第77部 1886年 89才 最後の御苦労
明治19年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「最後の御苦労」を確認しておく。教祖は、89歳の身で「最後のご苦労」を迎える。以下、この時の実際を考証する。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【平野楢造のお手引き引き寄せ】
 1886(明治19)年正月、後に郡山大教会の初代会長となる平野楢造(ならぞう)が教興寺の隣村の服部川村で賭博のさ中に倒れて、姉婿の森清次郎宅へ担ぎ込まれた。森夫婦は驚いて、松村栄治郎の所へお願いづとめを頼みに行った。高安大教会史16頁は次のように記している。
 「それは明治19年正月の、まだ松飾りの取れぬ〆(しめ)の内の頃であった。村の墓地守の人夫が死んで、その葬式が執り行われた。式も済んで見送りの人は散り散りバラバラになったが、お道の信仰ある人達は松村家に集まって、種々と世間話に花を咲かせていた。丁度、その時である。(中略)森夫婦から頼まれた信者たちは、急に尻を上げようとはしなかった。というのは、平野楢造は畿内に四百人近くの子分を持つ侠客の親分で、人々は『恩智樽の通ったあとは草も生えない』と云って恐ろしがり、彼を嫌っていたからであつた。松村栄治郎が、『何も助けじや。行ってやれ』と言ったので、お願いづとめが決まった。重態の平野楢造を講元田中藤七の家へ連れて来て、人衆を揃えて徹夜のおつとめが始まった。郡山大教会史には、『人々が井戸端で水を被り、いよいよこれからお願いづとめにかかろうとする時、それまでの四時間というもの絶息していた楢造が、急にウーンとうなつて息を吹き返した。人々は緊張し勇み立った。一度目のつとめを終えて、皆が膳に直る時には、楢造は小さな湯飲み茶碗で御神酒を頂けるほどに、速やかな御守護を頂いた。二度目のつとめが終わった時には、腹がすいたからと御飯さえ頂いた。そして三度目のおつとめが六下り目までつとめられた時には、喜びのあまり床から起き上がって小躍りしたと云う」。
 平野楢造が不思議な御守護を頂いておぢば帰りをする前日、教祖がおそばの方々に「明日はこの屋敷にどんな者を連れて帰るや分からんで」と仰せられたと云う話が伝えられている。

【心勇組講中の門前の豆腐屋でのお手振り】

 1886(明治19)年、教祖は89才の新春をお迎えになられた。この当時警察の取締りがますます厳しくなっていた。この当時、政治的集会には警察の許可が必要という集会条例が発布されており、道人の集いも同様の目で取り締まりの対象とされていた。お屋敷の方でもこれに呼応し、「参詣人お断り」の張り紙をあちこちに貼付して、道人の立ち寄りそのものを断わっていく等官憲との協力体制を敷いていた。「応法の理」の成り行きでもあった。参詣人が「おつとめ」をしようものなら、たちまち教祖にご迷惑のかかることは必定であったからであった。一方、教祖のお仕込みを頂いた道人の勢いは盛んになる一方で、教勢は益々伸び拡がっていった。この年、教祖は「最後の御苦労」をされることとなる。

 「最後の御苦労」に至る経過は次のようであった。この頃の2.18日(陰暦正月15日)、講元上村吉三郎に引率された心勇組の講中が7里の道を遠しともせず参詣にやってきた。門前に到着し、「十二下り」をおつとめさせて頂きたいと御願いした。当時は警察の取締りがまことに厳しく、常にお屋敷の動きに対し虎視眈々として監視の目を光らせていた。おおっぴらにおつとめをしようものなら、たちまち教祖にご迷惑のかかることは必定であるから、お屋敷ではこの由を話し聞かせて断わった。一同は、事情を察して参拝だけを済ませ、二階が信徒の宿泊所になっていた門前の豆腐屋こと村田長平方に引き揚げた。そこまではよかったが、勇みきっている道人のことゆえ誰が始めるともなく自然にお手振りが始まり、遂には居あわせた者皆ながこれに加わり、相当な人数が声高らかに唱和し始めた。教祖は、我が身に累の及ぶことを案じるどころか、心勇組のお手振りの声を聞いて、「あれは心勇講の人たちやなあ、心勇講の人はいつも熱心や、心勇講は一の筆や」と取次ぎの者に仰せられたと伝えられている。

(私論.私見) 心勇組講中の門前の豆腐屋でのお手振りについて
 「心勇組の講中の門前の豆腐屋でのお手振り」について、これを教理的にどう位置づけるべきか、案外と決着が着いていない。「宮池事変」同様に見解が分かれる事案であるように思われる。れんだいこ的には、教祖が「心勇組は一の筆や」と評した御言葉に即して解するべきだと思う。これを否定的に「心勇組講中の勇み足お手振り」と評すると、少なくとも教祖の「心勇組は一の筆やなぁ」と齟齬することが免れない。本部教理はどのように説いているのだろうか。

【心勇組のお手振り考】
 この時の、心勇組のお手振りにつき、「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「一の筆(その一)」の「敷島の初代の入信と講元預け問題について(その三)よりつづき」(昭和49年8月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)94-96pより)が次のように伝えている。
 「そうした伊八郎とは逆に、政治的手腕を巧みに駆使した人事構成を大胆になし、人々を勇ます雰囲気作りにたけた吉三郎は、生き生きとして講活動の指揮をとり、その勢いはまさにすさまじいものがあった。だが、そうした勢い、熱心な活動力、統率力のあらわれではあるが、講元就任わずか一年後の明治19年2月18日(陰暦正月15日)の出来ごと、即ち心勇講の一団、三百名ほどが手踊り練習の総仕上げとしておぢばに参拝した。ところが当時は官憲の迫害きびしい時で『参詣人お断り申し上候』との札がかけられていた。そして本部の先生方の『このままお帰り願いたい』とのお言葉に大部分の人は心残りながらもそのまま帰ったのだが、一部の熱心家が残り、門前の豆腐屋こと村田長平宅で太鼓をたたいて賑やかに手踊りをつとめた。このおつとめの声を耳になされた教祖は、『あれは心勇講の人たちやなあ、心勇講の人はいつも熱心や、心勇講は一の筆や』との勿体ないお言葉を賜ったのである。飯降先生がこの『一の筆』のお言葉を一同に伝え、教祖にご迷惑がかかるからとて、その十二下りを途中で制止なされたのであるが、その教祖のお言葉にますます勇み立ち、おつとめを続けたのである。このことが89歳のご高齢の教祖に30年来の酷寒のなか、櫟本分署の板の間で召しておられた黒の羽織を上夜具となされ、ご自身のお履物を枕にして12日間も最後のご苦労をおかけすることになったのである。

 伊八郎にとってもこの出来ごとはまさに晴天のへきれきであった。常日頃、講活動の寄り合いや、手踊り練習などの会場や時間さえも知らせて貰えぬ淋しさ、口惜しさも、ただひたすらに神一条に専念し、たんのうの心を治めていたのであったが、やぶ入りで大豆越の山中宅へ行っている留守中のこととはいえ、『わしがみんなと一緒に行っておれば、こんな無茶なことはさせずに思いとどまらせることができたのではないやろか‥‥』と思う時、前もって講活動を知らせてくれぬ歯がゆさ、腹立たしさをこの時ほどきつく感じたことはなかった。講元を預けたことも後悔せざるを得なかった。そして、教祖に対して自分の誠の至らなさ、また初代講元としての責任を痛感し、申しわけなさに身も心もすくむ思いにかられ、ただただお屋敷にむかって土下座し、涙にむせびながらお詫び申しあげるばかりであった」。

【最後の御苦労】

 何か口実があればそれをきっかけにお屋敷に踏み込もうとして狙っていた取締り当局がこんな派手な動きを見逃すはずがない。櫟本分署から時を移さず数名の巡査が来て、直ちに居あわせた人々を解散させた。事はこれだけでは済まなかった。官憲は、一人も逃すまいとして表門も裏門も閉めさせた上、居間へ踏み込んで来た。何か言掛りをつける種を見つけようと戸棚からタンスの中までも取調べた。ところが、それほどにしても、この時彼らの手によって押収されたものは、僅かにお守りにする為に字を書いた布片だけであった。しかしながら、教祖はじめ真之亮その時お屋敷に居あわせた桝井、仲田の両名が引致されるという物々しさとなった。取調べが次第に厳しさを増しているその当時の様子が窺える。

 この時、赤衣を召していらっしゃる教祖を見て厳しく咎め、黒紋付の差し入れを命令した。稿本天理教教祖伝283p、「第九章、最後の御苦労」が次のように記している。

 「警官の言うには、『老母(教祖)に赤衣を着せるから人が集まって来るのである』と、それで黒紋付を拵えて差入れた。教祖は、分署に居られる間、赤衣の上に黒紋付を召して居られた」。

