第9部 1828年~1829年 31歳~32歳 「ほうそう事件」と神仏祈願
文政11年~文政12年

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.2.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1828(文政11)~1829(文政12)年、みき31歳~32歳の頃の「ほうそう事件」、「神仏祈願」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【ほうそう事件と神仏祈願】

 長男にも恵まれ主婦の座を磐石にしていたこの時期にあって、「みき」の宗教史的行程上特筆すべき出来事が起こっている。1828(文政11)年、「みき」31才頃のこと、「みき」は、近所の子を預かり育てるうち、預かり子が当時絶体絶命と云われたほうそうに罹(かか)るという事件に遭遇することとなった。暫く、この経過を追ってみようと思う。

 近所の安達家では6人目の子供として照之丞が生れていたが、妻女さいの乳が細く栄養不足で先行き覚束なかった。安達家は、「安達金持ち」と俚謡に歌われるほどの在地の大百姓庄屋で無足人の家柄であった。中山家とは村役を引き受ける仲間内の懇意な関係にあったが、どうしたわけか生まれてくる子供が次々に妖折していた。このたびは男の子を授かり、大事な跡取り息子として無事な成育を願う気持ちは切であったものの、この度も妻女さいの乳が細く、当時のこととて母乳に替わる滋養物もなく窮すること頻りであった。それに較べて中山家の子供はどの子も、「みき」のたおやかな乳房に恵まれてすくすくと育っており、折よく「みき」は3番目のおやすを産んで6、7カ月の日の浅い頃であったので、その乳房は充分に満ちていた。こうなると「みき」の性分としてどちらから言うともなく、出向いたり出向かれたりの分け乳貰い乳をすることとなった。そうこうするうち、照之丞が「みき」と離れるのを次第に嫌がるようになり、特に夜泣きの折には致し方なくいっそのこと乳離れするまでこの幼子を引き取って育てて欲しいと申し出られることとなった。

 「みき」は、既に中山家の主婦として委細の采配を為しえる立場ではあったであろうが、とはいえ一存には行かず、賢こき嗜みとして夫善兵衛に相談したところ、いろ良い返事がなかった。善兵衛としてみれば、「みき」が未だ家業に忙しい折々に加えて3人の子育てで手一杯のとこであるのに、何を好き好んで余所の子をという言い分であったであろう。ところが、「みき」は生来の不憫を捨てて置けぬ性分であるから、家業に支障を掛けることなく、子育ても従来通り十分に致し、その他夫にも迷惑をおかけ致しませんとの誓約を為した上で、夫の不承知をなだめるようにして照之丞を引き取って育てることにした。こうして預かり子を育てているうち、図らずも「みき」の子二人と預かり子が、当時の流行病であったほうそうに罹かるという事件がおこった。どうした訳か、「みき」の子供はどの子も快癒に向い無事となったのに対し、預かり子の方は熱気がずっと続き、一心込めての看病にも拘らず回復の気配を見せず、「みき」の大いに慌てることとなった。

 当時のほうそうは種痘医学の及ばない頃で死亡率が高かった。ほうそうという病気は痘瘡ウイルスが病原体で、高熱を発して悪寒等を伴い、治療後は顔に痘瘡(あばた)を残す伝染病である。我が国では、1798(寛政10)年に、幕府が医学館に痘科を創設して、専門医池田瑞仙を教授として研究を督励した。同じ頃(1796年)、西洋の英国の外科医ジェンナ-が痘瘡の免疫の得られる牛痘を発見し、我が国へは蘭学者の手によって1858(安政5)年、江戸の神田お玉が池に種痘所の設立をみることとなった。その後焼失した為有志の手で再度西洋種痘所を設けた。のち幕府の手に移って西洋医学所と改められた。種痘が本格的に普及したのは、1870(明治3)年以降のことになる。当然ながら、安達家の子供が痘瘡にかかった1828(文政11)年の頃の大和地方の医者には、こうした斬新な西洋医術は伝わっていない。この当時、ほうそう対策として考えられることは、神社仏閣への願掛け、加持祈祷、三宝に御幣を乗せて辻に捨てるという御幣信仰、鎮西八郎為朝御宿と書いた札を戸口に貼りつけ死神を追い払うなどといった呪(まじな)いことが精一杯の対策でしかなかった。

 この際「みき」の善意での出発ということは言い訳にならず、安達家の嘆きひとしおで、「みき」は夫にすがる方便もなく剣が峯に押し上げられることとなった。「みき」は、「我が世話中に死なせては、折角お世話した甲斐がない」と発起し、乳飲子のおやすを安達家に出入りするおさいという婦人に預けて、医者よ薬よと八方に手を尽くす毎日となった。が、一向に効き目がなかった。そうこうするうち照之丞が黒ほうそうの症状を見せ始めた。昔から黒ほうそうとなれば助かる薬もなく、こうなると十中八九助からないと云って医者がさじを投げる事態に陥った。

