第74部 1883年 86才 雨乞いづとめと拘引
明治16年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【雨乞いづとめと拘引】

 1883(明治16).8.15日(陰暦7.13日)、お屋敷と官憲との根くらべの如くの状況の最中、村人の要請で「雨乞いづとめ」を行うこととなった。つとめの効か、親神様の自由の働きにより雷鳴さえ交えた大雨を頂くこととなったが、奇妙なことに「おつとめ」をした三島村一帯にのみ激しい降雨があったものの他の地域には小雨がパラついた程度であった。駆けつけてきた官憲により、その場に居合わせた者のみならず教祖まで拘引されることとなった。拘引事由は、「警察署の命令に背いて多人数の集合を敢えてしたるは不都合なり」、「街道傍でおつとめをしたことが道路妨害に当たる」はまだしも、「雨乞いづとめにより近村へ降る雨まで皆な三島領へ降らせてしまったのは水利妨害の罪に当る」という科であった。こうなると言掛り難癖の域であろうが、そうまでして迫害しようとする姿勢が見えてくる。

 この経過を見ておく。この夏は、近畿一帯にわたって大旱魃で、三島村でも田圃に水がなくなり、ひびが入り、稲は葉も茎も黄色くなって枯死寸前の有様となった。村人たちは鎮守におこもをりして三夜にわたって雨乞いをしたけれども何の効験もなかった。困り果てた末、お屋敷にやって来て、霊験あらたかと聞く甘露台での雨乞いづとめを懇願した。ところが、お屋敷は既に年頭から厳しい取締りのさなかであり、昼も夜も巡査の来ない日はないという有様で、「参詣人は一人も寄せつけてはならぬ、おつとめをしてはならぬ、おつとめをしたら教祖を連れていく」と厳重に申し渡されていた頃であるから、この由を述べて言葉を尽くして断った。しかし村人たちにとっても事は死活問題であり、万策尽きての頼みであったので引き下がらなかった。お屋敷でのつとめがいけないのなら氏神様の境内でして下さいと頑強に言いはって一昼夜退かなかった。これまで村人たちは「お道」を信仰するどころか、むしろ反対し妨害する側にあった。その村人たちが雨乞いづとめをお願いするほどに「お道」が成長していることが見て取れよう。村人は、警察が取調べに来たら、私たちが頼んだのであると言って決して迷惑はお掛けしないように致しますからと幾度も懇願した。真之亮は、その態度に真情が読み取れたので、遂に断わりきれず教祖に伺った。すると、「雨降るも神、降らぬも神、皆な神の自由である。心次第、雨を授けるで。さあ掛れ々」という鮮やかなお許しが為された。

 これに力を得て、村総代の石西計治と相談の上、先ず村の氏神の境内に集まることとして、おつとめの準備にかかった。この日、8.15日(陰暦7.13日)午後4時頃お屋敷に立ち、その後氏神の境内へと向かった。このおつとめに参加したのは辻忠作、仲田儀三郎、仲田かじ、桝井伊三郎、高井直吉、山本利三郎、岡田与之助、沢田権治郎、博多藤平、村田かじ、中山重吉、西浦弥平、飯降よしえ、辻とめぎく、音吉らの面々であった。(中山重吉はお政の息子であり、雨乞いつとめの人衆を務めるまで成長していたことになる) 真之亮と飯降伊蔵の二人はお屋敷に留まっておつとめが終るまで一心に甘露台にお願いし続けていた。当日、面々が着用した服装は、男女とも教祖のお召しものの赤衣を差渡し三寸の大きさに切り、十二弁の縫い取りした紋を背中に縫い付けたものであった。人衆は完全には揃ってはいなかったが、それぞれお面を用い、鳴物を入れ、村の四隅において、四座のおつとめを勤めた。「男女共に背に十二弁の菊の紋を付け、神楽獅子二、面八、鳴物九ツ、夫々人数に割りつけ」ていた。この記述からすれば、既にかぐら面は獅子面に加えて、残り八つの面もでき上がっていたといえる。

 まず、三島領の南の方を回って村の巽(たつみ、東南)の隅、当時牛はぎ場といっていたところでおつとめした。この時の空にはまだ一点の雲らしきものもなく、旱魃の形相そのままの空模様であった。ところが、西に下って坤(ひつじさる、西南)の隅、即ち村の西はずれの布留街道の北側でおつとめを勤めた時、東の空に一点の黒雲が現れ空模様が動き始めた。続いて北に回り乾(いぬい、西北)の隅でおつとめに掛った時、墨をすったような黒雲が東山の上から立ち始めるや忽ち空一面に広がり、篠つくような大雨が雷鳴さえも交えて降りだし大夕立となってきた。一同の喜びは全く例えようもなく、感謝と感激の中に最後までおつとめを勤め、更に降りしきる豪雨の中を東へ進んで、艮(うしとら、東北)の隅で四座目のおつとめを勤め終えた。初代真柱手記(かたかな書)305頁には「この時の雨降りトキのウレシサ、タトフルニモノハアリマセン」と記されている。

