第10部 | 1830年〜1832年 | 33〜35歳 | おかげまいりの影響 |
天保元年〜天保3年 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.1.1日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「おかげまいりの影響」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【「おかげ参り」の影響 】 | ||
この頃の「みき」に影響を与えたベクトルその1として、「おかげまいりの影響」を確認しておく。この時期、「みき」は、混迷の度を深めつつあった世相の流れに照応して、この頃既に念仏称名の信仰生活と決別し、又、困りきった人々に一向に救済の方途を持たない既成の神仏のあり方に明確に疑念を抱いており、「みき」自身は何らの解決の手立てを持たないにせよ、宗教がその始源に持っていたであろう生命力を模索しつつ懊悩する日々となっていた。こうして、「みき」は、否応なくこの世のなりわいに関わるうちに、逃れようのない現実との責めぎ合いにおける「衆生救済」の方途を更に思案する身へと変貌を遂げつつあった。こうした日々の折、1830(天保元)年、3月下旬に始まった「おかげ参り」との遭遇は、「みき」にとって極めて重要な影響を蒙ったことと拝察させて頂く。 稿本天理教教祖伝は、「みき」の「おかげ参り」遭遇による影響について語ることをしない。それは、「みき」の時代の子としての側面を意識的に捨象して神秘的な教祖像を構成するからに他ならない。しかしながら、本書執筆の動機である弁証法的な「みき様」像を引き出す為には、この「おかげ参り」と次章で述べる「大塩平八郎の乱」、「民衆宗教(教派神道)の誕生」、「当時の国学運動」の及ぼしたであろう影響について触れざるを得ない。 伊勢神宮への参詣は14世紀末ごろには畿内を中心に行われるようになっていたが、江戸時代になると「おかげ参り」と称せられるようになり全国に広がった。「おかげ参り」は江戸時代を通じてかなり頻繁に行われており、特に1650(慶安3)年、1705(宝永2)年、1771(明和8)年、1830(文政13、天保元)年、1867(慶応3)年の5回が、記録に残された大規模な参宮として有名である。「おかげ参り」は正式の旅行手形を持たないままの参詣だったので「抜け参り」とも呼ばれた。 こうした集団での参宮は凡そ60年周期で始まっており、通常発端は女性、子供から始まり、次第に数を増してゆき、遂には多数の老若男女が群れを為して、白い衣装を付け、鏡、笛、鼓、太鼓などの囃子に合わせて、「お陰でさ、するりと抜けたとさ」などと念じあるいは乱舞しながら、百万人以上の人々がいっせいに伊勢参宮を目指して通り過ぎて行く一大デモンストレ−ションであった。この踊りの部分だけが各地に広がって「ええじゃないか踊り」となった。 「おかげ参り」に加わる衆は、通行手形の必要なく路銀を持たなくても沿道の人々の喜捨によって、柄杓(ひしゃく)一本を手にすることにより、伊勢神宮へ参拝することができた。この後も何度となくこの「おかげ参り」が流行を見るが、幕府には往年の威光がなく、一過性で穀物の収穫期にはほとんど収まることもあって、こうした民衆の動きを無理に牽制するのでもなく、むしろ治安を憂いて、領主、社寺、篤家により、持て為しを割当する等、静観に努めていたという天下御免ぶりであった。 特に天保元年の「おかげ参り」は、政情不安と民衆の窮迫を背景として、山辺郡誌に次のように記されている。
主として6、7才の少年達の不思議な抜け参りが阿波国から始まって、その噂が各地に伝わるや、まず紀州と泉州が呼応し、忽ち全国に拡がりを見せることとなった。大坂へ数万人が集まった際は、御祓いが降り、「人々浮き立ちて、施工所、施工の者、何によらず思いつきし物を持ち出して之を施しぬ」というような有様であった。結局、天保元年の「おかげ参り」は、四国、関東、幾内等から動員された大人数が8月まで続き、約五百万人を数えたと云われる。如何に凄まじかったかが想像されるであろう。 「おかげ参り」の群衆は、「みき」の生活する庄屋敷村のほど近くの丹波市の街道を伊勢へ伊勢へとなだれていったようである。山辺郡誌は、この時の様子を次のように記している。
