第81部 1887年 90才 厳寒の急き込みとおさしづ問答その1、2、3
明治20年

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.26日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「厳寒の急き込みとおさしづ問答その1、2、3」を確認しておく。さて、ここからいよいよ教祖の「最後の仕込み」に入る。立教時の「三日三夜の談じ合い」の劇的シーンと並んで、この一連の経過は天理教徒の大きな財産となっている。教祖が如何に壮絶に信仰の灯を護り続け様としたのか、「おつとめの理」を重視していたのか、見ていこうと思う。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【おさしづ問答その1】

 1886(明治19年)は教祖が暗示されたような重大事件もなく過ぎて、1887(明治20)年の新春を迎えたが、新春早々即ち1.1日(陰暦12.4日)夕方、教祖は風呂場からお出ましの時、ふと、よろめかれた。その時、お伺い申し上げると、

 「案ずることはいらん。これは、世界の動くしるしや」

 と仰せになられた。初代真柱手記が、「ひよろひよろとひよろつきなされしハ」と題して、教祖の次のようなみ言葉を伝えている。

 「これが世界のひよろつき、このよのひながた」(「私のひよろつきは、世界のひよろつき」)。

 又々、何かしら重大事態を予言されているようなお言葉であり、道人の間には、気がかりな気分が覆うこととなった。幸いにこの日は、さしたる事もなく過ぎた。

 1.2日、教祖御気分悪しく、一同心配したが、この時はほどなく持ち直されたので、皆安堵した。

 1.4日、急に教祖の御身上が迫ってきた。身体が冷たくなり、息が止まるという状態になった。驚いた一同が、いかなる神意かと、教祖のお居間の次の間で、飯降伊蔵を通して指図を仰いで、思召しのほどを伺ったところ、次のような厳しい「お指図」であった。

 「さあさあもう十分詰み切った。これまで何よの事も聞かせ置いたが、すっきり分からん。何ほど言うても分かる者はない。これが残念。疑うて暮らし居るがよく思案せよ。さあ神が言うこと嘘なら、49年前より今迄この道長続きはせまい。今迄に言うた事見えてある。これで思案せよ。さあ、もうこのまま退いて了うか、納まって了うか」

 神意はこうである。

 「もう時は迫りきっているのに、どれほど言うて聞かせても分かる者がないのが残念である。今だに神の言うことを信じきれずにいるけれども、「お道」の続いて来た「理」を思案してみよ。今までに神が言うたことは皆な事実となって現れているだろう。これを見て思案すれば疑いの余地はないはずである。にも関わらず、これ以上親の言うことを実行できないのなら、親はもう、このまま身を退くかも知れないぞ。さあ返答はどうだ、決意はどうだ」。

 道人の「心定め」を促す厳しいおせき込みを為されたことになる。

 この時、お言葉の通り教祖は息をなさらなくなり、御身上が冷たくなられた。一同にとって驚き以上の出来事となった。もはやこれ以上、教祖の身を案ずるゆえとの理由で「おつとめ」をためらう訳にもいかない、との悟りが漸くつき、そこで早速、1.5日から、鳴物は不揃いのままではあったが、連日お詫びの心を込めて「おつとめ」をさせて頂いた。しかし、それはまだ官憲を憚って、夜中門戸を閉ざして、ひそかに勤めるという不徹底なものであった。その為か、教祖の御身上は幾らか持ち直された様子ではあったが、依然として何も召し上がられなかった。

 1.8日の夜、その日居あわせた道人が、教祖の御身上について真剣な練りあいをした。その日居あわせた道人というのは、昨年以来、教会設置の相談をしてきたいわば応法派の主だった面々であった。教祖の御身上急変を気遣い、期せずしてお屋敷に集またものと察せられる。この夜の練りあいは堂々廻りを続けることとなった。応法派の「お道」の存続維持という大義名分を廻って、会議は容易に結論に達することができなかった。こうして夜を徹し、会議の終わったのは翌1.9日午前5時であった。この徹夜の会議で到達した結論は次のようなものであった。

 「世界並のこと二分、神様のこと八分、心を入れつとめを為すこと、こふき通り十分致すこと」。

 「世界並のこと」とは、「教えを曲げてまで」応法的な教会設置の公認を受ける為の画策や運動を続けていくことを云う。二分とは云いながら「世界並のこと」を先に述べていることを見れば、「世界並のこと」の方に関心がより強くあったと窺うべきであろう。依然として溝が深いことが知らされる。「神様のこと八分」というのは、教祖の御教えに八分の重点を置いて実行させて頂くということであり、この局面においては、教祖のおせき込み為される「おつとめ」の実行に向かって諸事取り仕切るということを意味する。「こふき通り」という意味は、教祖の教え諭してこられた教義通りということであろう。

