第75部 | 1884年 | 87才 | 度重なる御苦労と応法の理の動き4
教会設置運動1 |
明治17年 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.12.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「度重なる御苦労と応法の理の動き4、教会設置運動1」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【この頃のお屋敷の取締りの様子と道人の信仰の様子】 |
この頃のお屋敷の取締りの様子と道人の信仰の様子が伝えられている。お屋敷の門までくると、警察の取締りが厳重で中へは一歩も入らせない。門前でお供をして、心ならずも、そこから教祖の後姿を伏し拝み、甘露台のぢばを遥拝して、あるいは近在の村々へ、あるいは遠方の国々へと無量の感慨を懐いて引き揚げた。これが当時の道人の参拝の仕方であった。にも拘らず、「一度は一度の匂いがけ」とお聞かせ頂くお言葉の通り、「ご苦労」のたびごとに信者の数が増加し、その信仰の熱度も一段と強さを加えていった。 |
【教祖、「四度目のご苦労」】 | ||||
1884(明治17)年、教勢が拡がりその動きが活発になるに従い、勢いその地方地方の警察の目に止まるような問題も起こってきた。それが地元の奈良、丹波市の警察へ問いあわせや通報、連絡がやってくるので、所轄署では益々躍起となって取締りを強化することとなった。この時、「お道」の高弟/鴻田も連れて行かれることとなった。この時の拘引は、御供と鴻田が「こふき」を書いていたその書きものを証拠として、教祖は3.24日(陰暦2.27日)より4.5日(陰暦3.10日)までの12日間、鴻田は10日間の拘留が申し渡され、奈良監獄署へ護送された。これが教祖「四度目のご苦労」となった。
翌日、御供と書きものを証拠として、教祖と鴻田を分署へ拘引すべくやって来た。この時、教祖は、拘引に来た巡査に向かって、「私、何ぞ悪いことしたのでありますか」とお尋ねになられている。これに対して、巡査は、お前は何もしらぬが、側についている者が悪いから、お前も連れていくのである、と言い訳をした問答が伝えられている。教祖は、「さようですか。それでは御飯を食べて参ります。ひさや、このお方にも御飯をお上げ」と仰せられて、食事を為さる為に奥へお入りになった。教理では次のように解している。
こうして、 この時教祖は、御飯をお済ませになり、お召し替えを終られると、遊山にでもお出かけになるような、いそいそとした態度でお出かけになっておられる。次のように語られている。
道人は、再び深い驚きと悲しみに動転しながらも、真之亮や側近の人々を はじめ国々の信者に至るまで、お屋敷の留守居から、奈良へのご慰問、差し入れにと、あらんかぎりの真実を尽くして立ち働くこととなった。お屋敷内では、住み込みの飯降伊蔵、桝井伊三郎、梅谷四郎兵衛、高井猶吉、喜多治良吉、梶本松次郎らの面々が、扇の伺いを立てて寄り合い額を寄せていた。他に、自宅からの通い組として澤田権治郎、前川喜三郎、美並久五郎、山澤為造、村田長平らが寄り集った。 |
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教祖の「私、何ぞ悪いことしたのでありますか」のみ言葉についての本部教理は黙して語らず、その後の「ひさや、このお方にも御飯をお上げ」に注目して、「まことに、何のとらわれもなければ、ためらいもない、何者の指図も拘束もお受けにならない、なんという自然で屈託のないお振舞であろうか」と耽美している。この解釈は正鵠を射ているだろうか。れんだいこは、教祖の「私、何ぞ悪いことしたのでありますか」の御言葉の方に着目する。この御言葉は、ご苦労の際のそれまでの教祖の謂い条に比して明らかに異質である。これまでは、「154. 神が連れて帰るのや」の記す「教祖の仰せに、『巡査の来るのは神が連れて帰るのや。警察へ行くのも神が連れて行くのや』、『この所に喧しく止めに来るのは、結構なる宝を土中に埋めてあるのを、掘り出しに来るようなものである』、『巡査が止めに来るのやない。神が連れて帰るのである』とあるように、警察をも匂いがけの、高山説教の好機会としていた。それに対し、こたびの「私、何ぞ悪いことしたのでありますか」は、それまでの官憲の臨検に対して従順さを止め、官憲の臨検が非であることを「初めて咎め」ており、そのことに意味があると窺う。 |
【この時のご苦労時の逸話】 |
この時のご苦労時の逸話に次のようなものが語り継がれている。同室に三年の刑を受けて入獄していた女囚がひどい痺癬(ひぜん)で困っていた。教祖が息をかけてお助けされた。以来、女囚は教祖を慕い、出獄後お屋敷へお礼参拝に来た云々。 |
【ご帰還時の出迎えの様子】 | ||
この度の「ご苦労」は3.24日から4.5日まで12日間の奈良監獄所拘留となった。獄舎からお出ましの日は、殊更に触れ回るわけではないが次から次へと聞き伝わり、一刻も早く健やかな教祖のお顔を拝したいと、監獄署の門前に詰めかける信者の人波で埋まった。早朝から一杯になり沿道まで続いた。この日午後10時に獄舎をお出ましになられたが、そのお姿が目に入るや道人は一斉に拍手を打って拝んだ。取締りの巡査が、人をもって神とするは警察の許さぬところである。拝むことは相ならん、と叫びつつ制止して回ったが、ない命をお助け頂いて、これが拝まずにおられるかい、とささやく群衆の表情には真剣必至の色が漲っており、制止しきれるものではなかった。
