第8部 1821〜27年 24歳〜29歳 この頃の世相とみきの苦悩
文政4〜文政10年

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「この頃の世相とみきの苦悩」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


 1822(文政5)年、この頃、夫善兵衛が庄屋敷村の年寄となる。


【この頃の世相と折々の逸話】
 「みき」が「へらわたし」を受け主婦となり家政切り盛りに向かったこの時分は世相の移り変わり激しく、大和の片田舎にも時代の波が激しく押し寄せる頃であった。この頃の折々の逸話が伝えられているが、自ずと世相を語っており、同時に「みき」らしい対応に感嘆させられるところとなる。

 1821(文政4)年、この年も農民の窮状は深刻さを増し、幕府は窮民30万人に銭七万五千余貫を与えて救済を図ったが、所詮焼け石に水であった。畿内の農民も又季節的な大風雨に直撃され、「救米」を求める動きを見せる等少なからぬ被害を被っていた。1823(文政6)年、5、6月は記録的な大旱魃と大風雨に襲われることが重なり、生活力の乏しい小作人は一層の塗炭の苦しみをなめさせられることとなった。こうして天災地変、飢饉が相次ぐ中、時代が政治性を強めつつあった。西欧列強による日本攻略の足音が聞こえ始めており、これに対抗せんとする政治主張として尊王運動が活発な台頭を見せ始めていた。他方、長崎を上陸地点とした蘭学が西欧の新しい文化を日本人に伝え、ひいては幕府の封建政治治政に対する批判の度を強める触媒の役目を果たし始めていた。当時、蘭学に励みあるいはそれを志した人々の間では、鎖国に墨守する幕府のかたくなさを俎上に乗せ、喧々がくがくの論議を為すのがいわば流行となった。

【逸話その1、米泥棒騒動】

 ある日、庄屋敷村の貧しい男が、中山家の米蔵から米を盗みだそうとしているところを取り押さえられ、村役人に突き出されようとしている最中、その騒々しさに「みき」の知るところとなった。後ろ手に縛られた盗人を前にした「みき」は、事情を質したところ、盗みをしなければ暮らしていけぬ身の上を気の毒がり、村役人に届け出るどころか、逆に担ぎだそうとしていた米を分け与えて放免したと云う。この時の言葉として次のお言葉が伝えられている。

 凡そ世の中に人の物を好んで盗るものはあろうまい。貧しさのあまり心をわかして盗むのであろう。気の毒のものや」(「貧に迫っての事であろう。その心が可哀想や」)。

 罪を憎むより、罪を犯さねばならぬ事情を不憫と胸を傷めたみきであった。この逸話は、「みき」の心が、自らは結構な立場であるのに関わらず、その利害得失を離れて、現象的な是非善悪の背景に潜む社会の根源にまで思いを馳せ、悩みをともにしていたことが伺える点で貴重である。事実、「みき」は、宗教家の安直な手法、つまり事の是非を善悪で片づけて一件落着とする精神を持ち合わせていなかったように拝察される。「みき」の精神は「衆生救済」にあり、そうした立場で、一人の盗人に対しても、彼の行動の背景にある生活環境の貧困さに憐れみを禁じえなかったのであろう。「みき」の御性情が偲ばれる逸話である。


【逸話その2、怠け者作男改心】

 又ある時、収穫時には沢山の田地持ちの中山家として季節労働者を雇い入れるのが恒例であるが、その中で名うての怠け者が作男として雇われた。この男は、丈夫な身体をしているにも拘らず、食事は人一倍するが仕事は少しもしないという塩梅だった。当然に作男衆の中でも除け者であった。「みき」は、この男に小言一つ言わず、むしろ温かい言葉をかけて労い続けた。この男は、それを良いこととして、又みきの心を推し量るようにして尚も怠け続けた。当然作男衆の間で不満もくすぶり、「みき」の態度にやきもきする日々であったけれども、「みき」の労りは変わらなかった。「みき」にすれば、立派に働ける体をしてその気になれない性根を痛々しく哀れと思ったのである。そうしたある日、勝手が違っていつまでも衷心から続く「みき」の慈愛の深さに胸を打たれたか、この怠け者は生れ変わったごとく働き始めた。以来、この作男は後々まで人一倍の働きものの某として知られるようになったと云う。「みき」は、後に、

 あんな者あかんと言えば、あかんようになってしまう。どんな者でもあかんと言うのやないで。反古紙でも丸めて捨ててしまえば、それきりのもの。しわを伸ばせば何かの間に合うやろう

