【この頃の教祖の逸話】 |
教祖逸話篇(十)が、この頃の教祖の在りし日々の様子を伝えている。これを確認する。
「泉田籐吉と中西金次郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。3月中頃、入信後間もない中西金次郎は、泉田籐吉に伴われて、初めておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、お寝みになっていたが、『天恵四番、泉田籐吉の信徒、中西金次郎が帰って参りました』との取次が為されると、直ぐ、『はい、はい』とお声がしてお出まし下された。同年8月17日に帰った時、お目通りさせて頂くと、月日の模様入りのお盃で、味醂酒を三分方ばかりお召し上がりになって、その残りをお盃諸共、お下げ下された。
同年9月20日、教祖にお使い頂きたいと、座布団を作り、夫婦揃うて持参し、お供えした。この時は、お目にはかかれなかったが、後刻、教祖から、『結構なものを。誰が下さったのや』と、お言葉があったので、側の者が『中西金次郎でございます』と申し上げると、お喜び下され、翌21日、宿に居るとお呼び出しがあって赤衣を賜わった。それはお襦袢であった」。 |
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田川寅吉に纏わる逸話が次のように伝えられている。
「明治19年5月5日、但馬国田ノ口村の田川寅吉は村内二十六戸の人々と共に講を結び、推されてその講元となった。時に17才であった。これが、天地組七番(註、後に九番と改む)の初まりである。明治19年8月29日、田川講元外8名は、おぢば帰りのため村を出発、9.1日、大阪に着いた。が、その夜、田川は宿舎で激しい腹痛におそわれ、上げ下だし甚だしく、夜通し苦しんだ。時あたかも、大阪ではコレラ流行の最中である。一同の驚きと心配は一通りではなく、お願い勤めをし、夜を徹して全快を祈った。かくて、夜明け近くなって、ようやく回復に向かった。そこで、二日未明出発。病躯を押して一行と共に、十三峠を越え竜田へ出て、庄屋敷村に到着。中山重吉宅に宿泊した。その夜、お屋敷から来た辻忠作、山本利三郎の両名からお話を聞かせてもらい、田川は、辻忠作からおさづけを取次いでもらうと、その夜から、身上の悩みはすっきり御守護頂いた。翌三日、一行は、元なるぢばに詣り、次いで、つとめ場所に上がって礼拝し、案内されるままに、御休息所に到り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、赤衣を召して端座して居られた。一同に対し、『よう、はるばる帰って下された』と勿体ないお言葉を下された。感涙にむせんだ田川は、その感激を生涯忘れず、一生懸命たすけ一条の道に努め励んだ」。 |
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諸井国三郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。
「明治19年6月、諸井国三郎は、四女秀が3才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、『何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい』とお願いしたところ、教祖は次のようなお言葉を下された。
「さあさぁ小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで」。 |
」。 |
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松村吉太郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。
「明治19年夏、松村吉太郎が、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。多少学問の素養などもあった松村の目には、当時、お屋敷へ寄り集う人々の中に見受けられる無学さや、余りにも粗野な振舞などが異様に思われ軽侮の念すら感じていた。ある時、教祖にお目通りすると、教祖は次のように仰せになられた。
「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや」 |
このお言葉を承って、松村は心の底から高慢のさんげをし、ぢばの理の尊さを心に深く感銘したのであった」。 |
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平野楢蔵に纏わる逸話が次のように伝えられている。
「明治19年8.25日(陰暦7.26日)の昼のこと、奈良警察署の署長と名乗る、背の低いズングリ太った男が、お屋敷へ訪ねて来た。そして、教祖にお目にかかって、かえって行った。その夜、お屋敷の門を、破れんばかりにたたく者があるので、飯降よしゑが、『どなたか』と、尋ねると、『昼来た奈良署長やが、一寸門を開けてくれ』と言うので、不審に思いながらも戸を開けると、五、六人の壮漢が、なだれ込んで来て、『今夜は、この屋敷を黒焦げにしてやる』と、口々に叫びながら台所の方へ乱入した。よしゑは驚いて、直ぐ開き戸の中へ逃げ込んで、中から栓をさした。この開き戸からは、直ぐ教祖のお居間へ通じるようになっていたのである。
彼らは台所の火鉢を投げ付け、灰が座敷中に立ちこめた。茶碗や皿も、木葉微塵に打ち砕かれた。二階で会議をしていた取次の人々は、階下でのあわただしい足音、喚き叫ぶ声、器具の壊れる音を聞いて、梯子段を走って下りた。そして、暴徒を相手に、命がけで防ぎたたかった。折しも、ちょうどお日待ち(前夜から集まって、潔斉して翌朝の日の出を拝むこと。それから転じて、農村などで、田植や収穫の後などに、村の者が集まって会食し娯楽すること)で、村人達が、近所の家に集会していたので、この騒ぎを聞き付け、大勢駆け付けて来た。そして、皆んな寄って暴徒を組み伏せ、警察へ通知した。平野楢蔵は、六人の暴徒を、旅宿豆腐屋へ連れて行き、懇々と説諭の上、かえしてやった。この日、教祖は、平野に次のようなお言葉を下された。
「この者の度胸を見せたのやで。明日から、屋敷の常詰にする」 |
」。 |
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平野楢蔵に纏わる逸話が次のように伝えられている。「稿本天理教教祖伝逸話篇189、夫婦の心」。林九右衞門に纏わる逸話が次のように伝えられている。
「明治18、9年頃のこと。お道がドンドン弘まり始めると共に、僧侶、神職その他、世間の反対攻撃もまた次第に猛烈になって来た。信心している人々の中にも、それ等の反対に辛抱し切れなくなって、こちらからも積極的に抗争してはと言う者も出て来た。その時、摂津国喜連村の林九右衞門という講元がおぢばへ帰って、このことを相談した。そこで、取次から教祖にこの点をお伺いすると次のお言葉があった。