 教祖が息をせられなくなったり、冷たくなったりされているという、緊急非常の事態を前にしての結論が、依然として「世界並のこと」であったと解釈され、他方での教祖のおせき込みに照らしてみれば、応法派の動きの内には、既に「お道」の存続維持を眼目として自立しており、教祖の威厳は相対化させられていたことを伺うことができるであろう。従って、この結論を全体的に眺めてみれば、「応法の理」を続けるが、応法は必要最小限にとどめ、できうる限り教祖に教えに沿うように応法に流れ過ぎぬように致そうという申合せを為した、という程度に考えられるであろう。これが、この時点における、応法派の、教祖の思召しへ歩み寄った限界であったと見做すことができる。

 1.9日、教祖は、朝からご気分よろしくなられ、御飯さえ少々召し上がられた。教理では、教祖の思召しにお答えすべく、人々が真剣に夜を徹して練りあった事実だけは御受取下されたものとして受け取る。この日は、教祖のお口から、親しくお話があった。

 「さあさあ年取って弱ったか、病で難しいと思うか。病でもない、弱ったでもないで。だんだん説きつくしてあるで。よう思案せよ」(お指図、明治20.1.9日)。

 このお言葉を思案すれば、この、教祖の身上は年を取って弱ったのでもなければ、病で難しい状態になっているのでもない。長年の間に段々と説きつくしてある。わざわざ親の身上にさわりをつけて、「おつとめ」をせき込んでいる所以を思案せよ、との意となる。多年説き続けて下された点を悟れば、まっしぐらに教祖の仰せに忠実となるべきはずであるのに、未だに仰せ頂く「理」に徹しきれずにいるようでは、教祖の御身上すっきりご守護頂くことなど思いもよらぬとの御催促とも拝察できる。

 1.10日、教祖は、またまたご気分悪しく、不快の模様に拝せられた。これに驚いた一同は、相談はしてみたものの、容易に結論が出ないまま、神意をお伺いする以外に道はないということになり、この日午後3時、教祖お居間の次の間で、飯降伊蔵を通して、「教祖の御身上如何致して宜しく御座りましょうか。おつとめも毎毎致さして頂きますが、夜ばかりでなく、昼もつとめを致さして貰いましょうか。すっきりなる様に御受取下されましょうか」と、お伺い申し上げた。さすがに、この伺いの言葉には皆なが相当狼狽している色が見え、しどろもどろな点さえ窺える。これに対する、1.10日付け「お指図」は、次のような実に厳しいお言葉であった。

 「さあさあこれまで何よの事も皆な説いてあるで。もう、どうこうせいとは言わんで。49年前よりの道のこと、いかなる道も通りたであろう。分かりたるであろう。助かりたるもあろう。一時思やん思やんする者ない。遠い近いも皆な引き寄せてある。事情も分からん。もう、どうせいこうせいの指図はしない。銘々心次第。もう何も指図はしないで」。

 この「お指図」を思案すれば、もうこれまでに説いて聞かすことは説き尽くしてある。もはや、どうせいこうせいと一々言ってもらわにゃわからん段階ではない。49年前、すなわち天保9年以来通ってきた道の跡を振り返って見ただけでも分かる話だ。既に今までにどんな道筋も通ってきた。よしやそれがどんなに通るに通れない道であっても、教祖の言葉一つに通ってきた実績がある。その道中で大勢の者が結構におたすけ頂いて、その喜びから遠い近いの別もなく、このおやさとにお引き寄せ頂いている。

 こうした事実の跡に鑑みても、いかに厳しい道であっても、親の言葉に従ってさえおれば通れないはずはないということぐらいはわかりきっているはずである。未だにそこへ思案がつかぬようなことで何とするか。こうした事情がわかれば、有無を言わずただ一条に教祖のおせき込み下さるところを実行するばかりとなる筈である。これがわからぬような者に、今更どんな指図をしても甲斐が無い。もう、どうせいこうせいとは言わん。めいめいの心次第、勝手にするがよかろう。もう何も指図はしないとのお言葉であった。

