桃尾の滝修行考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「桃尾の滝修行考」をものしておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【桃尾の滝】
 天理市の東の布留川の支流に位置するところに 「大国見山桃尾の滝」(〒632-0021 奈良県天理市滝本町)がある。古くは「布留の滝」とも呼ばれた。滝水高は23m。春日断層崖に沿う滝の中では最大の規模。滝つぼは広くなく近づいて見上げると大迫力。気持ち良い飛沫と風があたる神秘的な雰囲気を醸している。
 710(和銅3)年、奈良時代に奈良仏教の高僧/義淵(ぎえん) が、滝からさらに登った場所に、古来からの名刹、龍福寺(正式名称:桃尾山蓮華王院龍福寺、現在は廃寺)を創建している。にはがある。「桃尾の滝」はその境内地になっている。

  義淵は 天武天皇の皇子とともに飛鳥の岡本宮で養育されたと伝えられており(扶桑略記、東大寺要録)、僧正として、行基や弓削道鏡(ゆげのどうきょう)らを弟子とした。俗姓は市往氏(続日本紀)とも、阿刀氏(扶桑略記)とも。阿刀氏は弘法大師・空海さんの母方の血筋とされている。繋がりは不明。

 後に弘法大師・空海によって真言密教の一大道場として整備され隆盛した。龍福寺は明治時代の廃仏棄釈により廃寺となり、往時の大伽藍を偲ばせるものはといえば、この桃尾の滝と今では大親寺と名を変えた小さなお堂だけとなっている。
 説明板文字起こし。
 桃尾の滝は、布留川の上流桃尾山にあり、高さ約二十三メートル、大和高原の西端を南北に走る春日断層の中では最大の滝です。このあたりは、かつて桃尾山蓮華王院龍福寺の境内地でした。和銅年間、義淵によって開かれた龍福寺は、中世には寺領五百石を有する真言密教の大道場として栄えましたが、明治にはいって廃絶し、かつての阿弥陀堂跡には現在報親教大親寺の堂が建っています。『布留の滝』として古い和歌集にも詠まれた桃尾の滝は、古くから行場として知られ、七月第三日曜日には夏の安全を祈願して『滝開き』の神事が行われます。

 今はまた ゆきても見ばや 石の上(いそのかみ) ふるの滝津瀬 跡をたづねて
 (
後嵯峨天皇
♪里は荒れて 人はふりにし 宿なれや 庭もまがきも 秋の野らなる♪
 (
僧正遍照)
 松尾芭蕉も1688(元禄元)年に、在原寺、石上神宮を詣でた後この地を訪れたことが、旅の途中で出した旧友への手紙に記されている。

桃尾の滝壼左側の不動三尊麿崖仏考
 滝壼の左側には鎌倉中期の秀作とされる不動三尊麿崖仏が据えられている。如意輪観音。中央に立つ石碑には「白龍大神」とあり、白龍大神が祀られている。夏には納涼にくる人も多く、毎年7月初めには滝行や納涼で来る方の安全を祈願する「滝開き」の神事が石上神宮の神職により執り行われている。

大国見山考】
 桃尾の滝の上にある大親寺では(名前は当時とは変わっている)古代、持統天皇と天武天皇のお子様である草壁皇子ともう一人男の子がかくまわれていたと云われている。現在、大親寺の称号は桃尾山で、この山全体を別名ニギハヤヒ山(国見山)と呼ばれているとも聞く。 
 天理市から大和川に合流する布留川の源流域の大国見山の麓に鎮座するのが石上神社。桃尾の滝の近く。ヤマト期物部氏の氏神である。石上神宮祭祀場は布留遺跡の上流に鎮座する。

【十種大祓(抜粋)】
 「⑥天理市ニギハヤヒ降臨(十種神祝詞)~~桃尾の滝編 」。
 十種大祓(抜粋)
 大和国排尾の山の麓白庭の高庭に遷座て鎮斎奉り給ふ 號て石神大神と申奉り代代神宝を以て萬物の為に布留部の神辭を以て 司と為し給ふ故に布留御魂神と尊敬奉 斎に仕奉給ふ物部の神社天下萬物聚類化出大元の神宝は所謂瀛都鏡邊都邊八握生剣生玉死反玉足玉道反玉蛇比禮蜂禮品品物比禮更に十種神甲乙丙丁戊己庚辛壬癸一二三四五六七八九十瓊音布留部由良と由良加之奉る事の由縁を以て 
 全文はこちら