 「みき」には神社仏閣のご利益にすがるよりほか手立てなく、村の氏神であるいちの森神社(現三島神社)に毎日早天に百日のはだし参りを続け、一心不乱に祈願することとなった。あるいは水垢離をとったり三年三月の月詣での願を立てるなどして、奈良の二月堂、三月堂の観世音、武蔵の大師(現天理市武蔵町)、稗田の大師堂(大和郡山市稗田町に詣でた。稗田の大師堂は当時、疱瘡の治癒に霊験ありとの噂で有名であった。この地は古事記の口述者として有名な稗田阿礼の生地で稗田売太(めた)神社がある。稗田売太(めた)神社は、アメノウズメの命と稗田阿礼の命が祀られている。

 「みきの稗田の大師堂参り」につき、「天理と刻限」に次のような記述がある。稗田の大師堂のある地域で医院を開いている医師・上田忠男氏に「詮海和上とその弟子たち」と題する著書があり、この中に「稗田大師堂と中山ミキさん」と題する次の一節があるとのことである。

 「亀山天皇の弘長年間(約六百年前)大和平野を流れる佐保川が大洪水をおこし、砂の中から金箔をはりめぐらせた弘法大師の石像が出現した。村人は春日の神木を頂いて、川原の荒れ地に大師堂を建てて祭った。これが今も残っている稗田の大師堂である。奈良から吉野大峰山に参る街道筋にあたり、道中安全祈願とともに、何時の頃か誰言うとなしに疱瘡を治してくださるとの噂がたった。疱瘡のお大師さんと信仰を集めた。

 文政十一年四月のこと、良家の妻女とみられる上品な若奥さんが、裸足で毎朝きまった時刻に、この大師堂に参られる。百日祈願を込めて参っていると噂がたった。稗田の常楽寺の詮海(教祖が疱瘡の願をかけられていた当時、同地の常楽寺の住職であり、大師堂の住職も兼ねていた)は村人からこの事を聞いた。大師堂の住職も兼ねている詮海も、どんなお方が知らないが、陰ながら祈願成就されるように祈っていた。雨の日に上から下までずぶぬれになった、その妻女に詮海が会った。その人は半狂乱のように『照之丞の黒疱瘡が治りますように』と祈りを込めていた。その人は、山辺郡丹波市の中山ミキという方と知り、隣の安達源右衛門の倅、照之丞の黒疱瘡の全治祈願を込めて、百日参りしている事を知った。詮海の生まれ故郷の山辺郡筑紫村の隣の丹波市であり、自分の子でない隣の子のために命がけの祈願と聞いて、詮海は感激し、中山ミキさんを生き仏のように思った。百日満願になり、その甲斐あって、疱瘡は後形も残さず全治した。この中山ミキさんこそ天理教の始祖である」。

 「みき」のこうしたお願いが通じたのか、照之丞は危機を脱して、やがて快癒したという。この照之丞は後に源四郎と改名して72才の長寿を全うしている。
 
 「みき」は、この預かり子救済の過程で、世上に名高い各地の神仏に祈る為、寺社廻りに奔走する日々となった。この時の「みき」の願掛けが凄い。
 「無理な願いでは御座いますが、預かり子の身の上難しいところ、どうかお助け下さいませ。この子の命を助けてもらうためには、願わくば世継の男の子一人を残して頂けさえ致しますれば、娘二人の命を身代わりに召されるとも厭いません。更にご無理を云わして頂けますなら、この預かり子に80迄の寿命を授かり下されませ。このようなお願いをお聞き届け頂きますにつき、もし娘二人の命にて不足で御座いますなら、願満ちました暁には私の命をも差しだします。私の身命を差し上げます以上、爾来、お召しまされようとも御用にお使いあそばされましょうとも不足を申しません」。

 と、概ねこのように誓ったと云う。他人の預かり子を助けたさに、自身の命と愛娘二人の命を差し出し、爾後一身を神仏の御用に託すことを誓約する身となっている。「みき」のこの献身的な願いが神仏に聞き入れたられたのか、預かり子の命は奇跡的に助かることとなった。

