第77部 | 1886年 | 89才 | 最後の御苦労 |
明治19年 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「最後の御苦労」を確認しておく。教祖は、89歳の身で「最後のご苦労」を迎える。以下、この時の実際を考証する。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【平野楢造のお手引き引き寄せ】 | |
1886(明治19)年正月、後に郡山大教会の初代会長となる平野楢造(ならぞう)が教興寺の隣村の服部川村で賭博のさ中に倒れて、姉婿の森清次郎宅へ担ぎ込まれた。森夫婦は驚いて、松村栄治郎の所へお願いづとめを頼みに行った。高安大教会史16頁は次のように記している。
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平野楢造が不思議な御守護を頂いておぢば帰りをする前日、教祖がおそばの方々に「明日はこの屋敷にどんな者を連れて帰るや分からんで」と仰せられたと云う話が伝えられている。 |
【心勇組講中の門前の豆腐屋でのお手振り】 |
1886(明治19)年、教祖は89才の新春をお迎えになられた。この当時警察の取締りがますます厳しくなっていた。この当時、政治的集会には警察の許可が必要という集会条例が発布されており、道人の集いも同様の目で取り締まりの対象とされていた。お屋敷の方でもこれに呼応し、「参詣人お断り」の張り紙をあちこちに貼付して、道人の立ち寄りそのものを断わっていく等官憲との協力体制を敷いていた。「応法の理」の成り行きでもあった。参詣人が「おつとめ」をしようものなら、たちまち教祖にご迷惑のかかることは必定であったからであった。一方、教祖のお仕込みを頂いた道人の勢いは盛んになる一方で、教勢は益々伸び拡がっていった。この年、教祖は「最後の御苦労」をされることとなる。 |
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「心勇組の講中の門前の豆腐屋でのお手振り」について、これを教理的にどう位置づけるべきか、案外と決着が着いていない。「宮池事変」同様に見解が分かれる事案であるように思われる。れんだいこ的には、教祖が「心勇組は一の筆や」と評した御言葉に即して解するべきだと思う。これを否定的に「心勇組講中の勇み足お手振り」と評すると、少なくとも教祖の「心勇組は一の筆やなぁ」と齟齬することが免れない。本部教理はどのように説いているのだろうか。 |
【心勇組のお手振り考】 | |
この時の、心勇組のお手振りにつき、「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「一の筆(その一)」の「敷島の初代の入信と講元預け問題について(その三)よりつづき」(昭和49年8月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)94-96pより)が次のように伝えている。
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【最後の御苦労】 | ||
何か口実があればそれをきっかけにお屋敷に踏み込もうとして狙っていた取締り当局がこんな派手な動きを見逃すはずがない。櫟本分署から時を移さず数名の巡査が来て、直ちに居あわせた人々を解散させた。事はこれだけでは済まなかった。官憲は、一人も逃すまいとして表門も裏門も閉めさせた上、居間へ踏み込んで来た。何か言掛りをつける種を見つけようと戸棚からタンスの中までも取調べた。ところが、それほどにしても、この時彼らの手によって押収されたものは、僅かにお守りにする為に字を書いた布片だけであった。しかしながら、教祖はじめ真之亮その時お屋敷に居あわせた桝井、仲田の両名が引致されるという物々しさとなった。取調べが次第に厳しさを増しているその当時の様子が窺える。
櫟本分署は、お屋敷から2キロ隔てた奈良街道にあり、この年の2.1日に開設されたばかりであった。建物は、菜種の油絞り工場が石油ランプの普及によって、ほとんど休業状態にあったのを警察が借受けていた。「お道」を弾圧させる為の専用にと云ってもよい程に用意せられた代用監獄署であった。この年の北大和は、例年にない寒波到来で、零下7度の夜もあったことが気象庁に記録されている。こうした厳寒の中15日間にわたって教祖は「御苦労」されることとなった。そしてこれが教祖「最後の御苦労」となった。