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獄舎を出られた教祖は定宿になっていたよし善でご入浴、獄中の汚れを洗い落されて、昼食をすまされた。そして、お迎えの信者たちのお目通りを許され、酒飯をくだされて後、村田長平の挽く人力車に乗ってお屋敷に向かわれた。その後を我も我もと人力車でお供をする人々の車が数百台も続いた。沿道は至るところ人の山で、なかんずく猿沢池の付近には殊の外人々が密集していて、一斉に拝む拍手の音が四囲に響き渡った、と伝えられている。 お屋敷へ帰られたのは月を越えて4.5日午後2時頃であった。こういう風にして教祖を引致して信仰をやめさせようとする警察の意図は常に失敗に帰し、却って信仰の火に油を注いで煽りたてるような結果となった。事態は常に教祖が仰せくださるお言葉通り「節から芽が出る」こととなった。 |
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「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「奈良監獄御出所の教祖様御迎え」を転載しておく。
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【教祖と鴻田の問答】 | ||||||
この時、鴻田は10日間拘留された。この拘留の間、獄吏から便所掃除を命ぜられており、出獄後に教祖の御前に戻った際、次のような談じ合い、練り合い、お諭しが為されている。(逸話篇「144、天に届く理」)
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【講社の明誠社が神習教に所属】 |
この年の3月、奥六兵衛(1850−1911)が京都で始めていた講社の明誠社が官憲の弾圧を避ける便法として教派神道の一つであった神習教に所属している。 |
【深谷源次郎が明誠社を脱会し斯道会(河原町)を結成】 | |
1884(明治17)年、深谷源次郎が明誠社を脱会し、斯道会(河原町)を結成する。 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「141、ふしから芽が切る」。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「142、狭いのが楽しみ」。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「143、子供可愛い」。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「148、清らかな所へ」。
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【教会設置運動その1】 |
この頃、応法派の真柱の真之亮とその側近達が、教会設置運動に駆け周り始めることとなった。この動きを確認しておく。 教祖ご足労が度重なる中、ここ両3年来、道人たちが、熱心のあまりとは言いながら、警察の取締りの目をくぐって行動することが、ことごとく皆な教祖にご迷惑をお掛けする結果になっており、このままでは如何ともし難い、これ以上教祖にご迷惑がかからず、布教活動を堂々と行えるようにする為には、教会の公認を受けるより他に道がない、どうしても布教公認の手続きをしたいという決心が次第に不動のものになり、「応法の理その4」とでも云える動きが年の始め頃より湧き起こってきていた。 とはいえ、この当時は何分にも政治、行政などに関する知識が普及しておらず、殊に「お道」の信仰者の中に、そうした方面に深い知識のある人はなかった。どうでも教会を設置したいとは思っても、誰を相手に、どんな手続きをしてよいものか、折衝のツボが分からないままに、あれこれと試行錯誤な動きをしていた。「こうした気運に乗じて、小才の利く不純分子が策動する余地も生まれていた」とある。 4.14日、お屋敷から山本利三郎、仲田儀三郎の両名が教興寺村へ出向いて行って教会設置について相談を始めた。4日後の18日には更にその範囲を広げ、大阪の西田佐兵衛宅に、真之亮を始め山本利三郎、仲田儀三郎、松村栄次郎、梅谷四郎兵衛、京都の明誠組の人々をも加えて協議をしている。ところが議論はなかなかまとまらず、一度お屋敷へ帰って教祖にお伺いの上、更によく相談をして方針を決めようということになった。森田清蔵は安政元年(1854)信貴山南畑村生まれ。明治7,8年頃から19年ごろほどまでの河内伝道に大きな役割を果たし、同17年の「天輪教会」設立運動にかかわっている。 |
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「お道」への度重なる弾圧に対して、教内が揺れた。教祖は、只一筋に親神にもたれて行けば良いと指針していたが、合法化を目指す動きが寧ろ強まり始めた。これをどう拝するべきか。一人天理教のみならず政治、思想、宗教界に常に問われる普遍的な問題ではなかろうか。 2010.7.25日 れんだいこ拝 |
【仮教会、仮王社設立の動き】 |
当時、京都では明誠組が、奥六兵衛、松谷喜三郎、山本利三郎らが中心になって神習教の部下になって神習教転輪明誠教会を設立し、心学道話(しんがくどうわ)を用いて迫害を避けていた。 これを見て、大阪でも、明治17年5.9日(陰暦4.22日)づけで、梅谷四郎兵衛を社長とする「心学道話講究所天輪王社」の設立を出願することとなった。これは、5.17日付けをもって「書面願之趣旨指令スベキ限ニ無之依テ却下候事」と却下されたが、但し、「願文の次第は差し支えなし」との回答であったので、大阪の順慶町に「心学道話講究所天輪王社」の標札を出して布教活動を行うことにした。 北炭屋町(きたすみやまち/現大阪市中央区西心斎橋一丁目)でも、天恵組一番、二番の信者が中心となって竹内未誉至、森田清蔵の二人を代表者として神学道話講究所を作って、お道の布教をし始めた。 |