 それかどうかはともかく、この願立てから2年目の1830(天保元)年、中山家は可愛いい盛りの4才の次女おやすを失う。又、翌2年、3女のきみ(おはる)を出産、さらに翌年の1832(天保3)年、11.7日、4女おつねを出産するが、1835(天保6)年、おつねを3才で亡くしたと云う。教理では、この経過をみきのかくまで深い親心として映しだし、ひとつの因縁美談に仕立てている。しかし、二人の子が召されるのであれば、長女まさと次女おやすが順当であり、その当時生れてもいない4女おつねに累が及ぶというのは奇妙ではなかろうかと思われるが、後日のお話によると、「願い通り二人の命を同時に受け取っては気の毒ゆえ、一人迎えとって、更にその魂を生まれださせ、又迎え取って二人分に受け取った」とのことであったと云う。この逸話の真偽ははっきりしない。後に見るように、「みき」の教えが、かなりな程度仏教的因縁論に仕立て上げられており、その変質を受けているからである。

 それはさておき、この出来事は「みき」にとって随分と印象深いことであったらしく、後年のみきが亡くなる前年の明治19年、89才の時、安達家に立ち寄り、その時なかなかの大漢であった59才の照之丞に向かって、「照さん、おんぶしてあげよう」と云って、照れると同時に年寄りなのを心配する照之丞を無理矢理背負って安達家の庭先を一周したと云う。

 お指図にこのことに触れた次のようなお言葉が為されている。

 「人間我が子までも寿命差し上げ、人を助けたは第一深き理、これ第一説いて居る」、「助け一条の台という、こら諭さにゃならん」、「助けた心は天に適(かな)い、これは諭さにゃならん」(明治3.2.2.2)。

 諸井政一著「改訂・正文遺韻」(108頁、昭和31年版)には次の記述が見られる。

 「教祖様、布留の宮へ御願がけの時、布留の明神より、天の神様へ通じ、月日様仰せには、『とひょうもないものが出て来た。とひょうもないものが出て来た。助けてやらにゃならうまい。我が子二人の寿命を供え、我が命までも捨てて厭わんと云う。頼もしい心の者、(世界中に)今一人とあらうまい。とひょうもないものが、出てきたで』と聞かせられしと。存命中刻限のお咄」。(「とひょうもない」というのは、「途方もない」が訛った言い方)
 足達源四郎(足達照之丞)

 庄屋敷村(現・天理市三島町)の人。幼名を足達照之丞、元服して源右衛門貞秀、明治になって源四郎と改めた。1828(文政11)年5.13日生まれ。1899(明治32)年8.24日没(享年72歳)。

【みきの「自律」足跡行程(4)、「ほうそう事件」】
 ここで、「みき」の「自律的自由」の発展について触れておく。興味深いことは、嫁して15年目既に3人の子持ちとしてのこの頃に於いて、みきが中山家の主婦としての相応の地位を占めることとなり、家政的な権限を充分に確立するに至っているということであろう。既に舅姑は没して居らず、課題であった世継をもうけることも為し得た。照之丞引き取りを廻って夫婦間で交わされた会話は、夫善兵衛の反対を覆しての預かりであったことから窺うのに、既にこの頃、家族制度の枠内とはいえ、対外的乃至面目上のことは賢く夫を立てるものの、家庭内の実権は「みき」の側に移行しつつあったと拝察させて頂く。いずれにせよ夫善兵衛の信任はますます厚く、有能な立ち働きが何らの不足をもたらさない良好な関係にあったと思われる。もとより、「みき」にいささかの私心なきが故に、又日頃の「みき」の主婦としての働きぶりが厚く信頼を得ていたということが、夫善兵衛の了解を為さしめた証左となるのであろうが。ここに漸く、「みき」が夫婦間において単に従順な妻から家庭の芯として実権を持つ母へと脱皮を遂げていることが伺えるであろう。こうした「みき」の「自律的自由」の度合いの深化の行程を追っていくのが興味深く、いずれ、この自由が飽和点に達する一点に達するのであるが、とはいえ、行程上はもう少し先のこととなる故に、しばらくの間はこの「掌中の自由」の拡大していく様を追っていくことになる。

 さて、「みき」の「掌中の自由」は、「ほうそう事件」によって頗る活動的な幅を持ち始めたこととなる。ほうそう事件後、平癒祈願の願掛けを果たすという意味もあって、「みき」は家業の合間合間に近辺の寺社神社廻りに勤しむこととなった。こうした事が許されたのも、「みき」が主婦として万全の働きを有能にこなしていた証左ではあろうが、こうした出歩きが可能になったという事自体が、従来の「みき」の活動範囲を大きく進展せしめたものであることは疑いないであろう。こうして、「みき」の「自律的自由」はいまや大きく進展を見せ、主婦としての立場の制限を受けることを除けば、かなりの程度駆使し得る立場になった、と拝察させて頂く。