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八島教学によれば、この時の「教祖の最後のご苦労」は、姉婿・山澤為造が、少年真柱(中山新治郎)に対し、「警察の旦那に来て貰って、止めてしまえ」と命じ、真柱は中山家の戸主として、岡田与之助を櫟本分署に走らせ警察の出張を要請した結果である、と云う。真偽は分からない。 |
【教祖、桝井、仲田の拘引理由】 | |||
教祖拘引、拘留の契機は、心勇組(敷島の前身)の講中が門前の村田長平方の二階で手踊りをしたことによったが、それは契機であって、法的理由としては、「ひとことはなし」233Pに「御守りの中に入れたる文字記してある『キレ』出でしより、その品を証拠として教祖様及び真之亮を引致したり。桝井と仲田ハ屋敷に居りし故引致せらる」とあるように、「御守り」の交付の責任の所在に関わるものであった。即ち、 これにつき次のような見方もある。(「天理教教理随想」の「No.93教理随想(44)最後の御苦労(1)」参照)。
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【取調べのご様子】 | ||
この時の取調べは、拘引された日の深夜午前2時頃から始められた。この度の弾圧が異常であったことがこのことからも知れるであろう。まず教祖の取調べから始められた。取調官は、一体教祖のどこに魅力があって、かくも熱心に人々が集まって来るのか、又集まって来る人々に教祖はどんな事をお説き聞かせになっておられるのかに関心を見せ、次々と尋問を為した。教祖は、その彼らの訊問に対し、神懸かりがあったこと、身の内守護の事、埃のことなど教理の概要をお話しされたようである。教祖は、この時、次のように仰せられたと伝えられている。
この返答の裏には、明治維新政府の進める近代天皇制教理と「お道教理」の調べ合いがあり、教祖のこの返答は近代天皇制教理を真っ向から否定したことになろう。この時はお守りを証拠物件として持ち帰っているので、これに関する訊問もあったが、これに対しては、「お守りは神様がやれと仰せられるのであります。うちの子供は何も存じません」と、お答えなされた。真之亮に責任がいかないように配慮為されている様子が窺われる。
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この「梶本ひさ証言」は非常に貴重である。「それから二、三日の間、警察官は時々御教祖様を訊問場へ呼び出しては難しいことを言って御教祖様を苦しめようと致しましたが、御教祖様はそのたびごとに静かに一々お答えになりました」とある。次に、「そうして訊問の間々には奈良の裁判所(?)に電話を掛けて、何かしら相談しているようでありました」とある。これによると、取調べ警察官が外部の者の指示を受け、逐一相談しながら訊問し続けていたことが明かされている。こういう場合、取調べの警察官、その背後の指示者の双方に関心を寄せるべきであろう。 |
【獄中のご様子その1、本部教理編】 | |||
本部教理では、この時の教祖のご様子を次のように伝えている。その一、真之亮との遣り取りに関して。教祖は、真之亮の方へ手招きを為さって、「お前、寂しかろう。ここへおいで」と仰せられた。あたりは、しんと静まりかえって音もなく、一声、声でも出そうものなら、忽ちどなりつけられそうな、物々しく警戒されている場面であるのに、教祖は一向無頓着に、極めて自然に話しかけられた。稿本天理教教祖伝は次のように記している。
その二、ランプの消燈について。このようにして、この夜は端座なされたまま、まどろまれる暇もなく夜が明けて、太陽が東の空に昇ったが、見張りの巡査は夜番の疲れにうつらうつらと居眠りをしていた。巡査の机の上にはランプの火が昨夜以来、なおも薄ぼんやりと灯りつづけている。教祖は、つと立ってランプに近づき、フッとその灯を吹き消された。この気配に驚いて目を覚ました巡査が、あわてて「婆さん、何をする」とどなると、教祖は、ニコニコ為されて、「お日様がお上りになっていますのに、灯がついてあります。もったいないから消しました」と仰せられた。これにつき、教理では次のように受け取っている。「普通の人間ならば、縮み上がってしまわねばならないような、いかめしい取調べの雰囲気も、教祖のみ心には、いささかの影響も変化ももたらすことはできないのである。我が家にいらっしゃる時と少しも変わらないまことに自然な態度と物腰でお過ごしになられた」。