 おつとめを終えて、一同が氏神の境内で休んでいると、鮮やかなご守護を頂いて感激した村人たちが、是非とも甘露台のところへ行ってお礼をさせてもらいたいと言って来た。日頃信仰に反対の村人がかくもご守護に感激している様子を見せられ、つとめの一同はこれに感激し、共に甘露台に駆けつけてお礼を申し上げることにした。一同がうち揃ってお礼の参拝をしている時、丹波市分署から数名の巡査が駆けつけてきた。何をしているかと厳しく咎めたので、「村の頼みで雨乞いを致しました」と答えた。「それなら村役人を呼んで来い」とのことで呼びに行くと、村役人がやって来るや、村人はその場の空気の厳しさに怖れを為して、「知りません、頼みません」と言い逃れた。「決してお屋敷にご迷惑はかけません」とはっきりと誓っておきながら、いざとなれば知らぬ存ぜぬで怖気づく村人の不実というか人間の勝手さが露骨に現れた。巡査は得たりとばかり、おつとめに出た一同に縄を掛けた。もとより着替えの暇など与えてくれる筈はなく、篠つく雨に打たれたずぶ濡れのままであった。折しも、三島の川筋は水かさが増して番破れとなったが、川上の滝本村の方では水が不足で水喧嘩が起こったので、二人の巡査はそれを鎮める為に、その方に駆けつけなければならなくなり、大勢の一同を連行する為に残った巡査は只一人であった。誰一人反抗したり逃げ隠れする道人は居らず、こうして一本の縄を一人一人の帯に通し、両端の二人の帯にそれぞれ縄の端を結びつけた数珠つなぎの姿で布留街道を人目にさらしながら西の丹波市署へと連行され、一同は取調べを受けることとなった。

 この日の行動に対して下された判決は水利妨害と道路妨害という罪科を科した。考えて見れば、この日の雨は実に不思議な雨だった。おつとめと共に降り始めたのであるが、その降雨の範囲が非常に狭く、熱心におつとめをした三島領内には激しい雨が降ったものの、その川上の滝本村辺には効がなく、引き続き水不足の為の喧嘩が起こっているという始末であった。隣村の豊田、守目堂、川原城などのごく近い村々には、ほんの少しパラパラときただけで、雨らしい雨はほとんど見られなかった。川原城では雷鳴が殊の外激しく、落雷が一カ所あり、被害さえ出ているとのことであった。一方、三島領内は溜水だけでも田圃に溢れるほどであったから、今まで厳重に守られていた引き水の順番もたちまち不要となり、いわゆる番破れとなった。こうした奇妙な降り方をした経過により、「雨降るのも神、降らぬのも神の自由である」と仰せになられた教祖のお言葉を逆手にとって、雨乞いづとめにより近村へ降る雨まで皆な三島領へ降らせてしまったという言いがかりが為された。又、街道傍でおつとめをしたことが道路妨害に当たるということであった。これも又言掛り以外の何物でもなかったであろう。


【この時の逸話】
 雨乞いづとめにはもう一つ面白い話がある。高井猶久編「教祖より聞きし話・高井猶吉」の「宮森はんのこと」1452−153pが次のように記している。
 「雨乞いづとめの時やった。女神様が一人不足やったので、宮森はんがくもよみのみことになり、女のお面をかぶり、腰には女帯を締めておつとめをしたのや。ところが、雨乞いづとめもすんで警官に叱られた折、警官が宮森はんのお面を取った。ところが男の顔が出て来たので警官は、なんだこいつ男かと言って、宮森はんの頭をぽんと一つ叩きよったことがある」。

【教祖、「二度目のご苦労」】
 その日の夜の9時頃、突然一人の巡査が、教祖も雨乞いつとめに出ていたとして、教祖を拘引しようとお屋敷にやって来た。お側についていた長女のおまさが、何故、老母をお連れになりますかと激しくさえぎろうとしたはずみに、巡査を押しのける結果となった。すると巡査は「何ゆえとは不都合千万である。老母に尋問の筋あって連れに来たのだ。しかるにその方は、何故、本官を叩いた。その方も老母と同道で来い」と言って共に連行した。これが「二度目のご苦労」となった。取調べの庭において、教祖は、「雨降るも神、降らぬのも神の自由」と仰せになり、親神様の自由の働きをお教え下された。役人たちは、役目柄、何とかして教祖を罪に落とし込もうとして汲々としていたので、教祖の親心などわかろう筈もなかった。

 教祖御拘引の様子につき、初代真柱手記(かたかな書)307頁が次のように記している。

 「午後九時頃、高辻楢吉なる巡査、突然来たり、教祖様を拘引し帰らんとす。政女幸いに傍にありて『何故(なぜ)老母を御連れになりますか』と尋ねる機(はずみ)に、思わず知らず、手は巡査のズボンに触れたり。巡査曰く『何故とは不都合千万なり。老母に尋問する言りて連れに来りたるなり。然るにその方は巡査をなぜ叩いた。老母と同道にて来たれ』とて、教祖様と政女とを同道にて連れ帰り(以下略)」。

