第78部 1886年 明治19年 89才 帰還後の教祖のご様子

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「最後のご足労帰還後の教祖のご様子」を確認しておく。以下、この時の実際を考証する。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【ご帰還直後の頃のご様子の逸話】
 教祖逸話篇(十)が、「最後の御足労」からご帰還直後の頃の教祖の在りし日々の様子を伝えている。これを確認する。

 
山中忠七と山田伊八郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。お屋敷には、大勢の道人が駆けつけていた。帰り着いてみると、わざわざ櫟本から出張した四名の警官が、固くお屋敷の門戸を固めていて、誰一人として中へは入れてくれない。お迎えの人々は、限りない名残りを留めて、心ならずも、それぞれの家路につくより仕方がなかった。

 3.12日、この頃のこと、心勇講の山田伊八郎とその義父にあたる山中忠七が、櫟本拘留の原因となった上村吉三郎の行き過ぎを詫びにきた。これに対し、教祖は、「心勇講はようつとめてくれた、ごくろうやったなぁ」と云われ、「弱っていない証拠を見せる」として、伊八郎の甲の手の皮をつねって見せ、次のように宣べられた。
 「この力のある限り、神の思し召しは伝えていくで。世界を助ける為には、なんじゅうを助け、ろっくの地に踏みならすという、心定めのおつとめをやらせたい。でも、高山がこれを止める、残念でならん。今の私は、苗代の種と同じことや、種は形が消えても、芽がのびて、やがて稲穂となって、実りをもたらすものや

 と、お諭しされた。こうして、教祖は不退転の「ひながた」をお示しなられ、引き続きお仕込みと指図を為されていた。「逸話篇185」は次のように記している。

 「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな。そこで、指先にて一寸知らせてある。その指先にても、突くは誰でも摘み上げる力見て思やんせよ

 と、仰せになって、両人の手の皮をお摘まみ下されると、まことに大きな力で、手の皮が痛い程であった。両名が、そのお力に感銘していると、更にお言葉があった。この時の教祖のみ言葉が、「山田伊八郎文書」で次のように伝えられている。 

 
山田伊八郎文書の「明治19年3月12日 お言葉」は次の通り。

 他の者では、寝返るのも出けかねるようになりて、これだけの力あるか。人間も二百、三百才まで、病まず弱らず居れば、大分に楽しみもあろうな。そして、子供は、ほふそ、はしかのせんよう。頭い何一つもでけんよう。百姓は、一反に付き米四石、五石までも作り取らせたいとの神の急き込み。この何度も上から止められるは、残念でならん。この残念は晴らさずには置かん。こんどは、たすけより、残念はらしが先。この世界中に、何にても、神のせん事、構わん事は更になし。何時、どこから、どんな事を聞くや知れんで。そこで、何を聞いても、さあ、月日の御働きや、と思うよう。これを、真実の者に聞かすよう。今は、百姓の苗代しめと同じ事。籾を蒔いたら、その籾は皆生えるやろうがな。ちょうど、それも同じ事」。
 教祖は、繰り返し繰り返し次のように仰せられ聞かせて下された。
 「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。親の教が、隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ」。