http://www.geocities.jp/sizen_junnosuke/
tokusaooharai.html


 諸説あるが、祝詞に出てくる大和国排尾の山の場所が、天理市滝本村にある桃尾の滝近辺とも伝承がある。この桃尾の滝のある場所では天理教の中山みきが修行されていたと伝えられている。興味深いのは天理教の本部神殿の下には布留遺跡と祭場跡がある。布留という言葉は、ニギハヤヒの幼名と言われたり、ふるべゆらゆら。十種神宝祝詞そのままでもある。

【布留遺跡考】
 これにつき、格好のテキスト「天理市ニギハヤヒ降臨(十種神祝詞)~~桃尾の滝編」を得たので参照する。
 「祝詞に出てくる大和国排尾の山の場所が、天理市滝本村にある桃尾の滝近辺とも伝承がある。この桃尾の滝で、天理教の中山みきが修行していたとの伝聞が伝わっている。興味深いのことに天理教本部神殿下の重要祭祀場所に、陰陽統合にして天の甘露を受けとる象徴ともいわれる六角形の台で成っている甘露台が据えられている。ここに布留遺跡と祭場跡がある」。
  元々は天理教会本部境内にあった三島神社の現在の(移転された名前も変わった)立札よりご祭神↓

 この布留遺跡には現在何があるかと言うと、天理教本部神殿の重要祭祀場所に{かんろだい}があり、それは陰陽統合、天の甘露を受けとる象徴ともいわれる六角形の台である。そのかんろだいを組むために開祖の中山みは滝本村から石を運んだと伝えられている。まさに桃尾の滝のある村なのである。この石は明治時代に政府から没収されたと聞いており今は樹脂製の台と聞いている。当時の中山みきは、信念を貫いて92歳頃まで何度も何度も留置所に入ることになった。

 

 ニギハヤヒや十種神宝・磐座祭祀、太陽神。

 

●明治時代に、ニギハヤヒ血脈、縄文・本来の祭祀が失われそうになり、それを護り継承するために神懸かりが起きたり、信仰宗教たちが生まれたのではないか??


【元石上神宮伝承考】

桃尾の滝のすぐ下にある石上神社。地元では元石上神宮伝承があると云う。山から町に移転したと考えられる。

http://plaza.rakuten.co.jp/jinjablog/diary/20091026
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後に差し替えますが、こちらより写真をお借りしています。

 ●明治14年・滝本村の山でかんろだいの石見~年表より
 http://www.geocities.jp/atutakai/tosyositu_/nenpyou
_/nenpyou1.html


 桃尾の滝のすぐ下にある石上神社。十種神宝祝詞の伝承地。石上神宮の一隅に国宝の神楽殿(かぐらでん)が保存されている。

【烏帽子岩伝説考】
 石上神宮の末社(神田神社)にはこんな逸話「烏帽子岩」がある。

 昔、天理市の布留(ふる)川のほとりに、1人のおばあさんが住んでいた。ある日、布留川で洗濯をしていると、川上から、ひとふりの剣が流れてきた。不思議なことに、この剣の刃に川岸の木の根や岩がふれると、スッスッと見事に切れてしまう。不審に思ったおばあさんが、洗っていた白い布でその剣を拾い上げてみると、とても立派な剣で、鞘もないのに刃こぼれ1つない。「これは普通の剣ではない」と思ったおばあさんは、石上神宮へ奉納した。正直なおばあさんだということで、神主さんから沢山のごほうびを頂いた。

 この話を聞いた、隣に住む欲張りなおばあさんは、もっと何か良い物が流れてくるに違いないと思って、毎朝、早く起きて川に通ったが、何も流れて来なかった。ある日、良い夢を見たので、小躍りして、まだ明けやらぬ川に行ってみた。すると川上から、烏帽子や冠が流れてきた。ばあさんは、さっそく素足になって川に入り、流れてくる烏帽子や冠を拾い、堤に上がった。やがて夜が白々と明けてきた。明るくなってきてからよく見ると、それは、なんと烏帽子や冠ではなく、そんな形をした岩だった。今、烏帽子岩は境内の右手にある。また正直ばあさんが布が留めたというので、その土地の名を、布留と呼ぶようになったと言う。