 「もう何も指図はしないで」とまで仰せになられた厳しいお言葉に打ち驚いた一同は、すぐさま真之亮の許しをもらって真剣な練りあいを始めた。前川菊太郎、梶本松治郎、桝井伊三郎、鴻田忠三郎、高井直吉、辻忠作、梅谷四郎兵衛、清水与之助、諸井国三郎の面々であった。さすがに、この時は、重ね重ねの「お指図」によって、一同の心に問題の核心がはっきりしたのと、しかもその実行が、もはや一刻の猶予もないほどに迫られているという緊迫感をもって受け取られていたので、比較的短時間で結論に到達したようである。しかも、この時に得られた結論は、前回のそれのように、いずれ悠長なものとしてでなく、今宵直ちにおつとめを夜を徹して敢行させて頂こう、という徹底したものであった。

 そこで、まず真之亮の同意を得るために、この一同の決心を申し述べたところ、真之亮からは、「いずれ考えの上」というだけで、諾否の回答がなかった。容易に返事が得られぬことを察した一同は、じっとしておれず、鴻田忠三郎、桝井伊三郎、梅谷四郎兵衛、増野正兵衛、清水与之助、諸井国三郎、仲野秀信の道人が再度の協議をかさねた結果、夜の9時に至って、まだ真之亮様の返事がないが、ご両名のご意見は如何なものであろうかと、前川菊太郎、梶本松治郎両人の肚を問うこととした。両人と云えども、真之亮の返事を得ずに踏み切れるはずはない。そこで、両人から今一度、真之亮の意見を問うことになったが、真之亮からの同意はなかった。教理では、次のように真之亮の心理を伺う。

 「真之亮とて、教祖のお急き込みを素直にお受けし、一切を打ち捨てて、ただ一条の理に徹しきれたら、どんなにか心は救われるであろうか。それはわかり過ぎるほどにわかっている。一刻も早く、そうなりたい心は山々である。その点については、誰にも劣らぬ熱情を持っている。それだけに、一同の気持ちは身に鞭を当てられるほどの痛さで感じられる。それでいながら即断できないところに、真之亮の言うに言われぬ立場の苦労があった。おつとめをするのはよいが、それは必ず警察の出張を招き寄せる結果になることがわかりきっている。その場合、御身上不快である教祖の身を又再びご苦労させねばならない。ここに思案が及ぶ時、直ちに皆に同調することにはならなかったのである。従って、両人から、一同を代表しての催促に接しても、おいそれと簡単に返事をできかねた」。

(私論.私見)

 前述の「真之亮の心理を伺う本部教理」は、教祖のお急き込みされる「おつとめ」を為すべきか、それによる教祖の又々のご苦労を思うにつき逡巡とを二項対立させているが、この時期の真之亮の心理は、公認権を得る為の都合との三項対立でないと解けない。それを敢えて二項対立で解説しているところに本部教理のらしさを見て取れよう。

 勢い、ここに3人の協議が始まる結果になった。お互いに、胸の内はわかり過ぎるほどにわかっていながら、何時まで話し合っても、決定が出なかった。教祖ご苦労の様を案じた場合、道人も含めて再再度の弾圧に耐え得るであろうか、の一点を廻って、又「お道」の将来はどうなるのであろうかについて、問題はいつも同じところを堂々周りするだけで、この協議も結論を見いだせないまま時を費やすこととなった。


【おさしづ問答その2】

 結局、今一度、真之亮から教祖にお伺いしてもらうより他なかろうというところに、話しは決着した。結果だけから見ると、話しは振り出しに戻ったような感さえあるが、緊張と心痛の一夜が明けて既に11日の未明となっていた。1.11日、そこで一同、初めて休息することになった。この日教祖は、朝からご気分宜しく、お床の上に起き上がって、髪をくしけずられるほどであった。教理では、夜を徹してまで真剣に練りあった一同の真実をお受取下されたものと受け取る。かくも、気分のよくなられた様子に、一同ホッと安堵の一息をつくことはできたものの、まだ懸案の問題を果たしたわけではないから、手放しで安心するわけにいかない。殊に真之亮は、事態打開の権限を一任された形であり、その胸中は重苦しく、誰一人相談相手もないまま思慮し続けることとなった。

 別室には、今か今かと真之亮の返事を待ち兼ねている一同が控えており、こうして真之亮の一挙手一動が注目されることとなった。教理では、この時の真之亮の心中を次のように窺う。

