天理教教祖伝史考

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年1.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 天理教論と構えれば、その総合的研究となり、各論は、教祖論、教義論、天理教史論、組織論、運動論に要素分析できるように思われる。この観点からの総合的研究は未だ為されておらず、各部分的研究でもって天理教論と銘打っているものが多いように思われる。れんだいこは、各要素の解析と、それを汲み上げる形での天理教論を欲している。だがしかし、これは永遠の課題となるであろう。なぜなら、教義論の奥が深いからである。他のそれはそれなりに纏めることができるが教義論は安直な解明を許されず、この方面の研究でほぼ一生を費やすように思われる。そういう構造になっている。まずこのことを確認しておきたい。

 2009.12..10日 れんだいこ拝


【教祖伝史考】
 初代真柱手記にカタカナ書きの「稿本教祖様御伝」(「カタカナ書」)と、ひらがな書きの「教祖様御伝」(「ひらがな書」)があり、復元第33号に採録されている。「ひらがな書」の「解説及び凡例」に「今次稿本天理教教祖伝の台本として用いた」と述べられている。
 1956(昭和31).10.26日、教祖七十年祭に合わせて、天理教本部が策定していた「天理教教祖伝稿案」を「稿本天理教教祖伝」として刊行する。その「はしがき」には次のように記されている。「教祖の御言行、御逸話などについては、今後続いてその蒐集(しゅうしゅう)につとめさせて頂き、逸話篇ともいうべきものを、別冊として不日(ふじつ)まとめさせて頂きたいと思って居る」。これに基づき、1976(昭和51)年1.26日、教祖九十年祭に合わせて「稿本・天理教教祖伝逸話篇」が刊行された。
(私論.私見)
 稿本天理教教祖伝の出来映えは悪いものではない。故に堂々とその編集過程、議論を要したところ、編集委員は誰々で責任者は誰なのか等々につき明らかにしておくべきだろう。こう問う者はいないようであるが不思議なことである。

 ネット検索で次の一文に接した。捨てるに惜しいので転載し、れんだいこコメントを付しておく。
 天理教研究の問題点

 大谷渡は、『天理教の史的研究』(一九九六年)のなかで、村上重良による天理教研究について批判を展開している。村上は、天理教には、民衆の救済、現世中心主義、平等観、ヒューマニズム、平和思想、夫婦中心の家族観、反権力性、独自の創造神話といった面で、先駆的な性格が認められるととらえているが、大谷は、そうした村上の認識が事実を見誤ったものであると指摘している。たとえば村上は、天理教の開祖である中山みきの夫、善兵衛が凡庸なタイプで、女出入りの多い放縦な生活を続けていたと述べている。たしかに、明治三十一年に作られたと考えられる中山新治郎による教祖伝の草稿では、「夫下碑ト通ズ」という記載はあるものの、女出入りが多かったという証拠は存在していない。大谷は、こうした村上による事実の歪曲が、小栗純子や笠原一男に受け継がれたことを指摘している。

 村上は、天理教にかぎらず、近代に登場した民衆宗教や新宗教について研究を進め、教典の校注などにも力を注いできたが、そこには、民衆宗教や新宗教を近代天皇制に挑戦した試みとしてとらえようとする点で、必ずしも事実に基づかない偏向を示している。天理教には、「泥海古記」ないしは「こふき(話)」と呼ばれる創造神話が存在し、村上は、それをもって天理教が近代天皇制と対峙した証拠ととらえている。しかし、天理教の創造神話に登場する「くにとこたちのみこと」以下の神々は、記紀神話に登場する伝統的な神々である。むしろ、中山みきは、こうした神々の存在を、彼女の息子である秀司が、神道の吉田家に入門し、吉田家で祀られていた国常立尊以下の神々を取り入れていくなかで知った可能性があり、その点でも、独自な創造神話というとらえ方は問題を含んでいる。結局、村上による天理教研究の問題点は、一つには十分な資料批判がなされていない点と、もう一つは既成の宗教的伝統との関係が十分に明らかにされていない点にまとめられる。

 その点は、天保九年の中山みきの神憑りによって天理教が発生したととらえる従来の見方を「突発説」として批判し、みきのライフヒストリーのなかに、独自の宗教思想が徐々に形成されてきたととらえた島薗進による天理教研究についても言える。天理教の発生過程については、戦後、二代真柱の中山正善のもとで刊行された雑誌『復元』において、重要な資料が復刻され、発表されているが、島薗はあえて『復元』の資料を無視した上で、みきの生涯の歩みについて叙述している。したがってそれは、事実にもとづく客観的な記述というよりも、教団の教義にそった架空の神話的な叙述にもとづく記述となっている。その点で、島薗の研究は十分な資料批判を欠いている。また島薗は、天理教の教義的な展開のなかに、吉田神道などの既存の宗教的伝統が大きくかかわっている事実についても無視している。

