第75部 1884年 87才 度重なる御苦労と応法の理の動き4
教会設置運動1
明治17年

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「度重なる御苦労と応法の理の動き4、教会設置運動1」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【この頃のお屋敷の取締りの様子と道人の信仰の様子】
 この頃のお屋敷の取締りの様子と道人の信仰の様子が伝えられている。お屋敷の門までくると、警察の取締りが厳重で中へは一歩も入らせない。門前でお供をして、心ならずも、そこから教祖の後姿を伏し拝み、甘露台のぢばを遥拝して、あるいは近在の村々へ、あるいは遠方の国々へと無量の感慨を懐いて引き揚げた。これが当時の道人の参拝の仕方であった。にも拘らず、「一度は一度の匂いがけ」とお聞かせ頂くお言葉の通り、「ご苦労」のたびごとに信者の数が増加し、その信仰の熱度も一段と強さを加えていった。

【教祖、「四度目のご苦労」】

 1884(明治17)年、教勢が拡がりその動きが活発になるに従い、勢いその地方地方の警察の目に止まるような問題も起こってきた。それが地元の奈良、丹波市の警察へ問いあわせや通報、連絡がやってくるので、所轄署では益々躍起となって取締りを強化することとなった。この時、「お道」の高弟/鴻田も連れて行かれることとなった。この時の拘引は、御供と鴻田が「こふき」を書いていたその書きものを証拠として、教祖は3.24日(陰暦2.27日)より4.5日(陰暦3.10日)までの12日間、鴻田は10日間の拘留が申し渡され、奈良監獄署へ護送された。これが教祖「四度目のご苦労」となった。

 「四度目のご苦労」時のいきさつとご様子が次のように伝えられている。3.23日(陰暦2.26日)の夜12時頃、突然2名の巡査が辻忠作を伴ってお屋敷へやって来た。それは、その夜、お屋敷へ御詣りした忠作が豊田村へ戻ろうとして鎮守の守の北側の道を東へ急いでいた時、この2名の巡査につかまったことによる。陰暦2.26日と云えば定例のおつとめ日であるから、何事かあろうと見当をつけて網を張っていたものと思われる。お屋敷通いの常連である忠作のことであるから顔が割れており、中山家を辞して間もないところでもあって見え透いた嘘も云えない。どこへ行って来たのかとの問いに、「用事あって中山家へ参りまして只今戻るところで御座います」と答えざるを得ず、ならばまだ居残っている者がいると踏んで、辻を先導として取調べにやってくるところとなった。巡査が居丈高に乗り込んで来ると、教祖のお居間の次の間に鴻田忠三郎が居残っており、そこに御供と鴻田が書いていた書きものもあった。巡査は帯剣を抜いて「この刀の錆びになれ」と言って脅し、教祖と鴻田に翌日の拘引を宣告した後、引き上げた。

 この時の逸話が次のように語られている。3.23日夜、桝井、梅谷、喜多が留守中の心得を伺うと、教祖は次のように宣べられた。

 「さあさあ向こうへ行っている者は心一つなれど、内の者は四方へ心を配り。それ故重役(おもやく)である。何かのことによろしぃ頼むで」。

 翌日、御供と書きものを証拠として、教祖と鴻田を分署へ拘引すべくやって来た。この時、教祖は、拘引に来た巡査に向かって、「私、何ぞ悪いことしたのでありますか」とお尋ねになられている。これに対して、巡査は、お前は何もしらぬが、側についている者が悪いから、お前も連れていくのである、と言い訳をした問答が伝えられている。教祖は、「さようですか。それでは御飯を食べて参ります。ひさや、このお方にも御飯をお上げ」と仰せられて、食事を為さる為に奥へお入りになった。教理では次のように解している。

 「まことに、何のとらわれもなければ、ためらいもない、何者の指図も拘束もお受けにならない、なんという自然で屈託のないお振舞であろうか。 さすがの巡査も何の反発も制止もできなかった」。
 「お上のご威光を笠に着ての権勢も 教祖の御前には何の威力も発揮することができない。教祖は権勢に対するに、権威や威光を以って立ち向かわれたのではない。 教祖は、巡査の職務執行に反対為されたり、相手を手こずらせたりなされたことは、ただの一度もない。むしろ、子供の言い分が、如何に理不尽であっても、常にその言い条に従い、彼らの職務の遂行を助けてやっておられさえする。『反対するのも可愛いい我が子』と仰せ下さる通り、へだてない親心は、何時いかなる場合にも、常にあらゆる人々の上に注がれている」。

 こうして、 この時教祖は、御飯をお済ませになり、お召し替えを終られると、遊山にでもお出かけになるような、いそいそとした態度でお出かけになっておられる。次のように語られている。

 「教祖は、いつも、『私が、こうして苦労すれば多くの世界の子供は助かるのやから』と言って、悦んで監獄へ行かれた」(大正11年10発行「教祖と其の教理」(天理教同志会編)の「私がこうして苦労すれば」201p)。

 道人は、再び深い驚きと悲しみに動転しながらも、真之亮や側近の人々を はじめ国々の信者に至るまで、お屋敷の留守居から、奈良へのご慰問、差し入れにと、あらんかぎりの真実を尽くして立ち働くこととなった。お屋敷内では、住み込みの飯降伊蔵、桝井伊三郎、梅谷四郎兵衛、高井猶吉、喜多治良吉、梶本松次郎らの面々が、扇の伺いを立てて寄り合い額を寄せていた。他に、自宅からの通い組として澤田権治郎、前川喜三郎、美並久五郎、山澤為造、村田長平らが寄り集った。


(私論.私見) 教祖の「私、何ぞ悪いことしたのでありますか」の御言葉について教祖、「四度目のご苦労」

 教祖の「私、何ぞ悪いことしたのでありますか」のみ言葉についての本部教理は黙して語らず、その後の「ひさや、このお方にも御飯をお上げ」に注目して、「まことに、何のとらわれもなければ、ためらいもない、何者の指図も拘束もお受けにならない、なんという自然で屈託のないお振舞であろうか」と耽美している。この解釈は正鵠を射ているだろうか。れんだいこは、教祖の「私、何ぞ悪いことしたのでありますか」の御言葉の方に着目する。この御言葉は、ご苦労の際のそれまでの教祖の謂い条に比して明らかに異質である。これまでは、「154. 神が連れて帰るのや」の記す「教祖の仰せに、『巡査の来るのは神が連れて帰るのや。警察へ行くのも神が連れて行くのや』、『この所に喧しく止めに来るのは、結構なる宝を土中に埋めてあるのを、掘り出しに来るようなものである』、『巡査が止めに来るのやない。神が連れて帰るのである』とあるように、警察をも匂いがけの、高山説教の好機会としていた。それに対し、こたびの「私、何ぞ悪いことしたのでありますか」は、それまでの官憲の臨検に対して従順さを止め、官憲の臨検が非であることを「初めて咎め」ており、そのことに意味があると窺う。

 こう窺うべきところを、「ひさや、このお方にも御飯をお上げ」の言に注目し、「隔てない親心の発露の御言葉」とのみ受取るのは味気ない受け取りようではなかろうか。教祖は、この頃を境にそれまでの従容に対し、官憲に抵抗する方向に舵を切ったように拝することができる。教祖のこの踏ん張り、官憲の理不尽弾圧に対する萌芽的抵抗の意思表明を踏まえないと、その後の「神の側からの返し」に至る流れが見えてこない。これを立証していきたいが資料が揃わない。追々検証して行きたいと思う。

 2008.2.28日 れんだいこ拝


【この時のご苦労時の逸話】
 この時のご苦労時の逸話に次のようなものが語り継がれている。同室に三年の刑を受けて入獄していた女囚がひどい痺癬(ひぜん)で困っていた。教祖が息をかけてお助けされた。以来、女囚は教祖を慕い、出獄後お屋敷へお礼参拝に来た云々。

【ご帰還時の出迎えの様子】
 この度の「ご苦労」は3.24日から4.5日まで12日間の奈良監獄所拘留となった。獄舎からお出ましの日は、殊更に触れ回るわけではないが次から次へと聞き伝わり、一刻も早く健やかな教祖のお顔を拝したいと、監獄署の門前に詰めかける信者の人波で埋まった。早朝から一杯になり沿道まで続いた。この日午後10時に獄舎をお出ましになられたが、そのお姿が目に入るや道人は一斉に拍手を打って拝んだ。取締りの巡査が、人をもって神とするは警察の許さぬところである。拝むことは相ならん、と叫びつつ制止して回ったが、ない命をお助け頂いて、これが拝まずにおられるかい、とささやく群衆の表情には真剣必至の色が漲っており、制止しきれるものではなかった。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「153、お出ましの日」。
 「明治17年頃の話。教祖が、監獄署からお出ましの日が分かって来ると、監獄署の門前には、早くから人が一杯になって待っている。そして、拝んだらいかん、と言うて巡査が止めに廻わっても、一寸でも教祖のお姿が見えると、パチパチと拍手を打って拝んだ。警察は、人を以て神とするは警察の許さぬところである、と言うて抜剣して止めて歩くが、その後から又手を打って拝む。人々は、命のないところを救けてもろうたら、拝まんといられるかい。たとい監獄署へ入れられても構わんから拝むのや、と言うて拝むのであるから止めようがなかった」。
 獄舎を出られた教祖は定宿になっていたよし善でご入浴、獄中の汚れを洗い落されて、昼食をすまされた。そして、お迎えの信者たちのお目通りを許され、酒飯をくだされて後、村田長平の挽く人力車に乗ってお屋敷に向かわれた。その後を我も我もと人力車でお供をする人々の車が数百台も続いた。沿道は至るところ人の山で、なかんずく猿沢池の付近には殊の外人々が密集していて、一斉に拝む拍手の音が四囲に響き渡った、と伝えられている。

 お屋敷へ帰られたのは月を越えて4.5日午後2時頃であった。こういう風にして教祖を引致して信仰をやめさせようとする警察の意図は常に失敗に帰し、却って信仰の火に油を注いで煽りたてるような結果となった。事態は常に教祖が仰せくださるお言葉通り「節から芽が出る」こととなった。
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「奈良監獄御出所の教祖様御迎え」を転載しておく。
 奈良監獄御出所の教祖様御迎え(昭和43年7月発行「史料掛報」第134号、白藤義治郎「おぢば参謁記(十三)」より。年末に「本人の真実次第」という御話で登場された、松田くに女さんの入信間もない頃の御話です)