 「別室に控えている道人のはやる心が分からない真之亮ではない。一同のあせりを痛いほど背後に感じながらなお且つ、お伺いに踏み切ることのできない真之亮の心中。それは、とうてい我々の筆舌などに尽くせるものではないと察せられる。いかに、自分の心の苦悶が重苦しくのしかかってこようとも、せっかく気分よろしくお過ごし下されている教祖のお顔を拝すれば、たとえ寸時といえども、至らぬ人間のお伺いによって、心曇らすようなことがあっては申し分けないと思われて、口先まで出かけているお伺いの言葉も、せきとめられてしまうのであろう。やっと気分よろしくおなり下されたばかりの教祖に、難しい問題の解決をお尋ね申し上げて、お心をわずらわすことはなんとしても申し訳ないことに思われて、お側に付き添っておりながらも、なかなか切り出す機会に踏み切れなかったのであろう、と」。

 真之亮は動かなかった。11日は、優柔不断のまま丸々為すところなく過ごすこととなった。12日、この日も無為に過ごし、真之亮の返事を待ち兼ねている一同の前に、いよいよこれからお伺い申し上げるとの決意を示したのは、ついに12日の夜も明けて13日の明け方3時であった。思えば、10日午後3時のお伺いに対する「もう何も指図はしない」という、厳しいお言葉に打ち驚き徹宵協議をしたが、すっきりした結論の出ないまま、真之亮から今一度教祖にお伺い頂くということになったのが11日の未明であった。それ以来13日の未明に至るまで、ちょうど丸々二昼夜が経過している。この間、真之亮はこの二昼夜、休息するほどの心の余裕もなく考え続け、その果てに遂に教祖にお伺い申し上げる決意となった。

 1.13日(陰暦12月20日)、真之亮は前川、梶本の両名を付き添わせ、教祖の枕辺に進み、つとめについてお伺いをした。すると、教祖じきじきのお話があった。

 「さあさあいかなる処、尋ねる処、分かりなくば知らそう。しっかりしっかり聞き分け。これこれよう聞き分け。もうならんもうならん。前以って伝えてある。難しいことを言い掛ける。一つの事に取って思案せよ。一時の処どういう事情も聞き分け」(1.15日付けお指図)。

 教祖は、真心こめての一同の練りあいと、二昼夜にわたる真剣なる思案の果てのお伺いをお受取り頂き、どんなことも、思案にあまって尋ねるならば、わからぬことは何でも教えてやろうと、やさしく話しかけてくだされた。

 この時、真之亮は、「教会本部をお許 し下された上は、いかようにも神様の仰せ通り致します」と願われ、教祖が「何か願う処に任せ置く」と仰せられ、初代真柱は「有難う御座ります」 と応えている。教祖は、但しとして「おつとめ」の実行を迫った。これに対して、真之亮は煮え切らぬ態度を見せた。

 真之亮の態度を見るや、教祖は叱責した。「もうならんもうならん。前以って伝えてある」と、すべては前々から伝えてあるので今更言わずともわかりきっているはずである。今となっては、断固実行すれば良いのであって、もう一刻の猶予も相ならん。親神はお前たちにとってはまことに難しいことを言い掛けるようであるが、今はもう時が迫っている。「おつとめ」をするのかしないのかのこの一点に絞って結論を持って来い。「おつとめ」をすると云うのであれば、どういう事情も聞き分けしよう。「おつとめ」をしないと云うのであれば、それは話にならないと、「おつとめ」を又してもお急き込みされた。

 事態は、既にわかり過ぎるほど明白である。これほど明白に教祖のおせき込みくださる筋がわかっておりながら、直ちに実行に踏み切れないところに、応法派の、その代表者である真之亮の苦悶があった。真之亮も余程覚悟の上でお伺いに臨んだもの思われ、二昼夜の思慮の胸の内を晒しだすかの如く、あいまいさを一切捨て去るべく次々とお伺いを発して行った。その第一弾が次の問いかけであった。「前以って伝えあると仰せあるは、つとめの事で御座りますか。つとめ致すには難しい事情も御座ります」と申し上げると、