その六、巡査による教祖の御言葉制止について。ある日のこと、「一節、一節目が出る」とお言葉が発せられた。見張りの巡査が、付添いのひさにこれを止めさせようとして、「これ、娘、黙らせろ」とどなったので、ひさは驚いて、これをお止め申し上げようとして、「おばあさん、おばあさん」と、お声をかけた途端に、辺りを圧するりんとしたお声で、「このところに、おばあさんはおらん。神さんがゆうてはるのや、我は天の将軍なり」と言い放った。その語調は、平素のやさしさからは思いもよらぬ威厳に満ち、肉親の孫であるひささえ、畏敬の念に身の震えるのを覚えたという。 教理では次のように説いている。
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「最後のご苦労時の教祖逸話」についての本部教理は、去勢された、腑抜けにされた教祖美談に仕立て上げているに過ぎない。このことが追々に見えてこよう。 |
【獄中のご様子その2、八島教学編】 | |||
八島教学によると、「巡査による教祖の御言葉制止事件」の事実は「取調官による教祖暴行虐待事件」であった。「顕正教祖伝第一回」その他を参照すると次のようになる。
この言伝えを裏付ける傍証がある。この時差し入れに来た辻忠作が後になって次のように伝えている。
「本部員講話集(中)」にも次のように記されたものがある。
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八島教学「取調官による教祖暴行虐待事件」が真相だとすると、稿本天理教教祖伝の「教祖の最後のご苦労」に関する記述は、意図的にあまりにも穏和な逸話にしていることになる。「こういう時でも、教祖が親神の思いを説き、誰にともなく不意に語り始めた」と教祖の慈愛を説くことに傾注しているが、八島教学では、「30年来の寒さの中、教組がこの櫟本分署にご苦労下されて断食一週間、体力は衰えても『世界助けは止むに、止まれん』とひながたをお示し下されていた」とある。 時はまさに厳寒のさなかであり、殊にその冬は三十年来の寒さであったと云われている。この年の北大和は、例年にない寒波到来で、零下7度の夜もあったことが気象庁に記録されている。教祖が、寒さも不自由も全くお感じにならないもののようであったと説くことは首肯し難い。むしろ、89才という高齢の身で、暖房はおろか、夜具や枕の備えさえない板の間で十幾夜かを明かされるという、言語に絶する環境に捨て置かれ、時に暴行、虐待される身になっていたのではないのか。事実はこうであった。教祖は飢えと寒さから日に日に衰弱していった。夜は、ひさが上から覆いかぶさるようにして外の寒気から守った。後にひさは、「夜は一睡もしなかった」と記している。 |
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櫟本分署にて最後の御苦労を下された。この時の寒さについて、「教祖伝」291Pは次のように記している。(「天理教教理随想」の「No.93教理随想(44)最後の御苦労(1)参照」)
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【獄中のご様子その3、村上教学編】 | |||||||
泉東分教会発行「躍動の泉」連載の村上道昭(むらかみみちあき)「教祖を身近に 連載第22回『最後のご苦労』」は、八島教学の「教祖被拷問説」に対して次のように反論している。これを仮に「村上教学の最後の御苦労論」と命名する。これを確認しつつ、れんだいこの受取りを示しておく。 「辻忠作氏の復元31号」(以下、仮に「辻証言」と命名する)40Pは次のように記している。
村上教学は、この「辻証言」に対して、何を根拠に述べているのか分からないが、「仲田儀三郎さん(当時五六歳)の死去が改宗をせまる折檻によるものかはわかりません」としている。その上で、「辻証言」に次のように疑問を投げかけている。
要するに「辻証言デタラメ説」をぶっていることになる。しかし、こうなると、辻が何故に敢えて復元誌上に「辻証言」を遺したのだろうかと云うことになる。
村上氏は、教祖に付き添っていた「ひさ証言」を引き合いに「辻証言」を否定せんとしている。村上氏は筆の勢いが余ってか次のように続けている。
これによると、警察とは何とも優しい美談を生む所かと云うことになる。教祖、桝井、仲田は拘引、留置されたが、警察の温かいもてなしを受けたと云うヘンチクリンチグハグな話しになってしまっている。そのことに当人は気づいていないようである。そういう御仁の「教祖の最後の御苦労の打擲説を肯定して、イエスの十字架の磔刑と重ねて見る見方もありますが、言語道断というほかありません」云々。以下のイエス伝も論評するに当たらないので割愛する。 「村上教学の最後の御苦労論」は、打擲説を否定し続いて衰弱説の否定に向かっている。衰弱説は、山田伊八郎「根のある花」の81Pの次の記述を云う。
