一つ事情始め掛ける。理急げば急ぐ。そのまゝ/\よう聞き分け。遠く所聞かし掛ける。十分の道運びある。十分運んでいゝ加減長い理であった。気の休まるという事ない。延べ/\の事情、何ぼ指図貰うても指図をくる/\丸めて何にもならん。言葉理の改め替え。事情一つ指図までのもの。さあ心胆一つの事情難しいもので、この道始め何人、よう銘々心もあれば運ぶ者話しを聞く。皆な兄弟一つの理。総計、前々一つ論を始めるようでは治め方、なかなか何人遠くできる。掛かり/\事情聞いて鮮やか。元一日あちら心の理を治め、改め替え、道を渡る。名々一つの心治め難ない。皆な相当の理を、それ又許しおく。

【6.29日、神道本局の寄付依頼伺いお指図】
 明治27年6月29日朝、神道本局、負債2万8千円今回悉皆弁償につき当会より3千円出金の事願い。
 さあさぁ尋ねる処/\、前々に事情を以て尋ねた。前々事情指図いかなるも明らかな指図。どうでもこうでも頼みに来にゃならんようになる。皆な何と思うて居る。さあ心おきのう許そ/\、さあ許すで/\。
 同時、本局神殿建築につき用地当教会より買い求め、教長の名前にして本局へ貸し与える件願い。(但し地代は三千円程)
 さあさぁ段々の事情が重なる、皆な重なる。重なる事情皆んな重なる。さあさぁ皆な引き受けて了わにゃならん、という一つの理を諭そう。一時どうであろうと思うやろう。よく事情を聞き取って、皆々談じ合うてすれば、どんな事でもできて来る。話は生涯の理、話しの理で繋ぐ繋がる。いかなる事情もよう聞き取れ。どんな事も皆な集まりて来る。これ一つ諭しおく。前々怖わや危なや恐ろしや、と諭したる。一つの理でも成ると言えば成る。成らんと言えばどうでも成らん。成る程指図よかったなあ、と心寄せばどんな事も成る。これが助ける理助かる理。よく話しの理を聞き分け。大きい心を持って皆々談じ、世界集まる日がある。頼もしい道と言う。これ一つ諭しおこう。
 同時、神殿建築につき監督の名義を受けるや否やの伺い。
 さあさぁ尋ねる処/\、もうこれが事情重なりてどうでも事情なれど、一時の処は随分/\の理を持たにゃならん。どうでもこうでも理が集まる。一時尋ねる。まずまずと言う。段々の理に伝えるがよい。
 同時、押して左様なれば他に譲りましたもので御座りますや。
 さあさぁ尋ねる処/\、どうでもと言う。二度三度も事情、まあまぁこれが先々の道とも言う。これ諭しおく。
 同時、特撰幹事の名義を金光教会へ受ける時は当教会も受けるや否や心得まで。
 さあさぁ尋ねる事情、さあさぁ同じ理が三つある。あちら心得ん、こちら心得ん、半端と言う。心得のため指図しておく。どうでも一つの理に集まる処、それは一つに是非の中の理を以て治めてくれ。
 同時、押して是非/\という場合には受けましてもよろしう御座りますや。
 さあさぁもうどうでも/\理が迫りて来る。迫りて来れば、そんなら暫く/\という理に運んでやるがよい。

【7.26日朝、「日清間事件につき朝鮮国へ人夫五百人本部より出す願い」に対するお指図】
 7.26日朝、お指図。「日清間事件につき朝鮮国へ人夫五百人本部より出す願い」。
 「さあさぁ尋ねる事情、さあどういう事始まる。どういう事聞くとも分からん。やれ怖わや恐ろしや、分からん。何度の諭してある。事情は筆先に写してある。今の間にも見えると伝えて、どうでも是非/\残念を現れにゃならん。ならん中の道から新しい道が見せ掛ける。どういうこうと思うた理を計り、こうしたらよかろう、指図を以て一つの事情、これ第一の事件、第一話までの話であろう。ほんにできたかいなあ。一つの心一つ治める。今一時に道は、怖わき恐ろしい道を通らねばならん。未だ柔んわりと諭する。それより人夫一つの理を以て一つ防ごう一つ抑えよう、大概もう世上のところ要らざる事やなあ、一つには道のため果たしてみよう、聞いたる道ができてきた。大概の理は諭したる。これまでうか/\聞いてはならん。幾日日柄月柄田の修理(楽しう理)しまい次第と言うてある。五月五日より始まると言うて、今見えるというも何年以来に伝えてある。多く話伝えて居る。多く話し伝えて居る。一時早くの理に人夫と言えば一寸俺も/\と言う。これも道で一寸には集まる。今一時集まり難くい。一日一日迫り来る事情お前もな/\。一時の処は応法些かなる印までにしてまだまだ治まらん。どうでも治めてみせる。遠く所へ出越す。大いの心を働くと言う。難しい理を尋ねる。指図の理を以て掛かれば一つの道明らかと言う。これまでの話の理に心を寄せ、一時一寸の理を運び、一度二度まだ是非/\の道があるで。それぞれ話し詳しく伝えて、一時の道を通ってくれるよう」。

 又、
 さあさぁこれこれよう聞かにゃならん。一盛り俺も/\と言う。何でもなきものなれど、今日という日が来れば、一時の理に早いと言う。まだそれより些かなものどんな事、談示もせにゃならん、指図も貰わにゃならん、という。
 又、
 さあさぁ押して尋ねる。話し掛けるである。皆な揃うて尋ねば、連れて行かねばならん。確かなる理に及ぶやら、今一時の処は世上一つの理に持って、じいとして居るがよい。是非と言う、やれと言えば又一つ許さんでもない。