 「さあさあ今一時に運んで難しいであろう。難しいというは真に治まる。長う長う長う四十九年以前から何も分からん。難しいことがあるものか」

 との仰せであった。

 今すぐに「おつとめ」をすることは難しいと思うであろうが、その難しいことを神一条の理に徹してつとめるところ、親神にお受取り頂いて、真に治まる結構の理をお見せ頂くことができる。難しいとか何とか言うているけれど、天保9年以来今日まで長らくの間通ってきた道すがらを思案してみるがよい。親神の仰せ通りに従ってきて、悪くいったためしがなかろう。その辺りのところがしっかりわかっていれば躊躇することなど、あるはずがない。このことが分れば、親神の言うことに決して難しいことなどあるはずはない、との仰せであった。いよいよ神一条の理に徹し、つとめ一条に踏みきるよう一同の決意を促された。

 教祖のお言葉を受けて、真之亮は第二弾の問いかけを発した。「法律がある故、つとめ致すにも難しゅう御座ります」と、応法派の胸中を正直に申し上げた。教祖のお言葉は、

 「さあさあ答うる処、それ答うる処の事情、49年以前より誠という思案があろう。実という処があろう。事情分かりがあるのかないのか」。

 「法律があるから難しい」というような返答をしているが、そもそもこの道は、49年以前の道の始まりから誠真実を元にして、一切の思案をしてきた。時に法や掟によって取締りも受けてはきたが、道は常に、ただ一条の真実をもって貫いて、今日まで誤りなく通ってきている。かかる事情がお前たちは分かっているのか、分かっていないのか、どうなんだと仰せになって、どこまでも神一条の理に従い、誠真実をもって通るなら絶対に間違いはないということを、長い過去の道すがらに照らしながらお諭しくだされた。

 かくお教え頂く理の筋道はわからぬではない。これを具体的に言えば、おせき込み頂くつとめ一条に踏み切ることだということも充分にわかっている。わかっておりながらも、素直にそれに踏み切れないところに、真之亮をはじめ応法派の苦悶があった。教祖の仰せに従えば、必ず国の掟が厳しくこれを阻もうとする。そこに、教祖のご苦労を頂かねばならなくなる。せっかくできあがりつつある「お道」の将来はどうなるのであろうか。この現実に直面している避け難い苦悶の解決は、どうすればよいのであろうか。思案にあまる苦悩を、そのままぶちまけるように、真之亮は第三弾の問いかけを発した。「神様の仰せと、国の掟と、両方の道の立つようにお指図を願います」 。これに対して、教祖は、

 「分からんでもあるまい。元々より段々の道すがら。さあさあ今一時に通る処、どうでもこうでも仕切る事情いかん。ただ一時ならんならん。さあ今という今という前の道を運ぶと一時一時」。

 元々、この道の初めから段々の道すがらの中に、理の道筋は充分に見せてあるはずであるから今更わからんことはない筈である。今となっては、もうどうでも前々から教えてある通りに運ぶように、「ともかくやれ、何をおいてもやれ、つとめを果たせ」と仰せられた。

 このお言葉は、真之亮の伺いの筋には一見脈絡のないお言葉である。これを思案すれば、親神様の仰せくださる理の筋道は、一応心にわかっておりながら、思い切ってそれに徹しようと努力することなくいたずらに、人間心の中に沈潜するところに生ずる迷いをさらけ出して、親の救いを求め、親にすがろうとするような甘えた願いには、取りあおうともなさらず、親神のおせき込みの一点をずばりと言い放っことによりご返答されたものと拝察し得る。

 さすがに、このお言葉が道人に何を迫られているかということは、明瞭であった。おつとめを為すことを拒み切れない心定めを為した真之亮は、暫し猶予を願うべく、第四弾の問いかけを発することとなった。「毎夜おつとめの稽古致しまして、しっかり手の揃うまで猶予をお願い致します」。これに対する教祖のご返答は、

 「さあさあ一度の話を聞いて、きっと定めおかねばならん。又々別の道がある。一つの道もいかなる処も聞き分けて。ただ止めるはいかん。順序の道順序の道」

 とのお言葉であった。

 一度お話を聞いてわかった以上は、必ずそれに添わせていただくという、はっきりとした心定めをしておかねばならん。将来の事を考えると、またいろいろの道があるから、それに備えていろいろと準備や手順もあるであろうが、今はそんな先々のことよりも、今ここにさし迫った一つの道を立て貫くために、いかなる心配ごとも神一条の上からよく聞き分け、しっかり心定めをすることが肝心である。今、ここで心定めをはっきりするのだ。そうすれば道は開ける。それを、ただ法律だけにとらわれて、大事なおつとめを渋ることは良くない。物の順序、理の順序が大切であると、なおも、おつとめの勤行を促されたことになる。