村上氏は、「これをどのように受け取ればいいのでしょうか」と自問自答し次のように述べている。
これは、「宮池事変」の際の本部教理と通底している。本部教理は「宮池事変」に対して次のように説いている。
「宮池事変」の際のみきの苦悩を見ることなく、宮池入水未遂事件は子供諭しの為の「敢えて為した試しのひながた」であったとする珍論であるが、村上教理はこれを参照しつつ、「最後の御足労」をも「子供諭しの試し」であったと云いたいようである。こういう観点に立つと、全てがこういう風に説明できるようである。 問題は、そういう教理メガネを外せば良いだけの話しである。「最後の御足労」のひながたは、教祖の御教えの広がりを許さないとする当局の弾圧に抗して、教祖が毅然と闘った獄中記として見ない限り真実が窺えないであろう。かく理解せずんば、どうひなたがたを踏むのであろうか。本部教理的なひながた論によれば、子供諭しの為に敢えて入水してみたり、敢えて獄中入りしてみたりするだけのウソっぽい話しになってしまうのではなかろうか。村上教理は、「教祖の最後の御苦労」を、イエスのゴルゴタの丘での十字架磔刑と重ねて見る説を否定しているが、「イエスのゴルゴタの丘での十字架磔刑と重ねて見る説」の方がまだしも然りであろう。 2010.12.20日 れんだいこ拝 |
【「復元」第18号「教祖様の思い出その他」梶本宗太郎】 | ||
「巡査の話」(「復元」第18号「教祖様の思い出その他」梶本宗太郎より)。
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【高弟仲田儀三郎に対する苛酷な取調べ】 | |
この時、「お道」の第一の高弟仲田儀三郎の取調べも苛酷を極めたが、今日伝えられていない。十日間檻に入れられ留置されていたとある。この時のご苦労がたたって4ヵ月後の6.23日、56才で出直しすることとなった。教祖のお話をもっとも正確に綴っていたとされている仲田本「泥海こふき」は、この時一緒に埋葬されたとも伝えられている。 | |
「みちのとも・昭和60年4月号、「応法の心を厳しく律したい・中田武彦」7頁」(「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「本席様について(その十四)②」)を転載しておく。
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【ご帰還とその直後のご様子】 | ||||
教祖御苦労の事態を迎え、道人は、お屋敷と櫟本分署の間を駆けずり廻ることとなっった。お屋敷には、飯降伊蔵、高井直吉、宮森与之助などが留守居に当たっていた。櫟本には、清水与之助、増野正兵衛、梅谷四郎兵衛らが出張して、梶本松治郎宅に詰めきっていた。そして、昼となく夜となく、警察の門まで、そっと様子を伺いに行くのであった。常に教祖のお側にいたのは、付添いを許されているひさだけであるが、この人の食事は外から差し入れることになっていたので、それを幸いに、弁当を差し入れに行ってはその都度教祖の御様子を伺って来るのが清水と増野の大切な役割であって、これこそが、教祖の動静を知る唯一の目であり耳となった。
教祖ご帰還という道人の喜びはさておき、八島教学その他によればこの時のご帰還のご様子は次のようであった。
ほんあづま2006.4.10日号付録が、「泉田藤吉と共に布教に歩いていた布教師にして後の和邇分教会の初代会長、冨森竹松氏が晩年に、次のような話をされたと伝えられています」として次の逸話を伝えている。
これによると、教祖は面会謝絶状態に陥っていたことが判明する。これにつき「根のある花、山田伊八郎」81Pは次のように記している。
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【教祖ご帰還時のお仕込み】 | ||
教祖は、この時身上がかような中にも関わらず、力強く指図して、仕込みを為された。迎えに来た道人に次のように宣べられたことが伝えられている。
穏和に解して神意はこうであったとして次のように解説されている。