 このお蔭によって、分からん人も分かり、助からん人も助かり、難儀する人も難儀せぬようの道を、おつけ下されたのである。

【山中忠七と山田伊八郎がお見舞い参詣】
 「教祖逸話篇(十)185 どこい働きに」。
 「明治19年3.12日(陰暦2.7日)、山中忠七と山田伊八郎が、同道でお屋敷へ帰らせて頂いた。教祖は、櫟本の警察分署からお帰りなされて以来、連日お寝みになっている事が多かったが、この時、二人が帰らせて頂いた旨申し上げると、お言葉を下された。『どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな。そこで、指先にて一寸知らせてある。その指先にても、突くは誰でも。摘もみ上げる力見て、思やんせよ』と仰せになって、両人の手の皮をお摘まみ下されると、まことに大きな力で、手の皮が痛い程であった。両名が、そのお力に感銘していると、更にお言葉があった。『他の者では、寝返いるのも出けかねるようになりて、これだけの力あるか。人間も二百、三百才まで、病まず弱らず居れば、大分に楽しみもあろうな。そして、子供は、ほふそ、はしかのせんよう。頭い何一つも出けんよう。百姓は、一反につき米四石、五石までも作り取らせたいとの神の急き込み。この何度も上から止められるは残念でならん。この残念は、晴らさずにはおかん。この世界中に、何にても、神のせん事、構わん事は更になし。何時、どこから、どんな事を聞くや知れんで。そこで、何を聞いても、さあ、月日の御働きや、と思うよう。これを真実の者に聞かすよう。今は、百姓の苗代しめと同じ事。籾を蒔いたら、その籾は皆生えるやろうがな。ちょうど、それも同じ事』と、お聞かせ下された」。
 「山田伊八郎伝(天理教敷島大教会編、昭和49.8月発行)の「一の筆(その二)」96-98p」(「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「一の筆(その二)」)が次のように伝えている。
 「お見舞いのため、山中忠七先生と共にお屋敷に参詣したのは、明治19年の3月12日のことである。その折、教祖は二人に対して、『戻りてから今日で12日目になる。それより毎日寝どうし、耳は聞えず、目はとんと見えず、どこへはたらきに行くやらしれん。それにおきてるとゆうと、その働きのじゃまになる。ひとり目のあくまで寝ていよう。なにも弱りたかとも、力おちたかとも必ず思うな‥‥』と仰せになり、おいたわしさに恐縮する伊八郎に対して、寝返りもできないお身体とおなり下されながらも、忠七先生と伊八郎の手をおつまみになり、『外の者で寝かえるのもでけかねるよふになりて是だけの力あるか』とまで仰せになって、傷心の伊八郎を逆にお励まし下されたのである。

 89歳のご老体であらせられながら、おそれ多くも長期間厳寒のさなか、最後のご苦労をおかけした為、お帰りになって後、毎日寝たっきりで、耳は聞えず、眼はとんと見えなくなったとおっしゃる教祖のお言葉。伊八郎はおいたわしさ、申しわけなさに断腸の思いで聞かしていただくと同時に、そのあとに続く親心こもるお仕込みのお言葉を肝に銘じ、教祖のお心にぢかに触れた想いにかられ、感泣しつつ筆に誌すのであった。『
‥‥この世界中に、なににても神のせん事、かまわん事は更になし、なん時どこから、どんな事をきくやしれんで。そこでなにをきいても、さあ、月日の御働きやと思うよう‥‥』。なにを聞いても、見ても、みな神様のお働きによるものや、と仰せ下さっている。不足をしては神様に申しわけがたたない。自分の不徳をお詫びし、真のたんのうをするのやな、と□□講元に対する心の曇り、情けなさの思いをすっきりと捨て、わが不徳故にと伊八郎は心を立て替え、胸の掃除に努力をするのであった。だが親神の望まれる真の悟り、成人の心にはなかなかに成り切れず、人間思案もそう容易に伊八郎の心から抜けきれるものでもなかった。最後のご苦労をおかけした心勇講の事情によって、身も心もいまだ静まらぬ伊八郎であったが、親神のおせき込みは間断なく伊八郎の周囲にお知らせ下さるのであった」。(伊八郎と父・伊平との確執(その三)へとつづく)

【静養中の頃の逸話その1】
 教祖静養中のこの頃の貴重な逸話が次のように伝えられている。教祖が、いつもお聞かせ下されたお話は次の通りである。
 世界中、互いに扶け合いするなら、末の案じも危なきもない。仕事は何んぼでもあるけれども、その仕事をする手がない家もあれば、仕事をする手は何んぼでもあるが、する仕事がない家もある。奉公すれば、これは親方のものと思わず、蔭日向なく自分の事と思うてするのやで。秋にでも、今日はうっとしいと思うたら、自分のものやと思うて、莚でも何んでも始末せにゃならん。蔭日向なく働き、人を助けておくから、秋が来たら襦袢を拵えてやろう、何々してやろう、というようになってくる。こうなってくると、双方たすかる。同じ働きをしても、蔭日向なく自分の事と思うて働くから、あの人は如才ない人であるから、あの人を傭うというようになってくる。こうなってくると、何んぼでも仕事がある。この屋敷に居る者も、自分の仕事であると思うから、夜昼、こうしよう、ああしようと心にかけてする。我が事と思うてするから、我が事になる。ここは自分の家や、我が事と思うてすると、自分の家になる。蔭日向をして、なまくらすると、自分の家として居られぬようになる。この屋敷には、働く手は、いくらでもほしい。働かん手は、一人も要らん」。

 又、ある時のお話に、「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、側楽・ハタラク)と言うのや」と、お聞かせ下された。