 櫟本分署は、お屋敷から2キロ隔てた奈良街道にあり、この年の2.1日に開設されたばかりであった。建物は、菜種の油絞り工場が石油ランプの普及によって、ほとんど休業状態にあったのを警察が借受けていた。「お道」を弾圧させる為の専用にと云ってもよい程に用意せられた代用監獄署であった。この年の北大和は、例年にない寒波到来で、零下7度の夜もあったことが気象庁に記録されている。こうした厳寒の中15日間にわたって教祖は「御苦労」されることとなった。そしてこれが教祖「最後の御苦労」となった。

 「教祖伝」291Pは次のように記している。

 「この冬は,三十年来の寒さであったというのに、八十九才の高齢の御身を以て、冷たい板の間で、明るく暖かい月日の心一条に、勇んで御苦労下された。思うも涙、語るも涙の種ながら、憂世と言うて居るこの世が、本来の陽気ぐらしの世界へ立ち直る道を教えようとて、親なればこそ通られた、勿体なくも又有難いひながたの足跡である」。


(私論.私見) 「教祖の最後のご苦労」時の異聞
 八島教学によれば、この時の「教祖の最後のご苦労」は、姉婿・山澤為造が、少年真柱(中山新治郎)に対し、「警察の旦那に来て貰って、止めてしまえ」と命じ、真柱は中山家の戸主として、岡田与之助を櫟本分署に走らせ警察の出張を要請した結果である、と云う。真偽は分からない。

【教祖、桝井、仲田の拘引理由】
 教祖拘引、拘留の契機は、心勇組(敷島の前身)の講中が門前の村田長平方の二階で手踊りをしたことによったが、それは契機であって、法的理由としては、「ひとことはなし」233Pに「御守りの中に入れたる文字記してある『キレ』出でしより、その品を証拠として教祖様及び真之亮を引致したり。桝井と仲田ハ屋敷に居りし故引致せらる」とあるように、「御守り」の交付の責任の所在に関わるものであった。即ち、「神官、僧侶ニアラズシテ他人ノ為メニ加持祈祷ヲナシ、又ハ守礼ノ類ヲ配授シタル者」に当たる「違警罪第一条第九項違反」であった。つまり、教祖、桝井、仲田は、「御守りの交付責任」を問われたことになる。これは、明治17年8.18日から12日間の御苦労の拘引理由と同じである。違警罪は、明治刑法(明治15年施行)では重罪、軽罪の下の一番軽い拘留、科料に処せられるものであったが、度重なる警告にも拘わらず違反することで拘留措置が次第に厳しくなって行ったと考えられる。

 これにつき次のような見方もある。(「天理教教理随想」の「No.93教理随想(44)最後の御苦労(1)」参照)。
 「教祖に対する告発は不敬罪でもなく、また菊の紋を使ったことに対するものでもなく、違警罪第427条の12、すなわち『妄ニ吉凶禍福ヲ説き、または祈祷符咒ヲ為シ人ヲ惑ハシテ利ヲ図ル者』に対する処罰で、これを犯したときは『1日以上3日以下ノ拘留ニ処シ又ハ20銭以上2円25銭以下ノ科料ニ処』されるのが普通であるのに、教祖の場合はこの規定をはるかに越える12日間という拘留を課している。それは旧刑法の再犯加重ないし併合罪を適応したからである。いずれにしても適用した刑は違警罪であり、決して不敬罪でも重罪でもない」(飯田照明著「お道の弁証」533~534頁)。
(私論.私見) 飯田照明著「お道の弁証」のこの下りの論旨について
 飯田氏は、「お道の弁証」のこの下りの論旨で何を言おうとしているのだろうか。末尾の「いずれにしても適用した刑は違警罪であり、決して不敬罪でも重罪でもない」の意味が判じかねる。普通に理解すれば、「適用した刑は不敬罪でも重罪でもない違警罪である」と云う主張になるが、「違警罪だから**である」の**の部分が欠落している。要するに癖のある文章と云うことになる。れんだいこ的には、「本来は1日以上3日以下ノ拘留を相当とする微罪」との言葉を宛がうのが文意と解するが、その「本来は微罪」の罪状で「12日間という拘留を課している」ことに対する怒りが伴わなければならぬところ、これに対する言及がないことを訝る。元に戻って、「決して不敬罪でも重罪でもない」としているところが臭い。普通は、「本来は微罪」の罪状で法律以上の長期拘留させた背景に、「不敬罪又は罪名は定かではないが重罪扱い」した当局の姿勢を論難すべきところであろう。この姿勢が皆無の変調文と言わざるをえない。もっとも前後の関連文が分からないので、読み取りに誤りがあるかも知れぬ。その場合には謝罪し書き換えることとする。

【取調べのご様子】

 この時の取調べは、拘引された日の深夜午前2時頃から始められた。この度の弾圧が異常であったことがこのことからも知れるであろう。まず教祖の取調べから始められた。取調官は、一体教祖のどこに魅力があって、かくも熱心に人々が集まって来るのか、又集まって来る人々に教祖はどんな事をお説き聞かせになっておられるのかに関心を見せ、次々と尋問を為した。教祖は、その彼らの訊問に対し、神懸かりがあったこと、身の内守護の事、埃のことなど教理の概要をお話しされたようである。教祖は、この時、次のように仰せられたと伝えられている。

 「天皇も人間、我々百姓も同じ魂、つとめの理が神」。

 この返答の裏には、明治維新政府の進める近代天皇制教理と「お道教理」の調べ合いがあり、教祖のこの返答は近代天皇制教理を真っ向から否定したことになろう。この時はお守りを証拠物件として持ち帰っているので、これに関する訊問もあったが、これに対しては、「お守りは神様がやれと仰せられるのであります。うちの子供は何も存じません」と、お答えなされた。真之亮に責任がいかないように配慮為されている様子が窺われる。

 続いて、桝井と仲田の取調べが行われた。午前3時頃であった。ここでも、何の魅力でかくも人々が熱心にお参りするのか、又、そこでどんな事をしているのか等について尋問されることになった。そうした訊問に対し、二人は簡単明瞭きっぱりと「御守護をこうむりしご恩に報いるため、人さんにお話するのであります」と答えている。迫害があろうと干渉があろうと、命にかけても駆けずりまわる道人の心境は、この一言で遺憾なく言いつくされているであろう。

 最後に、真之亮の取調べが行われた。既に午前4時頃であった。真之亮は、主として、中山家において行われている種々な行事などについての責任を、戸主の立場から問われたものと思われる。特に、この場合は、お守りに関する訊問が中心になっているようである。これに対して、「お守りは私が渡すのであります。私は教導職で御座ります、教規の名分によって渡します。老母は何もご存じは御座りません」と答えている。これは、この前年に真之亮以下十名の道人が教導職の補命を受けていたからの申し開きであった。かくて深夜約3時間に及ぶ取調べであったが、何時もながら、いささかでも罪の臭いのありそうなものなど、何一つとして出てこなかった。既に公認もされているのに、公認されていようがいまいが「お道」を取り締まるという断固たる鉄の意志が貫徹されていた。以下、確認するが、このたびは相当手厳しい取調べとなり、拘留12日間に及ぶこととなった。

 その夜一同は、そのまま分署の取調室の板の間で夜を明かした。教祖は部屋の艮(うしとら.東北)の隅にお座りになり、その側にひさが付き添っていた。真之亮は、その反対側、すなわち坤(ひつじさる.西南)の隅に座り、いずれも、そのままの姿で夜を明かした。部屋の中央には巡査が一人一時間交代で、椅子に腰を掛けて番をするという物々しさであった。桝井と仲田は別室の拷問用の檻に入れられた。真之亮は一晩で釈放されたが、仲田らは10日間、教組は2.18日から3.1日までの12日間の拘留となった。

 「みのちとも」(昭和4.4.20年号)に、この時教祖の身の回りの世話をし続けた梶本ひさの次のようなお話しが記載されている。
 「私は御教祖様が89歳のお年を召しておられることとて、前管長様(初代真柱のこと)のお言葉でお供をさせて頂いたのでありますが、翌日になって『警察に小使いが居ていろんな用事はするからお前は帰れ』と云って叱りましたが、無理にお願いしてとうとう付き添いを許されました。それから二、三日の間、警察官は時々御教祖様を訊問場へ呼び出しては難しいことを言って御教祖様を苦しめようと致しましたが、御教祖様はそのたびごとに静かに一々お答えになりました。そうして訊問の間々には奈良の裁判所(?)に電話を掛けて、何かしら相談しているようでありましたが、電話室は受付の直ぐ隣の事務室にありし為か、電話をかける度ごとに私に暫く外に出て居れと申しますので、その相談の内容はよく分かりません。多分御教祖様の訊問の結果についての相談だったろうと思います」。