 戦争に協力するために本部から人夫を出す計画に対しては「要らざる事」と差し止めていることが分かる。ところが、「天理教史参考年表」(高野友治編)によれば、明治27年の項目に「8月17日、日清戦争につき部下分・支教会より軍夫500人を募集したところ、応募者2700余名、但し軍当局より不採用となったので軍資金として1万円献納。8月27日、応募者に対し、本部より各教会を通じて賞および紋章杯を授与される」と記録されている。ということは、お指図で「要らざる事」と啓示されているにもかかわらず、その後に本部は予定通り軍夫を募集したものの軍当局から受け入れられず、結局は神言の通りになったことになる。

 7.29日、西田伊三郎出直し(69才)。


【7.30日、「軍人健康祈祷執行願い」お指図】
 7.30日、「朝鮮事件に付き明日より三日間、軍人健康祈祷執行願い」お指図。
 「さあさぁ尋ねるところ/\、いかなる事情も尋ねにゃなろまい。尋ねたところ助け一条の事情、所々国々遠く所までもたすけ一条で助ける助かるというは皆な説いたる。早く早くそれぞれ皆んな早く/\の心に成って、何でも彼でも治めにゃならん、治まらにゃならん。所々にては、それぞれ心の理を以て、早く助け下されという願いをして治め。一寸には治まろうまい。なれど早く引き戻して了う。大事件あのくらいの事情、早く事情になったなあと早く見せにゃならん見にゃならん」。

 「押して明日よりつとめに掛かる事情」。
 「さあさぁ力々力々」。

 「各分支教会出張所に於いて同祈祷執行願い」。
 「さあさぁ早く/\、皆々つとめと言う。治め方のつとめと言う。早く急ぐ/\」。

 押しておつとめの手御尋ね申し上げたところ、
 「さあさぁ一時の処は早く/\、何かの御守護の理を以て願うがよい」。

 軍人の無事を祈願するおつとめを「早く/\」と急き込まれている。おぢばのみならず、全国の分支教会が一手一つに「治め方のつとめ」をつとめるように指図されている。

【神社化反対派の山本利三郎、上村吉三郎、中田かじが急変死】
 11.13日、10年祭の直前のこの日、会議が開かれ、真之亮、平野樽蔵らが再度神社を造りたいと主張した。山本利三郎、上村吉三郎、中田かじらは、これに反対した。会議は紛糾し、休憩となったその時、突如として山本利三郎が亡くなった。山本利三郎の死後10日目、上村吉三郎(敷島の初代会長)が亡くなった。この頃、中田かじ(仲田儀三郎の妻)も遺体で発見された。

 (道人の動勢)
 4.18日、上田平治が出直し(64歳)。1831(天保2)年、大和国式上郡大西村(現・奈良県桜井市大西)生まれ。
 5.28日、前川喜三郎が出直し(亨年61歳)。1834(天保5)年2.22日、大和国式下郡法貴寺村(現・奈良県磯城郡田原本町)生まれ。文久3年(1863)、妻たけの癪の病から帰参。翌元治1年入信。弟・木下清蔵(芝村‐現・桜井市芝)と共ににをいがけ。心実講講元・城法支教会(現大教会)初代会長(教祖伝逸話篇66安産)。
 6.19日、上田いそが出直し(亨年59歳)。1836(天保7)年、大和国山辺郡新泉村(現・奈良県天理市新泉町)生まれ。元治1年(1864)、兄山澤良治郎よりにをいがかかり入信。明治20年1月26日のおつとめでかぐらをつとめる。息子・民蔵は後に本部員となる。
 7.29日、西田伊三郎が出直し(亨年69歳)。1826(文政9)年、大和国添上郡櫟枝村(現・奈良県大和郡山市櫟枝町)生まれ。文久1年(1861)、妻コトの歯の病から入信(天理教教祖伝逸話篇8「一寸身上に)。
 9.26日、中臺勘蔵が出直し(亨年55歳)。1840(天保11)年11.15日、江戸日本橋(現・東京都中央区日本橋)生まれ。明治19年(1886)、持病(重症神経痛・慢性胃腸炎)の悪化から上原佐助を訪ねる。本席よりおさづけ(明治21年8月3日)。日本橋支教会(現大教会)初代会長。
 27年から29年にかけて、埼玉県東南部に浦和、川口、安行、鳩ヶ谷、青柳(久喜市北青柳)、清久等の布教所が続々設立された。越谷地域に早くから教線が伸長したのは大沢布教所が伝道の中心となったことによる。大沢分教会に創設当時の諸記録が保存されているが、その中の初期の「講名録」名簿によると、明治24年(布教所認可以前)8月、早くも大沢町で21名(うち女子1)、桜井村・越ヶ谷町・大袋村各1名が加入しており、11月には大沢2、越ヶ谷1、12月には大沢2、大袋2、増林・小久喜・新和・大相模各1がそれぞれ加入している。

 越南子「天理教退治」(明治27年)が発行されている。京都の浄土真宗の論者が書いたもので、200万人の信徒が騙されていると啓蒙している。この本では最後に、「深い道理も知らずして 嘘言といつわりでかためたる 世にも馬鹿げた天理教」などの囃子歌まで作っている。



 (当時の国内社会事情)
 1894(明治27).8.1日、日清戦争の詔勅下り、日清戦争始まる。

 日本のコレラ死亡者数を確認する。
1894年 314人
1895年 40.241人
1896年 908人

  (宗教界の動き)
 日清戦争後、忠魂碑の建造が盛んになるなど、国家と神道との結びつきが強まる。
 日本基督教会田村直臣日本家族制度批判免職。
 大本教が金光教より独立する。 「神道」から神理教独立。
 1894(明治27)年、井出国子(井出クニ)31歳の時、神秘体験をする。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)





(私論.私見)