1893年 | 明治26年 | 支教会普請願い相次ぐ |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.8.22日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「1893(明治26)年、支教会普請願い相次ぐ」を確認しておく。「別章【明治26年お指図】」。「神一條(神一条) 資料2
」。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
1893(明治26)年 |
【、お指図】 | |
1.2日、お指図。「南海部内中紀支教会普請の処願い」。
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【、お指図】 | |
1.6日、お指図。「郡山部内津支教会普請の願い」。
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【、お指図】 | ||
1.16日、お指図。「河原町部内湖東支教会新築の願い」。
「地所買い求めの願い」。
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【、お指図】 | |
1.21日、お指図。
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【、お指図】 | |
2.6日、お指図。
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【本席の妻おさとが出直し】 | |
3.18日、本席の妻おさとが出直し(亨年60歳)。本席61歳の還暦祝いをされる時に妻おさとが俄かにお障りとなり、この日の出直しとなった。植田英蔵「飯降伊蔵伝」は次のように記している。
真柱の推挙で、増井りんが本席の守り役に任命された。 |
【、お指図】 | ||
3.18日のお指図。
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【、お指図】 | |
3.19日、お指図。
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【、お指図】 | |
5.11日、お指図。
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【、お指図】 | |
6.13日、神殿普請のお指図願い。
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7.12日夜、お指図。「中山会長(初代真柱)の御身上の願い」。
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【明治26年9月1日お指図】 | ||
9月1日、京都の羽根田文明なるもの「天輪王弁妄」と題する小冊子を著述し攻撃せしにより、反駁して宜しきや、又訴訟にても起こして宜しきや伺い。
暫くして御諭し下され。
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【お指図】 | ||
10.5日、お指図。
「夜の道」、「昼の道」については、諸井政一が「正文遺韻」の中で次のように述べている。
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【、お指図】 | |
10.17日、おたすけと医薬に付きお指図。
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【、お指図】 | |
10.28日、お指図。
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(お道の教勢、動勢) |
3.4日、村田長平(村田幸右衛門の息子)出直し(亨年47歳)。弘化4年(1847)、大和国山辺郡前栽村(現・奈良県天理市前栽町)生まれ。幸右衛門・イエの長男。豆腐屋・宿屋を営み、帰参者の定宿となる。妻かじはお屋敷に勤める。信者詰所の先駆けとなったとうふ屋旅館をお屋敷の片隅で経営していた。村田は、天皇を神とせず、教祖を神とし続けたので座敷牢へ入れられていたと云う。お指図の中に「大裏に入れられている村田長平が出たいと云っています。どう扱ったら良いでしょうか」と伺いが出されている。そうこうするうち悶々とした中で亡くなっている。 |
3.18日、飯降おさとが出直し(亨年60歳)。天保5年(1834)11月、大和国式上郡小夫村(現・奈良県桜井市小夫)生まれ。文久1年(1861)、櫟本村(現・天理市櫟本町)伊蔵と再婚。元治1年(1864)産後の患いから入信。明治14年(1881)よりお屋敷に伏せ込む。扇・御幣のさづけ。長女よしゑ(1866‐1936)明治20年1月26日のおつとめで三味線をつとめる。二女まさゑ(1872‐1927)。二男・政甚(1874‐1937)明治20年1月26日のおつとめでかぐらをつとめる。 |
この年、高知協会に所属する里見治太郎が釜山に渡って布教した。これが韓国天理教史の嚆矢とされる。里見の要請により高知分教会から里見半次郎を含む布教師三名が派遣され、1895(明治28)年には韓国人だけで二百名の信者を数えるようなった。明治20-30年代における日本の韓国進出と相まって、布教を目指す天理教の布教師が増えて行った。 |
(当時の国内社会事情) |
1893年、出版法(出版条例1869廃止、政体変壊、国憲紊乱、安寧秩序妨害、風俗壊乱)公布される。 |
(宗教界の動き) |
文部省大祭祝日用歌詞・楽譜を選定。学校行事の「陛下の御真影への最敬礼」、「両陛下の万歳奉祝」、「教育勅語の奉読」、「校長の訓話」などの基本形式を整える。 |
太平記の南朝の忠臣などの諸事跡や実在を疑問視した重野安繹が帝国大学史誌編纂掛委員を罷免された。 |
日本基督教婦人喬風会結成。内村鑑三無教会主義( 日本独自)。日本聖公会北関東教区設置。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
エジソン、映画を発明。 |
(私論.私見)