1891年 | 明治24年 | 教祖5年祭執行 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.17日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「教祖5年祭執行」を確認しておく。この年のお指図の全解は別章【明治24年お指図】に記す。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【明治24年1.7日(陰暦11月27日)、教祖殿建替えに関するお指図】 | |||
1891(明治24).1.7日、五年祭につき、教祖の御霊舎を新造御許し願い、又御居間へ御簾掛ける事、机の新調の儀併せて御許しの願い。教祖没後5年に少し前のこの時、真柱邸が立つというのに、教祖殿がこのようにみすぼらしいのはかっこがつかない、なんとか教祖殿を大きなものに建て替えたいと願をしたところ、次のように指図されている。
同時、御面を新調する事御許し下されますや、修復をさして頂きますや願い。
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【「国会では治まらん」お指図】 | |
明治24年2月7日(陰暦12月28日)午前2時、刻限お指図。
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【明治24年2.8日、「本席身上」に対するお指図】 | ||
2.8日夜、お指図。「本席身上」に対するお指図。
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【教祖5年祭執行】 |
3.6日(陰暦正月26日)-3.8日の三日間、教祖5年祭執行。斎主を初めて初代真柱/真之亮が勤めた。教会名入りの提灯が点灯し、盛大となった。式典で奏楽。8日までで延べ10数万人が参集した。1年祭りの時には中止を命じた巡査が警護に当っており、様変わりしていた。 この時、御休息所(教祖殿)に、「居ますが如くにお仕えする」というので、食べ物、火鉢が持ち込まれた。教祖は、「真道弥広言知女命」(まみちいやひろことしりめのみこと)という神名を貰っているとの理由付けで、御休息所に神道式のお社が造られた。但し、本席は、「風の変わったひながたはいらん」と厳しいお指図を出している。 主だった人々の写真が残されている。それによると、前列左より、井筒梅治郎、桝井伊三郎、鴻田忠三郎、初代真柱、前川菊太郎、辻忠作、宮森与三郎、増野正兵衛、中列左より板倉槌三郎、松村吉太郎、平野樽蔵、山中忠七、山沢為造、高井猶吉、篠森乗人、上村吉三郎、梅谷四郎兵衛、後列左より飯振政甚、永尾樽治郎、橋本清。山本利三郎、清水与之助。(「ビジュアル年表天理教の百年」より |
【本席飯降伊蔵が上原佐助の東分教会に入り込んで「せい水の授け」を渡す】 | |||||
4.1日、 教祖五年祭直後、後に東大教会初代となる上原佐助の東分教会に本席飯降伊蔵が入り込んで「せい水の授け」を渡している。この様子について、「東大教会史」がは次のように記している。
ぢばを離れた出先でのお指図降下は稀で、人にではなく土地所にお授けが授けられた験しはない。 さらに、明治24年4.14日のお指図で、
更に渡し方については、
初代は、先に明治22年8月27日のおさしづでお許し頂き、旧神殿玄関左脇に井戸を掘ったが、その井戸水を汲んで清水のさづけを取り次いだ。井戸は現在、神殿上段下に位置しているが、願い出によって今も大教会長がこの水を汲んでさづけを取り次いでいる。この清水のさづけによって、東の道は関東一円に大きく伸展した。昔から江戸は、一日3000両の賄いと言われ、河岸の築地、寺社の浅草、花街の吉原で各1000両の商いがあったという。道は、この清水と「お息の紙」によって、吉原の遊女達に、築地の河岸仲間に大きく伸び広がったといわれる。 |
【神道本局1等教会に昇格】 |
4.6日、神道本局1等教会に昇格した。明治18.5月、神道本局から直轄6等教会として認可を受け、22.5月、3等教会に昇格していたが、この日1等教会に昇格した。 |
【明治24年4.23日、ナライトお指図】 | |
4.23日午後4時頃、お指図。
深い御思召で教祖様のおそばへ引寄せられたナライト様であったが、明治二十年旧正月二十六日に教祖様が現し身をおかくしになった時は年25才であった。一生独り身で通す心定めも、教祖様におすがりしたならこそ出来たことであったのに、今そのたのみの教祖様の現し身とお別れした奈良糸様の御心はどんなであったろう。当時としては既に婚期はおくれている。さぞかし心細い日々を暮しておられたとお察しするが、三ヶ月程して、次の様なお指図が、本席様のお口を通して下った。(此御指図は奈良糸の二十五才の事と上田嘉次郎記し置きたり※1) 教祖は御身こそおかくし遊(あそば)されたが、御魂はぢばにとどまり、御生前通りの守護をするとて、本席様のお口を通じて、ナライト様もらいうけの理について、かくも尊いお指図を下されているのである。親心の上から、園原村の実家へ月の内三日位は帰ってもよい、とまでおっしゃっている。両親の、教祖からナライト様が頂いておられるお言葉(一生独身で暮す)を守り通させる決心は変ってはいなかったが、ナライト様27歳の時、さすが親の情として偲びきれず、本席様にお指図を願っておられる。(「上田ナライト様について(その三)」参照) |
【明治24年6.6日、「芦津分教会の処地所を買い求めて敷地を広める事情に付き願い」に対するお指図】 | ||
6.6日、「芦津分教会の処地所を買い求めて敷地を広める事情に付き願い」に対するお指図。
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【明治24年7.23日、「本席身上」に対するお指図】 | |||
7.23日午後8時、お指図。「本席身上」に対するお指図。
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【明治24年9.9日、「教祖休息所風呂場雪隠の処、暫く取り直し事情の願い」に対するお指図】 | |
9.9日、「教祖休息所風呂場雪隠の処、暫く取り直し事情の願い」に対するお指図。
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【天理教災害救援ひのきしん隊登場】 |
10.28日、岐阜県、愛知県一帯に大地震(濃尾大地震)発生。濃尾地震を端緒として、さまざまな自然災害の被災地で天理教災害救援ひのきしん隊(略称=災救隊)が活躍することになる。 |
【機関誌「みちのとも」創刊】 | |
12.28日、機関誌「みちのとも」創刊。逓信省より第3種郵便物許可。発行所として道友社が誕生。
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1891(明治24)年、梶本惣治郎の次男にして慎之亮の兄となる松治郎が出直し(享年35歳)。 |
(お道の教勢、動勢) |
近江の布教師堤丑松による霊救に接し、福原惣太郎等入信。直方に信者の講が出来る。井上久吉、藤井貞平等5名が河原町を経て初めておぢばへ参拝。河原町に信徒名簿提出。松尾徳之助入信、6月におぢば参拝。65号(直方新町講)、第366号(直方外町講)、第367号(木屋瀬講)の3つの講番が初めて登録される。能美賢一郎入信。講社が、鞍手、遠賀、宗像、企救の4郡に結成され、斯道会に登録される。講社を総連合し筑紫連合集談所を設置す。明治26年、鞍手郡木屋瀬村大字木屋瀬894番地に筑紫出張所(後の筑紫大教会)設立。初代所長、能美賢一郎。 |
(当時の国内社会事情) |
1891(明治24)年10.28日、岐阜県、愛知県一帯に大地震(濃尾大地震)発生。忠孝・近代市民道徳 →小学校教則大綱制定される。陸軍省靖国社に維新国事殉難者1227人合祀される。 |
(田中正造履歴) |
1891(明治24)年、51歳の時、第2回帝国議会に初めて「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を出す。 |
(宗教界の動き) |
井上哲次郎キリスト教攻撃。内村鑑三教育勅語不敬。日本カトリック仙台・大阪司教区・長崎・東京大司教区設置。日本同盟基督教団設立。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
(私論.私見)