 「明治17年旧暦7月、盆の9日(新暦8月29日)、講元端田久吉氏より、「教祖様が、明十日(新暦8.30日)の朝五つ時(午前8時頃)に、奈良の監獄から御出ましになるので、心ある人は御迎えに行って貰いたい」と、通知があった。それで松田常蔵くにの夫妻は、家が御寺(花隈町の福徳寺)の側にあって、八百屋の商売が忙しいのであるが、その日は店を閉めて、長男源蔵一人を留守に残し、5歳になる次男清蔵を連れて行くこととし、同行に野本七兵衛夫妻も息七之助を連れ、借家の藤田和吉、土屋の長七の両氏には旅費をしてあげて、更に宇治野の磯村卯之助氏の妻おさき女とその息政吉の二人をも誘い合せて、一行十人連れで御迎えに参上した。何と言っても約二十里、大阪までは汽車で行ったが、それから暗がり峠を小さい子は負うて越え、徹夜で漸くにして定刻前に奈良監獄前までたどり着いた。見ると既にその門前十間程の幅員の中に、御迎えの沢山の人と人力車、約六十台と思われるのが並んで居た。待つ程に中から女囚の一人が洗濯に出て来て、今日は天理さんの御帰りや。淋しいなあ、と言うて居た。やがて定めの時刻に、教祖様が放免となって監獄所から御出ましになったが、御顔は桜色、足もしゃん/\して居られる。これがくに女の一行の教祖様を拝顔する最初の印象であった。そこで聞くともなしに聞いてはいたが、監獄内では、穢い御飯は神様が召しあがらしてない。よって十日も御飯召し上がらず、おりきもつと御洗水とで御過ごしになったと聞くのに、あの元気な御姿。あらほんまやなあ。我々の罪深い者を助けるため御苦労して下されたのか。本当に神さんの御社やなあ、と自ずと涙に咽んだという。やがて猿澤池の東の坂井旅館へ御入りになり、御風呂を召して、身の汚れを御清めになって、奈良の町中、人と車で一パイの中を、一台の人力車に御乗りになって御地場の方へ御帰りになったが、余りの大勢の人や人力車で追随されてあったので、御帰りをずうっと御見送りしたのみで、松田の一行は帰途に着いた。その混雑の中、端田さんも、清水さんも、吉田さんも見ず。只兵庫の片岡吉五郎氏の弟、片岡貞之助氏のみに御見受けしたのみであった。かくて再び暗がり峠を越えて、その夜大阪から船で神戸へ行った」。


【教祖と鴻田の問答】
 この時、鴻田は10日間拘留された。この拘留の間、獄吏から便所掃除を命ぜられており、出獄後に教祖の御前に戻った際、次のような談じ合い、練り合い、お諭しが為されている。(逸話篇「144、天に届く理」)
教祖  「鴻田はん、こんなところへ連れてきて、便所のような寒いところの掃除をさされて、あんたはどう思うたかえ」。
鴻田  「何をさせていただいても神様の御用向きを勤めさせていただくと思えば、実に結構でございます」。
教祖  「そうそう。どんなつらいことや嫌なことでも、結構と思うてすれば天に届く理。神様受け取りくださる理は、結構に変えてくださる。なれども、偉い仕事、しんどい仕事を何ぼしても、ああつらいなぁ、ああ嫌やなぁ、と不足不足でしては、天に届く理は不足になるのやで」。

【講社の明誠社が神習教に所属】
 この年の3月、奥六兵衛(1850−1911)が京都で始めていた講社の明誠社が官憲の弾圧を避ける便法として教派神道の一つであった神習教に所属している。

【深谷源次郎が明誠社を脱会し斯道会(河原町)を結成】
 1884(明治17)年、深谷源次郎が明誠社を脱会し、斯道会(河原町)を結成する。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「141、ふしから芽が切る」。
 「明治17年3月上旬、明誠社を退社した深谷源次郎は、宇野善助と共に斯道会講結びのお許しを頂くために、おぢばへ帰った。夕刻に京都を出発、奈良へ着いたのは午前2時頃。未明お屋敷へ到着、山本利三郎の取扱いで、教祖にお目通りしてお許しを願った。すると、『さあさぁ尋ね出る、尋ね出る。さあさぁよく聞き分けにゃならん。さあさぁこのぢばとても、48年がこの間、膿んだり潰れたり、膿んだりという事は、潰れたりという事は。又、潰しに来る。又、節あって芽、節から芽が切る。この理を、よう聞き分けてくれ。段々/\これまで苦労艱難して来た道や。よう聞き分けよ、という』とのお言葉であった。未だ、はっきりしたお許しとは言えない。そこで、深谷と宇野は、我々五名の者は、どうなりましても、あくまで神様のお伴を致しますから、と申し上げて重ねてお許しを願った。すると、『さあさぁさぁ真実受け取った、受け取った。斯道会の種は、さあさあ今日よりさあさぁ埋んだ。さあさぁこれからどれだけ大きなるとも分からん。さあさぁ講社の者にも一度聞かしてやるがよい。それで聞かねば、神が見ている。放うとけ、という』とお許し下され、深谷、宇野、沢田、安良、中西、以上五名の真実は、親神様にお受け取り頂いたのである」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「142、狭いのが楽しみ」。
 「深谷源治郎が、なんでもどうでもこの結構な教えを広めさせて頂かねば、とますます勇んであちらこちらとにをいがけにお助けにと歩かせていただいた頃の話し。当時、源治郎は、もう着物はない、炭はない、親神様のお働きを見せて頂かねば、その日食べるものもない、と言う中を心を倒しもせずに運ばしていただいていると、教祖はいつも『狭いのが楽しみやで。小さいからというて不足にしてはいかん。小さいものから積もって大きいなるのや。松の木でも小さいときがあるのやで。小さいのを楽しんでくれ。末で大きい芽が吹くで』と仰せ下された」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「143、子供可愛い」。
 「深谷源次郎は、一寸でも分からない事があると、直ぐ教祖にお伺いした。ある時、取次を通して伺うてもろうたところ、『一年経ったら一年の理、二年経ったら二年の理、三年経てば親となる。親となれば、子供が可愛い。なんでもどうでも子供を可愛がってやってくれ。子供を憎むようではいかん』とお諭し下された。源次郎は、このお言葉を頂いて、一層心から信者を大事にして通った。お祭日に信者がかえって来ると、すしを拵えたり餅を搗いたり、そのような事は何んでもない事であるが、真心を尽して、ボツボツと信者を育て上げたのである。」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「148、清らかな所へ」。
 「斯道会が発足して、明誠社へ入っていた人々も、次々と退社して、斯道会へ入る人が続出して来たので、明誠社では、深谷源次郎さえ引き戻せば、後の者はついて来ると考えて、人を派して説得しようとした。が、その者が、これから出掛けようとして、二階から下りようとしてぶっ倒れ、七転八倒の苦しみをはじめた。直ちに、医者を呼んで診断してもらうと、コレラという診立てであった。そこで、早速医院へ運んだが、行き着く前に出直してしもうた。それで、講中の藤田某が、おぢばへ帰って、教祖に伺うと、『前生のさんげもせず、泥水の中より清らかな所へ引き出した者を、又、泥水の中へ引き入れようとするから、神が切り払うた』とお言葉があった」。

【教会設置運動その1】
 この頃、応法派の真柱の真之亮とその側近達が、教会設置運動に駆け周り始めることとなった。この動きを確認しておく。

 教祖ご足労が度重なる中、ここ両3年来、道人たちが、熱心のあまりとは言いながら、警察の取締りの目をくぐって行動することが、ことごとく皆な教祖にご迷惑をお掛けする結果になっており、このままでは如何ともし難い、これ以上教祖にご迷惑がかからず、布教活動を堂々と行えるようにする為には、教会の公認を受けるより他に道がない、どうしても布教公認の手続きをしたいという決心が次第に不動のものになり、「応法の理その4」とでも云える動きが年の始め頃より湧き起こってきていた。

 とはいえ、この当時は何分にも政治、行政などに関する知識が普及しておらず、殊に「お道」の信仰者の中に、そうした方面に深い知識のある人はなかった。どうでも教会を設置したいとは思っても、誰を相手に、どんな手続きをしてよいものか、折衝のツボが分からないままに、あれこれと試行錯誤な動きをしていた。「こうした気運に乗じて、小才の利く不純分子が策動する余地も生まれていた」とある。

 4.14日、お屋敷から山本利三郎、仲田儀三郎の両名が教興寺村へ出向いて行って教会設置について相談を始めた。4日後の18日には更にその範囲を広げ、大阪の西田佐兵衛宅に、真之亮を始め山本利三郎、仲田儀三郎、松村栄次郎、梅谷四郎兵衛、京都の明誠組の人々をも加えて協議をしている。ところが議論はなかなかまとまらず、一度お屋敷へ帰って教祖にお伺いの上、更によく相談をして方針を決めようということになった。森田清蔵は安政元年(1854)信貴山南畑村生まれ。明治7,8年頃から19年ごろほどまでの河内伝道に大きな役割を果たし、同17年の「天輪教会」設立運動にかかわっている。
(私論.私見) 教会設置運動その1考
 「お道」への度重なる弾圧に対して、教内が揺れた。教祖は、只一筋に親神にもたれて行けば良いと指針していたが、合法化を目指す動きが寧ろ強まり始めた。これをどう拝するべきか。一人天理教のみならず政治、思想、宗教界に常に問われる普遍的な問題ではなかろうか。

 2010.7.25日 れんだいこ拝

【仮教会、仮王社設立の動き】
 当時、京都では明誠組が、奥六兵衛、松谷喜三郎、山本利三郎らが中心になって神習教の部下になって神習教転輪明誠教会を設立し、心学道話(しんがくどうわ)を用いて迫害を避けていた。