【みき宗教的精神史足跡行程(7)、みきの神仏祈願と神通力の味得】

 引き続きこの時期の「みき」の信仰的足跡は寡聞で、教団の稿本天理教教祖伝その他の文献においても触れられることが少ない。こうした時期の「みき」の宗教的足跡を辿る上で、「ほうそう事件」は極めて重要な意味を持つことになった、と拝察させて頂く。一つは、「みき」が預かり子助けたさに、利己を絶対に離れた境地で余人の真似を為さしめないような驚くべき願立てをしたと云うこと。この祈願は、自らの命と我が子の命を差し出してまで他人の子の命の助けを願ったといった点で、常識人の規範とは随分とかけ離れていたこと。この二点に於いて思案を深めねばならぬと思う。

 これを史実とすれば、こうした願立ての是非を廻っては、今日的な視点よりすれば種々の物議、判断が可能であるように思われる。但し、日本人の伝統的な親子関係の近親的な通念からすればあり得ないことではない。この件から伺わねばならぬことは、願立ての内容を廻っての是非ではなく、利害の一片さえ備えぬ誠真実を証そうとした「みき」の御性情であり、その御性行の真骨頂であろう。更に、この事件は次のような重要な示唆を与えるものと思われる。即ち、「みき」は預かり子助けたさに、己の誠真実を賭けて神仏に祈願することによって、九分九厘絶対絶命のところを願い通りにお助け頂くことにより、人の智力の及ばざるところをも誠真実に願うならば、神仏の働きによってご守護のあることを感応したのではなかったか。今や「みき」は、「ほうそう事件」を通じて、神仏の存在と自らの神通力を味得するところとなったのではなかろうか。加えて、従前の「みき」とは画期を為して、今後の「みき」の身命は、願掛けの約束通り神仏の思惑に身を委ねることを決意させた「みき」を誕生させたのではなかろうか。こうして、「みき」は、「ほうそう事件」を通して信仰上に大きな転機を迎えることとなった、と拝察させて頂く。このことは、「みき」の宗教的精神的な足跡史上における大変異であったであろう。これを、みきの宗教的精神史の第7行程として確認しておこうと思う。


 「天理教教理を学び神意を悟る」の2015年9.17日付け「 」の「
資料⑤矢持辰三  稿本天理教教祖伝入門十講 第二章 生い立ち たすけ一条の台」( 昭和59.6.1日発行)。
 本文
  今は修養科などでも、「その子どもさんの名前は、何という名前の人や」ということはお聞きにならないと思います。ところが別科当時とか、私(矢持氏)たちが教祖伝を学んだ当時には、「これは何という人や」と言って、その〈教祖が〉おたすけになった人の名前を明らかにしておりました。そして〈天理〉本通りを通っていて、「あの家が教祖伝に出てきた、あの人の子どもさんの家や」とか、口々に言うわけです。そんなことが善いことであるはずがありません。ところが、そういったことは既に、明治32年のおさしづに、『そんなこと言ってはいかん』というお指図が出ているのです。
 『人間わが子までも寿命差し上げ、 人を救けたは第一深きの理、これ第一説いている』
 おさしづ 明治32.2.2

   教祖が、『自分の娘の命も差し上げます。それでも足りなかったら自分の命も差し上げます』そのような願いをかけてお救けになったという話なんです。『これは天の理に適う、大変深い話なんだ。そして、おまえたちもおたすけ の上で、色々と説いているであろう』。 『説いているなかに、救けてもろた人はまめ(この場合は元気、健康)でいる。救けてもろただけで恩は知らん。年は何十何才、諭している』(おさしづ 明治32.2.2) 
 『救けてもろただけで、あの人、恩知らへんねん。年は何十何歳で、どこにいはんねや。こういう諭しをしている』というわけですね。
 『今までは、ただこういう理で救けた、という理しか説かなんだ。 わが子までの寿命まで差し上げて、救けてもろた理はすっきり知らん。何ぞ道のため尽したことがあるか。理の諭しようで、道の理をころっと理が違うてしまう。ほんに、救けてもろた効はない。言わば、ほんの救け損のようなもの。 わが子まで亡くなっても救けた人の心、これが天の理に適い、わが子まで差し上げて救けてもろた恩分からん。世上から見て、何を言うぞいなあ、というようになる。人が誰それ、年が何十何才は言うまでやなあ。たすけ一条の台という、こら諭さにゃならん。遠く所やない。ほんの、そこからそこへや。救けてもろた恩を知らんような者を、話の台にしてはならん』(おさしづ 明治32.2.2 ) 