 http://www.isonokami.jp/map/32.html 
 石上神宮の歩き方・神田神社より


【八つ石考】

 奈良県天理市長滝町の林道の山深い布留川の源流となるところに、大きな岩がある。この岩は「八つ岩」といわれ、石上神宮の奥の宮として崇められている。その言い伝えによると・・・  「むかし、出雲の国のひの川に住んでいた八岐の大蛇は、一つの身に八つの頭と尾とをもっていた。素戔鳴尊がこれを八段に切断して、八つ身に八つ頭が取りつき、八つの小蛇となって天へ登り、水雷神と化した。そして、天のむら雲の神剣に従って大和の国の布留川の川上にある日の谷に臨み、八大竜王となった。今、そこを八つ岩という。天武天皇のとき、布留の物部邑智という神主があった。ある夜、夢を見た。八つの竜が八つの頭を出して一つの神剣を守って、出雲の国から八重雲にのって光を放ちつつ布留山の奥へ飛んできて山の中に落ちた。邑智は、夢に教えられた場所に来ると、一つの岩を中心にして神剣が刺してあり、八つ岩は、はじけていた。そして一人の神女が現れて、『神剣を布留社の高庭にお祀りください』という。そこで、布留社の南に神殿を建て祀ったのが、今の出雲建雄神社(若宮)である」といういわれが残っている。

 

 写真と詳細は下記からお借りしています。  
 http://kanko-tenri.jp/meguru_tenri/05_yatuiwa.html

【教祖の桃尾の滝修行考】

【甘露台の石出し考】
●中山みきは意味やメッセージをこめて滝本村の石を選んだのではないか??(十種神宝祝詞の伝承地と同じなのは、偶然なのか?)
●中山みき開教の背景に、明治時代になってニギハヤヒ血脈、縄文・本来の祭祀が失われそうになり、それを護り継承する意図があった。中山みきが滝本村の祭石を選んだのには歴史的に深い意味やメッセージが込められている。桃尾の滝の上にある大親寺(名前は当時とは変わっているが)は、古代、持統天皇と天武天皇のお子様である草壁皇子ともう一人男の子を匿っていたという。現在、大親寺の称号は桃尾山で、この山全体を別名ニギハヤヒ山(国見山)と呼ばれている。
 『教祖伝逸話篇』には、明治十四年天理市の東方、滝本村
から甘露台の石出しが行われた時の模様が伝えられている。『その石は、九つの車に載せられていたが、その一つが、お屋敷の門まで来た時に、動かなくなってしまった。が、ちょうどその時、教祖がお居間からお出ましになって、「ヨイショ」と、お声をおかけ下さると、皆も一気に押して、ツーと入ってしまった。一同は、その時の教祖の神々しくも勇ましいお姿に、心から感激した、という』。なお、教祖自らが出向いて選ばれたその石は只の石ではなく、まさに神の石(聖石)であったという話を聞いたことがある。というのは、滝本村の東北に当たる山の頂上に「八つ岩」と呼ばれる神座があって、大昔、天から降ってきた神剣がその岩に当たって飛び散ったものの一つが教祖の選ばれた石であったという話である。これは伝説に過ぎないのかも知れないが、甘露台の石はどんな石でもよいというわけではない。 ところでその霊石は、石工が二段目まで形造った時に警察に没収されてしまった。その事件がいかに神の残念であったかは「おふでさき」にもしるされている。それから後は二度と石造りの甘露台を建てる計画はなく、「いちれつすまして」後に建立されることに変わったといわれている。現在の「ぢば」に建っている甘露台は木製の雛型にほかならない。甘露台の寸法については、六角、六寸、一尺二寸(六の倍数)、三尺、八寸などと定められ、その象徴的な意味についてさまざまに解釈されている。教祖ご自身がそばの者に話されたこととしては、「六は六台はじまりの理」という言葉がある。その意味は、十柱の神の中で中心的な理をあらわす月日親神、男女のひながた、および男女の一の道具という六柱の神を指している。また易学では六は水を表し、根源を示す数といわれています。科学的には、すべての生物の細胞、水の分子は六角形を基本としていることが分かっている。また、十二段に積み上げられる柱状の台は上下がホゾで組み合わされ、陰陽「二つ一つ」になっていることも重要である。






(私論.私見)