(私論.私見) 「梶本ひさ証言」について
 この「梶本ひさ証言」は非常に貴重である。「それから二、三日の間、警察官は時々御教祖様を訊問場へ呼び出しては難しいことを言って御教祖様を苦しめようと致しましたが、御教祖様はそのたびごとに静かに一々お答えになりました」とある。次に、「そうして訊問の間々には奈良の裁判所(?)に電話を掛けて、何かしら相談しているようでありました」とある。これによると、取調べ警察官が外部の者の指示を受け、逐一相談しながら訊問し続けていたことが明かされている。こういう場合、取調べの警察官、その背後の指示者の双方に関心を寄せるべきであろう。

【獄中のご様子その1、本部教理編】

 本部教理では、この時の教祖のご様子を次のように伝えている。その一、真之亮との遣り取りに関して。教祖は、真之亮の方へ手招きを為さって、「お前、寂しかろう。ここへおいで」と仰せられた。あたりは、しんと静まりかえって音もなく、一声、声でも出そうものなら、忽ちどなりつけられそうな、物々しく警戒されている場面であるのに、教祖は一向無頓着に、極めて自然に話しかけられた。稿本天理教教祖伝は次のように記している。

 「警察の取調べ室も、又目の前にいかめしい姿で監視を続けている警官も眼中になかった如くな、全く何者の支配も、指図も、圧迫をも受けない、何のこだわりもない、天衣無縫のお姿であった。真之亮は、あわててひさに目顔で合図して、『ここは警察でありますから、行けません』と申し上げてもらったところ、教祖は、『そうかや』とおっしゃって、それからは、何とも仰せられなかった」。

 その二、ランプの消燈について。このようにして、この夜は端座なされたまま、まどろまれる暇もなく夜が明けて、太陽が東の空に昇ったが、見張りの巡査は夜番の疲れにうつらうつらと居眠りをしていた。巡査の机の上にはランプの火が昨夜以来、なおも薄ぼんやりと灯りつづけている。教祖は、つと立ってランプに近づき、フッとその灯を吹き消された。この気配に驚いて目を覚ました巡査が、あわてて「婆さん、何をする」とどなると、教祖は、ニコニコ為されて、「お日様がお上りになっていますのに、灯がついてあります。もったいないから消しました」と仰せられた。これにつき、教理では次のように受け取っている。「普通の人間ならば、縮み上がってしまわねばならないような、いかめしい取調べの雰囲気も、教祖のみ心には、いささかの影響も変化ももたらすことはできないのである。我が家にいらっしゃる時と少しも変わらないまことに自然な態度と物腰でお過ごしになられた」。

 その三、囚人晒しについて。教祖は、夜が明けると早朝から、道路に沿った板の間の受付巡査の傍に坐らせた。外を通る人々は、好奇の目で中を覗きみながら、口々に好き勝手なことをささやき合ったり、また中には、聞くに耐えないような悪口雑言を浴びせて行き過ぎる者もある。これに過ぎた侮辱と嫌がらせがあるであろうか。しかもなお、これにさえ飽き足らず、新しい犯罪人を連れてくると、わざと教祖のお傍に坐らせた。何処の誰ともわからず、又どんな凶悪な罪を犯して来た者やら、どんな拍子に何を仕出かすかもわからない不安な者と同座させられている。

 その四、巡査へのいたわりについて。教祖は、獄中に於いても平然として普段と少しも変わりなく過ごされた。それのみか、ある日のこと、表通りを通る菓子売りの姿をご覧になって、付添いのひさに、「ひさや、あの菓子をお買い」と仰せられた。「何をなさりますか」と伺うと、「あの巡査退屈して眠って御座るから、あげたいのや」と仰せられたので、「ここは警察で御座りますから、買うことはできません」と答えると、「そうかや」と仰せられて、そのから後は、何とも仰せられなかった。

 その五、就寝の様子について。夜になって、おやすみになる時間が来れば、もとより夜具の備えなどはないが、上に着ておられる黒の綿入れを脱いで、それをかけぶとん代わりにおかけになり、ご自分の下駄にひさの帯を巻きつけ、これを枕として、着のみ着のまま、板の間にゴロリと横になってお休みなられた。教理では次のように受け取っている。

 「こうした中でも、全くお宅においでの時と変わらぬ安らかさでお眠りになった。こうして教祖は、警察が与えるどんな理不尽な取扱いや、不当な処置にも、一言の不平をおもらしになるでもなければ、苦痛をお訴えになるでもなく、むしろ、そこに安住されているような素直さで、これをお受け下されている」。

 その六、巡査による教祖の御言葉制止について。ある日のこと、「一節、一節目が出る」とお言葉が発せられた。見張りの巡査が、付添いのひさにこれを止めさせようとして、「これ、娘、黙らせろ」とどなったので、ひさは驚いて、これをお止め申し上げようとして、「おばあさん、おばあさん」と、お声をかけた途端に、辺りを圧するりんとしたお声で、「このところに、おばあさんはおらん。神さんがゆうてはるのや、我は天の将軍なり」と言い放った。その語調は、平素のやさしさからは思いもよらぬ威厳に満ち、肉親の孫であるひささえ、畏敬の念に身の震えるのを覚えたという。

 教理では次のように説いている。
 「これには、巡査も呆然と手をつかねる他はなく、お止め申し上げる術もない。教祖こそ、月日のやしろにおわす理を、厳然としてお示し下されるのであった。こうして、捕らわれの身として警察に御苦労下されている間でも、刻限が来れば誰はばかることなく、親神様の思し召しをお聞かせ下された」。
(私論.私見) 「最後のご苦労時の教祖逸話」について
 「最後のご苦労時の教祖逸話」についての本部教理は、去勢された、腑抜けにされた教祖美談に仕立て上げているに過ぎない。このことが追々に見えてこよう。

【獄中のご様子その2、八島教学編】
 八島教学によると、「巡査による教祖の御言葉制止事件」の事実は「取調官による教祖暴行虐待事件」であった。「顕正教祖伝第一回」その他を参照すると次のようになる。
 「巡査は、これを聞いてますますいきり立ち、『懲りないのか』と云って教祖を引きずるように井戸端へ連れて行った。『のぼせている故、井戸端に連れて行き水をかけよ、目を覚ましてやる』と、汲み上げた水を掛けたと云う。教祖の襟髪を開け、柄杓(ひしゃく)の水を掛けたとも伝えられている。水を掛けられて、教祖が息を呑む声が外まで聞こえた、と伝えられている。

 櫟本分署の向い側は、分署の貸主である油やの神田家だった。神田家では、この期間に老婆の悲鳴を何度も聞いたことを現在に語り伝えている。この時の神田家のご新造さんは、みつと云い、半年後に生まれた娘にみきと名づけたほどの教祖心酔者となった。『老婆の悲鳴』につき、その後の天理教が真実の教祖像を伝えていないとして、この櫟本分署後を保存し、代々正しい教祖像を伝えるように子孫に遺言し今日に至っている」。

 この言伝えを裏付ける傍証がある。この時差し入れに来た辻忠作が後になって次のように伝えている。
 「教祖様(おやさま)はおひさ様付き添い、12日間板間に留置なりましたその時差し入れにゆき居るに、巡査が教祖を無暗に打ち、ちゅうちゃく(打擲)すること甚だしく見るも涙の種、思うぞかしこき事にぞある」(「復元」第31号40P)。

 「本部員講話集(中)」にも次のように記されたものがある。
 「その時巡査は教祖を板の間に座らせ、毛布一枚で12日間居らせ、手足で厳しく責めし故、教祖様は再度あのような所へ行けば、身上持たぬと仰せになりました」(文中、「毛布一枚で12日間」というのは史実に正しくなく、実際には毛布は一枚も貸与されていない)。
(私論.私見) 【お道異聞】「教組の踏ん張りと悲鳴」について
 八島教学「取調官による教祖暴行虐待事件」が真相だとすると、稿本天理教教祖伝の「教祖の最後のご苦労」に関する記述は、意図的にあまりにも穏和な逸話にしていることになる。「こういう時でも、教祖が親神の思いを説き、誰にともなく不意に語り始めた」と教祖の慈愛を説くことに傾注しているが、八島教学では、「30年来の寒さの中、教組がこの櫟本分署にご苦労下されて断食一週間、体力は衰えても『世界助けは止むに、止まれん』とひながたをお示し下されていた」とある。