これによると、当時村人は、「おかげ参り」の群衆に対して、街道の要所要所にて施行場を設け食物や飲物を饗応する習いとしていたようである。こうして、「おかげ参り」は、通過する村人の積極的な後押しを得て、一種開放的な雰囲気の元に旅人と村人との合流が為されていたのである。 この年、「みき」は次女おやすを迎え取らせた頃であるが、失意のうちにも、「みき」が、夜となく昼となくこうした街道を練り歩く「おかげ参り」の乱舞の饗応に参加したことは疑いない。こうした「おかげ参り」は、この年で終わったのではなく、それから毎年、菜の花が咲く頃ともなると、丹波市の街道はこうした人々で雑踏することとなった。 ちなみに、「おかげ参り」は、翌天保2年には「手振り踊り」、嘉永2年には「かっぽれ踊り」、同4年には「稲荷踊り」へと姿形を変えつつ、大和の村落を駆け抜けていくこととなった。こうした群衆踊りは幕末の京都へと伝播して行き、天保10年春には「蝶々踊り」として、「男女混雑し貴賤の別なく昼夜踊り歩行、百人も二百人も一群に成りて、大道は申すに及ばず、見ず知らずの人の家へ、遠慮会釈もなく土足にて走り、無法に踊れる有様、何れも乱心の如し」となった。こうした秩序破壊のエネルギーが、幕末の「ええじゃないか」につながっていくこととなった。 |
【「おかげ参り」考】 |
「おかげ参り」は、様々の要素を秘めた大衆運動であったと云える。一つの要素は、既に述べた様に伊勢参りという錦の名目を立てての、その意味で合法的な社会示威運動であり、支配秩序に対する息抜き的な運動であり、民衆の開放的エネルギ−の発散の場とも云うべき意義があった。もう一つの要素として、「おかげ参り」は今日的な意味でのマスコミ文化的な役割を果たしていたと思われ、大衆の水面下での活発な情報伝達の道具たりえていたのではなかっただろうか。各地の混迷の様子とその見聞が行く先々で伝えられ、悲惨な話しは「みき」を苦しめたことでもあろう。あるいは農事、商事の情報交換も為されたであろう。こうした踊り衆によって伝聞された社会事情は、大和の一介の農婦ではあるが、鋭い感受性と好奇心を持つ「みき」の社会視野と認識を拡げ深めさせたという点で、極めて重要な出来事であった、と拝察させて頂く。もう一つの要素は、「みき」は、伝聞される様子を通じて徳川政権の末期的症状を察知してか、「みき」に「世の立て替え、世直し」の念を深めさせることにならなかったであろうか。 「おかげ参り」の影響は更に考えられる。立教後に「みき」の指導になるお道の信仰礼拝要領に、鳴物と手踊りが取り入れられたが、「おかげ参り」踊りも又笛、鼓、太鼓などの囃子に合わせて乱舞した踊りであったことを考えると、ここにも影響が認められるやに思われる。その「おかげ参り」踊りの奥に阿波踊りがあり、その阿波踊りが日本の最も古い伝統的な踊りであることを考えると興味が尽きないものとなる。 |
明洽以降に教派神道の一派となる黒住教、金光教、天理教いずれも伊勢参りの影響を受けている。黒住教の黒住宗忠、金光教の赤木は何度も伊勢参りに参加している。天理教が開かれた場所も伊勢参りの参宮街道筋にあたっている。伊勢参りやおかげ参りの影響を無視することはできない。 |
1830(天保元)年、次女おやす出直(享年4才)。
1831(天保2)年9月21日、三女おはる出生。長じて梶本惣治郎に嫁ぐ。初代真柱・中山眞之亮の実母。1872(明治5)年、出直し(享年42歳)。
1832(天保3)年、この頃、夫善兵衛が庄屋敷村の庄屋役を務める。
(当時の国内社会事情) |
1830(文政13、天保元)年、1.26日、水戸藩徳川斉昭が藩政改革。10.1日、徳川斉昭、幕府批評の上書提出。年末、薩摩藩の調所広郷が財政改革に着手する。 |
7.2日、京畿大地震。京で大地震。死者約280人、負傷者約1300人を記録。 |
1830(文政13、天保元)年、この年、各地でおかげ参り大流行。約500百万人が伊勢参宮。 |
全国的大飢饉つづく。 |
1831(天保2)年、全国総石高調査。防長一揆で10万人が暴動。 |
1832(天保3).5.8日、鼠小僧次郎吉捕縛。8.19日、鼠小僧が小塚原で処刑される(享年38歳)。 |
1832(天保3)年、7.3日、儒者・帆足万里、豊後日出藩家老となり、藩政改革を開始。 |
中村正直(号は敬宇,-1891)出生。 |
渡辺崋山・高野長英らが尚歯会を結成する。 |
(二宮尊徳履歴) |
(大原幽学履歴) |
(宗教界の動き) |
−−−−−− |
(当時の対外事情) |
1831(天保2)年、2.18日、ロシア船が蝦夷に侵入、役人と交戦する。 |
1832(天保3)年、8.16日、水戸藩、海防掛を設置。 |
1830年頃、この頃になると、オランダ人を通じた西洋学、即ち「実学」、「洋学」とも言われる蘭学は、医学などただの実用の学問だけに留まらず、日本の社会や政治にもその発言力を広めていた。例えば、佐藤信淵は、西洋の科学・西洋の政治制度についての知識を基に、中央集権的な政府の形態も論じている。幕府は、こうした蘭学者の幕政批判を弾圧した。 |
(当時の海外事情) |
1830.7月、フランスで七月革命起る。 |
1831年、イギリスの物理学者・化学者ファラデーが電流発生に成功する。コイルの中の磁場を変化させると電流が流れるとする電磁誘導現象を発見する。 |
1831年、ゲーテが「ファウスト」を発表。 |
(私論.私見)