第79部 1886年 89才 真之亮の苦悩と「御請書事件」神道管長他との問答
明治19年

 更新日/2019(平成31.5.1栄和改元).9.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「真之亮の苦悩と「御請書事件」神道管長他との問答」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【真之亮の神道本局訪問】
 1886(明治19)年3.30日、こういう状況の中、真之亮は上京した。東京に着くとすぐ神道本局に訪ねた。「このままでは、いつまでたっても地方庁である大阪府知事の許可はとれません。一度大和においで頂きたい」との旨を告げ根回ししている。

【真之亮の苦悩】

 この年の5.25日、いちの本分署から真之亮に呼出状が来ている。決して取締りの手が緩んだわけではなかったことになる。真之亮が出頭すると、大阪で茨木基敬がみ神楽歌を警察に没収された時に、大和国三島村中山宅でもらったと答えたため、この件について、大阪の警察署からいちの本分署へ通報してきたからである、ということがわかった。たったこれだけのことで警察署に呼び出され、厳重な取調べを受けて、答書まで提出させられている。このたびはみ神楽歌が問題にされていることが由々しき事態を迎えつつあることを示唆している。即ち、おつとめに関連しているところに捜査の目が向かい始めており、前途多難を予想させる。

 と言うのは、最初のほどは、教祖に赤衣を着せるから人が集まるのである、又、おつとめをするから人が集まるのである、というような極めて単純な考え方であったが、この頃になってくると、おつとめの教理に目が注がれるようになっていた。「お道」教理の眼目は「元始まりの理」に深く根ざしていること、その際の親神様のご守護や、そのご守護の道具雛形の泥海中における元の御姿や、これに名づけられた十柱の神名など、その深い真意までは分からぬままにであろうが、当局の目が、そうした「お道教理」に向かい始めており、その「お道教理」が、明治維新政府が最重要視していた記紀二典を元とする神道教説と大きく違背しており、その明治維新政府が神道教説に依拠しつつ好戦政策に向かおうとする折柄、「お道教理」がこれに棹差す危険なものであるとの考え方が判明しつつあったように思われる。


【神道管長の査察】

 5.28日(陰暦4.25日)、真之亮に呼出状が来た日から3日後、神道本局の取調官に査察されることになった。時の神道管長は稲葉正邦(1834(天保5)年、現福島県二本松市生まれ。神道本局初代官長。1898(明治31)年(享年65歳)没)であったが、その代理として神道権中教正・古川豊彭(とよみち・富岡八幡宮司。明治22年没)、その随行として権中教正・内海正雄(阿夫利神宮宮司。同21年の天理教会設立認可の際に尽力)が、大神(おおみわ)教会会長・小島盛可を伴って、お屋敷へやって来た。これは、昨年の公認手続きにより、「お道」が神道本局直轄の六等教会として認可されたいきさつから、「お道」が神道本局の監督下に置かれることになり、神道管長の側から云えば、本教に対する指導監督の責任という名分が発生し、これにより早速にも査察を受けることとなったということになる。

 大神教会の会長を連れ添ってきたのは、先の六等教会の許可の際に、大神教会の添書を付けて、神道管長宛に教導職補命の手続きを取ったいきさつがあり、先年添書を書いた責任者でもあり、地元のこととて「お道」の内容にも通じていることにより、案内役として調査にやってきたものと思われる。こうして、「お道」は、神道管長による指導監督の責任という大義名分にもとづいて査察されることになった。

 さすがに、彼らは信仰の専門家だけあって、警察官吏のように権柄づくの取調べをするのではなく、教義全般に立ち入って調査する運びとなった。即ち、当日は、まず取次から教理を聞いて予備知識を作り、翌29日、初めて教祖にお目にかかって種々の点について質問をした。教祖は床についたままだったが、これに対して諄々として教えの理をお説きになられた。こうして、教祖から直接種々なお話しを伺った後、なお引き続いて取次の者逹に対して、「神楽づとめ」や「お面」についての詳しい説明を求め、その後、二階で「手踊り」を検分した。こうして一通りの査察を終えた後、古川教正は、真之亮をさし招いて、「この人は言わせるものがあって言われるのであるから、側におられるものが法に触れぬよう、よく注意せねばならん」との指摘を為したという。

 後日の伝聞となるが、諸井国三郎が神道本局に伺候した際に、この時の二人の視察員は教組の印象を次のように語ったと云う。

 「あの婆さんは非凡だ。この宗教は将来必ず広まる。ただ困ったことには、お婆さんを呼ぶのに、神様神様と云うていること。魚介の魂と人間の魂とをし同視していること。南無という梵語を唱えること。この三つを止めるよう注意して来た」。

