1891年 明治24年 教祖5年祭執行

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖5年祭執行」を確認しておく。この年のお指図の全解は別章【明治24年お指図】に記す。 

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【明治24年1.7日(陰暦11月27日)、教祖殿建替えに関するお指図】
 1891(明治24).1.7日、五年祭につき、教祖の御霊舎を新造御許し願い、又御居間へ御簾掛ける事、机の新調の儀併せて御許しの願い。教祖没後5年に少し前のこの時、真柱邸が立つというのに、教祖殿がこのようにみすぼらしいのはかっこがつかない、なんとか教祖殿を大きなものに建て替えたいと願をしたところ、次のように指図されている。
 「さあさあ尋ねる事情/\のところどうしてこうしてと思う。思うところ、まあ一寸ほなのざっとにして、何ほど大層する事は要らん。これがきっしよう、どういう事、こういう事思う。何も格別大層の事は要らん。元にひながた通り/\、変わった事は要らん。一寸前々祀り方どうもならん。社という指図を以って、ひながた生涯定め、ひながた通りして諭してくれ。きっしょうの事、これだけ一つ運ぶ。そこで尋ね、尋ね通り日々のところ治まり一つ社、一寸ひながた。このひながた出たものでないで。ひながた通りどこまで違わん処/\、ひながた通り治めてある。仮社治めある。風の変わってある違うひながた。一手ひながた道があれば一手ひながた、振り変えばひながたと云わん。あちらこちら心のひながた出して、ひながた々変えて、いかなる理も治まりあろうまい。日々尋ね、日々諭しよう。これまでふあふあというもので心と云う。この道一つ変わった事すればひながたとは云わん。世上と云う、風の変わったものは無いか。ひながたとは云わん」。
 「ひながた通りに置いておけ。変わったことはいらん。この道一つ変わったことをすれば、ひながたとは云わん。建物も古びた机などもそのままに置いておけ」。

 同時、御面を新調する事御許し下されますや、修復をさして頂きますや願い。
 さあさあ元々一つ元々尋ね、指図しよう。古き物は損じてあるなれば仕替えとは言わん。要るべき物はそれぞれ拵えにゃならん。一寸不足なったらどうもならん。そこで要らざらん事は一つも要らん。

【「国会では治まらん」お指図】 
 明治24年2月7日(陰暦12月28日)午前2時、刻限お指図。
 さあさあさあ刻限を以て話し掛ける。さあさあどういう事話し掛けるなら、さあさあ一日の日も、ようようの日、さあさあ明けるなら一つという。さあ話し掛けたら、どういう事も万事話通り、いかなるも皆な今一時筆に書き取るところ一日の日が移る。五箇年/\と五箇年の日に移る。四方/\所々もいずれ/\五年/\、どういう事、万事何かの事話し掛けるによって、事情は一つ、人間の心の理というは更々持たぬよう。さあさあ五箇年/\、五年経ったらどういう道とも分かろまい。世界の道も分かろまい。一年経てば一つの事情、又一年経てば一つの事情、年に取りて六十一年、お陰/\と待ち兼ねたるところ又一つには改正/\という、明治の代という、国会という。知らず/\待って、さあ楽しみの道は更にあろまい。一夜の間の事情を見よ。国会二十三年と言うた一つの事情、又お陰/\の事情、よう思案せよ。

 さあさあ明ければ五年という。万事一つの事情を定め掛け。定めるには人間の心は更々要らん。弱い心は更に持たず、気兼ね遠慮は必ず要らん。さあ思案してくれ。これから先は神一条の道。国会では治まらん。神一条の道で治める。怖わい道があって、やれ楽しみという。
五年/\の事情もう経ち切ったる。一つの日柄、世上には余程の理も運び、ようようの理が一寸治め掛け。治め掛けは、何か難し道である。どういう事も難しい。年が明けたら五年、一日の日から始める。国々国々のところ万事取り締まり、さあさあ何か談示/\、談示の決は、これまでよりも神の指図。指図通りの道なら、どんな事も遠慮気兼ねするやない。さあ楽しんだ。五箇年楽しんだ。一日の日、万事談じ、又思惑一つの事情は又々尋ねてくれるよう。