 これを見て、大阪でも、明治17年5.9日(陰暦4.22日)づけで、梅谷四郎兵衛を社長とする「心学道話講究所天輪王社」の設立を出願することとなった。これは、5.17日付けをもって「書面願之趣旨指令スベキ限ニ無之依テ却下候事」と却下されたが、但し、「願文の次第は差し支えなし」との回答であったので、大阪の順慶町に「心学道話講究所天輪王社」の標札を出して布教活動を行うことにした。 

 北炭屋町(きたすみやまち/現大阪市中央区西心斎橋一丁目)でも、天恵組一番、二番の信者が中心となって竹内未誉至、森田清蔵の二人を代表者として神学道話講究所を作って、お道の布教をし始めた。

【「お道」幹部による全国各地布教講演】
 この年、大阪で、真之亮は前川菊太郎を従えて出向き講演を行い、翌日は神戸地方でも同様の講演をしている。その後、河内、京都へも巡教している。この間、6.12日、岡田与之助が山城京都方面へ、高井直吉は神戸へそれぞれ巡教し、6.21日より8日間、山本利八が河内、京都、丹波方面へ巡教し、6.26日、鴻田と岡田が山城方面へ巡教して活発なる動きをしている。  

【教祖、「度重なるご苦労」】

 「四度目のご苦労」以降、教祖は、信者がおつとめに集まってくる陰暦26日を中心に3日間、特別の理由もないままに警察へ連行されることとなった。教祖を連行し留置すること自体が目的で、特段の取調べもせずして釈放されることとなった。道人は教祖を目標に集まってくるのだから、祭礼日の26日に教祖がいなければ拍子抜けするであろう、それが度重なるに従って信仰の熱意も薄らぐであろうとでも考えたようである。この年4月の月は二度に亘って、5月、6月も陰暦16日前後は3日連続に丹波市警察分署へ「ご苦労」下されることとなった。7月だけが無事にすんでホッとしていると、8.18日(陰暦6.28日)、巡査が巡回に来て、机の引き出しにお守りが一つあったのを発見した。机の引出しからお守りが見つかったというだけの事を理由に丹波市分署へ拘引し、8.18日から30日(陰暦6.28日から7.10日)までの12日間、奈良監獄へ拘留された。


【梶本惣治郎逸話】
 「度重なるご苦労」の次のような「梶本惣治郎逸話」が遺されている。「天理教は宗教か、真実の教えか」の「教祖伝の史実」の「梶本松治郎への神様からのお言葉」を参照する。(昭和32年、橋本正治編「梶本宗太郎自叙傳」)

 梶本宗太郎の祖父の惣治郎の筆跡で教祖のお言葉の書き取りがある。 惣治郎の妻の「はる」は教祖の三女で、惣治郎は教祖の義理の息子になる。その惣治郎が「教祖様の奈良詣り誘い」にお地場に来て、教祖様櫟本(いちのもと)へ出向いた時のお言葉を次のように記している」(明治17,18年頃)。梶本松治郎とは宗太郎の父である、松治郎の弟の新治郎(真之亮)は中山家の養子となり初代真柱様となる。宗太郎は20歳でお屋敷の青年となっている。
 松治郎奈良詣りというて来た。神の采配(は)行けと言うたで。詣ろうと思うて来るも図り事。神の思惑ある故の事。日々の神の心受け取りて、すべて珍し助けするなり。この助け、これ何時頃と言うならば、小人成人次第なるぞや。この小人十三才になりたなら、親子もろ共引き寄せるなら、引き寄せてその先なるは段々と、いつも陽気で遊山遊びを、日日に遊山遊びのそのうちに、中で普請の模様ばかりを。この普請、しんはしらともなるならば、いついつまでも年を寄らんで。何十になるいても(註ーなると言うても)案じなし。身の内弱りつくでないぞや。神のゆ(註ーゆう)事疑うな。何を言うても嘘はないぞや。家内中因縁つけてあるけれど、何を言わねば知らん事なり。因縁をつけたと言うて案じなよ。今から来いと言うでないぞや。めへめへに家業に心尽くするは、これが第一神の望みや。 

【大日本天輪教会の動き】
 神学道話講究所設立の動きと相前後して新たな応法の動きが始まった。神学道話講究所設立によって一時的にもせよ取締り当局の目をごまかし、無事に布教活動を続けて行けることに気をよくした竹内未誉至(みよし)等を通じて大日本天輪教会を設立しようという計画が持ち上がり教会設立気運が澎湃として起こってきた。これに呼応して、おぢばで信者が定宿にしていた村田長平(通称とうふ屋)の家に教会設立事務所の看板をかけるまでに至った。教会設置運動は、心学道話の名を借りるというような糊塗的な手段を脱して、いささか本格的な線に添うて動きだした。

 9月、竹内未誉至らは大阪南区北炭屋町に大日本天輪教会を設置した。「お道」の教理及び教勢からして一元的全国的な規模において公認を受ける必要があったからであった。何とかして布教の自由を得たいと焦る人々の思い、気運を受けて、彼は先ず天恵組、真心組(しんじんぐみ)、その他、大阪の講元に呼び掛け、続いて兵庫、遠江(とおとうみ/現静岡県の大井川以西)、京都、四国にまでも呼びかけた。竹内らの計画は次第に全国的に広げられて行った。

 西田佐兵衛は明心組の信者。1884(明治17)年の竹内未誉至らの起こした「天輪教会」設立運動の際、竹内側に流れ、一時明心組を離れたがのち復帰する。

【遠江真明講(講元・諸井国三郎)でかぐらつとめ】
 遠江真明講(講元・諸井国三郎)でかぐらつとめ。明治22年まで毎月行われる。

【大日本天輪教会派が弾圧される】
 12.13日、松村千代治、中谷勘三郎、松田音次郎、松永好松ほか一人が、大阪北炭町教会処設置寄付金募集の件で、八尾警察署に呼び出され、四日間拘留された。この事件後、竹内未誉至、森田清蔵らの大日本天輪教会設立の動きが頓挫し、森田清蔵が消えた。

【神の力は倍の力教理】
 土佐卯之介
 稿本天理教教祖伝逸話篇「152、倍の力」。

 「明治17年頃は、警察の圧迫が極めて厳しく、おぢばに帰っても、教祖にお目にかからせていただける者は稀であった。そこへ土佐卯之介は、二十五、六名の信者を連れて帰らせて頂いた。取次が、阿波から参りました、と申し上げると、教祖は、『遠方はるばる帰ってきてくれた』、とおねぎらい下された。続いて、『土佐はん、こうして遠方からはるばる帰ってきても、真実の神の力というものを、よく心に治めておかんと、多くの人を連れて帰るのに頼りないから、今日は一つ、神の力を試してごらん』と、仰せになり、側の人に手拭を持って来させられ、その一方の片隅を、ご自分の親指と人差し指との間に挟んで、『さあ、これを引いてごらん』、と差し出された。土佐は、挨拶してから、力一杯引っ張ったが、どうしても離れない。すると、教祖は笑いながら、『さあ、もっと引いてごらん。遠慮は要らんで』、と仰せになった。土佐は顔を真っ赤にして、満身の力をこめて引いた。けれども、どんなに力を込めて引いても、その手拭は取れない。土佐は、生来腕力が強く、その上船乗り稼業で鍛えた力自慢であった。が、どうしても、その手拭が取れない。遂に、恐れ入りました、と頭を下げた。すると、教祖は、今度は右の手をお出しになって、『もう一度、試してごらん。さあ、今度は、この手首を握ってごらん』、と仰せになるので、では御免下さい、と言って、恐る恐る教祖のお手を握らせて頂いた。教祖は、『さあ、もっと強く、もっと強く』、と仰せ下さるのであるが、力を入れれば入れる程、土佐の手が痛くなるばかりであった。そこで、遂に土佐は兜を脱いで、恐れ入りました、とお手を放して平伏した。すると、教祖は、『これが神の倍の力やで』、と仰せになって、ニッコリなされた」。