【「お道」幹部による全国各地布教講演】 |
この年、大阪で、真之亮は前川菊太郎を従えて出向き講演を行い、翌日は神戸地方でも同様の講演をしている。その後、河内、京都へも巡教している。この間、6.12日、岡田与之助が山城京都方面へ、高井直吉は神戸へそれぞれ巡教し、6.21日より8日間、山本利八が河内、京都、丹波方面へ巡教し、6.26日、鴻田と岡田が山城方面へ巡教して活発なる動きをしている。 |
【教祖、「度重なるご苦労」】 |
「四度目のご苦労」以降、教祖は、信者がおつとめに集まってくる陰暦26日を中心に3日間、特別の理由もないままに警察へ連行されることとなった。教祖を連行し留置すること自体が目的で、特段の取調べもせずして釈放されることとなった。道人は教祖を目標に集まってくるのだから、祭礼日の26日に教祖がいなければ拍子抜けするであろう、それが度重なるに従って信仰の熱意も薄らぐであろうとでも考えたようである。この年4月の月は二度に亘って、5月、6月も陰暦16日前後は3日連続に丹波市警察分署へ「ご苦労」下されることとなった。7月だけが無事にすんでホッとしていると、8.18日(陰暦6.28日)、巡査が巡回に来て、机の引き出しにお守りが一つあったのを発見した。机の引出しからお守りが見つかったというだけの事を理由に丹波市分署へ拘引し、8.18日から30日(陰暦6.28日から7.10日)までの12日間、奈良監獄へ拘留された。 |
【梶本惣治郎逸話】 | |
「度重なるご苦労」の次のような「梶本惣治郎逸話」が遺されている。「天理教は宗教か、真実の教えか」の「教祖伝の史実」の「梶本松治郎への神様からのお言葉」を参照する。(昭和32年、橋本正治編「梶本宗太郎自叙傳」) 梶本宗太郎の祖父の惣治郎の筆跡で教祖のお言葉の書き取りがある。 惣治郎の妻の「はる」は教祖の三女で、惣治郎は教祖の義理の息子になる。その惣治郎が「教祖様の奈良詣り誘い」にお地場に来て、教祖様櫟本(いちのもと)へ出向いた時のお言葉を次のように記している」(明治17,18年頃)。梶本松治郎とは宗太郎の父である、松治郎の弟の新治郎(真之亮)は中山家の養子となり初代真柱様となる。宗太郎は20歳でお屋敷の青年となっている。
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【大日本天輪教会の動き】 |
神学道話講究所設立の動きと相前後して新たな応法の動きが始まった。神学道話講究所設立によって一時的にもせよ取締り当局の目をごまかし、無事に布教活動を続けて行けることに気をよくした竹内未誉至(みよし)等を通じて大日本天輪教会を設立しようという計画が持ち上がり教会設立気運が澎湃として起こってきた。これに呼応して、おぢばで信者が定宿にしていた村田長平(通称とうふ屋)の家に教会設立事務所の看板をかけるまでに至った。教会設置運動は、心学道話の名を借りるというような糊塗的な手段を脱して、いささか本格的な線に添うて動きだした。 9月、竹内未誉至らは大阪南区北炭屋町に大日本天輪教会を設置した。「お道」の教理及び教勢からして一元的全国的な規模において公認を受ける必要があったからであった。何とかして布教の自由を得たいと焦る人々の思い、気運を受けて、彼は先ず天恵組、真心組(しんじんぐみ)、その他、大阪の講元に呼び掛け、続いて兵庫、遠江(とおとうみ/現静岡県の大井川以西)、京都、四国にまでも呼びかけた。竹内らの計画は次第に全国的に広げられて行った。 西田佐兵衛は明心組の信者。1884(明治17)年の竹内未誉至らの起こした「天輪教会」設立運動の際、竹内側に流れ、一時明心組を離れたがのち復帰する。 |
【遠江真明講(講元・諸井国三郎)でかぐらつとめ】 |
遠江真明講(講元・諸井国三郎)でかぐらつとめ。明治22年まで毎月行われる。 |
【大日本天輪教会派が弾圧される】 |
12.13日、松村千代治、中谷勘三郎、松田音次郎、松永好松ほか一人が、大阪北炭町教会処設置寄付金募集の件で、八尾警察署に呼び出され、四日間拘留された。この事件後、竹内未誉至、森田清蔵らの大日本天輪教会設立の動きが頓挫し、森田清蔵が消えた。 |
【神の力は倍の力教理】 | |
土佐卯之介 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「152、倍の力」。
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梅谷四郎兵衛 | |
「力だめしの話」、「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社発行)138−140p。
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「植田つる (上田民蔵の娘、本部婦人) 手記/力くらべ」は次のように記している。
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仲野秀信 | |
稿本天理教教祖伝逸話編、仲野秀信逸話「174、そっちで力をゆるめたら」が次のように記している。
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【くに女お助け譚】 | ||||||||
「本人の真実次第(その一) 」、「本人の真実次第(その二) 」、「本人の真実次第(その三)」、「本人の真実次第(その四)」、「本人の真実次第(その五) 」、「本人の真実次第(その六) 」。
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(道人の教勢、動勢) | |
「1884(明治17)年の信者たち」は次の通りである。 | |
増野正兵衛() | |