【明治24年2.8日、「本席身上」に対するお指図】
 2.8日夜、お指図。「本席身上」に対するお指図。
 「よう思案してくれ。銘々それぞれ身上に事情あって、長いのも短いのもある。皆それぞれの心より思案してみよ。指図までの事情や。聞くまでの理である。何遍談じても、そのまゝでは何もならん。さあ、これからすっきり洗い替え。(中略 いつまでもこれであろうかときいて、事情定まって定まろうまい。日が経てばそのまゝ、前々阻止ず、一寸まあ反故(ほうぐ)同様のもの、それを放っておいては、何よの諭も出来ようまい」。
 「さあさあ仕切って話する。このこと真柱に伝え。さあさあどういうこと伝え。親族切って切られん中、捨てるに捨られん中、一戸々々の事情、世上々の事情、親族は親族の理がある。切って切られん理がある。親族は親族だけ。心おきのう治めてくれるよう。鏡屋敷々うっとしいては照らすことできん。言い難かったであろう。これだけ尽くし、真柱切ない事情であろう。それだけのこと、運んでやってくれるがよい」。

【教祖5年祭執行】
 3.6日(陰暦正月26日)-3.8日の三日間、教祖5年祭執行。斎主を初めて初代真柱/真之亮が勤めた。教会名入りの提灯が点灯し、盛大となった。式典で奏楽。8日までで延べ10数万人が参集した。1年祭りの時には中止を命じた巡査が警護に当っており、様変わりしていた。

 この時、御休息所(教祖殿)に、「居ますが如くにお仕えする」というので、食べ物、火鉢が持ち込まれた。教祖は、「真道弥広言知女命」(まみちいやひろことしりめのみこと)という神名を貰っているとの理由付けで、御休息所に神道式のお社が造られた。但し、本席は、「風の変わったひながたはいらん」と厳しいお指図を出している。

 主だった人々の写真が残されている。それによると、前列左より、井筒梅治郎、桝井伊三郎、鴻田忠三郎、初代真柱、前川菊太郎、辻忠作、宮森与三郎、増野正兵衛、中列左より板倉槌三郎、松村吉太郎、平野樽蔵、山中忠七、山沢為造、高井猶吉、篠森乗人、上村吉三郎、梅谷四郎兵衛、後列左より飯振政甚、永尾樽治郎、橋本清。山本利三郎、清水与之助。(「ビジュアル年表天理教の百年」より

【本席飯降伊蔵が上原佐助の東分教会に入り込んで「せい水の授け」を渡す】
 4.1日、 教祖五年祭直後、後に東大教会初代となる上原佐助の東分教会に本席飯降伊蔵が入り込んで「せい水の授け」を渡している。この様子について、「東大教会史」がは次のように記している。
 「〔初代(上原)は、参集した信者に筍めしを振る舞い、そのお初を本席様に差し上げた処、ご昼食後俄におさしづ降下の状態となられ、初代が御前に平伏するとお言葉あり。さあさあ この所この所、この所清水一条、もう水という清水の水を授けよう(明治24年4月5日)

  ぢばを離れた出先でのお指図降下は稀で、人にではなく土地所にお授けが授けられた験しはない。

  さらに、明治24年4.14日のお指図で、
 「又一つ出越した処、地所という、水と言えば清水。代々変われど、重々の理に授けてあるのやで」。
 (「出越した処」・・・ぢばから出越した東分教会の所在する所。「地所という」・・・上原佐助ではなく土地所に授けたと明言された。「代々かわれど」・・一代二代三代と人は変わり、時代は遷っても末代かわらず重々たっぷりの理に授けてある

 更に渡し方については、
 「さあさあ渡す処、今一時の処は一人の理に運んでくれ、生涯の理に授けてあるのやで(明治24年4月24日)
 (願い人に渡す場合、誰れ彼れ勝手に取り次ぐのではなく「一人の理」教会長が日々運んでやってくれ、教会長が生涯取り次ぐ理として授けてある