【この頃の教祖の逸話】
 教祖逸話篇(十)が、この頃の教祖の在りし日々の様子を伝えている。これを確認する。
 「泉田籐吉と中西金次郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。3月中頃、入信後間もない中西金次郎は、泉田籐吉に伴われて、初めておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、お寝みになっていたが、『天恵四番、泉田籐吉の信徒、中西金次郎が帰って参りました』との取次が為されると、直ぐ、『はい、はい』とお声がしてお出まし下された。同年8月17日に帰った時、お目通りさせて頂くと、月日の模様入りのお盃で、味醂酒を三分方ばかりお召し上がりになって、その残りをお盃諸共、お下げ下された。

 同年9月20日、教祖にお使い頂きたいと、座布団を作り、夫婦揃うて持参し、お供えした。この時は、お目にはかかれなかったが、後刻、教祖から、『結構なものを。誰が下さったのや』と、お言葉があったので、側の者が『中西金次郎でございます』と申し上げると、お喜び下され、翌21日、宿に居るとお呼び出しがあって赤衣を賜わった。それはお襦袢であった」。
 田川寅吉に纏わる逸話が次のように伝えられている。
 「明治19年5月5日、但馬国田ノ口村の田川寅吉は村内二十六戸の人々と共に講を結び、推されてその講元となった。時に17才であった。これが、天地組七番(註、後に九番と改む)の初まりである。明治19年8月29日、田川講元外8名は、おぢば帰りのため村を出発、9.1日、大阪に着いた。が、その夜、田川は宿舎で激しい腹痛におそわれ、上げ下だし甚だしく、夜通し苦しんだ。時あたかも、大阪ではコレラ流行の最中である。一同の驚きと心配は一通りではなく、お願い勤めをし、夜を徹して全快を祈った。かくて、夜明け近くなって、ようやく回復に向かった。そこで、二日未明出発。病躯を押して一行と共に、十三峠を越え竜田へ出て、庄屋敷村に到着。中山重吉宅に宿泊した。その夜、お屋敷から来た辻忠作、山本利三郎の両名からお話を聞かせてもらい、田川は、辻忠作からおさづけを取次いでもらうと、その夜から、身上の悩みはすっきり御守護頂いた。翌三日、一行は、元なるぢばに詣り、次いで、つとめ場所に上がって礼拝し、案内されるままに、御休息所に到り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、赤衣を召して端座して居られた。一同に対し、『よう、はるばる帰って下された』と勿体ないお言葉を下された。感涙にむせんだ田川は、その感激を生涯忘れず、一生懸命たすけ一条の道に努め励んだ」。
 諸井国三郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。
 「明治19年6月、諸井国三郎は、四女秀が3才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、『何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい』とお願いしたところ、教祖は次のようなお言葉を下された。
 「さあさぁ小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで」。
」。
 松村吉太郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。
 「明治19年夏、松村吉太郎が、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。多少学問の素養などもあった松村の目には、当時、お屋敷へ寄り集う人々の中に見受けられる無学さや、余りにも粗野な振舞などが異様に思われ軽侮の念すら感じていた。ある時、教祖にお目通りすると、教祖は次のように仰せになられた。
 「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや

 このお言葉を承って、松村は心の底から高慢のさんげをし、ぢばの理の尊さを心に深く感銘したのであった」。
 平野楢蔵に纏わる逸話が次のように伝えられている。
 「明治19年8.25日(陰暦7.26日)の昼のこと、奈良警察署の署長と名乗る、背の低いズングリ太った男が、お屋敷へ訪ねて来た。そして、教祖にお目にかかって、かえって行った。その夜、お屋敷の門を、破れんばかりにたたく者があるので、飯降よしゑが、『どなたか』と、尋ねると、『昼来た奈良署長やが、一寸門を開けてくれ』と言うので、不審に思いながらも戸を開けると、五、六人の壮漢が、なだれ込んで来て、『今夜は、この屋敷を黒焦げにしてやる』と、口々に叫びながら台所の方へ乱入した。よしゑは驚いて、直ぐ開き戸の中へ逃げ込んで、中から栓をさした。この開き戸からは、直ぐ教祖のお居間へ通じるようになっていたのである。