1884(明治17)年2月頃、長州萩(現・山口県萩市)、神戸三宮の増野正兵衛が、妻いとが明治14年にソコヒを患い、失明寸前となった時、幼なじみから匂いをかけられたのがきっかけで入信、その年初参拝。明治20年5.4日、本席よりおさづけ。 稿本天理教教祖伝逸話篇「145、いつも住みよい所へ」は次の通り。
1914(大正3).11.12日、出直し(享年66歳)。 |
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佐治登喜治良(23歳) | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「146、御苦労さん」。
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山本与平の妻いさ | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「147、本当の助かり」。
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上村吉三郎() | |
大和国十市郡倉橋村出屋鋪(現・奈良県桜井市倉橋出屋敷)の上村吉三郎()が、足のケガを山田伊八郎(心勇組初代講元)のお助けでご守護頂く。この後、講元を譲り受けることで入信。心勇組2代講元。稿本天理教教祖伝では明治16年。城島分教会(現敷島大教会)初代会長。 |
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森口又四郎、せきの長男鶴松(30歳) | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「155、自分が助かって」。
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松田サキ | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「156、縁の切れ目が」。
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【この頃の逸話】 | |
諸井国三郎 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「139、フラフを立てて」。
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紺谷久平 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「140、おおきに」。
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土佐卯之助 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「149、卯の刻を合図に」。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「150、柿」。
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稿本・天理教祖伝逸話篇「152、倍の力」(土佐卯之介との力比べ)
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諸井国三郎 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「151、をびや許し」。
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梅谷四郎兵衛 | |
「難儀はささぬ」(養徳社発行・本部員叢書12「旧きを尋ねて」梅谷忠雄より)。
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(当時の国内社会事情) |
1884年、自由党が解散する。各地で政府に抵抗する事件が起る。加波山事件。秩父事件。各地で農民暴動。地租条例が定まる。自由民権運動弾圧のため区長村会法を改正。大洪水。 |
(田中正造履歴) |
1884(明治17)年、44歳の時、栃木県令三島道庸の圧政に反対、加波山事件に関係したとして入獄3か月。 |
(宗教界の動き) | |
8.11日、教化政策には批判も多く神仏教導職制を全廃し、それまで各宗派の教導職を統轄していた管長に、宗派内の住職、教師の任免権、教師の昇級進退等の権限が委任された。これに伴い管長を教団行政上の代表とし、各教の教規、宗制、寺法などの教団法によって各教団は自らの権力を確立することになる。神道事務局の教導達は「神道」という名の宗派を立てた。これが後に神道大教となる。
10.13日、稲葉正邦神道管長に就任。この経緯は「神道大教の教史」に次のように記されている。
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(当時の対外事情) |
フェノロサが夢殿観音像を調査。 |
(当時の海外事情) |
1884年、清とフランスの間で戦争が起る(清仏戦争)。 朝鮮、甲申事変起る。 朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。朝鮮政府内で劣勢に立たされていた金玉均など急進開化派は、日本公使竹添進一郎の支援を利用し、12.4日、クーデターを決行したが、12.6日、袁世凱率いる駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。日本政府の悪が資金援助してクーデターを起こさせ、日清の対立が見えかけた。 |
(私論.私見)