 これを思案すれば、この簡単な言葉の中に、教祖と教理から受けた感想が遺憾なく表明されていると思われる。古川教正は、この日初めてお目にかかった教祖に、霊能啓示者としての資質を見抜いたということ、教祖を啓示者として感応するところ深いものがあったこと、なお且つ教祖のお説き下さるお話しの中に、新政府の押し進めようとしている天皇制に基づく「神ながらの道」と抵触する危険な教えであることをも感じ取ったということであろう。


【御請書事件】

 こうして、取調官は、綿密な聴聞と調査によって得られ知識を下に、官制神道を唱導する彼らの方針に照らして厳に注意を要すると感じた点を数カ条抽出し、「お道」信仰に制限を課すことを指示するところとなった。次のような「請書(誓紙)」が提出せしめることとなった。

 御請書
一、 奉教主神は神道教規に依るべき事
一、 創世の説は記紀二典に依るべき事
一、 人は万物の霊たり魚介の魂と混同すべからざる事
一、 神命に託して医薬を妨ぐべからざる事
一、 教職は中山新治郎の見込を以って神道管長へ具申すべき事、但し地方庁の許可を得るの間は大神教会に属すべき事
 右の条条堅く可相守旨御申渡に相成奉畏候、万一違背仕候節は如何様御仰付候共不苦。かくて教導職世話掛連署を以て御請書如此御座候也

 中山新治郎
 飯降伊蔵
 桝井伊三郎
 山本利三郎
 辻忠作
 高井直吉
 鴻田忠三郎
 神道管長代理権中教正 古川 豊彭 殿

 これを要約すると次のようになる。

国家神道の神を認めること。
教義として教える神は天照大神をはじめ天皇家の神々と為し、その国造りの物語である「記紀神話」を認めること。
教祖の創世神話「元始まりの話」は原則として説いてはいけない、これを説く場合にも「記紀神話」に適合させた上で説かれるべきこと。
「元始まりの理」による人間一列同魂説を説いてはならない。医薬による病気直しを妨げてはいけない。
教祖から信徒へ下されるカリスマの分与的意味を持つ「お授けの理」渡しの停止。
公認化は国家神道の末端機構に位置させた上で為されること。地方庁の認可を得るまでは、大神教会に属すること。
中山新治郎を神道教会の会長とすること。

 以上が、当時の思想信仰を支配する官制神道の見地にたって見た場合の、「お道」に対して感ぜられる問題点であったものと見做される。さすがに、単なる法規の番人である末端の警察官吏などよりは、鋭い的確な認識を為したことが伺われる。「請書」は、上述の観点より「お道」の活動を規制する為に呈示されたものであったから、一見して「応法の理」をあからさまにした誓紙であることに気づかされる。

 「請書」は、教祖の教えを通俗化させて、世間並に教祖の地位の後継を家系的血筋的に取り込むことを指示していた。これが、布教公認の代価であった。こうして、官憲側よりする取締りは、次第に「お道」教義の内容にまで立ち至って来ることになった。「お道」に対する敵対を、従来のように、公許を受けずして布教しているからいけない、みだりに人を集めることがいけない、教祖が赤衣を召していることが不敬である、「おつとめ」をするから人が集まる、というような外面的な理由づけで為すのではなく、まだまだ皮相な観察ではあるが、ここで判明するように「元はじまりのお話し」など教理の面に迄立ち入って、問題が列挙し始められたことになる。「世界助け」の道としてお教えくだされている「神楽づとめ」は、人間創造の理に深い関連をもって、まさに「お道」信仰の眼目であり象徴であるが、取締り当局の目にも、そのことが理解されてきたようである。従って、「おつとめ」に対する取締りの手は益々厳しく、その神経も、いよいよ尖鋭の度を加えていることは否めない。

 かくては、当局の取締りの手は、単なる嫌がらせや、見当違いの品物を証拠物件として押収していた外形的強権的な弾圧の時代は終わり、教義の中味に立ち入っての取調べとなった。以降次第次第に急所に及んで行くことになった。「お道」への取締りが一段と本腰化したとみなすことができる。こうして、「お道」にとって由々しい事態となり、権力そのものが真っ向から立ちふさがってくることになった。「請書」は踏み絵となり、道人の逡巡をもたらすこととなった。こうした規制は、応法派にとっては了承済みの内容であったが、教祖一途教理派にとっては受け難いものであったであろう。だが、真之亮に、教祖が又捕らえられてもよいのかと問われると帰す言葉もなく、次々に署名するより仕方がなかった。こうして、中山新治郎、飯降伊蔵、桝井伊三郎、山本利三郎、辻忠作、高井直吉、鴻田忠三郎の面々が署名することとなった。この面々を見れば、当時の「お道」の高弟達が知れることになる。仲田儀三郎はこの時既に床に伏していたので名を列ねていない。