 と諭したが、この怠け者に対してみせた「みき」の態度は、まことにこの教えそのままであった。まことに衷心よりなされるみきの慈愛の深さであった。


【逸話その3、女乞食への労わり】

 又、ある日の秋の夕暮時、やせ衰えた乞食が、垢にまみれた乳飲子を背にして、庄屋敷村の家々の門に立って憐れみを乞うたことがあった。その姿を認めた「みき」は、同じ女性の身でありながらそうした姿にならなければならなかった身の上を哀れと思い、屋敷の中へ招き入れ、早速、粥を恵み衣類まで与えた。女乞食は感激に咽びながら「お慈悲は生涯忘れません」とお礼の言葉を述べて立ち去ろうとしたところ、「そなたには、いささかでも志を受けて貰うたけれども、その背中の子には何もさしてもらわなんだ。さぞ腹をすかして居るであろう」と言って、乞食の背中から垢に汚れた子を抜き取ると、自分の乳房を含ませたと云う。女乞食が「勿体のうございます」と遠慮するのを、

 「何の汚いことがあろう。可愛いい子供に変わりはない

 と、垢まみれの子にたっぷりと乳を与えたと云う。まこと、「みき」の誰隔てぬ情愛には驚くばかりではないか。


 1825(文政8)年、4.8日、長男秀司が生まれて4年目、長女おまさ(政)出生。


 1827(文政10)年、9.9日、次女おやす出生。


【みきの宗教的資質(2)、社会的救済性】

 この時期の「みき」の信仰的足跡は寡聞で、教団の「教祖伝」その他の文献においても触れられることが少ない。丁度、世継に長男善右衛門を授かって後、続いて長女おまさ、次女おつねと出産していく時分に当り、そうした家庭生活の日常と家業に多忙な日々であったものと推測される。この時期「みき」は世継ももうけ、舅姑夫婦も亡く、名実ともに主婦の座を得ていた頃である。かくして、「みき」は、以後数年間を、「夫婦和合」を含めての諸事雑多の現世のせめぎあいの只中に没頭していくこととなる。

 
この頃の「みき」の信仰には、どのような兆しが伺われるであろうか。特段の記録はないようであるが、みきの精神的心境には異変があったものと推測される。先の五重相伝授戒以来、「みき」は念仏信仰と決別する風をみせ始めていた。とはいえ「みき」自身のうちに格別な信仰教義があるわけでもなかったという意味で、この時期は、「みき」の宗教史的行程上信仰上の空白期とみなされる。既に「現世救済」に向かおうとするみきをみてきたが、この度は親の代より受容した浄土の教えそのものからの離別という結果となった。となると「みき」の宗教的な御性情は何処へ彷徨し始めることとなったのであろうか。

 
丁度この時期は、天変地異の異変と、世情の騒然さが重なりあい、のどかな村落であった大和のこの地方にも波及を見せた時代でもあった。興味深いことは、「みき」は主婦の座を磐石にすることにより、生来の希有の慈悲の心をより深化させていったことである。ということは、疲弊していく農村と農民の苦境をおもんばかる気持ちを更に募らせ、思案苦吟を余儀なくされる日々を自ら引き受けていくこととなったということを意味する。


 何事にも慈愛深く真剣に生きようとする「みき」は、こうした悲惨な時代の成り行きとの関りに背を向ける生き方ができなかったのであろう。こうして、「みき」の精神には、主婦の務めとして中山家の繁栄を達成しながらも、社会の人々の不幸の様子がのしかかり、決して安穏を許さなかった。「みき」はそういう御性情のお方であった。

 
この頃の「みき」を語る逸話を先にみたが、困窮を深めていく貧民の生活を我が事の苦悩のごとく引き受ける「みき」の慈愛の深さ、透徹した憐瀕の情が自ずと伝わってくるであろう。驚かされることは、「みき」は小手先の解決に満足を覚えない質を見せており、もっと根本的な解決の仕方がある筈であり、その道が途方もない難題であるにせよ、その解決法をよじ登ってでも掴みたい衝動を覚える身へと自らを昇華させていく御方であった。こうして「みき」は、否応なくこの世のなりわいに関わりつつ、逃れようのない現実との責めぎ合いにおける「衆生救済」の方途を自力で思案する身へと変貌を遂げていった、と拝察させて頂く。この「社会的衆生救済」志向を、みきの宗教的資質2として着目しておきたいと思う。