 こうした問題点は、天理教にかぎらず、他の民衆宗教や新宗教についての研究においても見出されるものではないだろうか。たしかに、どの教団においても、その草創期を明らかにする資料は必ずしも十分ではない。しかし、だからといって、資料批判をなおざりにしていいということにはならないだろうか。十分な資料批判が行なわれず、また、既成の宗教的な伝統との関連についても十分な考察がなされてこなかったことが、今日の民衆宗教・新宗教研究の行き詰まりに結びついているのではないだろうか。

(私論.私見)

 これについてのれんだいこ見解はこうだ。仮に「書評氏」と命名すると、村上批判、島薗批判につき、書評氏の云わんとする趣意はわかる。だがしかし、書評氏が積極的に持論を展開している「天理教の創造神話に登場する諸神と記紀神話諸神との同名性問題」に関して、「中山みきは、こうした神々の存在を、彼女の息子である秀司が、神道の吉田家に入門し、吉田家で祀られていた国常立尊以下の神々を取り入れていくなかで知った可能性があり、その点でも、独自な創造神話というとらえ方は問題を含んでいる」との観点は首肯し難い。

 みきは、秀司−吉田神道を通じて、これらの神々を知ったというより、もっと奥深い歴史的伝承を踏まえて、みき自身の思想的陶冶の中で咀嚼したと受け取るべきではなかろうか。みきは、何らかの機縁で伊勢系神道のみならず出雲−三輪系神道にも通じており、それを秀司−吉田神道を通じて獲得されたとみなすのは皮相的ではなかろうか。もっとも、みきは、伊勢系神話、出雲−三輪系神話にも通じたうえで新たな神名を創造している。それらの神名がどのようにして獲得されたのかは分からない。つまり、みきの説諭した「泥海古記創造神話」の奥行きはもっと深いとみなすべきではなかろうか。この点を一言しておきたかったので記しておく。

 2009.12.10日 れんだいこ拝

【奥谷「教祖に対する初代管長公」/考】
 「※大正〜昭和初期において広く読まれた教祖伝に、奥谷文智さんによる「天理教祖」(天理教同志会発行)という書物があります。この書物について、大正七年十一月号みちのとも(初代管長追悼号)誌上に、奥谷さんが「教祖に対する初代管長公」という一文を寄せられています。この中に初代真柱様の教祖伝に対する思いが非常によく伝わってくるエピソードが綴られています。