 初代は、先に明治22年8月27日のおさしづでお許し頂き、旧神殿玄関左脇に井戸を掘ったが、その井戸水を汲んで清水のさづけを取り次いだ。井戸は現在、神殿上段下に位置しているが、願い出によって今も大教会長がこの水を汲んでさづけを取り次いでいる。この清水のさづけによって、東の道は関東一円に大きく伸展した。昔から江戸は、一日3000両の賄いと言われ、河岸の築地、寺社の浅草、花街の吉原で各1000両の商いがあったという。道は、この清水と「お息の紙」によって、吉原の遊女達に、築地の河岸仲間に大きく伸び広がったといわれる。

【神道本局1等教会に昇格】
 4.6日、神道本局1等教会に昇格した。明治18.5月、神道本局から直轄6等教会として認可を受け、22.5月、3等教会に昇格していたが、この日1等教会に昇格した。

【明治24年4.23日、ナライトお指図】
 4.23日午後4時頃、お指図。
 「この屋敷、四方四面、鏡屋敷である、来たいと思うても来られん屋敷、来たものにいねとは云わん。こん者に来いとは云わん、このたびは、あらひしたてたうへやで、ようここ聞かねばならん。さあちよっと云うておくで。ねんをきるやうなことを、きめるやないで。一月に三日又もどり、三日又もどり、又九日これきいて、まこととおもてゐれば、まこととなるで」。

 深い御思召で教祖様のおそばへ引寄せられたナライト様であったが、明治二十年旧正月二十六日に教祖様が現し身をおかくしになった時は年25才であった。一生独り身で通す心定めも、教祖様におすがりしたならこそ出来たことであったのに、今そのたのみの教祖様の現し身とお別れした奈良糸様の御心はどんなであったろう。当時としては既に婚期はおくれている。さぞかし心細い日々を暮しておられたとお察しするが、三ヶ月程して、次の様なお指図が、本席様のお口を通して下った。(此御指図は奈良糸の二十五才の事と上田嘉次郎記し置きたり※1)

 教祖は御身こそおかくし遊(あそば)されたが、御魂はぢばにとどまり、御生前通りの守護をするとて、本席様のお口を通じて、ナライト様もらいうけの理について、かくも尊いお指図を下されているのである。親心の上から、園原村の実家へ月の内三日位は帰ってもよい、とまでおっしゃっている。両親の、教祖からナライト様が頂いておられるお言葉(一生独身で暮す)を守り通させる決心は変ってはいなかったが、ナライト様27歳の時、さすが親の情として偲びきれず、本席様にお指図を願っておられる。(「上田ナライト様について(その三)」参照)

【明治24年6.6日、「芦津分教会の処地所を買い求めて敷地を広める事情に付き願い」に対するお指図】
 6.6日、「芦津分教会の処地所を買い求めて敷地を広める事情に付き願い」に対するお指図。
 「前々指図小さき所の事情、広き思うは事情あるなれど、小さき所から順々の道にある。順々は一時の処そのまゝにて運ぶ処、判然でけばいかなるも治まる。不都合の処から、じっとして明らかより、それより小さき所から大きく成るは、事情先ず/\の処、少し踏ん張りて道が広く成る。広くなれば道は大きく成る。これしっかりと聞き分けておけ」。
 「先々の道が拵えば小さき所から道という。道が始まりたら出けて来る。小さい所でも小さきは大きく成るという。よう聞き分け。どうもならん/\の道が通りて居る。あちらにも道の始まり、こちらにも道の始まり、道の端が分からん程道が出けてある。何程どうせいでも、独りでけて来るは天然自然の理、天然自然の理は諭して居るやろう。これしっかり定めて、明らかな道がなけねばどうもならん。尋ねば指図。一時小さい所から掛からにゃならん。大きい処は道にあるによって、これをよう聞いておかねばならんで」。