 
かっては尼になりたいとこの世の生の営みに重きを見出そうとしない態度も見られた「みき」であったが、嫁いで以降の「みき」に待ち受けていた世事雑多、そしてこの頃の責任を要す多忙の身を通した経験を経て、念仏を唱えながら、念仏の世界へと耽溺できない「みき」の誕生を先に見たが、この頃では、日々見聞する困窮の人に救済の手を差し伸べない当時の神仏のあり方にはっきりとした失望を覚え、今や彼岸を志向する「みき」自身との決別を為し、明確にこの世での衆生救済の方途を手探りで求め始めた頃かと拝察させて頂く。もっとも、「みき」の深層心理に於いてそうではなかったかと拝察しうることであって、未だ解決の手立てを持たない「みき」は表面的には今までの「みき」と差はない。



 (当時の国内社会事情)
 1821(文政4).7月、伊能忠敬が、西洋科学の道具や知識を借りて、実測の「大日本沿海輿地全図」を完成させる(1800−1821)。同年9.4日、伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」を幕府に献じる。
 1822(文政5)年、四国にコレラ流行。
 1822(文政5)年、霧島山、有珠山が噴火。
 1823(文政6)年、米大不作。紀伊一揆。諸国旱害。
 佐藤信淵(1769-1850)が「宇内混同秘策」著す。
 1825(文政8)年、只野真葛(1763-1825)死亡。
 水戸学の会沢安が「新論」を完成。
 (二宮尊徳履歴)
 1822(文政5)年、36歳の時、小田原藩に登用され、名主役格となる。桜町領4000石の復興を命ぜられる。名主役格。五石二人扶持。9.6日、二宮金治郎は小田原城主の命令を受け、桜町三か村(物井・横田・東沼)を立て直すため妻子と共に桜町陣屋に入る。朝早く起き、夜おそくまで働くこと、粗衣、粗食に耐えること、荒地の開墾を指導し、村民に報徳の教えを広める。11.19日、領内の働き者を表彰する。12月、小田原の栢山村に戻り、全財産を処分し、翌年三月妻子同道の上桜町へ移転。
 1823(文政6)年、37歳の時、小田原藩(藩主・大久保忠真)家老・服部十郎兵衛家の財政立て直しの功により小田原藩に登用され,、藩主の分家旗本宇津氏の領地下野国桜町領(栃木県真岡市、二宮町)の難村復興を命ぜられる。田畑・家財を処分し、一家をあげて桜町に移住。廻村、表彰等を実施する。1837(天保8)年にかけて報徳仕法のモデルといわれる桜町仕法を施して成功させる。
 1824(文政7)年、38歳の時、長女・ふみ誕生。
 1825(文政8)年、39歳の時、関東一円が凶作になる。
 1826(文政9)年、40歳の時、組徒格に昇進する。この後、一部の心の広い住民の協力を得ながら、事業を根気良く進めるが、地元住民や小田原藩士などの中傷、反対活動などに遭い、信念に揺らぎをきたすようになる。
 1827(文政10)年、41歳の時、小田原から豊田正作赴任、仕法の困難深まる。

 (宗教界の動き)
 1814(文化11).11.11日、黒住宗忠が「天命直受」。

 (当時の対外事情)
 1823(文政6)年、オランダのシーボルトがオランダ商館医師として来日する。
 1824(文政7)年、5.28日、イギリスの捕鯨船員、大津浜に上陸し水戸藩に逮捕される。
 1824(文政7)年、7.9日、イギリス捕鯨船員、薩摩国宝島に上陸し野牛を略奪する。この年、シーボルト、鳴滝塾を開く。
 1825(文政8)年、幕府が諸大名に異国船の打ち払い令(外国船撃退令)を発する。
 1826(文政9)年、3.25日、シーボルトが江戸に来る。4.9日、高橋景保、シーボルトを訪問。
 1827年(文政10)年、頼山陽が「日本外史」を松平定信に献上。

 (当時の海外事情)
 1820(文政3).5.12日、フローレンス・ナイティンゲイル(Florence Nightingale,)がイギリスの裕福なジェントリの子女としてイタリアのトスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれる。
 1821(文化4)年、ナポレオン死す。
 1824(文政7)年、イギリスがラングーンを占領する。

 1825(文政8)年、イギリスで世界最初の公共鉄道が開通。






(私論.私見)