 時はまさに厳寒のさなかであり、殊にその冬は三十年来の寒さであったと云われている。この年の北大和は、例年にない寒波到来で、零下7度の夜もあったことが気象庁に記録されている。教祖が、寒さも不自由も全くお感じにならないもののようであったと説くことは首肯し難い。むしろ、89才という高齢の身で、暖房はおろか、夜具や枕の備えさえない板の間で十幾夜かを明かされるという、言語に絶する環境に捨て置かれ、時に暴行、虐待される身になっていたのではないのか。事実はこうであった。教祖は飢えと寒さから日に日に衰弱していった。夜は、ひさが上から覆いかぶさるようにして外の寒気から守った。後にひさは、「夜は一睡もしなかった」と記している。
 櫟本分署にて最後の御苦労を下された。この時の寒さについて、「教祖伝」291Pは次のように記している。(「天理教教理随想」の「No.93教理随想(44)最後の御苦労(1)参照」)
 「この冬は,三十年来の寒さであったというのに、八十九才の高齢の御身を以て、冷たい板の間で、明るく暖かい月日の心一条に、勇んで御苦労下された。思うも涙、語るも涙の種ながら、憂世と言うて居るこの世が、本来の陽気ぐらしの世界へ立ち直る道を教えようとて、親なればこそ通られた、勿体なくも又有難いひながたの足跡である」。

【獄中のご様子その3、村上教学編】

 泉東分教会発行「躍動の泉」連載の村上道昭(むらかみみちあき)教祖を身近に 連載第22回『最後のご苦労』」は、八島教学の「教祖被拷問説」に対して次のように反論している。これを仮に「村上教学の最後の御苦労論」と命名する。これを確認しつつ、れんだいこの受取りを示しておく。

 「村上教学の最後の御苦労論」はまず、「最後の御足労」の拘引理由として、八島英雄「中山みき研究ノート271P」が、「十九年頃は、日清戦争のために軍国主義が大いに宣伝されていました。その時代に世界一列兄弟、たすけ合いなどと説く人間は、国の方針に仇なす重罪人とみなされたのです」と記していることに対して、「この見方は全くの見当はずれ」と評している。れんだいこが思うに、この村上評の方が見当はずれではなかろうか。八島教学的受け取りようは十分に考えられるのではなかろうか。と云うのも、明治新政府の軍国主義化政策にお道教理が立ち塞がり始めており、これにより当局の天理教撲滅指令が介在していたと読む方が事態を正確に理解できるからである。なぜなら、教祖、桝井、仲田に対する厳罰的取り調べは、背後の「当局の天理教撲滅指令」を読まないと理解できないからである。

 「辻忠作氏の復元31号」(以下、仮に「辻証言」と命名する)40Pは次のように記している。

 「その時、さし入れに行き居るに、巡査が教祖様を無暗に打ちょふちゃくすること甚だしく、誠に見るも涙の種、思ふもかしこきこと事にぞある。後三月中ごろから中田儀三郎煩ひとなり五月末に死去なりました」。

 村上教学は、この「辻証言」に対して、何を根拠に述べているのか分からないが、「仲田儀三郎さん(当時五六歳)の死去が改宗をせまる折檻によるものかはわかりません」としている。その上で、「辻証言」に次のように疑問を投げかけている。

 「忠作さんが差し入れ(これも不確実)にいって、そのような現場を見ることなど考えられません。分署に入ることすら自由にできず、分署の中の様子は、教祖に昼夜の別なくお側に仕えられた、ひさ様に差し入れられた弁当箱のタブレットを通してしか知ることができなかったようです。またひさ様の書き残されたものの中には、忠作さんの名前は全く見当たりません。一説によると忠作さんは珍談、逸話の豊富な人で、文字を書かれず、人から聞いた話を代筆してもらったとも言われています」。

 要するに「辻証言デタラメ説」をぶっていることになる。しかし、こうなると、辻が何故に敢えて復元誌上に「辻証言」を遺したのだろうかと云うことになる。

 それはさておき、「ひとことはなし」246Pが次のような「ひさ証言」を記している。

 「(ひさ様は教祖が井戸水を浴びせられたという風説を聞くたびに、)『老母様には一寸だって水なんかかけさせなかった』と、さながら自分が咎められているかの様に力説いたされました」。

 村上氏は、教祖に付き添っていた「ひさ証言」を引き合いに「辻証言」を否定せんとしている。村上氏は筆の勢いが余ってか次のように続けている。

 「『教祖にはひさ様が付き添われますが、付き添いをゆるされ、夜具類は何一つ与えられない中、座布団を二枚持ち込められたのも、その真の心(ひさ様の)ニ署長初めぢゅんさもみな~~かんじて、おひさ様のゆふ事ハみな~~ゆるしてくれたる事であり升』(「静かなる炎の人」122P)と記されていますように、警察側に教祖の御健康を気遣い、配慮があったためと考えられます」。


 これによると、警察とは何とも優しい美談を生む所かと云うことになる。教祖、桝井、仲田は拘引、留置されたが、警察の温かいもてなしを受けたと云うヘンチクリンチグハグな話しになってしまっている。そのことに当人は気づいていないようである。そういう御仁の「教祖の最後の御苦労の打擲説を肯定して、イエスの十字架の磔刑と重ねて見る見方もありますが、言語道断というほかありません」云々。以下のイエス伝も論評するに当たらないので割愛する。

 「村上教学の最後の御苦労論」は、打擲説を否定し続いて衰弱説の否定に向かっている。衰弱説は、山田伊八郎「根のある花」の81Pの次の記述を云う。
 「教祖は三十年来の寒さの中、お休みのときは上に着て居られる黒の綿入を脱いで、それを被り、自分の履物にひさの帯を巻きつけ、これを枕として寝まれ、分署から支給されるものは何一つ召し上がられず、梶本家からの鉄瓶に入れた白湯のみをお飲みになられておられたためか、分署から帰られてから連日お寝みになられていることが多かったようです。また『耳は聞こえず、目はとんと見えず』、という状態であった」。

村上氏は、「これをどのように受け取ればいいのでしょうか」と自問自答し次のように述べている。
 「最後の御苦労を通して教えられますことは、蝉の抜け殻同然の分署を訪れ、そこでの御苦労を涙ながらにしのび、たすけ一条の決意をするという皮相的なことではなく、私たち子供の成人の鈍さゆえに、教祖のその御苦労が百十五歳の定命を二十五年縮められ現身をかくされる遠因となったことへのおわびと、たすけ一条の根拠であります、ぢばを中心とする神一条の信仰、存命の理への信仰、元の理によって教えられます生命の根源への思慕、つとめ一条の信仰を改めて問い直すことで、それによって真のたすけ一条の心定めできるのではないかと思われます」。

 これは、「宮池事変」の際の本部教理と通底している。本部教理は「宮池事変」に対して次のように説いている。
 概要「月日のやしろとして定まって以降のみきには、既にして一点の人間心はない。あるのはその中に入り込まれた親神の思いのみである。しかしながら、みきが、平素いかに親神様にもたれることの道筋を説き聞かされても、それを受ける人間側の理解と行いは、有為転変激しい世の中にあっては、複雑な事情と身上のもとにある。こうした中で、みきは敢えて人間としての苦しみ悩みの姿を纏って宮池に身を投じようとされた。けれども、親にもたれて親神に連れて通らせて頂いている限り、親神の自由自在の働きによって無事にお導き頂いた。こうして如何なる苦悩に直面しようとも、親神様の導きの働きにより道が開かれ、ご守護を頂けることを、ひながたとしてお示し頂いたのである」。

 「宮池事変」の際のみきの苦悩を見ることなく、宮池入水未遂事件は子供諭しの為の「敢えて為した試しのひながた」であったとする珍論であるが、村上教理はこれを参照しつつ、「最後の御足労」をも「子供諭しの試し」であったと云いたいようである。こういう観点に立つと、全てがこういう風に説明できるようである。

 問題は、そういう教理メガネを外せば良いだけの話しである。「最後の御足労」のひながたは、教祖の御教えの広がりを許さないとする当局の弾圧に抗して、教祖が毅然と闘った獄中記として見ない限り真実が窺えないであろう。かく理解せずんば、どうひなたがたを踏むのであろうか。本部教理的なひながた論によれば、子供諭しの為に敢えて入水してみたり、敢えて獄中入りしてみたりするだけのウソっぽい話しになってしまうのではなかろうか。村上教理は、「教祖の最後の御苦労」を、イエスのゴルゴタの丘での十字架磔刑と重ねて見る説を否定しているが、「イエスのゴルゴタの丘での十字架磔刑と重ねて見る説」の方がまだしも然りであろう。

 2010.12.20日 れんだいこ拝

【「復元」第18号「教祖様の思い出その他」梶本宗太郎】
 「巡査の話」(「復元」第18号「教祖様の思い出その他」梶本宗太郎より)。
 ○山沢の母の話
 巡査の中で、金谷幾松と云う人があって、この人だけは、陰になり、日向になって教祖様をかぼうた。この人は、後に神戸で木材の貿易商で成功した。父(梶本松治郎)とも親交があって、明治二十四年の正月に年賀状が来てる。(中略)その後、父の出直後も手紙が来たので、その旨言うてやった処が、今度は息子さんから、二年間ほど来てて、その後、とだえた。その子孫については知りたいと思っている。(昭和25年9.11日夜、於本部詰所)
 (補足)
 ○市本(櫟本の誤り)警察署行の話
 (中略)また悪き巡査は夜分になると、らんぷの火をわざと赤くして人目に立つ様にする。人は連子(れんじ、欄間や窓などの枠内に、一定の間隔を置いて細い棒を取りつけて作った格子)よりのぞくと云う有様でした。同じ巡査でも金谷幾松と言う人は、らんぷの火をほそめ、紙をはりて暗くして見にくい様にしんせつにしてくれました。この巡査、後に神戸で材木の貿易商人となり、立派に暮された(恐らくこの間に「と」が入る)が外のあつせい(圧制)せし四人の巡査は、市本に居る間に免職となりました(後略)(大正7年2月23夜 山沢母に聞く。「復元」第22号「教祖様のお話」梶本宗太郎より)。