 梅谷四郎兵衛
 「力だめしの話」、「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社発行)138−140p。
 「教祖様は、御老年に及びても、お弱り遊ばされず、時々御前へ伺う人々に対して、力だめしを遊ばさる。或る時、力士詣でければ、上段の間の御座より、腕引きを成されたるに、力士は、下より上段の方へ、引っ張られければ、大いに恐れ入りたる事ありしと。されば、通常の百姓、町人は云うまでもなく、如何なる剛の者といえども、神の方には、敵一倍、皆なこの通りやとお聞かせ下された。これ教祖様、御自身の力にあらず。正しく神様の入込み給う事を示し給うなり。又手の甲を出さしめて、御自身の人差し指と、小指とにて、皮を一寸はさみ給うに、痛さ身に沁みて堪えかね、恐れ入らぬ者はなかりしと。かゝる力だめしを受けし人々は、あまた(数多く)ある中に、梅谷四郎兵衛様、御前に伺い、この力だめしにあい給う時、詳しきお話あり。『この道の最初、かゝりにはな、神様の仰せに逆らえば、身上に大層の苦痛を受け、神様の仰る通りにしようと思えば、夫をはじめ、人々に責められて苦しみ、どうも仕様がないのでな、いっそ、死ぬ方がマシやと思うた日もあったで。夜、夜中に、そっと寝床を這い出して井戸へはまろうとした事は、三度まで有ったがな。井戸側へスックと立ちて、今や飛び込もうとすれば、足もきかず、手もきかず、身はシャク張った様になって、一寸も動く事が出来ぬ。すると、何処からとも知れず、声が聞える。何と云うかと思えばな、“短気を出すやないほどに/\、年の寄るのを、待ちかねる/\、帰れ/\”と仰る。これは、神様の仰せだと思うて、戻ろうとすれば、戻られる。是非なく、そっと寝床へ入って、知らぬ顔して寝てしまったが、三度ながら同じ事やったで。それから、もう井戸はあかんと思うて、今度は溜池へいたで(行ったで)。したが今度は身がすくんでしまって、どうも仕様がなかった。すると、やっぱり何処ともなしに、姿も何も見えんのに、“短気を出すやないほどに/\、年の寄るのを、待ちかねる/\。帰れ/\”と仰るから、是非なく、戻って寝てしまう。これも三度まで行ってみたが、遂に思う様に死ぬ事は出来なんだ。そこで、今日は、神さんがな、今日の日を待ちかねたのやで。もう八十過ぎた年寄りで、それも、女の身空であれば、何処に力のある筈が無いと、誰も思うやろう。ここで力を現わしたら、神の力としか思われようまい。よって、力だめしをして見せよと仰るでな、おまえ、ワシの手を持ちて、力限り引っ張って見なはれ』、と仰せられましたので、梅谷様、血気盛りの頃なれば、力まかせに引きたれども、たちまち引き上げられる様になるので、恐れ入りました、と申し上ぐると、『人さんがおいでるとな、神さんが、手なぐさみをして見せよ、と仰るから、してみせるのやで』とお聞かせ下されたりと。又仰らるゝに、『年の寄るのを、待ちかねると云うは、一つには、四十台や、五十台の女では、夜や夜中に男を引き寄せて、話を聞かす事は出来んが、もう八十過ぎた年寄りなら、誰も疑う者もあるまい。また、どういう話も聞かせられる。仕込まれる。そこで、神さんはな、年の寄るのを、えろう、お待ちかねで御座ったのやで』、と聞かせ給う。もっともの事にこそ」。
 「植田つる (上田民蔵の娘、本部婦人) 手記/力くらべ」は次のように記している。
 「父(上田民蔵/たみぞう)の18才の時だったと思います。教祖のお齢(よわい)は、聞いたように思いますが、忘れました。父の母(上田いそ)と一緒にお屋敷へ帰らせて頂いた時のこと、教祖が、『民蔵さん、私とおまはんと、どちらが力強いか、力くらべをしよう』と仰って、教祖は、昔のお祀り所の上段の板間の下から、ほんのわずかの高さですが、一、二、三のかけ声で、お手を取って、引っ張り合いをすることになりました。わしは一生懸命ひっぱった。男の十八やぶ力というて、思いきりえらい力を出したのに、教祖がお勝ちになった。ビクともお動きにならへん。教祖、お齢を召しておられるのに、力のお強いこと!わしはもうビックリしてしもた」。
 仲野秀信
 稿本天理教教祖伝逸話編、仲野秀信逸話「174、そっちで力をゆるめたら」が次のように記している。
 「もと大和小泉藩でお馬廻役をしていて、柔術や剣道にも相当に腕に覚えがあった仲野秀信が、ある日おぢばに帰って、教祖にお目にかかった時のこと、教祖は、『仲野さん、あんたは世界で力強やと言われてなさるが、ひとつ、この手を放してごらん』、と仰せになって、仲野の両方の手首をお握りになった。仲野は、仰せられるままに、最初は少しずつ力を入れて、握られている自分の手を引いてみたが、なかなか離れない。そこで、今度は本気になって、満身の力を両の手に込めて、気合諸共ヤッとひきはなそうとした。しかし、ご高齢の教祖は、神色自若として、ビクともなさらない。まだ壮年の仲野は、今は、顔を真っ赤にして、何んとかして引き離そうと、力限り、何度も、ヤッ、ヤッと試みたが、教祖は、依然としてニコニコなさっているだけで、何んの甲斐もない。それのみか、驚いたことには、仲野が、力を入れて引っ張れば引っ張る程、だんだん自分の手首が堅く握りしめられて、ついには手首がちぎれるような痛さをさえ覚えて来た。さすがの仲野も、ついに耐え切れなくなって、どうも恐れ入りました。お放し願います、と言ってお放し下さるように願った。すると、教祖は、『何も謝らいでもよい。そっちで力をゆるめたら、神も力をゆるめる。そっちで力を入れたら、神も力を入れるのやで。この事は、今だけの事やない程に』、と仰せになって、静かに手をお放しになった」。

【くに女お助け譚】
 「本人の真実次第(その一) 」、「本人の真実次第(その二) 」、「本人の真実次第(その三)」、「本人の真実次第(その四)」、「本人の真実次第(その五) 」、「本人の真実次第(その六) 」。
 「明治17年の暮近き或る日(推定旧暦11月上旬、新暦12月中旬頃)であった。くに女は便所へ行って帰りに、吸い込みの処(即ち入口のこと)で倒れて、俄に足がたたんようになり、手も足もぐにゃ/\、からだ一体に痺れてしまった。しかし口だけは物言えたが、即ち脳溢血してしまったのである。俄に医者よ薬よと騒いで見たが、溢血してしまった後は、容易に如何とも仕様がなかった。やがてくに女の急を聞いた講社の先輩達も亦、兵庫からも神戸からも訪ねて来られて、色々と御話もし、御願いもして下さったが、これ又少しも御利益が見えないのであった。そこで講元端田久吉氏は色々心配して下されて、重なる周旋方とも談合の上、御地場へ帰って神様のおさしづを伺って下さることとなり、兵庫の中村勝治郎氏が、代表で御願いに行って下さることとなった。然るに神様御出ましになっての御指図に、『さあさぁ前々生、この世、三代の恩が重なったところ一時にあらわれた。もう本人はない(亡)のやで。なれども』。それは前々生よりこの世にかけて、三代恩が重なって、それが一時にあらわれ、もう本人くに女の命はないのやでと、仰せ下さる絶望の御言葉であった。さりながらそこに『なれども』と仰せ下さる御言葉に、一縷の望みが嘱されたので、伺いの桝井伊三郎先生より、なれどもと仰せ下さる処は、どういう処でありますか、と押して御伺い下された。すると、『この願い、御かぐら及びてをどり立ち願い、夜昼六座、三日三夜の願いしてやってくれ。それで利益がなかったら、あしきはらの願い、日に三度づゝ三日、三日三夜の願いしてやってくれ。それで利益がなかったら、本人の真実次第や』、と仰せ下さるのであった。御かぐら及び手踊り立ち願い、夜昼六座三日三夜の願いとは、本教最重の御願い勤めで、即ち『あしきはらい』の御勤めより、『よろづよ』、『十二下り』の御勤めの終りまで、多数人数を揃えて、立って御勤めをして御願いするのである。しかもそれが昼三座、夜三座、夜昼六座の立勤めを、三日三夜つとめるのであるから、殆んど之をつとめる講員は不眠不休であらねばならぬ。次に『あしきはらい』の願いにしても、日に三度宛三日すれば、これ亦殆んど之れに掛り切らねばならぬのであった。然して尚これにても利益なき時は、『本人の真実次第や』と、その最悪の場合をも御指示下されているのであった。
 大きな鯉の夢
 講社代表中村勝治郎氏は、御地場から帰って来るなり、早速松田宅を訪れて、病めるくに女に、直かにこの神様の御話をしてしまった。そこへ端田久吉講元や、神戸方周旋の筆頭清水与之助氏等も来られて、そんな話を病人に直かに話してしまうものがあるか。病人が勢を落としてしまうやないか、と中村氏に詰(なじ)られた。すると、中村氏は、丁度神様の御指図を頂いた晩、豆腐屋で寝て居たら夢に大きな河があった。その河に大きな岩が突き出て居た。その下は深い/\淵となっていて、そこへ大きな鯉が入って来た。中村氏は、魚串でその鯉めがけて突き刺したら、見事に鯉の横腹へグサッと刺せたと思ったら、眼が覚めた、という夢物語りをしながら、氏は更に語を次いで、御指図を頂いた翌朝、御地場の某先生に、先生昨夜(よんべ)豪(えら)い夢を見ました、と以上の夢の話をした。するとその先生は、それは早う帰(い)んで、この度の神様の御指図を本人に直かに聞かすが良い。きっと病人に、鯉の横腹に差し込むように、こたえるから、と御聞かせ下された。こういう事情から、かく御指図の旨を、病めるくに女に直かに話をしてしまった理由(わけ)を物語られたのであった。
 そこで端田講元は、熱心な講社周旋の方々を誘い合わせて、再び松田家に集り、神様の御指図通り、先ず『御かぐら立ち勤めの願』を、夜昼六座、三日三夜の御願が為されたのであるが、少しも御利益が見えなかった。それで引続いて『あしきはらいの座り勤めの願』が、日に三度宛、三日三夜にわたりて為されたが、それでも御利益は少しも見えなかった。そこで端田講元は、御願に参加した講員を代表して、臥ている病人くに女に向って、『この通り神様の御指図通り願わしてもろても、御利益が見えへんのやから、あとはもう本人の真実次第やと仰しゃる。よってこれからは、あんたの真実で御利益もろて下され。講社は何もほっとくのやない。さあという時には、何時でも来るけれども、今は指図通り、一まず引かして貰いますから、どうぞあんたの真実で、助かって下され』と言い置いて、講員一同を連れて帰って行こうとせられた。くに女は一時に一人荒野に残される様な悲しい思いがした。時にその場に兵庫の先輩、周旋方の麻川与市氏も居られたが、氏も亦先年、同様の命ないという大患(中風で手足ぐにゃぐにゃであったと)の際、神様に御伺いしたところ、『前々生この世三代の因縁である』、という御諭しを頂いて、その中から助かった人であるので、『今は本人の真実次第や』、と言われて居るくに女は、その麻川氏に、どういう精神を定めたら助けて頂けますか、とその体験を尋ねて見たが、明確なる解答を与えられなかったという。因(ちなみ)に、その麻川氏は、それから数年後病再発してか、明治21年11.1日(旧暦9.28日)享年38歳で早折せられた。