 彼らは台所の火鉢を投げ付け、灰が座敷中に立ちこめた。茶碗や皿も、木葉微塵に打ち砕かれた。二階で会議をしていた取次の人々は、階下でのあわただしい足音、喚き叫ぶ声、器具の壊れる音を聞いて、梯子段を走って下りた。そして、暴徒を相手に、命がけで防ぎたたかった。折しも、ちょうどお日待ち(前夜から集まって、潔斉して翌朝の日の出を拝むこと。それから転じて、農村などで、田植や収穫の後などに、村の者が集まって会食し娯楽すること)で、村人達が、近所の家に集会していたので、この騒ぎを聞き付け、大勢駆け付けて来た。そして、皆んな寄って暴徒を組み伏せ、警察へ通知した。平野楢蔵は、六人の暴徒を、旅宿豆腐屋へ連れて行き、懇々と説諭の上、かえしてやった。この日、教祖は、平野に次のようなお言葉を下された。
 「この者の度胸を見せたのやで。明日から、屋敷の常詰にする
」。
  平野楢蔵に纏わる逸話が次のように伝えられている。「稿本天理教教祖伝逸話篇189、夫婦の心」。林九右衞門に纏わる逸話が次のように伝えられている。
 「明治18、9年頃のこと。お道がドンドン弘まり始めると共に、僧侶、神職その他、世間の反対攻撃もまた次第に猛烈になって来た。信心している人々の中にも、それ等の反対に辛抱し切れなくなって、こちらからも積極的に抗争してはと言う者も出て来た。その時、摂津国喜連村の林九右衞門という講元がおぢばへ帰って、このことを相談した。そこで、取次から教祖にこの点をお伺いすると次のお言葉があった。
 さあさぁ悪風に譬えて話しよう。悪風というものは、いつまでもいつまでも吹きやせんで。吹き荒れている時は、ジッとすくんでいて止んでから行くがよい。悪風に向こうたら、つまづくやらこけるやら知れんから、ジッとしていよ。又、止んでからボチボチ行けば行けんことはないで」。

 又、その少し後で、若狭国から、同じようなことで応援を求めて来た時に、お伺いすると、教祖は次のようにお聞かせ下された。
 「さあ、一時に出たる泥水、ごもく水やで。その中へ、茶碗に一杯の清水を流してみよ。それで澄まそうと思うても、澄みやすまい」。

 一同は、このお言葉に逸やる胸を抑えたという」。
 「明治19年夏、平野楢蔵が布教のため家業を廃して谷底を通っている時に、夫婦とも心を定め『教祖のことを思えば、我々、三日や五日食べずにいるとも、いとわぬ』と決心して、夏のことであったので、平野は、単衣一枚に浴衣一枚、妻のトラは、浴衣一枚ぎりになって、おたすけに廻わっていた。その頃、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が次のようなお言葉を下された。
 「この道は、夫婦の心が台や。夫婦の心の真実見定めた。いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実、見定めた。さあ、一年経てば、打ち分け場所を許す程に」。

 とお言葉を下されたという」。
 梶本宗太郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。
 「明治19年頃、梶本宗太郎が七つ頃の話。教祖が蜜柑を下さった。蜜柑の一袋の筋を取って、背中の方から指を入れて、トンビト-ト、カラスカ-カ-と仰っしゃって、指を出しやと仰せられ、指を出すと、その上へ載せて下さる。それを喜んで頂いた。又、蜜柑の袋をもろうて、こっちも真似して、指にさして教祖のところへヒヨ-ッと持って行くと、教祖は、それを召し上がって下さった」。
 梶本宗太郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。
 「梶本宗太郎が教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って子供同志遊びながら食べてなくなったら、又、教祖の所へ走って行って手を出すと下さる。食べてしもうて、なくなると、又走って行く。どうで、『お祖母ちゃん、又おくれ』とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。それでも、今やったやないかというようなことは一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろうというのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボ-ロか、飴のようなものであったと思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。これは、家内の母、山沢ひさに聞くと、そうである。櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて持って来て下さった。私は、曽孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、『早よう、一人で来るようになったらなあ』と仰せ下されたという。私の弟の島村国治郎が生まれた時には、『色の白い、綺麗な子やなあ』と、言うて、抱いて下されたという。この話は、家の母のウノにも、山沢の母にも、よく聞いた。吉川(註、吉川万次郎)と私と二人、同時に教祖の背中に負うてもろうた事がある。そして、東の門長屋の所まで、藤倉草履(註、表を藺で編んだ草履)みたいなものをはいて、おいで下された事がある。教祖のお声は、やさしい声やった。お姿は、スラリとしたお姿やった。お顔は面長で、おまささんは一寸円顔やが、口もとや顎は、そのままや。お身体付きは、おまささんは、頑丈な方やったが、教祖は、やさしい方やった。御腰は、曲っていなかった」。
 高井直吉の懐旧談が次のように伝えられている。
 「教祖程、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。どんな人にお会いなされても、少しもへだて心がない。どんな人がお屋敷へ来ても、可愛い我が子供と思うておいでになる。どんな偉い人が来ても、『御苦労さま』。物もらいが来ても『御苦労さま』。その御態度なり言葉使いが少しも変わらない。皆、可愛い我が子と思うておいでになる。それで、どんな人でも皆な一度、教祖にお会いさせてもらうと、教祖の親心に打たれて一遍に心を入れ替えた。教祖のお慈悲の心に打たれたのであろう。例えば、取調べに来た警官でも、あるいは又地方のゴロツキまでも、皆な信仰に入っている。それも一度で入信し又は改心している」。
 清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラに纏わる逸話が次のように伝えられている。
 「ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、『どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで』と、お聞かせ下されて、お慰め下されたという」。
 大浦伝七妻なかに纏わる逸話が次のように伝えられている。
 「大和国笠間村の大浦伝七妻なかは、急に人差指に激しい痛みを感じ、その痛みがなかなか治まらないので近所の加見兵四郎に願うてもろうたところ、痛みは止まったが、しばらくすると又痛み出しお願いしてもらうと止まった。こういう事を三、四度も繰り返した後、加見が、『おぢばへ帰って、教祖にお願い致しましょう』と言うたので、同道してお屋敷へ帰り、教祖にお目通りしてお願いしたところ、教祖は、その指に三度息をおかけ下された。すると激しい痛みは即座に止まった。この鮮やかな御守護に、なかは、不思議な神様やなあと心から感激した。その時、教祖は次のようにお聞かせ下された。
 「ここは、人間はじめ出したる元の屋敷である。先になったら、世界中の人が、故郷、親里やと言うて集まって来て、うちの門口出たら、何ないという事のない繁華な町になるのや」。
 」。