「さあさぁ悪風に譬えて話しよう。悪風というものは、いつまでもいつまでも吹きやせんで。吹き荒れている時は、ジッとすくんでいて止んでから行くがよい。悪風に向こうたら、つまづくやらこけるやら知れんから、ジッとしていよ。又、止んでからボチボチ行けば行けんことはないで」。 |
又、その少し後で、若狭国から、同じようなことで応援を求めて来た時に、お伺いすると、教祖は次のようにお聞かせ下された。
「さあ、一時に出たる泥水、ごもく水やで。その中へ、茶碗に一杯の清水を流してみよ。それで澄まそうと思うても、澄みやすまい」。 |
一同は、このお言葉に逸やる胸を抑えたという」。 |
「明治19年夏、平野楢蔵が布教のため家業を廃して谷底を通っている時に、夫婦とも心を定め『教祖のことを思えば、我々、三日や五日食べずにいるとも、いとわぬ』と決心して、夏のことであったので、平野は、単衣一枚に浴衣一枚、妻のトラは、浴衣一枚ぎりになって、おたすけに廻わっていた。その頃、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が次のようなお言葉を下された。
「この道は、夫婦の心が台や。夫婦の心の真実見定めた。いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実、見定めた。さあ、一年経てば、打ち分け場所を許す程に」。 |
とお言葉を下されたという」。 |
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梶本宗太郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。
「明治19年頃、梶本宗太郎が七つ頃の話。教祖が蜜柑を下さった。蜜柑の一袋の筋を取って、背中の方から指を入れて、トンビト-ト、カラスカ-カ-と仰っしゃって、指を出しやと仰せられ、指を出すと、その上へ載せて下さる。それを喜んで頂いた。又、蜜柑の袋をもろうて、こっちも真似して、指にさして教祖のところへヒヨ-ッと持って行くと、教祖は、それを召し上がって下さった」。 |
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梶本宗太郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。
「梶本宗太郎が教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って子供同志遊びながら食べてなくなったら、又、教祖の所へ走って行って手を出すと下さる。食べてしもうて、なくなると、又走って行く。どうで、『お祖母ちゃん、又おくれ』とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。それでも、今やったやないかというようなことは一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろうというのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボ-ロか、飴のようなものであったと思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。これは、家内の母、山沢ひさに聞くと、そうである。櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて持って来て下さった。私は、曽孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、『早よう、一人で来るようになったらなあ』と仰せ下されたという。私の弟の島村国治郎が生まれた時には、『色の白い、綺麗な子やなあ』と、言うて、抱いて下されたという。この話は、家の母のウノにも、山沢の母にも、よく聞いた。吉川(註、吉川万次郎)と私と二人、同時に教祖の背中に負うてもろうた事がある。そして、東の門長屋の所まで、藤倉草履(註、表を藺で編んだ草履)みたいなものをはいて、おいで下された事がある。教祖のお声は、やさしい声やった。お姿は、スラリとしたお姿やった。お顔は面長で、おまささんは一寸円顔やが、口もとや顎は、そのままや。お身体付きは、おまささんは、頑丈な方やったが、教祖は、やさしい方やった。御腰は、曲っていなかった」。 |
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高井直吉の懐旧談が次のように伝えられている。
「教祖程、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。どんな人にお会いなされても、少しもへだて心がない。どんな人がお屋敷へ来ても、可愛い我が子供と思うておいでになる。どんな偉い人が来ても、『御苦労さま』。物もらいが来ても『御苦労さま』。その御態度なり言葉使いが少しも変わらない。皆、可愛い我が子と思うておいでになる。それで、どんな人でも皆な一度、教祖にお会いさせてもらうと、教祖の親心に打たれて一遍に心を入れ替えた。教祖のお慈悲の心に打たれたのであろう。例えば、取調べに来た警官でも、あるいは又地方のゴロツキまでも、皆な信仰に入っている。それも一度で入信し又は改心している」。 |
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清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラに纏わる逸話が次のように伝えられている。
「ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、『どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで』と、お聞かせ下されて、お慰め下されたという」。 |
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大浦伝七妻なかに纏わる逸話が次のように伝えられている。
「大和国笠間村の大浦伝七妻なかは、急に人差指に激しい痛みを感じ、その痛みがなかなか治まらないので近所の加見兵四郎に願うてもろうたところ、痛みは止まったが、しばらくすると又痛み出しお願いしてもらうと止まった。こういう事を三、四度も繰り返した後、加見が、『おぢばへ帰って、教祖にお願い致しましょう』と言うたので、同道してお屋敷へ帰り、教祖にお目通りしてお願いしたところ、教祖は、その指に三度息をおかけ下された。すると激しい痛みは即座に止まった。この鮮やかな御守護に、なかは、不思議な神様やなあと心から感激した。その時、教祖は次のようにお聞かせ下された。
「ここは、人間はじめ出したる元の屋敷である。先になったら、世界中の人が、故郷、親里やと言うて集まって来て、うちの門口出たら、何ないという事のない繁華な町になるのや」。 |
」。 |
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