【高弟仲田儀三郎に対する苛酷な取調べ】
 この時、「お道」の第一の高弟仲田儀三郎の取調べも苛酷を極めたが、今日伝えられていない。十日間檻に入れられ留置されていたとある。この時のご苦労がたたって4ヵ月後の6.23日、56才で出直しすることとなった。教祖のお話をもっとも正確に綴っていたとされている仲田本「泥海こふき」は、この時一緒に埋葬されたとも伝えられている。
 「みちのとも・昭和60年4月号、「応法の心を厳しく律したい・中田武彦」7頁」(「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「本席様について(その十四)②」)を転載しておく。
 「明治19年の厳寒の櫟本分署の最後の御苦労の際、お供の一人であった、私どもの初代儀三郎が、お供を終えてわが家の敷居をまたぐ時に、思わず、『あー寒かったで、あー寒かったで』と何遍も漏らしたと、幼い頃、曽祖母から聞いたことが今でも私の脳裡に生々しく残っております。また初代儀三郎は教祖から一番最初にお手振りを教えていただいた一人でありますが、毎日お屋敷に通い詰めて、我が家の農事も忘れがちになるくらい稽古に夢中でした。この為、家内では少なからぬモメゴトもあったようでした」。

【ご帰還とその直後のご様子】

 教祖御苦労の事態を迎え、道人は、お屋敷と櫟本分署の間を駆けずり廻ることとなっった。お屋敷には、飯降伊蔵、高井直吉、宮森与之助などが留守居に当たっていた。櫟本には、清水与之助、増野正兵衛、梅谷四郎兵衛らが出張して、梶本松治郎宅に詰めきっていた。そして、昼となく夜となく、警察の門まで、そっと様子を伺いに行くのであった。常に教祖のお側にいたのは、付添いを許されているひさだけであるが、この人の食事は外から差し入れることになっていたので、それを幸いに、弁当を差し入れに行ってはその都度教祖の御様子を伺って来るのが清水と増野の大切な役割であって、これこそが、教祖の動静を知る唯一の目であり耳となった。

 いかに心を注いでも、警察までお見舞に行くことは許されておらず、せめて一番近いところまでと、清水、増野の詰めている梶本宅まで見舞に来る信者の人々は、連日引きもきらぬ有様となった。しかもその都度、こまごまと教祖の御様子を二人に尋ねるのであった。こうして、教祖の御動静はいち早く、次から次へと全国の信者たちに伝えられていくこととなった。

 教祖ご帰還の知らせは、矢よりも早く、待ちに待っている道人に伝えられていった。当日の様子は次のように伝えられている。3.1日(陰暦正月26日)、教祖は、前後15日間のご苦労を終えられて、櫟本分署からお出ましになられた。お迎えの人は、前年より更にその数を増し、門前一帯に人の山を築き、櫟本からお屋敷まで、お迎えの人と人力車の行列が切れめなく続くこととなった。中山慶一氏は、「私の教祖」の文中で次のように記している。

 「前を見ても後を見ても、延々として続く人力車の列、その中に、自分も車上の人として、加わっていることの嬉しさである。恐らく、当時こんな田舎で、これほどのおびただしい人と車の郡列を見たことはなかったであろう。恐らく子供のこととて、この事実の含む重大なる意味内容は知る由もなかったであろうが、かって見たことのない人と車、そしてその群衆が一様に明るい喜びに湧きかえる賑やかさが、無性に嬉しかったのであろうか。他愛のない子供心の印象であるが、なお、その様子を偲ぶ一助とはなると思う」。

 教祖ご帰還という道人の喜びはさておき、八島教学その他によればこの時のご帰還のご様子は次のようであった。

 「この時の教祖は、2日間のご苦労で起つこともままならずの瀕死の重態とでも云える容態であられた。教祖は、あまりの弾圧ぶりが歴然で、道人は身も心もくだける思いがした。このご身上ではとうていお屋敷までは無理や、近くの梶本の家でお休み頂こうとしたが、官憲はこれを許さず、無理矢理お屋敷に戻ることとなった。冨森竹松の背に負われて、人力車に乗られた」。

 ほんあづま2006.4.10日号付録が、「泉田藤吉と共に布教に歩いていた布教師にして後の和邇分教会の初代会長、冨森竹松氏が晩年に、次のような話をされたと伝えられています」として次の逸話を伝えている。

 「私は、教祖が釈放になるというので、一番に駆けつけたのです。そして、教祖をお迎えしようと思って中に入ったところ、風を避けるためと思うが、事もあろうに、教祖は押入れの中に寝ておられた。そこで、おひささんがお仕えしお守りしていた。釈放というのに、教祖は立って人力車にお乗りになることもできないので、私が押入れに寝ておられる教祖を背中に背負って、人力車にお乗せ申したのです」。

 これによると、教祖は面会謝絶状態に陥っていたことが判明する。これにつき「根のある花、山田伊八郎」81Pは次のように記している。

 「耳は聞こえず、目はとんと見えず、という状態であった」。

【教祖ご帰還時のお仕込み】

 教祖は、この時身上がかような中にも関わらず、力強く指図して、仕込みを為された。迎えに来た道人に次のように宣べられたことが伝えられている。

 「一時飛び出したところ、善悪分けに、世界の人百人、例えば九十九人まで悪、一人だけ善、一人の善が強いか悪が強いか、世界少し見えかけてある」(「復元」37)。

 穏和に解して神意はこうであったとして次のように解説されている。
 「今の人は、例えば百人の中で、九十九人までが、上に仕えろ、強い者に付けと行って、これを忠義であるとか孝行だと教えている。そういう人々が、たった一人の善をいじめているのが、この姿だ。しかし、本当の善とは、難渋の人を助けて、平らな世の中にし誰も苦しんでいる者のいない、陽気づくめの世に立て替えることである。それが、月日親神の望みであり、月日親神から日々生命を守護されている人間の本来の生き方である。一人一人がその本性に目覚めることによって今は厳しくとも、将来は、必ず明るくなる。もう見えてある、とのお言葉であった。幸か不幸か、これが教祖の最後のご苦労となり、これ以降教祖にご苦労頂くような事態は起こらなかった」。
(私論.私見) お道異聞「世界の人百人中九十九人まで悪」について
 何とも味気ない解釈をするものである。教祖の「世界の人百人中九十九人まで悪」をどう拝すべきか。「残念、無念、立腹、抵抗、報復」を通り越した先の悲憤慷慨の弁ではなかろうか。これが教祖の到達した明治維新政府権力観であり、ご足労時当初の「神様にお任せするのや」、「ほこりは避けて通られなや」、「節から芽が出る」の面影は微塵もなく、悪政権力に対する強い義憤の念を披瀝していることになる。これが教祖の抵抗観の到達点となったことを拝するべきではなかろうか。

【雨乞いづとめ】
 この年の夏の日照りも相当なもので、恩智村、教興寺村、刑部村三ケ村の信者の主なリーダーたちが雨乞いづとめをしている。高安大教会史には、8.11日-12日の教興寺、垣内、黒谷、恩智の四ケ村の雨乞い、8.14日から5日間、東の山の蓮池での雨乞いが詳しく記されている。

【教興寺境内で天理教撲滅演説会】
 9.20日、教興寺境内で天理教撲滅演説会が開かれている。服部川の光明寺、垣内の善光寺黒谷の意満寺、大和の勢国寺などの僧侶たちが応援に来て盛んに気勢を挙げた。合わせて教興寺本堂再建の為の寄付金を勧誘したところ予想外に集まり本堂が立派に修復された。ところが、翌1887(明治20)年1.18日の暴風雨によりその本堂が倒壊している。

 (道人の教勢、動勢)
 「1885(明治18)年の信者たち」は次の通りである。新たな講元として、阿波真心講、遠江真明講、斯道会、天地組、天元組、天明講、兵神真明講、天竜講、大和講、日元講、東京真明講、治心講池田組等が結社された。
 増田甚七(23歳)
 春、大和国式下郡八田村(現・奈良県磯城郡田原本町八田)大和郡山の増田甚七(23歳)が、二女の乳母のリウマチを平野楢蔵のお助けでご守護頂き入信。