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何とも味気ない解釈をするものである。教祖の「世界の人百人中九十九人まで悪」をどう拝すべきか。「残念、無念、立腹、抵抗、報復」を通り越した先の悲憤慷慨の弁ではなかろうか。これが教祖の到達した明治維新政府権力観であり、ご足労時当初の「神様にお任せするのや」、「ほこりは避けて通られなや」、「節から芽が出る」の面影は微塵もなく、悪政権力に対する強い義憤の念を披瀝していることになる。これが教祖の抵抗観の到達点となったことを拝するべきではなかろうか。 |
【雨乞いづとめ】 |
この年の夏の日照りも相当なもので、恩智村、教興寺村、刑部村三ケ村の信者の主なリーダーたちが雨乞いづとめをしている。高安大教会史には、8.11日-12日の教興寺、垣内、黒谷、恩智の四ケ村の雨乞い、8.14日から5日間、東の山の蓮池での雨乞いが詳しく記されている。 |
【教興寺境内で天理教撲滅演説会】 |
9.20日、教興寺境内で天理教撲滅演説会が開かれている。服部川の光明寺、垣内の善光寺黒谷の意満寺、大和の勢国寺などの僧侶たちが応援に来て盛んに気勢を挙げた。合わせて教興寺本堂再建の為の寄付金を勧誘したところ予想外に集まり本堂が立派に修復された。ところが、翌1887(明治20)年1.18日の暴風雨によりその本堂が倒壊している。 |
(道人の教勢、動勢) |
「1885(明治18)年の信者たち」は次の通りである。新たな講元として、阿波真心講、遠江真明講、斯道会、天地組、天元組、天明講、兵神真明講、天竜講、大和講、日元講、東京真明講、治心講池田組等が結社された。 |
増田甚七(23歳) |
春、大和国式下郡八田村(現・奈良県磯城郡田原本町八田)大和郡山の増田甚七(23歳)が、二女の乳母のリウマチを平野楢蔵のお助けでご守護頂き入信。 1928(昭和3)年4.30日、出直し(享年66歳)。生家・笹村家より呉服商増田家(大和国添下郡柳町村‐現・奈良県大和郡山市柳町)に婿養子に入り甚七と改名(幼名・甚之助)。郡山分教会(現大教会)2代会長。 |
中臺勘蔵(なかだいかんぞう) |
11月、江戸日本橋(現・東京都中央区日本橋)の中臺勘蔵(なかだいかんぞう)が、持病(重症神経痛・慢性胃腸炎)の悪化から上原佐助を訪ね、入信。明治21年8.3日、本席よりおさづけ。日本橋支教会(現大教会)初代会長。 1894(明治27).9.26日、出直し(享年55歳)。 |
植田平一郎() |
大和国葛下郡池田村(奈良県大和高田市池田)(陵西村、大和高田)の植田平一郎が右手親指にヒョウソを患い初参拝、ご守護頂き入信。 1902(明治35)年10.2日、出直し(享年57歳)。生家萬田家より上田家きぬの婿養子となる。きぬの逝去後弟弥七が亡くなりその妻いのと再婚。入信後は千人たすけに奔走。明治20年12.21日、本席よりおさづけ。中和支教会(郡山部内、現大教会)初代会長。 |
仲野秀信() |
大和国添下郡小泉村(現・奈良県大和郡山市小泉町)。教祖と力比べで神の存在を見せられ心を定め入信。1885(明治18)年、梶本松治郎に頼まれ、眞之亮の柔剣術の指導に当たる。入信後、天理中学校開校時に柔道、剣術、体操の教師となる。1923(大正12)年11.25日、出直し(享年72歳)。(稿本天理教教祖伝逸話篇174「そっちで力をゆるめたら」) |
同年、宮内初太郎、加藤新兵衛、埼玉県の高橋庄五郎らが入信。 |
甲賀谷の杉谷村に住む寺井おまつがイネの葉先で目を突き失明した。宇治田原の西野清兵衛により片目を助けられ喜び勇んで村へ帰った。近隣に布教するうち、同村の西田宗三郎が入信し、またたく間に杉谷村は2〜3軒残してみんな入信したという。また近くの市ノ瀬村に伝わると全村が入信した(天理教伝道史2)。杉谷はこの頃、人口数百人だと推定できる。市ノ瀬は少し小さく100人前後ではなかったか。2村併せて200軒ほどのところがほとんどが天理教信者になった。 |
1886(明治19)年6.22日、仲田儀三郎(左右衛門より改名)が出直し(亨年56歳)。1831(天保2)年5.25日、大和国山辺郡豊田村(現・奈良県天理市豊田町)生まれ。1863(文久3)年、妻かじの産後の患いから入信。扇・御幣・肥・いきのさづけ。(稿本天理教教祖伝逸話篇138「物は大切に」) |
10.21日、村田幸右衛門が出直し(亨年66歳)。1821(文政4)年、大和国山辺郡前栽村(現・奈良県天理市前栽町)生まれ。1862(文久2)年)、胃の病を助けられ妻イエと共に入信。御幣・肥・扇のさづけ。 |
この年、小島盛可が出直し(享年38歳)。1849(嘉永2)年、生まれ。大神分教会会長。 |
