(道人の教勢、動勢) |
「1885(明治18)年の信者たち」は次の通りである。 |
平野楢蔵(ならぞう、40歳) |
秋、河内国高安郡恩智村(現・大阪府八尾市恩智)、大和郡山の平野楢蔵(ならぞう、40歳)が、1884(明治17)年、幻覚(精神障害)に悩まされ、翌1885年、姉婿・森清治郎より匂いをかけられる。この年、発作を起こし人事不省となるがお願いづとめでよみがえり、初参拝、入信。
1907(明治40).6.17日、出直し(享年63歳)。生家・森家より平野家(郡山洞泉寺町‐現・大和郡山市洞泉寺)の娘とらの婿養子となる。明治20年のおつとめで地方をつとめる。郡山分教会(現大教会)初代会長。 |
上原佐吉() |
1885(明治18)年、6月中旬、大阪の上原佐吉(後の天理教東大教会初代会長)が岡山県笠岡に帰って布教。続いて上京して東京下谷区金杉下町で布教を始める。僅か3年の間に信者を4千人を超えるまでに増やす。 |
「上原佐助」(「清水由松傳稿本」125-126p)。
「岡山縣笠岡出身、元大阪で畳屋を営業、身長五尺一寸体重廿四貫、明治18年7月入信。東京のしるべをたよって布教の為上京、食うに食なく三年ほどどん底の単独布教の結果、漸く北稲荷町の現在東大教会所在地に落ちつかれた。明治21年、教会本部設置につきその地を本部の手で買収、后更に東(あずま)に譲って頂いたのである。当時は上原先生もまだまだやっと糊口をしのぐ時代で、本部からの先生方を賄う力もなく、先生方は皆自費で賄われた。そして上原さんの信徒で裕福であった中台勘蔵さんがとても力を入れた。その為本部設置后中台さんの日本橋は分離して、直轄の理を頂いた。
上原先生は親切な人で食道楽というほうであった。気まめに家で美味しいものを拵らへては、まづ真柱様や本席様にさしあげられるのであった。非常に甘いものがすきで、当番の時などよくおはぎを拵らえて振舞われた。あまり肥満しておられた為夏は随分苦しかったらしく、泣きぐらしや、とよく冗談をいわれ、一日に七遍位入浴された。最初の東詰所は布留の板の古紡績工場買うて建てられ、それ迠は高井先生の家を一部借りて住居し、信徒は皆豆腐屋に泊っていた。明治32年頃、今の敷地を求めて前記古家を移築したのである。なかなかの経済家で薪炭米穀などの購入は手に入ったものであった。本部員になられたのは割合遅く、明治28年頃で、教祖様の十年祭まえ、お指図によって理を頂かれた。晩年咳に苦しまれ本席様からよく飴を頂いては、昼当番だけつとめられた。明治45年3.11、63才で出直されたが、米も薪も葬式に入用なだけは、ちゃんと用意されていたので、時の人達は、上原さんは用意の良い人や、自分の葬式の入用迠ちゃんとしといてゆかはった、と噂したものであった。先生の出直后は、義彦さんが若かったので、役員の椿卯之助さんが十年程会長代りで一切をきりもりした。先生が東大教会の創設者であることは余りにも周知の事であるが、東、日本橋両教会の今日あるのは、又一面山沢為造、高井猶吉両先生が世話役で丹精されたおかげでもある」。 |
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宮田善蔵 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「165、高う買うて」。
「明治18年夏、真明組で、お話に感銘して入信した宮田善蔵は、その後いくばくもなく、今川聖次郎の案内でおぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。当時、善蔵は31才、大阪船場の塩町通で足袋商を営んでいた。教祖は、結構なお言葉を諄々とお聞かせ下された。が、入信早々ではあり、身上にふしぎなたすけをお見せ頂いた、という訳でもない善蔵は、初めは、世間話でも聞くような調子で、キセルを手にして煙草を吸いながら聞いていたが、いつの間にやらキセルを置き、畳に手を滑らせ、気のついた時には平伏していた。が、この時賜わったお言葉の中で、『商売人はなあ、高う買うて、安う売るのやで』というお言葉だけが、耳に残った。善蔵には、その意味合いが一寸も分からなかった。そして思った。そんな事をしたら、飯の喰いはぐれやないか。百姓の事は御存知でも、商売のことは一向お分かりでない、と思いながら家路をたどった。近所に住む今川とも分かれ、家の敷居を跨ぐや否や、激しい上げ下だしとなって来た。早速、医者を呼んで手当てをしたが、効能はない。そこで、今川の連絡で、真明組講元の井筒梅治郎に来てもらった。井筒は、宮田の枕もとへ行って、おぢばへ初めて帰って、何か不足したのではないか、と問うた。それで、宮田は、教祖のお言葉の意味が、納得出来ない由を告げた。すると、井筒は、神様の仰っしゃるのは、他よりも高う仕入れて問屋を喜ばせ、安う売って顧客を喜ばせ、自分は薄口銭に満足して通るのが商売の道や、と諭されたのや、と説き諭した。善蔵は、これを聞いて初めて、成る程と得心した。と共に、たとい暫くの間でも心に不足したことを、深くお詫びした。そうするうちに、上げ下だしは、いつの間にやら止まってしまい、ふしぎなたすけを頂いた」。 |