【明治24年7.23日、「本席身上」に対するお指図】
 7.23日午後8時、お指図。「本席身上」に対するお指図。
 「まあよいは々人気々々世界々々、誰々天理教会には押してはない。事情は皆世界で集まりたところ、これで盛大や\/と思う心が間違う。(中略) 神一条より外の道は通れようまい。(中略) 神一条指図より外の道を通る者は分けて了(しま)え」。
 「指図/\数々の事情は分かろうまい。ほんの勝手だけ指図として了い、これまでというは皆んなそれぞれ話々の事情にて決議の事情、尋ね一条の諭し、諭した事情は一寸治まりは、そこい/\の事情用いた理もあるなれど、勝手これはこれだけという。いかなるも万事改めてこれからという。指図通り神一条に道であろうか、談じ合い神に理であろうか。この始めた道、人間心の道であろうか。取り直し何か万事指図」。
 「どんな事も分かろまい。なれど分からん事は言わん。皆心の理が添わぬから分からん。前々にも諭し、刻限の理にも諭したるさしづの理を以て取り扱う処に、さっぱり分からん。皆んな道具寄せてある。尋ね出ば神一条の道であろう。どうせいこうせいとは一度も言うたことはない。成るよ行くよう、艱難なあ艱難だけ思わねばならん。その理が重なりたらどうもならん。同じその中に上下の理はないで。分からん理に押される。一度よい二度よい三度よい。神が得るしてこうという理は一つも用いてない。互い/\理を崩し、日々の処さしづとも言うまい。尋ねても言うまい。分からん/\の中からしっかり便りを聞いて、便りを勤めて居るようなもの。尋ねながら今日の事情に余程差し支えてある。人間の心の理が皆相違するから治まらん」。

【明治24年9.9日、「教祖休息所風呂場雪隠の処、暫く取り直し事情の願い」に対するお指図】
 9.9日、「教祖休息所風呂場雪隠の処、暫く取り直し事情の願い」に対するお指図。
 「今一時仮家。一時すっきり取り払うて綺麗という。さあさぁ蔭も日向も見えん。なれど席というて運ぶ事情は、一時現わしてある。一時存命、働き不都合思わず、すっきりしてと思うは理。 よく聞き分け。不都合思わず暫くと取るが仮家。これより先/\、いつとも日は切らん。すうきり取りて、よう聞き分け。その時すうきり取りて、よく聞き分け。その時すうきり取り払う。仮家は何時取り払うとも分からん。これだけと思うから分からん。存命一つの理も同じ道理。これよく聞き取りて」。

【天理教災害救援ひのきしん隊登場】
 10.28日、岐阜県、愛知県一帯に大地震(濃尾大地震)発生。濃尾地震を端緒として、さまざまな自然災害の被災地で天理教災害救援ひのきしん隊(略称=災救隊)が活躍することになる。

【機関誌「みちのとも」創刊】
 12.28日、機関誌「みちのとも」創刊。逓信省より第3種郵便物許可。発行所として道友社が誕生。
 「さあさあどういう事も心得て働いてくれ。十分許しおく。他に一つ見て一つなるほどという中に、こんな事も云う。またまたの事情のため治まるである。そら心置き無(の)う働いてくれるが良い」。

 1891(明治24)年、梶本惣治郎の次男にして慎之亮の兄となる松治郎が出直し(享年35歳)。

 (お道の教勢、動勢)
 近江の布教師堤丑松による霊救に接し、福原惣太郎等入信。直方に信者の講が出来る。井上久吉、藤井貞平等5名が河原町を経て初めておぢばへ参拝。河原町に信徒名簿提出。松尾徳之助入信、6月におぢば参拝。65号(直方新町講)、第366号(直方外町講)、第367号(木屋瀬講)の3つの講番が初めて登録される。能美賢一郎入信。講社が、鞍手、遠賀、宗像、企救の4郡に結成され、斯道会に登録される。講社を総連合し筑紫連合集談所を設置す。明治26年、鞍手郡木屋瀬村大字木屋瀬894番地に筑紫出張所(後の筑紫大教会)設立。初代所長、能美賢一郎。

 (当時の国内社会事情)
 1891(明治24)年10.28日、岐阜県、愛知県一帯に大地震(濃尾大地震)発生。忠孝・近代市民道徳 →小学校教則大綱制定される。陸軍省靖国社に維新国事殉難者1227人合祀される。
 (田中正造履歴)
 1891(明治24)年、51歳の時、第2回帝国議会に初めて「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を出す。

  (宗教界の動き)
 井上哲次郎キリスト教攻撃。内村鑑三教育勅語不敬。日本カトリック仙台・大阪司教区・長崎・東京大司教区設置。日本同盟基督教団設立。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)
 





(私論.私見)