【この頃の逸話】 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇198の「どんな花でもな」。
「教祖の御ひながたは、まさに暗闇の中で船の航行を導く灯台の灯りのようだ」の感想がされている()。 |
梅谷四郎兵衞 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「184、悟り方」。
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山中忠七と山田伊八郎 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「185、どこい働きに」。
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中西金次郎 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「186、結構なものを」。
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田川寅吉(天地組七番) | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「191、よう、はるばる」。
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諸井国三郎 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「187、ぢば一つに」。
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平野楢蔵 | |
初代真柱手記が次のように記している。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「188、屋敷の常詰」。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「189、夫婦の心」。
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松村吉太郎 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「190、この道は」。
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本田せい | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「199、起こせは講社を起せの意味や」。 本田せいに纏わる逸話が次のように伝えられている。
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(当時の国内社会事情) |
学校令が公布され、4年制義務教育が始まる。この年、保安条例(危険人物の東京からの退去)公布される。コレラ流行。米大豊作。言文一致論起る。東京電力会社が電力供給開始。標準時を東経135度とする。井上円了『真理金針』。教育者・宣教師クラーク(Clark)死去。 |
(田中正造履歴) |
1886(明治19)年、46歳の時、栃木県会議長となる。 |
(宗教界の動き) |
1886(明治19)年、1.19日、神道事務局(明治8.3月創設)が神道本局となる。 |
この年、修験道側からの嘆願により、「天台宗修験派」として修験道の再興が許され、金峯山寺は寺院として存続できることになった。但し、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、吉野の金峯山寺とは分離され現在に至っている。 |
(当時の対外事情) |
1886年、ノルマントン号事件起る。 |
(当時の海外事情) |
1886年、イギリスがビルマを併合する。 |
(私論.私見)
2023.9.4日、「天皇教を構築した伊藤博文の偽天理教を見破りながら、その上を行くみきの教理を悟れない れんだいこ。」。
天皇教を構築した伊藤博文を、その悪事を見破りながら、その上を行くみきの教えの神秘の理を、悟れず、悟せなかった知識人「れんだいこ」に散華が必要であると、説明をしておこう。歴史は人間へのみきの意思で動いて来ているのである。
天理教会やってみようかという悪事は、伊藤博文が実行した。れんだいこ、マリノネットにその事実が書かれている。みきを神とせぬ妄説である。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_77.htm