【この頃の教祖の好物】
 教祖は、高齢になられてから、時々、生の薩摩藷を、ワサビ下ろしですったものを召し上がった。又、味醂も、小さい盃で時々召し上がった。殊に、前栽の松本のものがお気に入りで、瓢箪を持って買いに行っては差し上げた、という。又、芋御飯、豆御飯、乾瓢御飯、松茸御飯、南瓜御飯というような色御飯がお好きであった。そういう御飯を召し上がっておられるところへ、人々が来合わすと、よく、それでお握りようのものを拵えて下された。又、柿の葉ずしがお好きであった。これは、柿の新芽が伸びて香りの高くなった頃、その葉で包んで作ったすしである。

増野家に伝わるお指図
 この頃のお指図が増野家に次のように伝えられている(増野道興の大正10年8月発行「増野家お指図」)。「増野家おさしづより(その二)」、「増野家おさしづより(その四)」を参照(転載)する。
 明治19年3.17日、身上お障り御伺御差図

 さあさぁ真実まこと知らす、前々(ぜん/\)に一つ二つと云うてある、さあさぁ一つの所は一つ実がある故、遂に踏まずして今一つの所、なんでも通らねばならん。なれども今の所、赤き黒きの所を見て、一月二月の所、じっとして居なければならず、真実の話し聞けば胸も発散する。身の内の所、日々話し聞くとよくなる。
 明治19年4.9日、夫婦の者四五日前より身体中、夜ぶん/\どことなく痛み御伺

 さあさぁ地場とうちと/\前々(ぜん/\)伝へある通り、真実決心致さず、世界交際心をよせ、こんど伺へば如何指図があるかと、神の心はかりてゐる、神はどうせかうせ云はん。
 明治19年4.9日、中田左衛門氏より古記こしらへるから筆を持ってくれとの頼みにつき、八日より筆を持ちしは高慢でありますかの伺

 さあさぁ一つ急ぐと云ふは、ほかの儀ではなく、前々(ぜん/\)より後れ/\の所、さあ急ぐ古記の一条、これをすれば段々忙しくなる、たんとあるやうなれど、あちらこちら手が入る。そこで急ぐと云ふのや。また互いの助け合ひもせねばならんで、また筆もとらねばならん。
 明治19年5.12日、身上障り伺

 さあさぁこれから先とゆく/\の所、かうと内々談じ、心定め出よとの事、互に助け合ひ、つなぐ所せにゃならん、さあさぁ、でろ/\、秋も五月、いちじ。
 明治19年旧5.25日、増野お糸夢の伺