  こういうおさしづなんです。大体の意味を悟らせて頂きますと、教祖は、『今までは「こういう理で救けた」という理しか説かなんだということは、「わが子二人までも命を差し上げて救けた」こともある。ところが、そのお説き頂いたお話を段々それをほじくり出していって、「わが子の寿命まで差し上げて救けてもろたことは、あの人すっきり知らへんやないか。何ぞ、道のために尽したことがあるのか。ご恩報じしたことがあるのか」という風に詮索していったら、道の理がすっきり違うてしまうんや。私たち、おたすけをさせてもらって、「こんなに真実尽しておたすけさせてもろたのに、あの人は何のご恩も知らん、おかしな人じゃ」と、そういうものの言い方(説き方、諭し方)をしたならば、「本当に正しいおたすけ人としての、ものの言い方(説き方、諭し方)になっているであろうか」ということにもなってくる。そうすると、「ほんの救け損のようなもの。教祖、わが子の命まで捨てて救けはった。それに、何のご恩報じもせん、というのやったら、まるっきり救け損やないか」、そういう言い方(説き方、諭し方)もできてくる。 けれども、親神様の方から言いたいのは、わが子まで亡くしても救けた人の心、これが天の理に適うということです。わが子を差し上げてまで救けた教祖の行(おこな)い、それが天の理に適うたのであって、恩の分からん者の話まで、それに付け加えると、せっかく教祖がお救けになった話にキズがつく。世上から見て、「何を言うぞいなあ(何を言うてんねん)」というようになる。「その人は、年は何十何才で、まだ、どこどこに住んでいる」というようなことまで言うてはならない。わが子の命まで亡くして救かってもらったという話は、たすけ一条の台になる。だからこれは諭さにゃならん。教祖がお救けになったという人は、遠い所の者やない、ほん目の前にいる人や。救けてもろた恩を知らんような者を、話の台にしてはならない。

   この辺のところ我々は、このおさしづを拝しますと、救けさせてもろうた、救かってもろうたということや、それからその人が、救けてもろうたご恩報じの上から斯々然々(かくかくしかじか)の通り方をされて、このように一段と成人して下さったという話は、たすけ一条の話の台になるが、救けてもらっても恩が分からないで、かえって後ろ足で砂をかける、というような場合が実際にはあるけれども、それは話の台にしてはならない。そういう意味のおさしづだと思うのです。

  貴重な文献の価値を貶めないよう、教祖が黒疱瘡からお救けになった方のお名前を伏せず隠さず公開しますが、お道の人間として、上記の親神様の思召に背かぬよう、教祖のたすけ一条の台を汚さぬよう、宜しくお願い致します。

 〈参考〉改訂 正文遺韻  
 参考記録 梅谷先生 

   天で月日様の心、ぎ・み様を引き寄せて、『なんと世界を澄ます模様は』と言うて相談かけたら、『かぐら両人入れ、つとめを始め、これで末代治まりがつく』とお答えなされた。それからこの模様。

 1828(文政11)年4月、姑(教祖の父である前川半七正信の妹)きぬ出直し。



 (当時の国内社会事情)
 1828(文政11)年、全国人口2720万。
 越後大地震。
 1829(文政12)年、江戸大火(佐久間火事)。
 (二宮尊徳の履歴)
 1828年(文政11年)、42歳の時、桜町復興について、小田原公に辞職願を提出するも却下される。
 1829年(文政12年)、43歳の時、一月に江戸へ出掛けた後、四月まで行く方知れずとなる。この時、成田山に21日間こもって桜町建て直しを願い断食していた。4.8日、祈願満了、桜町領から125人の出迎えにより帰任する。文政十年から桜町へ赴任していた抵抗勢力の中心人物豊田正作が、三月に小田原に帰任する。以降、復興順調に進展する。

 (宗教界の動き)
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 (当時の対外事情)

 1828(文政11)年、8.10日、シーボルト発生。帰国途中のシーボルトの荷物から禁制品の日本地図が発見される。10.9日、高橋景保らシーボルト事件に関係し捕らえられる。12.18日、シーボルト事件発生。シーボルトが出島に幽閉され、関係者の投獄始まる。シーボルト事件で蘭学が大きく萎縮することになった。
 1829(文政12)年、1.15日、幕府、シーボルト事件に関し高良斎・二宮敬作ら23名を投獄する。1.29日、幕府、シーボルトの帰国を禁じる。2.16日、高橋景保(45)獄死。9.25日、幕府、シーボルトに帰国を命ずる。12.5日、シーボルト離日。

 (当時の海外事情)





(私論.私見)