引用しておこう。
451 天理教教祖中山みきの研究第77部 、(最新見直し2006.8.16日)
明治体制の根本思想は、欧米文明の精神的基盤であるユダヤ教、キリスト教に対抗せんとして、天皇信仰を国の基盤に据えた。伊藤博文の枢密院での所信表明は次の通り。
「欧州では宗教というものが国家の機軸を為しているが、わが国の場合、どの宗教も力が弱く、国家の機軸足りえるものが無い。従って、わが国においては機軸とすべきものは皇室しかない」。 (中略)
明治22.1.15日、次のようにお指図している。
「人間というものはわからん者にわからんものがつく。世界の悪肥えだんだん思案つけ、天理教会やってみよう。一つ道だんだん悪が添い、天理教会。めんかめんも天理教会同じ。一つの理を祀る。皆、人間の心を寄せ、だんだん心を寄せて相談する」。
天理教会は、皆の悪が太ってしまった姿だという厳しい指図であった。だが、教会本部は指図通り動くことはなかった。
明治22.3.22日、平野楢蔵願いが出され、次のようにお指図している。
「さあさあよう聞き分けねばならんで。あちらへも一本、こちらにも一本、根は一本。段々の理を聞き分け。同じ芽、同じ根と指図しておこう」。
明治22.4.18日、次のようにお指図している。石造りのかんろだいは没収されて、その後、教祖ご在世中は小石が積まれていたが、明治21年、飯降伊蔵によって板張り二段のかんろだいが据えられていた。
「よう聞いておけ。何処にどういう道が始まるとも分からん。さあさあ天理教会やと云うてこちらにも始め掛け。応法世界の道、これは一寸(ちょっと)の始め出し。神一条の道は、これから始め掛け。元一つの理というは、今の一時と思うなよ。今までに伝えた話、かんろだいと云うて口説き口説き詰めたる。さあさあこれよりは速やか道から、今んまにかんろだいを建てにゃならん、建てんならんという道が今にあると云う」。
明治22年秋、長女のよしゑが園原の上田嘉助の次男(上田ナライトの弟)の楢次郎の元へ嫁ぐ。この時次のようにお指図している。
「行くのでも無ければやるのでも無いで。一寸理を繋ぎに行くのやで。行きてもじきに帰るのやで」。
事実、嫁入り後二、三ヶ月すると、おじばが忙しくなり御用に帰って来られた。その後、永尾家(教祖の母の実家)を立てられることになった。
明治24年の教祖5年祭を前に、本席の「三年千日のお指図」が始まった。明治22.11.7日、次のようにお指図している。
概要「ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながた直せばどうもなろうまい。僅か千日の道を通れと云うのや。三年の間や。ひながた通れば、ひながた同様の理にはこぶ」。
「ひながたの道より道ないで。何ほどせいたとて、急いだとていかせんで。ひながたの道わり道ないで」。
(以上、引用終わり)
れんだいこさんは天理教の素人さんである。理がわからないのは無理のないことであるが、これを正しておかないと、大勢を迷わせるので、正しく理を知らせる。
「3年千日のひな型」とはイエスキリストのひな型である。
中山みきは「50年」である。
正善しんばしらは「おやのひながた50年」と、歌詞にて示している。
そしてイエスのひな型は、金銭欲、支配欲の、欲にみちた教会の掃除であった。
つまり、みきのさしづは、伊藤博文に対して、天皇教に対して、支配のための宗教行為は、それは正しくないと誤りを正せであった。イエスのように真っ向から理を解けであったのだ。説いていたなら、みきは、お働きができた。
理を諭さねば、「なににても知らぬ間はそのままや」である。
みきは親神であるとの理を諭さない、残念は、みきへの謀反、切り口上である。
これを知らせておこう。
明治19年(1886)2月18日、教祖、櫟本警察分署に15日間拘留の時である。
伝承された史実にはこうある。
雪が五寸も積もっているという夜中に、教祖は「一節一節芽が出る…」とつぶやくようにいわれました。
これを聞いた巡査は、「婆さん、だまれ!」と怒鳴りつけました。
おひさ、、、は慌てて、「おばん、おばん」と止めました。祖母なので「おばん」と呼んでいたのです。
そのときみきは、「ここにおばんはおらん、神様が言うてはんのや」と厳しい言葉を下さいました。これは巡査より怖かったとおひさ、、、は後に語っています。
巡査はこの声を聞いて、余計にいきり立ち、10日以上も断食を強いられている89歳のみきを、庭の向こうの井戸端に引き据えました。しかも雪の上です。