【おさしづ問答その3】

 真之亮をはじめ親戚連合と教祖の問答はその後も10数時間続いた。その間教祖は、重態の中でも、つとめの大切さを淳々と説き続けられた。こうして、教祖と応法派の練りあいは延々と続いて行くこととなった。

 ここまで迫られては、もはや絶対に抜き差し成らぬところであるが、真之亮の心からは、なおも教祖の身上と「お道」の存続に対する懸念とが離れない。それは言うまでもなく、国の掟を無視しておつとめを敢行した場合の結果に対する心配であった。真之亮は、このたびの一連のお伺いにより、問い詰め切るとの覚悟であったものと思われる。こうして、第五弾の問いかけを発した。「講習所を立て、一時の処おつとめのできるように、さして貰いとう御座ります」と申し上げた。当局の公認をとって、安心してつとめをさせていただきたいという申し出であった。これに対して、教祖は、

 「安心がでけんとならば、先ず今の処を、談示談示という処、さあ今という、今と言うたら今、抜き差しならんで。承知か」

 という厳しいお言葉であった。

 神意はこうであった。法律があるゆえに親神様の仰せの「おつとめ」に踏み切ることができない。今の窮状を切り抜けるために講習所でも立てて、法に触れずに「おつとめ」のできるような措置を講じた上で、というようなのんびりしたことを言っているが、事態はもはやそんな悠長な考えを許さない。もう、今と言うたら、今すぐに踏み切らねばならぬ、抜き差しならぬところに迫っているのだ。この重大時機をどう考えているのか、「今はおつとめ優先、応法のこと後回し」を厳しく仰せになられた。二者並立的な真之亮の願いを二者択一的に捉えた上で、つとめの優先をせき込まれた教祖であった。

 ここまでのお伺いを通して、真之亮にも、ようやく教祖の仰せ下さる通りに事を運ぶ以外の道がないことがわかりかけてきた。即ち、事態は既に弥縫策や糊塗手段で解決されるものではない。時間の猶予もない。残された道はただ一つ、教祖の仰せ通りに踏み切る以外はないということがはっきりと悟れた模様となった。

 真之亮の第六弾の問いかけが発せられた。「つとめつとめと御急き込み下されますが、ただ今の教祖の御障りは、人衆定めで御座りましょうか、どうでも本づとめ致さねばならんで御座りますか」と押して尋ねた。この伺いには、親神のお急き込みを受けて立とうとする上から、つとめを為す要点を確かめておられる積極性が窺える。教祖は、こうした真之亮の気分をお受取下されてか、

 「さあさあそれぞれの処、心定めの人衆定め。事情なければ心が定まらん。胸次第心次第。心の得心できるまでは尋ねるがよい。降りたというたら退かんで」

 と懇切にお答え下された。

 神意はこうであった。即ち、ただ今、教祖がお急き込み下されているところは、心定めの人衆定めである。この大ぶしに当って、親神が急き込んでいるところをしっかり心に悟り取って、これを受けて立つ心定めをすることが大切である。そして、そのお前たちの心の定まったところによって、人衆を定めるのである。難しい事情があるからこそ、真剣な心定めができるのであって、事情がなければ、なかなか真の心定めというものはできるものではない。だから、この節に当ってしっかりと心定めをするのがよい。その上はすべてお前たちの心次第、胸次第である。この点をよく聞き分けて、どこまでも神一条に、つとめ一条に進むよう。まだ、これでも得心ができなければ、心に納得のいくまで尋ねるがよい。すべて教えておこう。神が降りたといったら退かぬ。取り返しのつかぬことにならぬ前に、しいっかりと聞いておけ云々。教祖は、お伺いの筋に合わせてかくも懇切にお教えになられた。

 13日の明け方から始まったこのお伺いは、押しての願い、押しての願いと回を重ねること7回、無我夢中で遣り取りされた。

 教理では、どうすれば教祖の御身上健やかになっていただけるであろうかということを廻っての問答であったと受け取るが、既に見てきたように、それは煎じ詰めると、「お道」の存続のさせ方を廻っての、応法派の論理に対する教祖と応法派代表真之亮との火花を散らした問答であった、と受け取るのが正確であろう。この間、既に何時しか一昼夜の時が流れていた。この問答を通じて、教祖は、一貫して抜き差し成らぬ時の迫っていることを確認せしめ、いよいよ早くと心定めをおせき込み下されたのである。