 やがて講元以下、帰ってしまわれた。かくて全身の自由を奪われ、只臥て居るより外に仕様のないくに女は、どう自ら真実の心を定めてよいのか、正に途方に暮れたのであった。それを見兼ねた夫常蔵氏は、それでは今一度、私が大和の御地場へ負うて参って、願うてやる、とさすが夫なればこそ、交通不便の当時、常蔵氏は身体の自由を全く失ったくに女を背負うて二十幾里、大阪までは汽車があったが、それから先は、二人乗の俥で、御地場へと連れて参られたのであった。やがて豆腐屋へ着き、それから直ぐに御屋敷へ参らせて貰った。門長屋を入ると、小さい厨(くりや。台所のこと)があり、次にかんろうだいがあった。そのかんろうだいを伏し拝んでから、御教祖の御座(いま)す御座敷(明治16年11.25日、旧暦10.26日夜に移られた御休息所)へと、常蔵氏は、くに女を背負うて行った。そこには狭い椽(タルキ)があった。そこでくに女は、夫の背から降して貰っていると、早くも見られた御教祖は、『おうおぅよう御帰りなさいましたなあ。あんた身の不自由があんなはりゃこそ、御帰りなさったんやろ』、さようで御座ります、『よう御帰りなさいましたなあ。ここは、あんたの親里だっせ。神様は、身に障りをつけて、引き寄せると仰しゃる。よう御帰りました』、といつくしみ深く仰せ下さって、くに女の身体を抱えるようにして、畳の上へ御降ろし下さった。そうして懇ろに御いたわり下されたのであった。やがてくに女夫婦が退(まか)り出てから、その晩に、御教祖は、御側の方に、『私の入りました風呂の湯を、豆腐屋へ持って行って、あの病人に入れてやっておくれ』、と仰せ下され、尚も後程、御教祖のお食べになった御夕飯の御残りを、『これも豆腐屋の病人に食べさしておくれ』、と仰せ下されて、御側のその婦人から、神様の御下げやさかいに頂きなはれよ、と云うて持って御よこし下された。それはおじやと云って、御米の固い中へおかずの入ったようなもので、一名雑炊(ぞうすい)というものであった。その外に尚団子と、以上二品持って来て下された。くに女は、それを有難く頂戴したのであった。次いで教祖様の御召しになった風呂の湯を、豆腐屋の若主人村田長平氏が掻(か)え出して、同家へ持ち帰り、くに女はその有難い御湯にも入れて頂いたのであった。(つづく)
 然るに、それほどまでに手厚い運びをして頂いたのにも拘らず、くに女の身上は些かの御利益も見えないのであった。のみならず、その夜巡査が臨検に来て、この病人は、何しに連れて来たのだと詰った。たっしゃな者なら大和めぐりに来ているのだと言訳も立つが、身動きも出来ぬ重病人、その言訳も出来ず、すると、巡査は、おみき婆さんにだまされて来たんやろ。今から出て帰(い)ね、と厳しく叱った。然し日は既に暮れて、四辺(あたり)は真っ暗になって居た。それで夫常蔵氏は、このとおりの重病人、どうぞ今夜だけは御免(おゆる)し下されと、ようやく頼んで、その夜だけは泊めて貰うことになったが、明日は早う帰ね、との厳命を残して巡査は帰って行った。その後へ、仲田左衛門先生が来られた。そうして扇の伺いをして下されて、申されるには、神様の御召しになった御湯を頂いて、入れて貰ったら、大概足が立ちよったのに、あんたにその御利益がないというのは、あんた家を出しなに、なんど心得違いがおますやろが、と御諭し下さった。そこで思案さして貰ったのに、私はこれだけ悪うて動けんのに、なんぼ御地場へ連れて帰って貰うても、所詮助かる事はむつかしかろう。そんなに助かるか、どうか、わからん者を、この動けんのに、連れて行って貰うてもなあと、出しなに思うた。それが心得違いであったかと、くに女は深くさんげした。然し身上は遂に何らの御蔭をも見る事ができなかった。そこで、せめてもう一日御地場に置いて頂いたらと、切に名残が惜しまれたが、先刻あゝまで厳しく言うて帰った巡査の事を思えば、それもならず。どこまで我身は不幸せな者かと悲嘆に暮れつつ、翌朝まだ白みかけもせぬ午前3時頃の夜の内から、豆腐屋の主人に俥に乗せて貰って、御地場を後にして帰って行ったのであった。丁度龍田まで来たら、漸く東の空が白み初めて来た。それは寒前(旧暦11.20日が寒の入り、新暦では明治18年1月5日である。よって寒前とは、その数日前の旧暦11.17日、新暦では明治18年の1.2日頃と推定される)であったので、大和の冬の夜の大気は、殊の外冷たかった。そこで俥を乗り換えて、逃ぐるが様に大阪を経て、神戸の自宅へと帰って来たのであった。

 さてこうして帰って来てからは、くに女は、これではとても助からん。医者で助からず。信心でも、どんなにして頼み縋(すが)っても、自らの真実の心定めならぬ他力では、どうしても助けて頂く事ができない。『この上は、本人の真実次第や』との神様の御言葉のみが、ひとり救いの鍵を持つ事を知った。然らば、どういう真実の心の価を持って行ったら、助けて下さるのであろうか。常々聞かして頂いて居るのに、『病の元は心から。その心は八つの埃からである』と、それでは、その埃の心を一つでも取って、これから生涯そういう埃の心づかいはしまへんという心の価を以て、神様に御願いしようと思案した。ではその八つの埃の心のうち、どれを止めようかと考えてみた処、はらだち一つを止めようとしても、腹の立つのも、憎いや怨みからでもあり、我身や我子可愛いからでもあり、又欲しい、惜しいからでもあり、欲と高慢からでもあった。その一つを取ろうとすれば、その総べてを取らねばならなかった。それは到底くに女にはできそうではなかった。こう考えてくると、くに女は自らその真実を定めようとして、遂に定めるよすがもなかった。所詮私は助けて頂く事ができないのか。三代恩が重なって、こうして病気で果てたなら、来世は牛馬の道に落ちると聞かして頂いたが、さても残念至極よと、くに女は我家の神棚の方を向いて、『神様、私はとても人間界は通れんと思います。この度このまま迎え取られたら、さきは牛馬へ行こうより外は御座いましょうまいがな。それではあんまり酷(むご)う御座います。どないぞ助けて頂きとう御座います』。手を合わして拝む自由さえ奪われた身には、只恨み辛みの言葉を並べながらも、尚救いを神に願うて居た。他力でも成らず、自力も亦能(あた)わず。かくして空しく畜生道に只転落して行かむとする、それは余りにも弱き人の叫びであった。(つづく)
 さりながら、こうした絶望の境地にありて、尚神様に縋り得るのは幸である。なぜならば、その願の一すじ心なる限り、必ず聞かれるべきであるからである。即ち此時ふと、くに女は次の事を想起した。『三代の因縁、よう此処まで踏ん張って下された。もう子供も膝の上の子はなし』と、時に彼女の長男源蔵は十六歳、次男の清蔵は八歳。然してこの感謝の心こそ、まず救われゆく心そのものではなかろうか。やがて喜びの心には、喜びの理がまわる。くに女は更にその晩、又ひょっと、毎日門へ来る沢山の乞食の姿(その頃は、日本の社会に乞食が沢山居たものである)を思い浮かべた。そうして思うには、『私はこない手足が叶わん様になって、臥て居って、三度の御飯だけは、たっしゃな時と同じように三膳食べるは過ぎる。二膳宛にして、一膳は門へ来る乞食に食べて貰おう。それでこれから三度三度私の食べる御飯の御初穂を、一膳除けて置いて、それを門へ来る乞食に食べて貰おう』と、そこで長男源蔵を呼んで、この話をした。すると、『お母さん、それは生涯定まりますか』。『私は生涯はよう定めんが、臥とる間だけは、二膳で結講や。どうぞ明日からそうして乞食に食べて貰うておくれ』。その定める処は、甚だ卑近であった。然しそれは身に直接した点に於て、正直と切実さがあった。やがてその翌朝から、その心定めは実行された。

 それから三日目である。くに女は何気なく御腹へすっと動いて行った我が右手に驚いた。あっこれは不思議やと思って、その手で御腹を摩(さす)ってみた。するとその腹の痺れもすっきりと助けて頂いていた。『まあ一ぺん来ておくれ』。くに女は喜びの声を挙げた。飛んで来た息源蔵に、『私の御腹を見たら、これっきり痺れが、御蔭もろとる』。『まあ感心だすなあ。然しお母さん、あんた乞食へやったから、助かったと思うていては、違いまっせ。食べて貰うて結講やというて、二膳でたんのうして、人の腹を助かって貰うたから、あんたの腹が助かったのだすで』。源蔵は年に似気(にげ)ない聡明な子であった。低い優しいたんのうと、人を助ける心の実が、やがて我身を助けるに至る本教教理の核心を、短言以てよく指摘して諭したのであった。くに女は、理の鮮やかなる現われの一端を初めて体験して、なるほど、これは恩が重なって居るのやと、深く我身の重積した悪因縁の理に想到した。そこでより以上の助けを願うには、より以上の恩報じをさせて頂かねばならぬと気づいた。それは丁度寒に入る前(旧暦十一月十九日新暦では明治十八年一月四日である)であったが、『この寒の内三十日(旧暦では明治十七年十一月二十日新暦では明治十八年一月五日、小寒即ち寒の入りから旧暦十二月十九日新暦二月三日節分までのこと)の間、毎日米二升宛、おカユにたいて、門へ来る乞食さんに食べて貰うておくれ』。くに女が第二の心定めは、これであった。家人もよく此のくに女の願いを聞き容れて、その通り実行した。然るに、此度は何等の御利益も見えなかった。然し、くに女は決して失望せなかった。彼女は更により以上の出来るだけの恩報じを考えた。それは、『引き続いて三拾日の間、米屋から毎日米斗宛取りよせて、それを店の上り口に置いて、門へ来る乞食達に、米のまま貰うてもらい、仕舞いにならにゃ、其の日/\の店をしまわんようにと、これが一ヶ条。次には、くに女の物としてある着物や布とんに至るまで、悉く難儀な人に着て貰うておくれと、これが一ヶ条』。やがて又三十日、日毎の施与は怠りなく為され、初願以来六十日、くに女のタンスは、遂に空になってしまった。(つづく)
 六十日目(旧暦明治十八年正月十九日新暦参月五日のこと)の朝であった。くに女は、腕や腰や頸に、なんとのう力付いた様に思われるので、立って見ようと思った。それで先ずタンスのある所まで這い出して見たが、這えた。次に震える手で、タンスの環を握って、震える足腰を踏ん張って、立ってみたら立てた。次に歩いて見ようと思って、それから中戸を伝うて雨椽に出て、そこの障子八枚伝うて、店の間へ出る事が出来た。その店の間の奥に、三畳の居間があった。丁度朝なので、家族の人達は、今其処で朝御飯を食べて居た。くに女は、更にその三畳の間へも伝うて行って、障子を開けるなり、バアと言うも涙に曇った。みんなは、振り向いて、アッ、足が立ったんかいなあと、驚喜して、その有難い神様の御蔭に感激したのであった。然しまだ手は震い、足はよろつき、物を持たねば、立ち上がる事も、歩く事もできなかった。そこで、くに女は、更に次の心定めを重ねた。「表へ出させて貰いましたら、冬は綿入れ一枚、春は御み袷(あわせ)一枚、夏は御単衣一枚で、日々先生方の御供して、御助けに出さして頂きます。そうしてこの花隈町は、一軒残らず匂い掛けさして貰います。又二十里離れた兄姉弟妹(播州網干町の兄姉弟妹の事)にも、必ずにをい掛けさして貰います」。それは相変わらず切実な心定めであった。それからは、「明日は庭へ出よう」と思えば、出られるようになり、「明くる日は前栽へ出たい」と思えば、出られる様になり、その次の日は、「門へ出たい」と思えば、出られる様になり、日一日と御利益を受けて行った。