 1928(昭和3)年4.30日、出直し(享年66歳)。生家・笹村家より呉服商増田家(大和国添下郡柳町村‐現・奈良県大和郡山市柳町)に婿養子に入り甚七と改名(幼名・甚之助)。郡山分教会(現大教会)2代会長。
 中臺勘蔵(なかだいかんぞう)
 11月、江戸日本橋(現・東京都中央区日本橋)の中臺勘蔵(なかだいかんぞう)が、持病(重症神経痛・慢性胃腸炎)の悪化から上原佐助を訪ね、入信。明治21年8.3日、本席よりおさづけ。日本橋支教会(現大教会)初代会長。

 1894(明治27).9.26日、出直し(享年55歳)。
 植田平一郎()
 大和国葛下郡池田村(奈良県大和高田市池田)(陵西村、大和高田)の植田平一郎が右手親指にヒョウソを患い初参拝、ご守護頂き入信。

 1902(明治35)年10.2日、出直し(享年57歳)。生家萬田家より上田家きぬの婿養子となる。きぬの逝去後弟弥七が亡くなりその妻いのと再婚。入信後は千人たすけに奔走。明治20年12.21日、本席よりおさづけ。中和支教会(郡山部内、現大教会)初代会長。
 仲野秀信()
 大和国添下郡小泉村(現・奈良県大和郡山市小泉町)。教祖と力比べで神の存在を見せられ心を定め入信。1885(明治18)年、梶本松治郎に頼まれ、眞之亮の柔剣術の指導に当たる。入信後、天理中学校開校時に柔道、剣術、体操の教師となる。1923(大正12)年11.25日、出直し(享年72歳)。(稿本天理教教祖伝逸話篇174「そっちで力をゆるめたら」)
 同年、宮内初太郎、加藤新兵衛、埼玉県の高橋庄五郎らが入信。
 甲賀谷の杉谷村に住む寺井おまつがイネの葉先で目を突き失明した。宇治田原の西野清兵衛により片目を助けられ喜び勇んで村へ帰った。近隣に布教するうち、同村の西田宗三郎が入信し、またたく間に杉谷村は2〜3軒残してみんな入信したという。また近くの市ノ瀬村に伝わると全村が入信した(天理教伝道史2)。杉谷はこの頃、人口数百人だと推定できる。市ノ瀬は少し小さく100人前後ではなかったか。2村併せて200軒ほどのところがほとんどが天理教信者になった。
 1886(明治19)年6.22日、仲田儀三郎(左右衛門より改名)が出直し(亨年56歳)。1831(天保2)年5.25日、大和国山辺郡豊田村(現・奈良県天理市豊田町)生まれ。1863(文久3)年、妻かじの産後の患いから入信。扇・御幣・肥・いきのさづけ。(稿本天理教教祖伝逸話篇138「物は大切に」)
 10.21日、村田幸右衛門が出直し(亨年66歳)。1821(文政4)年、大和国山辺郡前栽村(現・奈良県天理市前栽町)生まれ。1862(文久2)年)、胃の病を助けられ妻イエと共に入信。御幣・肥・扇のさづけ。
 この年、小島盛可が出直し(享年38歳)。1849(嘉永2)年、生まれ。大神分教会会長。

【この頃の逸話】
 稿本天理教教祖伝逸話篇198の「どんな花でもな」。
 ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで」と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。このお話は、明治19年の頃のお話で、官憲の弾圧がいよいよ厳しさを増し、教祖ご自身も大変なご苦労の御道中をお通りくだされていた頃のお話である。そんな中でも、教祖は、優しく、おおらかな御心でお導きくださった。

 「教祖の御ひながたは、まさに暗闇の中で船の航行を導く灯台の灯りのようだ」の感想がされている()。

 梅谷四郎兵衞
 稿本天理教教祖伝逸話篇「184、悟り方」。
 「明治19年2.6日(陰暦正月3日)、お屋敷へ帰らせて頂いていた梅谷四郎兵衞のもとへ、家から、かねて身上中の二女みちゑがなくなったという報せが届いた。教祖にお目通りした時、話のついでに、その事を申し上げると、教祖は、『それは結構やなあ』と、仰せられた。梅谷は、教祖が、何かお聞き違いなされたのだろうと思ったので、更に、もう一度、子供をなくしましたのでと、申し上げると、教祖は、ただ一言、『大きい方でのうて、よかったなあ』と、仰せられた」。
 山中忠七と山田伊八郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「185、どこい働きに」。
 「明治19年3.12日(陰暦2.7日)、山中忠七と山田伊八郎が、同道でお屋敷へ帰らせて頂いた。教祖は、櫟本の警察分署からお帰りなされて以来、連日お寝みになっている事が多かったが、この時、二人が帰らせて頂いた旨申し上げると、お言葉を下された。『どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな。そこで、指先にて一寸知らせてある。その指先にても、突くは誰でも。摘もみ上げる力見て、思やんせよ』と仰せになって、両人の手の皮をお摘まみ下されると、まことに大きな力で、手の皮が痛い程であった。両名が、そのお力に感銘していると、更にお言葉があった。『他の者では、寝返いるのも出けかねるようになりて、これだけの力あるか。人間も二百、三百才まで、病まず弱らず居れば、大分に楽しみもあろうな。そして、子供は、ほふそ、はしかのせんよう。頭い何一つも出けんよう。百姓は、一反に付、米四石、五石までも作り取らせたいとの神の急き込み。この何度も上から止められるは残念でならん。この残念は晴らさずには置かん。この世界中に、何にても、神のせん事、構わん事は、更になし。何時、どこから、どんな事を聞くや知れんで。そこで、何を聞いても、さあ、月日の御働きや、と思うよう。これを、真実の者に聞かすよう。今は、百姓の苗代しめと同じ事。籾を蒔いたら、その籾は皆生えるやろうがな。ちょうど、それも同じ事』と、お聞かせ下された」。
 中西金次郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「186、結構なものを」。
 「明治19年3月中頃、入信後間もない中西金次郎は、泉田藤吉に伴われて、初めておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、お寝みになっていたが、天恵四番、泉田藤吉の信徒、中西金次郎が帰って参りました、と取次いで頂くと、直ぐ、 『はい、はい』とお声がして、お出まし下された。同年8月17日に帰った時、お目通りさせて頂くと、月日の模様入りのお盃で、味醂酒を三分方ばかりお召し上がりになって、その残りをお盃諸共、お下げ下された。同年9.20日には、教祖にお使い頂きたいと、座布団を作り、夫婦揃うて持参し、お供えした。この時は、お目にはかかれなかったが、後刻、教祖から、『結構なものを。誰が下さったのや』とお言葉があったので、側の者が、中西金次郎でございます、と申し上げると、お喜び下され、翌21日、宿に居ると、お呼び出しがあって、赤衣を賜わった。それはお襦袢であった」。
 田川寅吉(天地組七番)
 稿本天理教教祖伝逸話篇「191、よう、はるばる」。
 但馬国田ノ口村の田川寅吉(17歳)は、明治19年5.5日、村内二十六戸の人々と共に講を結び、推されてその講元となった。時に17才であった。これが、天地組七番(註、後に九番と改む)の初まりである。明治19年8.29日、田川講元外八名は、おぢば帰りのため村を出発、9.1日、大阪に着いた。が、その夜、田川は宿舎で激しい腹痛におそわれ、上げ下だし甚だしく夜通し苦しんだ。時あたかも大阪ではコレラ流行の最中である。一同の驚きと心配は一通りではなく、お願い勤めをし、夜を徹して全快を祈った。かくて、夜明け近くなって、ようやく回復に向かった。そこで二日未明出発。病躯を押して一行と共に、十三峠を越え竜田へ出て、庄屋敷村に到着。中山重吉宅に宿泊した。その夜、お屋敷から来た辻忠作、山本利三郎の両名からお話を聞かせてもらい、田川は辻忠作からおさづけを取次いでもらうと、その夜から、身上の悩みはすっきり御守護頂いた。翌三日、一行は、元なるぢばに詣り、次いでつとめ場所に上がって礼拝し、案内されるままに御休息所に到り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、赤衣を召して端座して居られた。一同に対し、『よう、はるばる帰って下された』と勿体ないお言葉を下された。感涙にむせんだ田川はその感激を生涯忘れず、一生懸命助け一条の道に努め励んだ」。
 諸井国三郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「187、ぢば一つに」。
 「明治19年6月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい、とお願いしたところ、教祖は、『さあさぁ小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで』と、お言葉を下された」。
 平野楢蔵
 初代真柱手記が次のように記している。
 「平野楢造ノ信仰ハ明治19年ノ春頃なるべし。櫟本警察ヘ教祖様御苦労アリシ時ハ、青キ顔シテ表ヲ通リ、教祖様ヲ拝ムニ行キシナリ」(復元第33号347頁)。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「188、屋敷の常詰」。
 「明治19年8.25日(陰暦7.26日)の昼のこと、奈良警察署の署長と名乗る、背の低いズングリ太った男が、お屋敷へ訪ねて来た。そして、教祖にお目にかかって、かえって行った。その夜、お屋敷の門を、破れんばかりにたたく者があるので、飯降よしゑが、どなたかと尋ねると、昼来た奈良署長やが一寸門を開けてくれと言うので、不審に思いながらも戸を開けると、五、六人の壮漢が、なだれ込んで来て、今夜はこの屋敷を黒焦げにしてやると口々に叫びながら台所の方へ乱入した。よしゑは驚いて、直ぐ開き戸の中へ逃げ込んで、中から栓をさした。この開き戸からは、直ぐ教祖のお居間へ通じるようになっていたのである。彼等は、台所の火鉢を投げ付け、灰が座敷中に立ちこめた。茶碗や皿も、木葉微塵に打ち砕かれた。二階で会議をしていた取次の人々は、階下でのあわただしい足音、喚き叫ぶ声、器具の壊れる音を聞いて、梯子段を走って下りた。そして、暴徒を相手に、命がけで防ぎたたかった。折しも、ちょうどお日待ちで、村人達が、近所の家に集会していたので、この騒ぎを聞き付け、大勢駆け付けて来た。そして、皆んな寄って暴徒を組み伏せ、警察へ通知した。平野楢蔵は、六人の暴徒を、旅宿「豆腐屋」へ連れて行き、懇々と説諭の上、かえしてやった。この日、教祖は、平野に、『この者の度胸を見せたのやで。明日から、屋敷の常詰にする』との有難いお言葉を下された」。