 さあさぁ夢を見るのも月日、まこと見るも月日、一寸でこした処、かねて相談して定めたる心戻り、どふせこうせはゆはんで、そこで遠い処から一寸見せる、(遠い所の理押て伺へば)うち/\。
 明治19年5.26日、身上腹痛伺ひ、是れは前日河内国国府より身障り、この時大阪藤村氏に出合ひ、廿七日神道管長代理古川氏、お地場なるとの事聞く

 さあさぁ身の内、あちこちの所の道を聞いて世界を見よ、これらゆうとふより見れば身の内障りあるうちは結講と思へ、毒と思へばたべはすまい、はきだすであらう。
 明治19年10月頃御伺

 さあさぁ内々わかりある、わかり安心なら内々はなしはなさん、しやん所、なにかの所。うち/\ゑんりょ。
 明治19年旧10月頃

 身上の処一度/\先にて刻限、世界の処、それぞれ所、いかなる所、一時ちゝを以てからをながめる、十分これまでわからなんだ、今事上(事情)また/\内々思案もある、どうかかうか、一時あらう。始まる、年限たち、もふかは人間心、先長くたのみ、なるならん処。
 明治19年12月、我身の障り伺

 さあさぁ、一時一つ思へど、たいそふにかゝる、早く身の助け合ひ、じゞよわかりで、さあさぁ、これ/\勤め一条、これ助けすれば効能/\、思案間違てゐる、思案なくて思案なる、なにもならんと云ふ事は、なにもぼつ/\ならしかけ、丸いなかに一時事上がある、丸うならん事がある、そこで思案してをけ、これだけして運ぶか、そこでおなじ事で、じっとふんばってゐる。

 丸い中に一時事情があると聞せ下さるは如何なる事でありますかお尋ね申します。

 尋ねに来い/\、さあさぁどうでもかうでもならんと云ふ、たづねのならんでないで。なかに一人、丸う/\、それぞれも丸う丸めくれるもの、丸いなかに事上あればそこで一つ、さあさぁよくきゝ分けておかにゃならんで、心しだい銘々この事上ゆふ、なんでもかでもいそぐ一条思案してみにゃならんで、ならんでないで、一時になるで。

 神道管長へ神様の御噺出したるは道々伝はり有りし哉。

 さあさぁたいそのものを持ち来たものぢゃの、ほときようほとけす(解(ほど)きよう解けず)、いつ/\、まづ/\、じっとそれから/\思案、なれどもめづらしい事があしだん(※4)、まだまだそこ迄の事分らん、なかに一つ如何な事がある、じっと休んでゐるなかに、おほきいものが見える、これ世界ゆふ、尋ねる所、聞く所、大きい事もふく、世界も丸い、内も世界も同じ事、一寸一つの事上ある、ほどなう道がつく、一時世界如何なる事を聞く、あちらもゝどり事上が分る分らん、しん定め、一つねしん、あちらが一寸もどる、これをよう聞き分けて。

【この頃の飯降お指図】
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「山田伊八郎文書より(その十七)」の「明治19年8.31日(旧8.3日)、神様の仰せ」(昭和48年8月発行「山田伊八郎文書」、天理教敷島大教会史料集成部編192~193P)を転載しておく。
 明治十九年旧八月二日午後四時頃、おムメノ(の)身の障り。眼が空むき、腹よりムナサキ〔へ〕ツキツメ、翌三日朝ヨリ神様へ参詣致。飯降氏御願申上、直様神様御苦労被下(くださる)。神様の仰せには(一、右神様の御話し長き御話し候得共、カンジンの御話しだけ左ニ記す)
 「さあ親々のところ、よう思案してくれよよう。さあ小人のところ、一寸には難しいようにあるけれど何もも案じるでない。さあシヨニン(小人)の顔見るまでは色々の事思い、顔見てからは又色々と思い。さあ日々のところ、さぁ拾年(十年)の働きを三年に働けば、さあ忙してなろまい。せえわし(急がし)てなろまい。あちらからどう、こちらからどう。亦ケンニョムナイ(けんにょむない、思いもかけない、想像外)ところからもどうや。さぁこの拾年の働きを拾年かゝりて働けば、いつとこなしに働けるものや。その拾年の働き、三年に働けば、いそがしてなろうまい。さあこの拾年の働き、三年に働きてしまえば、跡七年残る。残る七年は陽気暮らし。こゝの道理を、よう思案してくれるよう。ここの道理を、よう思案せよ」。

 8.25(陰暦7.26)日、三輪村侠客/外島市太郎らが乱入。村人ら協力して防ぐ。






(私論.私見)