 そこで愈々表へ出られる様になってからは、くに女は、端田講元や其の他の先輩達に、御助けの途上、松田家へ立寄って貰い、初めは足に草履を括りつけ、手に両杖ついてまで、御伴して附いて行った。一度行けば、片方の杖が取れる。二度行けば、杖要らん様になる。三度目には、草履を足に括りつけずとも、行ける様になる。その又翌くる日行けば、下駄ばきで行ける様になる。その又翌くる日行けば、傘さして行ける様になる。こうして奇跡は、日毎に続けられて行った。かく御蔭を頂くにつけ、くに女の感激も亦日毎に深くなって行った。かくて更に次の心定めを重ねた。「暑い寒いは厭いません。人が六時に起きるならば、私は四時に起きさして頂きます。人が十時に寝るならば、私は十二時に寝さして頂きます。そうして仕事を仕越して置いて、毎日御助けに出さして貰います」。何等の卑近にして切実なる心定めぞ。正に本教が真俗不二の真実道を、最も至順(※1)に実践的に極めて行くものではなかろうか。それからは、毎日此方から、兵庫能福寺前の端田講元宅へと出掛けて行って、「講元はん、御助けおまへんか。御伴さして頂きます」と、何と朗らかな心境ぞ。かくして御助けに御伴してでるのが、甦生(そせい※2)のくに女が唯一の楽しみとなったのであった。その後も、不思議な事には、くに女が二三日も家に居ろうものなら、足の裏が痒(かゆ)くなってくる。痒いと思うてかくと、足の裏に白まめが出来て、歩けん様になる。さんげして、御助けに出さして貰うと、すぐよくなった。もしも御助けに十日も行かぬものなら、自分がわるいか、子供がわるいか。反って講元さんの処へ、御助けを頼みに行かねばならぬ様になった。そこでくに女は、深く自己三代の悪因縁を自覚して、殊にその病状からして、腹立てんようにし、どんな中もたんのうして、爾後遍へに神一条に縋(すが)って、定めた心に狂いなく、助け一条にと努めて行った。その甲斐あって花隈町六十軒、遂に残らずにをいを掛け、その大半を講社にする事が出来た。然も其の中には有為なる人材すくなからず、後、兵庫真明講乃至(ないし)兵神分教会の中心勢力となったのであった。又くに女の出生地、播州網干町の、くに女の兄姉弟妹達も、程なく本教に導き入れたが、それが又はしなくも紺谷久平氏を講元とする飾磨講社を、兵神に帰属せしむる一つの機縁となったのであるが、それ等の評細は後述に譲り、更に身自らも、其の後の兵神の道の婦人界の重鎮として、永年尽す所尠(すく)なくはなかったのである。くに女、それは誠に中村勝治郎の夢に現れた大きな鯉そのものであった。(後略) (昭和四十三年八月発行「史料掛報」第135号「おぢば参謁記(十四)」白藤義治郎より)
 ※昭和十一年一月の教祖五十年祭の前後、当時の天理時報において「五十年回顧」という特集が組まれていて、その中で松田くにさんご本人が、教祖に御助け頂いた時のお話を語っておられます。少し内容が異なっている処がありますので、参考までに掲載させて頂きます。

 入信は私が三十五、六歳のころでした。入信して半年してから因縁が出まして、中風になりました。重態だったので講の方が代表して「おさしづ」を仰いで下されました。その時神様の仰せには、『前生と前々生と今生と三代の因縁が現われた。本人はもうない命やで。なれども‥』という意味のお言葉だったそうです。それで押してお願いし、「なれど、どうしたらよろしいでございましょうか」とお尋ねすると、『お願いしてやってくれ。かぐら昼三座、夜三座、六座の勤め。それで利益なかったら十二下り勤め昼三座、夜三座、六座の勤めをやってくれ。それまで願って利益なかったら、後は本人の心定め一つや』とのことであったそうです。かぐら勤めしても、十二下り勤めしても、利益はありませんでした。後は私の心定め一つで生きるか死ぬかとなったのです。私は神様に心定めを致しました。「夏ならば単衣一枚、冬ならば綿入れ一枚、あと何一つ望みません。悩む者、苦しむ者のお助けに、残る生涯を使わしてもらいます」。この心定めをさしてもらって、身体の悩みは止まりましたが、足が立ちません。それからは貧しい者には持ち物は何でも与え、毎日二升のお粥を作って乞食に施し、一ヶ月ほど経ってから、ようやく足が立てるようになりました。それで、背負うてもらって、教祖様の許へお詣り致しました。教祖様は、『よう帰って来た/\/\』とお喜び下され、お側へ寄せて下され、『ここは貴方の生れ故郷ですよ』と仰せられました。その日は豆腐屋へ泊まったのですが、教祖様には、御箸をつけられたおぢやを、『豆腐屋にいる病人に食わしてやって下さい』といわれ、また、風呂へお入りになってからは、お側の人に、『この水をそのまま豆腐屋の風呂に移して、病人を入れてやって下さい』と有難いお恵みを頂戴いたしました。こうしてお助け頂いた身体です。それがどうです。今年は九十歳ですよ。昨年来気分が悪くて、お医者さん二人から診てもらいました。お医者さんは、「身体どこ一つ悪いところはない。一寸風邪を引いただけです」とのことです。なお私の脈を診て、「どうです、この脈は。九十歳の老人の脈とはうけとれん。六十歳の人の脈です」。そんなに達者にさしてもらっています。ずうっとお助けをさしてもらっている間には、色々の道がありました。昨年末は驚いたでしょう※。なあに節ですよ。こうした節があったり、本席様に大きな身上があったりする度に、お道は大きくなって来たのです。見ていなさい。お道は大きくなりますよ。私ももっと長生きして、その盛大さを見せて頂きたいと思っています」。(昭和11年1.24日号「天理時報」の「五十年回顧」より)

 「教祖は、たびたび奈良の監獄に拘留になりました。そのときは、人力車に乗ってゆかれました。奈良の猿沢の池の東の坂道を登って、三条通りに出ますと、人力車夫は一息いれます。そこが、宿屋の前で、その宿屋に親切な女将がいました。教祖は、いつも『また来たで』、と声をかけられますと、女将は、ごくろうさま、といってお茶を差し上げていました。あるとき、教祖は、その女将に『なにもお礼ができませんので、命だけはたんとあげますで』、と仰せになりました」。(「教祖おおせには」、昭和60年4月発行「教祖 おおせには」高野友治著(天理時報社印刷)18−31pより)。
 「奈良の監獄の看守に石川周蔵さんという人がいた。宮城県の鹿島台の近くの人だ。巡査になって大阪に来、奈良の監獄の看守になった人だ。この人の話だが、教祖は、監獄においでになっても、いつもお宅においでのときのように『生水(なまみず)が欲しい』、といわれたという。当時、監獄では、水といったら煮沸した水を用いていたという。コレラなどの伝染病の流行した時代で、危険防止のためだったとおもう。石川看守は、教祖の意に従って、洗面用の水として、生水を置いて行ってくれたという。教祖は大へんお喜びになられたという。そしてあるとき仰せられたという。『ありがとう。だが何もあんたに上げるものがない。だがな、”いのち”だけはたんとあげるで』、と。その後、石川周蔵さんは看守をやめて軍人になって台湾の警備軍になって、銃弾の中を進んだ。不思議と戦友がばたばたと倒れる中に自分だけが生きのびた。軍人をやめて、社会に出て働く中に、自分の周囲の人々が死ぬ中に、自分だけが生きのびて、私(筆者)がお会いしたときは97才だった」。(「いのち 」、昭和63年9月発行「創象50」高野友治著(天理時報社刊)6−7pより)
 「教祖が奈良の監獄に御苦労になったとき、信者がいろいろと差し入れをする。それを教祖はお上がりにならず、一緒にいる人々に与えられた。そして、『私は三島にいるから、三島を通ったら立ち寄りや』、と言われ、それで出獄した連中が、よく無心(※遠慮なく金品などをねだること)に来たといわれる。お側の人々が迷惑していると、『欲しいといったら、あげたらいい。皆な喜んで帰るがな』、と言われたという。また監獄から帰ってこられると、『あそこにいる人々は良い人ばかりやで。何であんな所に入っているやろ』、と仰せられたという」。(「欲しいと言ったら」、平成13年1月発行「御存命の頃」高野友治著(道友社刊)106−407pより)