「頭を冷やしてやる」とばかり、水をかけようとしましたが、おひさ、、、は巡査にとりすがって、水はかけさせなかったと語っています。
その当時、清水与之助は神田家に頼み込んで従業員になりすまし、分署に続く蔵の陰から中の様子をうかがっていたということです。また、神田家の番頭達も中の状況を伝えています。それによるとある人は頭から水をかけたと言い、またある人は綿入れの衿上を開けて、ひしゃくで背中に水を流し込んだと伝えています。
3.12日、この頃のこと、心勇講の山田伊八郎とその義父にあたる山中忠七が、櫟本拘留の原因となった上村吉三郎の行き過ぎを詫びにきた。
これに対し、みきは、「心勇講はようつとめてくれた、ごくろうやったなぁ」と云われ、「弱っていない証拠を見せる」として、伊八郎の甲の手の皮をつねって見せ、次のように宣べられた。
「この力のある限り、神の思し召しは伝えていくで、世界を助ける為には、なんじゅうを助け、ろっくの地に踏みならすという、心定めのおつとめをやらせたい、でも、高山がこれを止める、残念でならん。今の私は、苗代の種と同じことや、種は形が消えても、芽がのびて、やがて稲穂となって、実りをもたらすものや」。
と、お諭しされた。こうして、教祖は不退転の「ひながた」をお示しなられ、引き続きお仕込みと指図を為されていた。
この時の教祖のみ言葉が、「山田伊八郎文書」で次のように伝えられている。
「この何度も上からとめられるのは、残念でならん。この残念ははらさずにおかん。こんどは、たすけより、残念はらしが先.」。
みきへの切り口上は、残念はらしに直結します。
五つ理を吹く。 明治19年(1886)の五つ理を吹くは、明治24年。日本史上最大の内陸地殻内地震(直下型地震)である濃尾地震。(濃尾平野北部で発生したマグニチュード(M)8.0の巨大地震)。これが、残念はらしそのものです。
甚大な被害
地震による被害は、死者7,273人、全壊家屋142,177戸に上ります。阪神・淡路大震災の死者・行方不明者6,437人、全壊家屋104,906棟を上回る被害です。当時の日本の人口は4千万人程度ですから、人口比を考慮すると阪神・淡路大震災よりも遥かに大きな被害で、関連死・行方不明者を含め2万人強の犠牲者を出した2011年東日本大震災に匹敵します。被害は岐阜県と愛知県が顕著で、岐阜では焼失家屋が多数発生しました。
内閣府の報告書によると、道路破裂20,067か所、橋梁損落10,392か所、堤防壊裂7,177か所、山崩れ10,224か所もの被害が発生しました。とくに、断層に沿った美濃で大きな被害になりました。岐阜県や福井県では、山々が崩れて多くの河川を堰き止め、天然ダムもできました。また、多くの堤防が損壊し、土砂流出も多かったことから、その後、木曽三川周辺は、水害や土砂災害に悩まされることになりました。
地盤が軟弱な濃尾平野西部でも大きな被害が出ました。液状化は、濃尾平野に加え、静岡や、福井、大阪などでも、広範囲に発生しました。東日本大震災のときに震源から離れた東京湾岸で液状化被害が大きかったことを彷彿とさせます。
この地震では、名古屋郵便電信局や尾張紡績工場などのレンガ造の建築物が倒壊しました。レンガ造建物の被害は木造家屋に比べ微少でしたが、近代化の象徴だったレンガ造建築の被害は、当時の人々にとっては衝撃的だったようです。このため、多くの建築研究者が被害原因を分析し、「建築雑誌」の誌上で近代建築の耐震化の在り方を議論しました。また、被災地でのレンガ造建築の被害のショックは大きかったようで、震災後に作られた愛知県庁本庁舎は、当時には珍しく木造で建設されました。
五月五日にたしかでてくるのも、神に立腹であり、1886年の五月五日の数理は55年後で1941年。12月6日、昭和天皇はルーズベルト大統領の、「平和を志向し関係改善を目指す」との親電を送るを拒否します。12月20日太平洋戦争勃発であり、5月五日の理の事情は、天皇の好戦的態度、意思表明から、五つ理を吹くの5年で、1946年日本国憲法発令となり、天皇は神の地位を失います。
みきの天罰がどんなに恐ろしいか。
れんだいこさんは知らないでしょうが、みきはあいまいに、人間でもあるかのように、羅列してきているのを改めないと、嘘を言うてきたようなものですから、天の返しを見ることになるでしょう。
れんだいこさんは、実は、天理教会やってみようかを、実行しているようなものです。天理教団の誤りを指摘しているなかに、自分が真理だと、真理の語り部だと、思い込む残念があります。
散華くださるを、期待します。