(私論.私見) 「御請書事件」考

 「御請書事件」を愚考するのに、応法の理運動の分岐点になったと思われる。という意味は、本来の応法は、1.信仰の自由、2.布教の自由、3.祭典の自由を獲得する為のものであったが、当局は引き換えに記紀神話神道に基く教義の書き換えを迫ってきたというのが「御請書事件」の本質であると思われる。よって、これ以降の応法の理運動は、中山みき教義と記紀神話神道教義の折衷へ向かうものとなる、という点で画期的意味を持っているように拝察させていただく。しかし、それは、教祖及び教祖派が断じて受け入れることのできない道であった。これに構わず、教祖存命中にも拘らず強行して行くのがこの後の応法の理運動となる。そしてそれが次第に見る影もないほどの教義変質まで定向進化していくことになる。してみれば、「御請書事件」はその元一日であり、その理の是非を深く思案せねばならないことのように思われる。

 2007.12.24日 れんだいこ拝


【教祖と古川豊彭のやりとり】
 「明治十九年、神道事務局の局員古川豊彭が教祖に会ったとき、教祖は古川豊彭に言ったと云う。『私は、ここまで神の道を説いてきたけれども、誰も分かってくれるものはおりません』と」。
 (「誰も分かってくれるものは(その一)」、昭和59年11月号、高野友治著「創象26」11p。「誰も分かってくれるものは(その二)、高野友治著「御存命の頃」434−439p、道友社刊、平成13年1月発行)
 「明治19年5.28日(旧4月26日)、東京の神道本局より稲葉管長代理として古川豊彭(とよみち)、随行員として内海政雄の二人が、大神(おおみわ)教会長小島盛可(もりよし)とともに本部に来訪し、翌日教祖に面会し、地方庁の認可あるまで大神教会の管理を受けるよう申し渡して帰った。これよりさき3.30日、中山新治郎様は教会開設出願のため上京されている。この間いかなる交渉があったか筆者は詳しく知らないが、神道本局に出願されたものと考えられる。それから5.10頃には、遠州の講元諸井国三郎氏が東京に出て各方面(主として本局)と交渉を重ねている。それらの関係で、神道本局からの視察ということになったのではなかろうか。このときの情景を、川原城の人力車夫北村嘉助氏の懐古談によって、側面からうかがってみよう。
 『あのときは本部では視察員が来るというので、御馳走を作って今日は来るか今日は来るかと待っていた塩梅(あんばい)です。それがなかなか来ない。来ないと御馳走が悪くなって毎日作り直さんならん。こんなことでは困るというので山本さん(利三郎氏)が、私が行って呼んでくるといって出かけたのです。そのとき私の車に乗って出かけたのです。丹波市の町をはずれた八丁の畷(なわて。縄手。田の間の道。あぜ道)のところで鴻田さん(忠三郎氏)と出会い、鴻田さんは、『山本さん、視察員は来んかい』と言う。山本さんは、『それがまだ来やへんね。それで私がこれから行ってケリつけてくるから、お屋敷で用意して待っていてください』と言って三輪へ行った。三輪へ行ってみると、視察員たちは竹田屋に陣取って毎日酒を飲んでいたんです。そして、その座に藤井・森田・奥田といいましたかな、三人の男が一緒になって飲んでいたんです。この三人の男は、その前に東京の宗教局に関係のある者であるが、私らを傭(やと)えば公認問題に便利であろうから傭ってくれぬか、と言ってきた男たちなのです。ところがその月給というのが大部高かったらしいので、本部では断った。それで彼らは怒って、このときの視察員に対しても、何かのいいがかりをつけて天理教を視察させまいと邪魔していたらしいのです。それで山本さんが怒って、彼らと談判して、とうとう視察員を車に乗せて三島へ連れてきたのです』。

 この話に出てくる邪魔したという男というのは、藤村、寸田、石崎、あるいは竹内らのことでないかと思われる。当時、藤村、寸田の両氏は大阪で、天心教会とかミソウ教会とかを作って、天理教の信者を吸収し、天理教を分割させようと計画していたともいわれる。このとき教祖は視察員に対し、どう言われたか記憶してないかと尋ねたら、北村老人は、しばらく考えていて、『教祖はなあ、“”私はこれまで道を説いてきたけれども、私をたすけようとする人は一人もありません“”とおっしゃっていました』と答えた。それはともかくとして、視察員はこのとき、いろいろ注意を与えて帰った。視察員が東京へ帰ったあと、諸井国三郎氏が6.15日ごろ上京して彼らに会ったところ、『あの婆さんは非凡だ。この宗教は将来必ず広まる。ただ困ったことには、お婆さんを呼ぶに神様神様と言うこと、魚介の魂と人間の魂を混同していること、南無という言葉を用いること、この三ッを止めるよう注意してきた』と言っていたという」。




(私論.私見)