 (道人の教勢、動勢)
 「1884(明治17)年の信者たち」は次の通りである。
 増野正兵衛()
 1884(明治17)年2月頃、長州萩(現・山口県萩市)、神戸三宮の増野正兵衛が、妻いとが明治14年にソコヒを患い、失明寸前となった時、幼なじみから匂いをかけられたのがきっかけで入信、その年初参拝。明治20年5.4日、本席よりおさづけ。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「145、いつも住みよい所へ」は次の通り。
 「明治17年2月のこと。増野正兵衞の妻いとは、親しい間柄の神戸三宮の小山弥左衞門の娘お蝶を訪ねたところ、お蝶から、天理王命様はまことに霊験のあらたかな神様である、と聞いた。当時いとは、3年越しのソコヒを患うており、何人もの名医にかかったが、如何とも為すすべはなく、今はただ失明を待つばかり、という状態であった。又、正兵衞自身も、ここ十数年来脚気などの病に悩まされ、医薬の手を尽しながら、尚全快せず、曇天のような日々を送っていた。それで、それなら一つ、話を聞いてみよう。ということになった。そこで、早速使いを走らせ、2.15日、初めて、小山弥左衞門からお話を聞かせてもらうこととなった。急いで神床を設け神様をお祀りして、夫婦揃うてお話を聞かせて頂いた。その時の話に、『身上の患いは、八つのほこりのあらわれである。これをさんげすれば、身上は必ずお救け下さるに違いない。真実誠の心になって、神様にもたれなさい』又、『食物は皆な親神様のお与えであるから、毒になるものは一つもない』と。そこで、病気のためここ数年来やめていた好きな酒であるが、その日のお神酒を頂いて試してみた。ところが、翌朝は頗る爽快である。一方、いとの目も、一夜のうちに白黒が分かるようになった。それで、夫婦揃うて神様にお礼申し上げ、小山宅へも行ってこの喜びを告げ、帰宅してみると、こは如何に。日暮も待たず、又、盲目同様になった。その時、夫婦が相談したのに、一夜の間に神様の自由をお見せ頂いたのであるから、生涯道の上に夫婦が心を揃えて働かせて頂くと心を定めたなら、必ずお救け頂けるに違いない、と語り合い、夫婦心を合わせて、熱心に朝夕神前にお勤めして、心をこめてお願いした。すると、正兵衞は15日間、いとは30日間で、すっきり御守護頂いた。ソコヒの目は、元通りよく見えるようになったのである。

 その喜びに、4.6日(陰暦3.11日)、初めておぢばへお詣りした。しかも、その日は、教祖が奈良監獄署からお帰りの日であったので、奈良までお迎えしてお伴して帰り、9日まで滞在させて頂いた。教祖は、『正兵衞さん、よう訪ねてくれた。いずれはこの屋敷へ来んならんで』とやさしくお言葉を下された。このお言葉に強く感激した正兵衞は、商売も放って置かんばかりにして、おぢばと神戸の間を往復して、にをいがけ・おたすけに奔走した。が、おぢばを離れると、どういうものか、身体の調子が良くない。それで伺うと、教祖は、『いつも住みよい所へ住むが宜かろう』とお言葉を下された。この時、正兵衞は、どうでもお屋敷へ寄せて頂こうと、堅く決心したのである」。

 1914(大正3).11.12日、出直し(享年66歳)。
 佐治登喜治良(23歳)
 稿本天理教教祖伝逸話篇「146、御苦労さん」。
 「明治17年春、甲賀郡佐山村ギカ(滋賀県甲賀郡水口町)の佐治登喜治良(さじときじろう)は、当時23才であったが、大阪鎮台の歩兵第九聯隊第一大隊第三中隊に入隊中、大和地方へ行軍して、奈良市今御門町の桝屋という旅館に宿営した。この時、宿の離れに人の出入りがあり、宿の亭主から、あのお方が庄屋敷の生神様や、とて赤衣を召された教祖を指し示して教えられ、お道の話を聞かされた。やがて教祖が、登喜治良の立っている直ぐ傍をお通りになった時、佐治は言い知れぬ感動に打たれて、丁重に頭を下げて御辞儀したところ、教祖は、静かに会釈を返され、『御苦労さん』とお声をかけて下された。佐治は、教祖を拝した瞬間、得も言われぬ崇高な念に打たれ、お声を聞いた一瞬、神々しい中にも慕わしく懐かしく、ついて行きたいような気がした。後年、佐治が、いつも人々に語っていた話に、私は、その時、このお道を通る心を定めた。事情の悩みも身上の患いもないのに、入信したのは、全くその時の深い感銘からである、と」。
 山本与平の妻いさ
 稿本天理教教祖伝逸話篇「147、本当の助かり」。
 「大和の国倉橋村の山本与平の妻いさは、明治15年、不思議な助けを頂いて足腰がぶきぶきと音を立てて立ち上がり、年来の足の悩みをすっきり御守護いただいた。がその後手が少し震えて、なかなか良くならない。少しのことであったが、当人はこれを苦にしていた。それで、明治17年夏、おじばへ帰り教祖にお目にかかって、その震える手を出して、お息をかけていただきとうございます、と願った。すると教祖は、『息をかけるはいと易いことやが、あんたは足を助けていただいたのやから、手の少し震えるぐらいは何も差し支えはしない。すっきり助けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生の因縁もよく悟れるし、いつまでも忘れなくてそれが本当の助かりやで。人皆すっきり助かることばかり願うが、真実助かる理が大事やで。息をかける代わりに、この本貸してやろ。これを写してもろて、たえず読むのやで』とお諭し下されて、お筆先十七号全冊をお貸し下された。この時以来手のふるえは一寸も苦にならないようになった。そして生家の父に写してもらったお筆先を生涯、いつも読ませていただいていた。そして誰を見ても熱心に匂いをかけさせて頂き、89歳まで長生きさせていただいた」。
 上村吉三郎()

 大和国十市郡倉橋村出屋鋪(現・奈良県桜井市倉橋出屋敷)の上村吉三郎()が、足のケガを山田伊八郎(心勇組初代講元)のお助けでご守護頂く。この後、講元を譲り受けることで入信。心勇組2代講元。稿本天理教教祖伝では明治16年。城島分教会(現敷島大教会)初代会長。

 1895(明治28).11.24日、出直し(享年58歳)。

 森口又四郎、せきの長男鶴松(30歳)
 稿本天理教教祖伝逸話篇「155、自分が助かって」。
 「明治17年頃のこと。大和の国海知村の森口又四郎、せきの長男鶴松、三十歳の頃の話し。背中にヨウが出来て痛みが激しく、膿んできて医者に診てもらうと、この人の寿命はこれまでやから好きなものでも食べさせてやりなされ、と言われ、全く見放されてしまった。それで兼ねてからお詣りしていた庄屋敷へ帰って、教祖に直々お助けをしていただいた。それから二、三日後のこと。鶴松が寝床から、一寸見てくれんか。寝床が身体にひっついて布団が離れへんわよう、と叫ぶので、家族の者が行って見ると、ヨウの口があいて布団がベタベタになっていた。それから教祖に頂いたお息紙を、張り替えしているうちにすっかり御守護を頂いた。それでお屋敷へお礼に帰り、教祖にお目通りさせていただくと、『そうかえ。命のないとこ助けてもろうて、結構やったなあ。自分が助かって結構やったら、人さん助けさせてもらいや』とお言葉を下された。鶴松は、この御一言を肝に命じて、以後にをいがけ、お助けに奔走させていただいた」。
 松田サキ
 稿本天理教教祖伝逸話篇「156、縁の切れ目が」。
 「松田サキは、大和国五条野村の生まれで、先に一旦縁付いたが、そこを振り切って離婚し、やがて23才の時再婚した。明治16年、30才の時、癪持ちから入信したが、翌17年頃のこと、右腕に腫物が出来て、ひどく腫れ上がったので、お屋敷へ帰っておたすけを願うた。教祖にお目通りさせて頂くと、『縁の切れ目が命の切れ目やで。抜け出したいと思うてたら、あかんで』、とお言葉を下された。このお言葉を頂いて、サキは、決して抜け出しません、と心が定まった。すると、教祖が、息を三遍おかけ下された。その途端、右腕の痛みは立ち所に治まり、腫れは退いて、ふしぎなたすけを頂いた」。

【この頃の逸話】
 諸井国三郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「139、フラフを立てて」。
 「1884(明治17)年1.21日(陰暦前年12.24日)、諸井国三郎は、第三回目のおぢば帰りを志し、同行十名と共に出発し、22日に豊橋へ着いた。船の出るのが夕方であったので、町中を歩いていると、一軒の提灯屋が目についた。そこで、思い付いて、大幅の天竺木綿を四尺程買い求め、提灯屋に頼んで旗を作らせた。その旗は、白地の中央に日の丸を描き、その中に、天輪王講社、と大きく墨書し、その左下に小さく遠江真明組と書いたものであった。一行は、この旗を先頭に立てて、伊勢湾を渡り、泊まりを重ねて、26日、丹波市の扇屋庄兵衞方に一泊した。翌27日朝、六台の人力車を連らね、その先頭の一人乗りにはこの旗を立てて諸井が、つづく五台は、いずれも二人乗りで二人ずつ乗っていた。お屋敷の表門通りへ来ると、一人の巡査が、見張りに立っていて、いろいろと訊問したが、返答が明瞭であったため、住所姓名を控えられただけですんだ。お屋敷へ到着してみると、教祖が、数日前から、『ああ、だるいだるい。遠方から子供が来るで。ああ、見える、見える。フラフを立てて来るで』と仰せになっていたので、お側の人々は、何んの事かと思っていたが、この旗を見るに及んで、成る程、教祖には、ごらんになる前から、この旗が見えていたのであるなあ、と感じ入った、という」。