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谷岡宇治郎、その娘ならむめ(当時8才) |
稿本天理教教祖伝逸話篇「166、身上にしるしを」。
「明治18年10月、苣原村(註、おぢばから東へ約一里)の谷岡宇治郎の娘ならむめ(当時8才)は、栗を取りに行って、木から飛び降りたところ、足を挫いた。それがキッカケとなってリュウマチとなり、疼き通して三日三晩泣き続けた。医者の手当てもし、近所で拝み祈祷もしてもらったが、どうしても治らず、痛みは激しくなる一方であった。その時、同村の松浦おみつから匂いがかかり、お燈明を種油で小皿に上げて、おぢばの方に向かって、何卒このお光のしめります(註、消える)までに、痛みを止めて下されと、お願いするように、と教えられた。早速、教えられた通り、お燈明を上げて、救けて頂いたら孫子に伝えて信心させて頂きます、と堅く心に誓い、一心にお願いすると、それまで泣き叫んで手に負えなかった手足の疼きは忽ちにして御守護頂いた。余りの嬉しさに、お礼詣りということになって、宇治郎が娘のならむめを背負って、初めてお屋敷へ帰らせて頂いた。辻忠作の取次ぎで、宇治郎は、教祖に直き直きお目にかかって、救けて頂いたお礼を申し上げた。それから間もなく、今度は宇治郎が胸を患ってやせ細り、見るも哀れな姿となった。それで、お屋敷に帰らせて頂いて、教祖にお目通りさせて頂いたら、『身上にしるしをつけて引き寄せた』とのお言葉で、早速着物を着替えて来るようにとの事であった。翌日、服装を改めて参拝させて頂いたところ、結構にさづけの理を頂いた。そして、さすがに不治とまで言われた胸の患いも、間もなく御守護頂いた。感激した宇治郎は、その後、山里の家々をあちこちとおたすけに歩かせて頂き、やがて、教祖の御在世当時から、苣原村を引き揚げてお屋敷に寄せて頂き、大裏で御用を勤めさせて頂くようになった」。 |
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加見兵四郎 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「167、人救けたら」。
「加見兵四郎は、明治18年9.1日、当時13歳の長女きみが、突然、両眼がほとんど見えなくなり、同年10.7日から、兵四郎も又目のお手入れを頂き、目が見えぬようになったので、11.1日、妻つねに申しつけておぢばへ代参させた。教祖は、『この目はなあ、難しい目ではあらせん。神様は一寸指で押さえているのやで。そのなあ、おさえているというのは、ためしと手引きにかかりているのや程に』と仰せになり、続いて『人ごと伝ては、人ごと伝て。人頼みは人頼み。人の口一人くぐれば一人、二人くぐれば二人。人の口くぐるだけ話が狂う。狂うた分にゃ世界で過ちが出来るで。過ち出来たぶんにゃ、どうもならん。よって本人が出てくるがよい。その上しっかり諭してやるで』とお諭し下された。つねが家に戻ってこの話を伝えると、兵四郎は、成る程、その通りや、と心から感激して、三日朝笠間から四里の道を、片手には杖、片手は妻に引いてもらって、お屋敷へ帰ってきた。教祖はまず、『さあさあ』と仰せあり、それから約二時間にわたって、元始まりのお話をお聞かせ下された。その時の教祖のお声の大きさは、あたりの建具がぴりぴりと振動したほどであった。そのお言葉がすむや否や、ハット思うと、目はいつとはなく何となしに鮮やかとなり、帰宅してみると、長女の目も鮮やかに御守護いただいていた。しかしその後、兵四郎の目は毎朝八時頃までと言うものは、ボーッとして遠目は少しも聞かず、どう思案しても御利益ない故に、翌明治19年正月に、又おぢばへ帰って、お伺い願うと、『それはなあ、手引きがすんでためしがすまんのやで。ためしというは人助けたら我が身助かる、と言う。我が身思うてはならん。どうでも人を助けたい、助かってもらいたい、と言う一心に取り直すなら身上は鮮やかやで』とのお諭しを頂いた。よって、その後熱心にお助けに奔走する内に自分の身上も、すっきりお助けいただいた」。 |
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この年、井出国子(井出クニ、22歳)が結婚。父・亀吉の鋸鍛冶弟子、秋田源吉を婿養子として迎えて跡をとる。源吉との間に3人の男の子を出産する。 |