| 第9部 | 1828年~1829年 | 31歳~32歳 | 「ほうそう事件」と神仏祈願 |
| 文政11年~文政12年 |

更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.2.20日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、1828(文政11)~1829(文政12)年、みき31歳~32歳の頃の「ほうそう事件」、「神仏祈願」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
| 【ほうそう事件と神仏祈願】 | ||||
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長男にも恵まれ主婦の座を磐石にしていたこの時期にあって、「みき」の宗教史的行程上特筆すべき出来事が起こっている。1828(文政11)年、「みき」31才頃のこと、「みき」は、近所の子を預かり育てるうち、預かり子が当時絶体絶命と云われたほうそうに罹(かか)るという事件に遭遇することとなった。暫く、この経過を追ってみようと思う。
「みき」のこうしたお願いが通じたのか、照之丞は危機を脱して、やがて快癒したという。この照之丞は後に源四郎と改名して72才の長寿を全うしている。 「みき」は、この預かり子救済の過程で、世上に名高い各地の神仏に祈る為、寺社廻りに奔走する日々となった。この時の「みき」の願掛けが凄い。
と、概ねこのように誓ったと云う。他人の預かり子を助けたさに、自身の命と愛娘二人の命を差し出し、爾後一身を神仏の御用に託すことを誓約する身となっている。「みき」のこの献身的な願いが神仏に聞き入れたられたのか、預かり子の命は奇跡的に助かることとなった。
諸井政一著「改訂・正文遺韻」(108頁、昭和31年版)には次の記述が見られる。
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| 足達源四郎(足達照之丞) 庄屋敷村(現・天理市三島町)の人。幼名を足達照之丞、元服して源右衛門貞秀、明治になって源四郎と改めた。1828(文政11)年5.13日生まれ。1899(明治32)年8.24日没(享年72歳)。 |
| 【みきの「自律」足跡行程(4)、「ほうそう事件」】 |
| ここで、「みき」の「自律的自由」の発展について触れておく。興味深いことは、嫁して15年目既に3人の子持ちとしてのこの頃に於いて、みきが中山家の主婦としての相応の地位を占めることとなり、家政的な権限を充分に確立するに至っているということであろう。既に舅姑は没して居らず、課題であった世継をもうけることも為し得た。照之丞引き取りを廻って夫婦間で交わされた会話は、夫善兵衛の反対を覆しての預かりであったことから窺うのに、既にこの頃、家族制度の枠内とはいえ、対外的乃至面目上のことは賢く夫を立てるものの、家庭内の実権は「みき」の側に移行しつつあったと拝察させて頂く。いずれにせよ夫善兵衛の信任はますます厚く、有能な立ち働きが何らの不足をもたらさない良好な関係にあったと思われる。もとより、「みき」にいささかの私心なきが故に、又日頃の「みき」の主婦としての働きぶりが厚く信頼を得ていたということが、夫善兵衛の了解を為さしめた証左となるのであろうが。ここに漸く、「みき」が夫婦間において単に従順な妻から家庭の芯として実権を持つ母へと脱皮を遂げていることが伺えるであろう。こうした「みき」の「自律的自由」の度合いの深化の行程を追っていくのが興味深く、いずれ、この自由が飽和点に達する一点に達するのであるが、とはいえ、行程上はもう少し先のこととなる故に、しばらくの間はこの「掌中の自由」の拡大していく様を追っていくことになる。 さて、「みき」の「掌中の自由」は、「ほうそう事件」によって頗る活動的な幅を持ち始めたこととなる。ほうそう事件後、平癒祈願の願掛けを果たすという意味もあって、「みき」は家業の合間合間に近辺の寺社神社廻りに勤しむこととなった。こうした事が許されたのも、「みき」が主婦として万全の働きを有能にこなしていた証左ではあろうが、こうした出歩きが可能になったという事自体が、従来の「みき」の活動範囲を大きく進展せしめたものであることは疑いないであろう。こうして、「みき」の「自律的自由」はいまや大きく進展を見せ、主婦としての立場の制限を受けることを除けば、かなりの程度駆使し得る立場になった、と拝察させて頂く。 |
| 【みき宗教的精神史足跡行程(7)、みきの神仏祈願と神通力の味得】 |
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引き続きこの時期の「みき」の信仰的足跡は寡聞で、教団の稿本天理教教祖伝その他の文献においても触れられることが少ない。こうした時期の「みき」の宗教的足跡を辿る上で、「ほうそう事件」は極めて重要な意味を持つことになった、と拝察させて頂く。一つは、「みき」が預かり子助けたさに、利己を絶対に離れた境地で余人の真似を為さしめないような驚くべき願立てをしたと云うこと。この祈願は、自らの命と我が子の命を差し出してまで他人の子の命の助けを願ったといった点で、常識人の規範とは随分とかけ離れていたこと。この二点に於いて思案を深めねばならぬと思う。 |
「天理教教理を学び神意を悟る」の2015年9.17日付け「立教について ⑷ 」の「
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1828(文政11)年4月、姑(教祖の父である前川半七正信の妹)きぬ出直し。
| (当時の国内社会事情) |
| 1828(文政11)年、全国人口2720万。 |
| 越後大地震。 |
| 1829(文政12)年、江戸大火(佐久間火事)。 |
| (二宮尊徳の履歴) |
| 1828年(文政11年)、42歳の時、桜町復興について、小田原公に辞職願を提出するも却下される。 |
| 1829年(文政12年)、43歳の時、一月に江戸へ出掛けた後、四月まで行く方知れずとなる。この時、成田山に21日間こもって桜町建て直しを願い断食していた。4.8日、祈願満了、桜町領から125人の出迎えにより帰任する。文政十年から桜町へ赴任していた抵抗勢力の中心人物豊田正作が、三月に小田原に帰任する。以降、復興順調に進展する。 |
| (宗教界の動き) |
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(当時の対外事情) |
| 1828(文政11)年、8.10日、シーボルト発生。帰国途中のシーボルトの荷物から禁制品の日本地図が発見される。10.9日、高橋景保らシーボルト事件に関係し捕らえられる。12.18日、シーボルト事件発生。シーボルトが出島に幽閉され、関係者の投獄始まる。シーボルト事件で蘭学が大きく萎縮することになった。 |
| 1829(文政12)年、1.15日、幕府、シーボルト事件に関し高良斎・二宮敬作ら23名を投獄する。1.29日、幕府、シーボルトの帰国を禁じる。2.16日、高橋景保(45)獄死。9.25日、幕府、シーボルトに帰国を命ずる。12.5日、シーボルト離日。 |
| (当時の海外事情) |
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(私論.私見)