 註 フラフは、元来オランダ語で、vlagと書く。旗の意。明治12年、堺県令に対して呈出した「蒸気浴フラフ御願」の中にも「私宅地ニ於テ蒸気浴目印フラフ上度候間」という一文がある。これを見ても、フラフが、旗を意味する帰化日本語として、コレラ、ガラス、ドンタクなどと共に、当時、広く使用されていたことを知る。
 紺谷久平
 稿本天理教教祖伝逸話篇「140、おおきに」。
 「紺谷久平(こんたにきゅうへい)は、失明をお救け頂いて、そのお礼詣りに、初めておぢばへ帰らせて頂き、明治17年2.16日(陰暦正月20日)朝、村田幸右衞門に連れられて、妻のたけと共に初めて教祖にお目通りさせて頂いた。その時、たけが、お供を紙ひねりにして、教祖に差し上げると、教祖は、『播州のおたけさんかえ』と仰せになり、そのお供を頂くようになされて、『おおきに』と礼を言うて下された。後年、たけが人に語ったのに、その時、あんなに喜んで下されるのなら、もっと沢山包ませて頂いておけばよかったのに、と思ったという」。
 土佐卯之助
 稿本天理教教祖伝逸話篇「149、卯の刻を合図に」。
 「明治17年秋、おぢば帰りをした土佐卯之助は、門前にあった福井鶴吉の宿で泊っていた。すると、夜明け前に、誰か激しく雨戸をたたいて怒鳴っている者がある。耳を澄ますと、阿波の土佐はん居らぬか。居るなら早よう出て来い、と。それは山本利三郎であった。出て行くと、土佐はん、大変な事になったで。神様が、今朝の卯の刻(午前6時頃)を合図に、なんと、月日のやしろにかかっているものを、全部残らずおまえにお下げ下さる、と言うておられるのや。おまえは日本一の仕合わせ者やなあ、と言うて、お屋敷目指して歩き出した。後を追うて歩いて行く卯之助は、夢ではなかろうかと、胸を躍らせながらついて行った。やがて、山本について、教祖のお部屋の次の間に入って行くと、そこには、真新しい真紅の着物、羽織は言うまでもなく、襦袢から足袋まで、教祖が、昨夜まで身につけておられたお召物一切取り揃えて、丁寧に折りたたんで、畳の上に重ねられていた。卯之助は、呆然となり、夢に夢見る心地で、ただ自分の目を疑うように坐っていた。すると、先輩の人々が、何をグズグズしている。神様からおまえに下さるのや、と注意してくれたので、初めて上段の襖近くに平伏した。涙はとめどもなく頬をつたうが、上段からは何んのお声もない。ただ静かに時が経った。卯之助は、私如き者に、それは余りに勿体のうございます、と辞退したが、お側の人々の親切なすすめに、では、お肌についたお襦袢だけを頂戴さして頂きます、とようやく返事して、その赤衣のお襦袢だけを、胸に抱いて、飛ぶように宿へ持ってかえり、嬉し泣きに声をあげて泣いた、という」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「150、柿」。
 「明治17年10月、その頃、毎月のようにおぢば帰りをさせて頂いていた土佐卯之助は、33名の団参を作って、23日に撫養(むや)を出発し、27日におぢばへ到着した。一同が、教祖にお目通りさせて頂いて退出しようとした時、教祖は、『一寸お待ち』と土佐をお呼び止めになった。そして、『おひさ、柿持っておいで』と孫娘の梶本ひさにお言い付けになった。それで、ひさは、大きな籠に、赤々と熟した柿を沢山運んで来た。すると、教祖は、その一つを取って、みずから皮をおむきになり、二つに割って、『さあ、お上がり』とその半分を土佐に下され、御自身は、もう一つの半分を、おいしそうに召し上がられた。やがて、土佐も、頂いた柿を食べはじめた。教祖は、満足げにその様子を見ておられたが、土佐が食べ終るより早く、次の柿をおむきになって、『さあ、もう一つお上がり。私も頂くで』と仰せになって、又、半分を下され、もう一つの半分を、御自分がお召し上がりになった。こうして、次々と柿を下されたが、土佐は、御自分もお上がり下さるのは、遠慮させまいとの親心から、と思うと、胸に迫るものがあった。教祖は、つづいて、『遠慮なくお上がり』と仰せ下されたが、土佐は、私は、もう十分に頂きました。宿では信者が待っておりますから、これを頂いて行って、皆に分けてやります、と言って、自分が最後に頂いた一切れを、押し頂いて、懐紙に包もうとすると、教祖は、ひさに目くばせなされたので、ひさは、土佐の両の掌に一杯、両の袂にも一杯、柿を入れた。こうして重たい程の柿を頂戴したのであった」。
 稿本・天理教祖伝逸話篇「152、倍の力」(土佐卯之介との力比べ)
 「明治十七年頃は、警察の圧迫が極めて厳しく、おぢばに帰っても、教祖にお目にかからせていただける者は稀であった。そこへ土佐卯之介は、二十五、六名の信者を連れて帰らせて頂いた。取次が、阿波から参りましたと申し上げると、教祖は、 『遠方はるばる帰ってきてくれた』と、おねぎらい下された。続いて、『土佐はん、こうして遠方からはるばる帰ってきても、真実の神の力というものを、よく心に治めておかんと、多くの人を連れて帰るのに頼りないから、今日は一つ、神の力を試してごらん』と仰せになり、側の人に手拭を持って来させられ、その一方の片隅を、ご自分の親指と人差し指との間に挟んで、『さあ、これを引いてごらん』と差し出された。土佐は、挨拶してから、力一杯引っ張ったが、どうしても離れない。すると、教祖は笑いながら、『さあ、もっと引いてごらん。遠慮は要らんで』と仰せになった。土佐は、顔を真っ赤にして、満身の力をこめて引いた。けれども、どんなに力を込めて引いても、その手拭は取れない。土佐は、生来腕力が強く、その上船乗り稼業で鍛えた力自慢であった。が、どうしても、その手拭が取れない。遂に、恐れ入りましたと頭を下げた。すると、教祖は、今度は右の手をお出しになって、『もう一度、試してごらん。さあ、今度は、この手首を握ってごらん』と仰せになるので、では、御免下さいと言って、恐る恐る教祖のお手を握らせて頂いた。教祖は、『さあ、もっと強く、もっと強く』と仰せ下さるのであるが、力を入れれば入れる程、土佐の手が痛くなるばかりであった。そこで、遂に土佐は兜を脱いで、恐れ入りましたと、お手を放して平伏した。すると、教祖は、『これが、神の、倍の力やで』と仰せになって、ニッコリなされた」。
 諸井国三郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「151、をびや許し」。
 「明治17年秋の頃、諸井国三郎が、四人目の子供が生まれる時、をびや許しを頂きたいと、願うて出た。その時、教祖が、御手ずから御供を包んで下さろうとすると、側に居た高井直吉が、それは私が包ませて頂きましょう、と言って、紙を切って折ったが、その紙は曲っていた。教祖は、高井の折るのをジッとごらんになっていたが、良いとも悪いとも仰せられず、静かに紙を出して、『鋏を出しておくれ』と仰せになった。側の者が鋏を出すと、それを持って、キチンと紙を切って、その上へ四半斤ばかりの金米糖を出して、三粒ずつ三包み包んで、『これが、をびや許しやで。これで、高枕もせず、腹帯もせんでよいで。それから、今は柿の時やでな、柿を食べてもだんないで』と仰せになり、残った袋の金米糖を、『これは、常の御供やで。三つずつ包み、誰にやってもよいで』と仰せられて、お下げ下された」。
 梅谷四郎兵衛
 「難儀はささぬ」(養徳社発行・本部員叢書12「旧きを尋ねて」梅谷忠雄より)。
 「祖父(梅谷四郎兵衛)が明治17年に、おやざと近くの櫟本へお救けに出掛けたことがあります。当時コレラが流行しているときで、大島くにと云う老婆が、コレラのお救けを願い出て来たのであります。ところが当時は警察の干渉がやかましい時で、中々お救けに出ることができなかったのです。祖父は非常な決心をして神様に御願いして、以後の心得のために、お指図を願いましたところ、『さあさぁ尋ねる事情/\身上にせまるところ尋ねる、尋ねるからは一つ諭ししよふ、よふ聞きわけ/\。この道は一里三里十里なく(ん?)ぼ へんじょ(※僻地。遠方の地)へ出たるとも、常々に真実の神様や真実の親様やと云うて、神の指図固く守ることなれば、へんじょふへ出て不意に一人は難儀はさゝぬぞえ。後とも知れず先とも知れず天より神が踏ん張りてやるほどに。二人三人よれば、今迄はわしはこんな心でいた、おれはこんな心でいたと、みんな銘々の心通りゆわしてみせる。神の自由用自在よう聞き分け』、『案じる事いらん。こういふ指図あったと皆々の処へ伝えてくれ。一人二人の指図やないで、皆々へ伝えてくれ/\』、と云うお指図を頂戴したのであります。このお指図を頂いて、お助けに出さしていただきましたところ、すぱっと助かって頂いたのであります」。


 (当時の国内社会事情)

 1884年、自由党が解散する。各地で政府に抵抗する事件が起る。加波山事件。秩父事件。各地で農民暴動。地租条例が定まる。自由民権運動弾圧のため区長村会法を改正。大洪水。

 (田中正造履歴)
 1884(明治17)年、44歳の時、栃木県令三島道庸の圧政に反対、加波山事件に関係したとして入獄3か月。

 (宗教界の動き)
 8.11日、教化政策には批判も多く神仏教導職制を全廃し、それまで各宗派の教導職を統轄していた管長に、宗派内の住職、教師の任免権、教師の昇級進退等の権限が委任された。これに伴い管長を教団行政上の代表とし、各教の教規、宗制、寺法などの教団法によって各教団は自らの権力を確立することになる。神道事務局の教導達は「神道」という名の宗派を立てた。これが後に神道大教となる。 10.13日、稲葉正邦神道管長に就任。この経緯は「神道大教の教史」に次のように記されている。
 「神道事務局では明治17年政府補命の教導職を廃し教師の任免黜陟を管長に委す事になり、旧淀の藩主で従四位子爵稲葉正邦卿が明治18年宮様の後をお継ぎになり初代管長に就任し、神道教規を草案、明治19年には神道事務局を改組し「神道本局」と改称、教派名を単に「神道」と称した。明治27年禊教会が、続いて33年には金光教会、41年に天理教会が独立を許可され、各教団を形成し世に云う教派神道十三派が出来上がったのである」。

 (当時の対外事情)
 フェノロサが夢殿観音像を調査。

 (当時の海外事情)
 1884年、清とフランスの間で戦争が起る(清仏戦争)。

 朝鮮、甲申事変起る。 朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。朝鮮政府内で劣勢に立たされていた金玉均など急進開化派は、日本公使竹添進一郎の支援を利用し、12.4日、クーデターを決行したが、12.6日、袁世凱率いる駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。日本政府の悪が資金援助してクーデターを起こさせ、日清の対立が見えかけた。





(私論.私見)