 14日の明け方、教祖の御身上またまた悪しき模様に拝された。これに打ち驚き、続いて押しての願いとして、教祖の御身上の平癒を願ったところ、御身上御不快の中にも関わらず、

 「さあさあ如何なる事情、尋ねる事情も分かりなくば知らそ。しっかり聞き分け。これこれよう聞き分け。もうならん、もうならん、もうならん。難しいことを言い掛ける。一つ心に取って思案せ。一時の事情、どういう事情を聞き分け。長らく49年以前、何も分からん中に通り来た。今日の日は、世界世界なるよう」

 と懇切に御教え下された。

 神意はこうであった。即ち、事情があれば、如何なることでも尋ねが良い。分からぬことは、どんなことでも教えてやるから、しっかり聞き分けるがよい。だが、親神のせきこんでいるつとめの勤行は、もう一刻の猶予もならん。親神は、お前逹にとって、まことに難しいことを言い掛けるようだが、一つ心に悟り取って、よくよく思案せねばならない。今、ここに迫りきっているつとめの儀ばかりは、どんなことがあってもこれを聞き分け、実行せねばならん。もう長らく、49年も以前から、親は世界一列助けの親心からこの道を教え、また急き込み続けてきたのであるが、お前たちは、その深い親の心は何もわからずに今日まで通ってきたのだが、もう今日は、この助け一条の道を広い世界に及ぼさなければならぬ時が迫っている。いよいよ親神の珍しい助けが広い世界に出るのである。親神の珍しい助けが広い世界に及ぶのである。「今日の日は、世界世界なるよう」とは、「今こそ教えが世界に及ぶ、助けが世界に及ぶのだ」の意である。つまり、万難を拝してつとめに踏み切るように、との激しいお急き込みであらせられた。

 これを受けて真之亮は、「協会本部をお許し下された上は、いかようにも親神様の仰せ通りにします」と応えている。教祖は次のように仰せられた。

 「さあさあ事情なくして一時定めでき難ない。さあ一時今それぞれ、この三名の処で、きっと定め置かねばならん。何か願う処に任せ置く。必ず忘れぬようにせよ」。

 教祖は、最終的に「何か願う処に任せおく」と真之亮の願いを聞き入れた。が、「きっと定め」おくことがその前の前提であると釘をさしている。

 「さあさあ一時今から今という心、三名の心しいかりと心合わせて返答せよ」

 と三名の決意を尋ねられた。「三名の者(真之亮と梶本、前川)が、本当に心を合わせてつとめができるか答えよ」とのお言葉であった。これへの返答は明らかにされていないが、合点を証したとは推測し得る。

 次に、真之亮は伺った。「この屋敷に道具雛型の魂生まれてあるとの仰せ、この屋敷を指して、この世界始まりのぢば故天降り、ない人間ない世界をこしらえ下されたとの仰せ、上(かみ)も我々も同様の魂との仰せ、右三か条のお尋ねあれば、我々何と答えて宜しくございましょうや。これに差し支えます。人間には法律に逆らうことは叶いません」。教祖はこう答えている。

 「さあさあ月日がありてこの世界あり。世界ありてそれぞれあり。それぞれありて身の内あり。身の内ありて律あり。律ありても心定めが第一やで」。

 神意はこうであった。即ち、全ての始まりは親神である。その後に世界が生まれ、人が生まれている。その後に人の世に法律なるものがつくられている。この順序を履き違えてはならない。法律が何を為そうとも、親神の思いを聞き分けてその意向に添おうとする心定めが何より大事である。つまり、「あらゆるものの上に親神を置く」という宣言であり、この順序は変わらない、それ故親神の意向に添う処世を為すとの心定めが一番肝心であると言い聞かせたことになる。

 もはや、真之亮は覚然と理解せざるを得なかった。そして、云う。「我々身のうちのことは承知致しましたが、教祖の御身の上を心配致します。さぁという時は、いかなるご利益を下されましょうか」。教祖はこう答えている。