 (前略)さて、この追悼号に於て、私が是非申述べて置きたいと思う事は、初代管長公が御教祖に対して如何なる態度を有して居られたかと云う一事である。自分で自分の事を広告するのは聊かおこがましく感ずるが、自分はこういう重大な事柄について、多少物語りうる資格があると思う。これは、自分が大正二年五月に大阪の天理教同志会から出版した『天理教祖』と題する教祖伝を出版するについて、計らずも初代管長閣下から一方ならぬご高誼を蒙(こうむ)り、この問題の為めに閣下の謦咳(けいがい)に接する機会がしばしばあったからである。かの書物は決して短日月の間に出来たものではない。着手したのは実に明治四十三年からで、出版する迄に足掛け四ヶ年の日子を費やして居る。その間に全部原稿を改むる事三度であったが、この原稿を改むる度ごとに、閣下は一々御目を通された。当時は本教独立の後で、神殿の御建築その他内外多事であって、加うるに閣下は四十三年の御大病の後で、心身ともに非常に疲労して居られた際にもかかわらず、他ならぬ教祖おやさまの御事跡だと云うので、日中の用務をお済ましになり、夜間九時か十時頃から小野靖彦君(小野君は当時天理教年表を製作する関係上同席した)と私とをお呼寄せになり、御存命中御住居になって居た仮管長宅のお台所の次の御座敷や、御玄関脇の西洋応接間などで、私をして私の書いた原稿を読ましめ、あの時はあゝ、この時はこうと殆んど一行ごとに、管長公の御承知になっている教祖伝について御述べ下された。それから文字の如きも、用い方が穏当でないと、『事実はそれで間違いないが、モ少し優しい文字をつかわないと、実際の言い表わしにはならない』などゝ、それは/\細かい処まで御注意があった。無論蚊の多い盛夏の夜もあったが、又、寒気肌をつんざく冬の夜もあって、御家族はもちろん、お付きの人迄うたゝ寝してしまい、火桶の火がなくなり、お茶も氷ると云うような時迄も、熱心に教祖様の御事跡を御話下された。時計を見ると、二時三時になって居る。自分も他ならぬ教祖様の御話なので、我を忘れて聞き惚れて、お付きの人達の御迷惑なども構わずに原稿の訂正を施す、ふと、余りにあたりが静かなので、我に帰ると、この有様なのに驚いて、『誠に遅くまで御邪魔申して、何とも申訳が御座いません」と御詫びして帰ろうとすると、閣下は少しも迷惑らしいお顔をなさらず「御苦労であった。又、後はこの次にお話するから』とのお優しい御言葉を下さった。そうして、うたゝ寝をしているお付きの人には、風邪を引くといかぬと仰せられ、有り合せの座布団などをかけてくれと申付けられた事もある。大概のものならば、己れがこんなに遅く迄起きて教祖様のために御奉公申して居るのに、お付きの分際として、うたゝ寝してしまうと云う法があるかと、大目玉を頂かなければならぬのは、左(さ)はなくて、慈悲の上にも慈悲を加え、布団までかけて静かに寝かしておやりになる。その寛厚(かんこう、心がゆったりして、態度が丁寧なさま)なる御心は、これこそ教祖の御再来かと、私は、目のあたり生ける教祖様に接し申す心持ちがして、ありがた涙に暮れた事もあった。(つづく)」。(「奥谷文智著「天理教祖」について(その一)」、 大正七年十一月号みちのとも「教祖に対する初代管長公」奥谷文智(道友社刊)38〜40pより )
 「かように丁寧に御指導を仰いだと云う事は、私一代の光栄何物にかこれに加(しか)んや?と云わなければならぬのであるが、出版業者の方からは、「いつ出版してくれるか」と催促され、三度や五度はかく/\と申訳してあるものゝ、十度からになると、顔を見られるのが具合悪くなり、何時も逃げるよう、逃げるようにしていた。そのうちに三年の日子は白駒の如く飛んで、原稿を三度改めたが、閣下は「モウ、これならば好い、印刷にせよ」とは中々云われない。そして前途の見極めは付かず、あいかわらず御話があると云うので、遂には自分までしびれを切らしてしまい、ある日、閣下に向い、出版業者の催促や、自分がとう/\痺れを切らした事や、モー大概此の位ならば好いでしょうから、印刷に附する事をお許し下さいとお願いしたが、「何に、そのように急ぐことはない。教祖様の御事跡は本教徒として最も大切な事で、これが意外に間違って伝えられているから、いくら長くかかってもよろしい、完全なものにして出せ」との有難い御言葉を頂いていたにもかゝわらず、出版業者や、著者としての自分の短気から、不完全のまゝ出版してしまったことは、第一には教祖の御霊に対し、第二には初代管長閣下の御高誼に対して、何とも申訳のない事をしたと、今からは取返しのつかぬ事ながら後悔しているのである。もし、かの時分にあのように早く御昇天になると云う事が解って居たならば、如何なる困難に会うても、閣下から「これでよい」との御話のある迄、訂正に訂正を加える筈であったのに、甚だ残念な事をした。〜(後略)」。(「奥谷文智著「天理教祖」について(その二)」、大正七年十一月号みちのとも「教祖に対する初代管長公」奥谷文智(道友社刊)38〜40pより )

【教祖伝比較考】
 金光教の金光大神教祖伝は、金光大神教祖自らが綴った「金光大神御覚書」、「お知らせ事覚え帳」が存在するものの、前者は教祖没後約30年後に教団中枢に知られ、後者は1976年まで教団に提出されていなかった。この間、教祖に直接まみえた信者たちの体験談が流布している。1983年刊の「金光教教典」は、教祖の書いたものと、信者の綴ったもの、信者や縁者からの聴取によるものが収録されている。金光教に於いては、教団史の初めに於いて、正史としての教祖伝を作成することにさほど熱心ではなかった。公式なものとして纏められたのは、教団の一派独立を経ての1905年の佐藤範雄の「天地乃大理」である。同書では、教祖とその意思を引き継ぐ教団の社会的使命が明らかにされ、教義宣布の為の教祖像が示されている。(竹部弘論文参照)

 これに対して、天理教では金光教の教祖伝作成過程に比すれば積極的である。「立教過程による教祖のカリスマ性」、「死後もなお救いの源泉である教祖」という二つの至高者神話を担保とさせて、早くより教団本部主導による教祖伝編纂の試みが為されたが、著者によるバラつきが認められ正史とされるデキのものはなかった。大正時代までの編纂活動においては、外部からの学者や作家を招くなどして、教義の整備と教祖の偉人化が図られた。昭和期になると、二代真柱の中山正善主導による教祖伝稿本が纏められた。但し、西欧式のユダヤ−キリスト教的啓示による開教観にシフトした為、教祖中山みきの原日本土着的な霊能、これに伴う叡智が後景にされたきらいがある。よって中山正善主導のものも正史足りえず稿本として定まり、それが今日に至っている。




(私論.私見)