 註 お日待ち 前夜から集まって、潔斉して翌朝の日の出を拝むこと。それから転じて、農村などで、田植や収穫の後などに、村の者が集まって会食し娯楽すること。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「189、夫婦の心」。
 「平野楢蔵が、明治19年夏、布教のため、家業を廃して谷底を通っている時に、夫婦とも心を定め、教祖のことを思えば、我々、三日や五日食べずにいるとも、いとわぬ、と決心して、夏のことであったので、平野は、単衣一枚に浴衣一枚、妻のトラは、浴衣一枚ぎりになって、おたすけに廻わっていた。その頃、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、『この道は、夫婦の心が台や。夫婦の心の真実見定めた。いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実、見定めた、さあ、一年経てば、打ち分け場所を許す程に』とお言葉を下された、という」。
 松村吉太郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「190、この道は」。
 「明治19年夏、松村吉太郎がお屋敷へ帰らせていただいたときのこと。多少学問の素養などもあった松村の目には、当時、お屋敷へ寄り集う人々の中に見受けられる無学さや、余りにも粗野な振る舞いなどが、異様に思われ、軽侮の念すら感じていた。ある時、教祖にお目通りすると、教祖は、『この道は知恵学問の道やない。来る者に来なとは言わん。来ぬ者に来いとは言わんのや』と仰せになった。この言葉を承って、松村は、心の底から高慢のさんげをし、ぢばの理の尊さを心に深く感銘したのであった」。

 本田せい
 稿本天理教教祖伝逸話篇「199、起こせは講社を起せの意味や」。 本田せいに纏わる逸話が次のように伝えられている。
 「明治15年、兵神真明講周旋方の本田せいは二度目のおぢば帰りをした。その時、持病の脹満で又お腹が大きくなりかけていた。それをごらんになった教祖は、『おせいさん、おせいさん、あんた、そのお腹かかえているのは、辛かろうな。けど、この世のほこりやないで。前々生から負うてるで。神様が、きっと救けて下さるで。心変えなさんなや。なんでもと思うて、この紐放しなさんなや。あんた、前々生のことは、何んにも知らんのやから、ゆるして下さいとお願いして、神様にお礼申していたらよいのやで』とお言葉を下された。それから、せいは、三代積み重ねたほこりを思うと一日としてジッとしていられなかった。そのお腹をかかえて、毎日おたすけに廻わった。せいは、どんな寒中でも、水行をしてからおたすけにやらせて頂いた。だんだん人が集まるようになると、神酒徳利に水を入れて神前に供え、これによって又不思議なたすけを続々とお見せ頂いた。こうして、数年間、熱心におたすけに東奔西走していたが、明治19年秋、49才の時、又々脹満が悪化して一命も危ないという容態になって来た。そして、苦しいので、起こせとか、寝させとか言いつづけた。それで、その頃の講元、端田久吉がおぢばへ帰り、仲田儀三郎の取次ぎで教祖にお目にかかり、事の由を申し上げると、教祖は、『寝させ起こせは、聞き違いやで。講社から起こせということやで。死ぬのやない。早よう去んで、しっかりとおつとめしなされ』と仰せ下された。そこで、端田等は急いで神戸へもどり夜昼六座、三日三夜のお願い勤めをした。が三日目が来ても効しは見えない。そこで更に三日三夜のお願い勤めをしたがますます悪くなり、六日目からは歯を食いしばってしまって、28日間死人同様寝通してしまった。その間毎日、お神水を頂かせ、金米糖の御供三粒を行平で炊いて、竹の管で日に三度ずつ頂かせていた。医者に頼んでも、今度は死ぬと言って診に来てもくれない。然るに、その28日間、毎日々々、小便が出て出て仕方がない。日に二十数度も出た。こうして、28日目の朝、妹の灘谷すゑが、着物を着替えさせようとすると、あの大きかった太鼓腹がすっかり引っ込んでいた。余りの事に、すゑは、エッと驚きの声をあげた。その声で、せいは初めて目を開いて、あたりを見廻わした。そこで、すゑが、『おばん聞こえるか』と言うと、せいは、『勿体ない、勿体ない』と初めてものを言った。その日、お粥の薄いのを炊いて食べさせると、二口食べて、『ああ、おいしいよ。勿体ないよ』と言い、次で梅干で二杯食べ、次にはトロロも食べて、日一日と力づいて来た。が、赤ん坊と同じで、すっかり出流れで、物忘れして仕方がない。

 そこで、約一ヵ月後、周旋方の片岡吉五郎が代参でおぢばへ帰って、教祖にこのことを申し上げると、教祖は、『無理ない、無理ない。一つやで。これが、生きて出直しやで。未だ年は若い。一つやで。何も分からん。二つ三つにならな、ほんまの事分からんで』と仰せ下された。せいは、すっかり何も彼も忘れて、着物を縫うたら寸法が違う、三味線も弾けんという程であったが、二年、三年と経つうちに、だんだんものが分かり出し、四年目ぐらいから、元通りにして頂いた。こうして、49才から79才まで30年間、第二の人生をお与え頂き、なお一段と、たすけ一条に丹精させて頂いた。註 夜昼六座とは、坐り勤めとてをどり前半・後半の一座を、夜三度昼三度繰り返して勤めるのである。これを三日三夜というと、このお願い勤めに出させて頂く者は、三昼夜ほとんど不眠不休であった」。

 (当時の国内社会事情)
 学校令が公布され、4年制義務教育が始まる。この年、保安条例(危険人物の東京からの退去)公布される。コレラ流行。米大豊作。言文一致論起る。東京電力会社が電力供給開始。標準時を東経135度とする。井上円了『真理金針』。教育者・宣教師クラーク(Clark)死去。
 (田中正造履歴)
 1886(明治19)年、46歳の時、栃木県会議長となる。

 (宗教界の動き)
 1886(明治19)年、1.19日、神道事務局(明治8.3月創設)が神道本局となる。
 この年、修験道側からの嘆願により、「天台宗修験派」として修験道の再興が許され、金峯山寺は寺院として存続できることになった。但し、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、吉野の金峯山寺とは分離され現在に至っている。

 (当時の対外事情)
 1886年、ノルマントン号事件起る。 

 (当時の海外事情)
 1886年、イギリスがビルマを併合する。





(私論.私見)

2023.9.4日、「天皇教を構築した伊藤博文の偽天理教を見破りながら、その上を行くみきの教理を悟れない れんだいこ。」。

 天皇教を構築した伊藤博文を、その悪事を見破りながら、その上を行くみきの教えの神秘の理を、悟れず、悟せなかった知識人「れんだいこ」に散華が必要であると、説明をしておこう。歴史は人間へのみきの意思で動いて来ているのである。