 「さあさあ実があれば実があるで。実といえば知ろうまい。真実というは、火、水、風」。

 お言葉は短かったが、教義のエッセンスを端的に述べられていた。人の誠真実は神が拾い、引き受け、守護していただける。

 「さあさあ実を買うのやで。価を以って実を買うのやで」。

 親神の思し召しに叶う誠真実で処世せよ。教祖のこの言葉をもって長い長い問答は終わりを告げた。

 教祖の身上は、この日を境にやや快方に向かわれた。1.18日夜から連日「神楽手踊り」が執り行われた。2.17日の夜まで続けられることになる。未だ深夜に密かに行われていた「つとめ」ではあったが、それでもつつがなく行われた。道人は、厳寒の中にも水行をし、教祖の平癒を心から願った。不思議なことに、官憲の介入はこの間一度もなかった。時には身を起こし、教祖は下駄を履いて庭へさえ出て行かれた。

 1.24日(陰暦正月元旦)、この日の教祖のご気分は大層よく、年賀に集まった一同に次のように仰せられた。

 「さあさあ十分練った練った。この屋敷始まってから、十分練った。十分受け取ってあるで」。

【明誠社を率いていた奥六兵衛が神がかり】
 この頃、講社の明誠社を率いていた奥六兵衛(1850−1911)が神がかりとなり天啓の言葉を告げていたとされている。奥の重要なパートナーであった松谷喜三郎(T838−1925)が、みき逝去後、「言上の伺い」の許しが現われ始めたとされている。

 (道人の教勢、動勢)
 「1886(明治19)年の信者たち」は次の通りである。
 島村菊太郎()

 「島村菊太郎」(「清水由松傳稿本」126−127p)。

 「高知の人、高知大教会の初代で、明治20年頃入信された。身長五尺六寸位、顔にあばたがあり、聲は浄瑠璃声で枯れて太く、いたって正直な物堅いやさしい人であった。明治34年頃、初代真柱様から、本部員にとおさしづ願われたら速やかにお許しがあった。その前3年ほど準員をつとめておられたが、とても青年を可愛がられた。初代真柱様の実兄松次郎さんが、高知の設置の時からいろいろ世話しておられたが、明治24年10月、神様のお許しなくて高知へゆかれ、帰って翌11月3日、コレラで出直された。その后、息子の國治郎さんが養子となって高知を継がれたが、これは島村先生の出直される一ヶ月位まへのことだときいている。先生は明治44年1月29日、54才で出直しされた」。

【この頃の逸話】
 紺谷久平
 稿本天理教教祖伝逸話篇「200、大切にするのやで」。
 「明治20年1月11日、紺谷久平は、信者一同が真心をこめて調製した、赤い衣服一枚と、赤の大きな座布団二枚を、同行の者と共に背負うて、家を出発し、おぢばに帰らせて頂き、村田幸右衞門宅で宿泊の上、山本利三郎の付添いで、同1月13日、教祖にお目通りした。教祖は、御休息所の上段の間で寝んで居られ、長女おまさが、お側に居た。山本利三郎が、衣服を出して、これは、播州飾磨の紺谷久平という講元が、教祖にお召し頂きたいと申して、持って帰りました、と申し上げると、教祖は御承知下され、そこで、その赤い衣服を上段の間にお納め下された。つづいて、座布団二枚を出して、山本が、これも日々敷いて頂きたい、と申して持って参りました、と申し上げると、教祖は、それも、お喜び下されて、双方とも御機嫌宜ろしくお納め頂いた。それから仕切りの襖を閉めて、一寸の間、そちらへ寄っておれ、とのことで、山本は下の八畳の間に下りる。紺谷も共に畏まっていると、おまさが襖を開けて山本を呼んだので、山本が教祖のお側へ寄らせて頂くと、赤衣を一着お出しになって、『これをやっておくれ』と、仰せられ、続いて『これは粗末にするのやないで。大切にするのやで。大事にするのやで』と仰せになった。山本は、きっと、その事を申し聞かします、とお答えして、八畳の間に下り、紺谷に、教祖から、そう申された、と詳しく話して聞かせた。こうして、紺谷久平は、赤衣を頂戴したのである」。


 (当時の国内社会事情)
 1887(明治20)年、東京で電灯営業始まる。この頃、自転車や娘義太夫が大流行。 徳川慶喜自転車を購入し、静岡から清水へ遠乗り。安保条例が公布、施行される。東京に中央気象台を設置する。大阪府から奈良県が分離する。二葉亭四迷「浮雲」。

 (宗教界の動き)
 1887(明治20)年、1月、神道事務局が神道本局となる。
 官国幣社に対して1902年までの「保存金」の支給を定め、従前の経費・官費営繕を廃止した。「保存金」は後に1917年までに延長された。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)





(私論.私見)