 天理教会やってみようかという悪事は、伊藤博文が実行した。れんだいこ、マリノネットにその事実が書かれている。みきを神とせぬ妄説である。
 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_77.htm
引用しておこう。
451   天理教教祖中山みきの研究第77部  、(最新見直し2006.8.16日)
 明治体制の根本思想は、欧米文明の精神的基盤であるユダヤ教、キリスト教に対抗せんとして、天皇信仰を国の基盤に据えた。伊藤博文の枢密院での所信表明は次の通り。
 「欧州では宗教というものが国家の機軸を為しているが、わが国の場合、どの宗教も力が弱く、国家の機軸足りえるものが無い。従って、わが国においては機軸とすべきものは皇室しかない」。 (中略)
明治22.1.15日、次のようにお指図している。
 「
人間というものはわからん者にわからんものがつく。世界の悪肥えだんだん思案つけ、天理教会やってみよう。一つ道だんだん悪が添い、天理教会。めんかめんも天理教会同じ。一つの理を祀る。皆、人間の心を寄せ、だんだん心を寄せて相談する」。
 天理教会は、皆の悪が太ってしまった姿だという厳しい指図であった。だが、教会本部は指図通り動くことはなかった。
  明治22.3.22日、平野楢蔵願いが出され、次のようにお指図している。
 「
さあさあよう聞き分けねばならんで。あちらへも一本、こちらにも一本、根は一本。段々の理を聞き分け。同じ芽、同じ根と指図しておこう」。
 明治22.4.18日、次のようにお指図している。石造りのかんろだいは没収されて、その後、教祖ご在世中は小石が積まれていたが、明治21年、飯降伊蔵によって板張り二段のかんろだいが据えられていた。
 「
よう聞いておけ。何処にどういう道が始まるとも分からん。さあさあ天理教会やと云うてこちらにも始め掛け。応法世界の道、これは一寸(ちょっと)の始め出し。神一条の道は、これから始め掛け。元一つの理というは、今の一時と思うなよ。今までに伝えた話、かんろだいと云うて口説き口説き詰めたる。さあさあこれよりは速やか道から、今んまにかんろだいを建てにゃならん、建てんならんという道が今にあると云う」。
 明治22年秋、長女のよしゑが園原の上田嘉助の次男(上田ナライトの弟)の楢次郎の元へ嫁ぐ。この時次のようにお指図している。
 「
行くのでも無ければやるのでも無いで。一寸理を繋ぎに行くのやで。行きてもじきに帰るのやで」。
 事実、嫁入り後二、三ヶ月すると、おじばが忙しくなり御用に帰って来られた。その後、永尾家(教祖の母の実家)を立てられることになった。

 明治24年の教祖5年祭を前に、本席の「三年千日のお指図」が始まった。明治22.11.7日、次のようにお指図している。
 概要「
ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながた直せばどうもなろうまい。僅か千日の道を通れと云うのや。三年の間や。ひながた通れば、ひながた同様の理にはこぶ」
 「
ひながたの道より道ないで。何ほどせいたとて、急いだとていかせんで。ひながたの道わり道ないで」。

(以上、引用終わり)


 れんだいこさんは天理教の素人さんである。理がわからないのは無理のないことであるが、これを正しておかないと、大勢を迷わせるので、正しく理を知らせる。
 「
3年千日のひな型」とはイエスキリストのひな型である。
 
中山みきは「50年」である。
 正善しんばしらは「おやのひながた50年」と、歌詞にて示している

 そしてイエスのひな型は、金銭欲、支配欲の、欲にみちた教会の掃除であった。

 つまり、みきのさしづは、伊藤博文に対して、天皇教に対して、支配のための宗教行為は、それは正しくないと誤りを正せであった。イエスのように真っ向から理を解けであったのだ。説いていたなら、みきは、お働きができた。

 理を諭さねば、「なににても知らぬ間はそのままや」である。

 

 みきは親神であるとの理を諭さない、残念は、みきへの謀反、切り口上である。

 これを知らせておこう。

 明治19年(1886)2月18日、教祖、櫟本警察分署に15日間拘留の時である。
 伝承された史実にはこうある。

 雪が五寸も積もっているという夜中に、教祖は「一節一節芽が出る…」とつぶやくようにいわれました。
 これを聞いた巡査は、「
婆さん、だまれ!」と怒鳴りつけました。
 おひさ、、、は慌てて、「
おばん、おばん」と止めました。祖母なので「おばん」と呼んでいたのです。
 そのときみきは、「
ここにおばんはおらん、神様が言うてはんのや」と厳しい言葉を下さいました。これは巡査より怖かったとおひさ、、、は後に語っています。
 
巡査はこの声を聞いて、余計にいきり立ち、10日以上も断食を強いられている89歳のみきを、庭の向こうの井戸端に引き据えました。しかも雪の上です。
「頭を冷やしてやる」とばかり、水をかけようとしましたが、おひさ、、、は巡査にとりすがって、水はかけさせなかったと語っています。
 その当時、清水与之助は神田家に頼み込んで従業員になりすまし、分署に続く蔵の陰から中の様子をうかがっていたということです。また、神田家の番頭達も中の状況を伝えています。それによるとある人は頭から水をかけたと言い、またある人は綿入れの衿上を開けて、ひしゃくで背中に水を流し込んだと伝えています。

  3.12日、この頃のこと、心勇講の山田伊八郎とその義父にあたる山中忠七が、櫟本拘留の原因となった上村吉三郎の行き過ぎを詫びにきた。

 これに対し、みきは、「心勇講はようつとめてくれた、ごくろうやったなぁ」と云われ、「弱っていない証拠を見せる」として、伊八郎の甲の手の皮をつねって見せ、次のように宣べられた。
この力のある限り、神の思し召しは伝えていくで、世界を助ける為には、なんじゅうを助け、ろっくの地に踏みならすという、心定めのおつとめをやらせたい、でも、高山がこれを止める、残念でならん。今の私は、苗代の種と同じことや、種は形が消えても、芽がのびて、やがて稲穂となって、実りをもたらすものや」。
 と、お諭しされた。こうして、教祖は不退転の「ひながた」をお示しなられ、引き続きお仕込みと指図を為されていた。
 この時の教祖のみ言葉が、「山田伊八郎文書」で次のように伝えられている。

 「
この何度も上からとめられるのは、残念でならん。この残念ははらさずにおかん。こんどは、たすけより、残念はらしが先.」。
 みきへの切り口上は、残念はらしに直結します。

 五つ理を吹く。 明治19年(1886)の五つ理を吹くは、明治24年。日本史上最大の内陸地殻内地震(直下型地震)である濃尾地震。(濃尾平野北部で発生したマグニチュード(M)8.0の巨大地震)。これが、残念はらしそのものです。
 甚大な被害
 地震による被害は、死者7,273人、全壊家屋142,177戸に上ります。阪神・淡路大震災の死者・行方不明者6,437人、全壊家屋104,906棟を上回る被害です。当時の日本の人口は4千万人程度ですから、人口比を考慮すると阪神・淡路大震災よりも遥かに大きな被害で、関連死・行方不明者を含め2万人強の犠牲者を出した2011年東日本大震災に匹敵します。被害は岐阜県と愛知県が顕著で、岐阜では焼失家屋が多数発生しました。
 内閣府の報告書によると、道路破裂20,067か所、橋梁損落10,392か所、堤防壊裂7,177か所、山崩れ10,224か所もの被害が発生しました。とくに、断層に沿った美濃で大きな被害になりました。岐阜県や福井県では、山々が崩れて多くの河川を堰き止め、天然ダムもできました。また、多くの堤防が損壊し、土砂流出も多かったことから、その後、木曽三川周辺は、水害や土砂災害に悩まされることになりました。
 地盤が軟弱な濃尾平野西部でも大きな被害が出ました。液状化は、濃尾平野に加え、静岡や、福井、大阪などでも、広範囲に発生しました。東日本大震災のときに震源から離れた東京湾岸で液状化被害が大きかったことを彷彿とさせます。
 この地震では、名古屋郵便電信局や尾張紡績工場などのレンガ造の建築物が倒壊しました。レンガ造建物の被害は木造家屋に比べ微少でしたが、近代化の象徴だったレンガ造建築の被害は、当時の人々にとっては衝撃的だったようです。このため、多くの建築研究者が被害原因を分析し、「建築雑誌」の誌上で近代建築の耐震化の在り方を議論しました。また、被災地でのレンガ造建築の被害のショックは大きかったようで、震災後に作られた愛知県庁本庁舎は、当時には珍しく木造で建設されました。

 
五月五日にたしかでてくるのも、神に立腹であり、1886年の五月五日の数理は55年後で1941年。12月6日、昭和天皇はルーズベルト大統領の、「平和を志向し関係改善を目指す」との親電を送るを拒否します。12月20日太平洋戦争勃発であり、5月五日の理の事情は、天皇の好戦的態度、意思表明から、五つ理を吹くの5年で、1946年日本国憲法発令となり、天皇は神の地位を失います。
 

 みきの天罰がどんなに恐ろしいか。

 れんだいこさんは知らないでしょうが、みきはあいまいに、人間でもあるかのように、羅列してきているのを改めないと、嘘を言うてきたようなものですから、天の返しを見ることになるでしょう。

 

 れんだいこさんは、実は、天理教会やってみようかを、実行しているようなものです。天理教団の誤りを指摘しているなかに、自分が真理だと、真理の語り部だと、思い込む残念があります。

 散華くださるを、期待します。