 この時、教祖だけが徹夜留置となり、翌朝午前10時頃まで「御苦労」下された。教祖を張本人と看なしてのことである。 教祖には2円40銭の科料、辻、仲田、高井の3人は62銭5厘、その他の人々は50銭の科料、他におまさは巡査を叩いたというかどで1円の科料が申し渡された。これだけの結論を出す為に深夜2時迄かかり、一同は午前2時過ぎに釈放された。教祖だけが翌朝まで徹夜で留置された。当時の丹波市分署の署長は蒔村。


【永尾芳枝祖母証言】
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「永尾芳枝祖母口述記(その十九)」を転載する。

 永尾芳枝祖母口述記(その十九)

 (つづき)「御教祖様御在世中に行われたと聞かせて頂いて居ります雨乞いのお勤めについてお話し下さいませ」(昭和21年1月発行「復元」第3号の飯降尹之助「永尾芳枝祖母口述記」115−143pより)

 それは明治16年の夏(8.15日、旧7.13日と聞く。尹)で、私の18歳の年やった。この時はえらい旱魃で、各家の井戸水までも干上がるほどで、人畜にまでその害が及ぶという様な有様やった。殊に百姓衆は困り切ったのや。そこで困り切った揚句(土地の風習で、氏神に祈願する事が随分行われたと聞く。尹)いつもは見向きもしやへんのに、とう/\足達さん(石西さんではなかろうか。為※1)が代表になって、雨乞いのお願いをしてくれと頼みに来たのや。教祖様にお伺いされると直ぐにお許しになったので、皆な支度にかゝったのやが、この時教祖様は私をお呼びになって、御自分のお召しになっている赤衣を私に下はって『代理をせよ』と仰言った。そしてこの時、『守護するで。なれどもどんな者連れて帰るやら分らん、その時は決して逃げかくれしてはならんで』と仰言ったのや。そこで人衆揃うて三島庄屋敷村の領分を南から一と囲(まわ)りお勤めして廻ったのやが、初めは雲一つなかったのが二度目には東から曇ってきて、三度目にはどしゃ降りの大雨が降って、四度目を終ってみんなずぶ濡れになって戻って来たのやった。そしてそのまゝ直ぐに甘露台の前にお礼申上げたのや。ところが、警官がこれを聞きつけてお屋敷へ出張って来て、勤め人衆を皆な拘引するということになったのやが、不思議な事には他の人らは皆な黒の着物を着て居て、私唯一人赤い着物を着ているのやから一番目立つのが当り前やのに、何と私だけは目に付かんものと見えて、警官は他の人々の名前を一々手帖につけているのに私にだけは何んにも言わなんだ。そのうち私は俄かに小用を催したので、直ぐ傍(かたわら)の便所へ入ったのや。そやけどこれも便所の石段を登ればどうでも警官の目に付かにゃならん筈やのに、とう/\目に止まらんかったのや。私が出て来た時は、他の人等は皆な拘引されて門の外へ出やはった後やった。私は唯一人になって、そのまゝ教祖様の前へ行ってお礼を申上げたような次第やったが、ほんまに出がけに教祖様の仰言った通りやったのや。(祖母はこの時の感激を繰返して最もよく語るところでした。尹) 一方警察ではお勤めに使うたお道具から、お勤め着までも取上げられて仕舞うたのや。その上水利妨害として一人五十銭づつの科料を取られたのやが(一部の方々は六十二銭五厘だったと聞く。尹)何んで水利妨害かというと、一般に万べんなく振る筈の雨を、祈祷によって三島庄屋敷村の領分にだけ集めたのやから、他の村に対しては水利妨害やと言うのや。成程そうかも知れん。お勤めをして廻った以外の方は、しょぼ/\と降っただけやったそうや。そやけどこの時も、結局教祖様に警察へ御苦労頂いたのは申訳のないこっちゃった。いろ/\と長話したけど、これは皆な私の憶えてるだけのほんの道筋あらましを言うたのや。今日はこれ位にしといて貰おう。(おわり)


 8.22日、河内刑部村(八尾市)で雨乞いづとめ。


【教祖、「三度目のご苦労」】
 10.16日(陰暦9.16日)、雨乞いづとめに賑わった夏が過ぎ秋深みゆく頃、巡査二名が理由もなく突然出張して来て、尋問の筋ありと称して、いきなり教祖を引致し、教祖のお側にあった屏風と、戸棚の中にあった毛布とを、犯罪の用に供したものであると言って、封印して戸長の石西計治方へ運ばせた。これが「三度目のご苦労」になった。

 官憲が、何とかして言いがかりの種を見つけたいとの焦りから、手当たり次第に側にあるものを没収し始めていることが分かる。どんなに調べても、当方に犯罪の事実がなく、犯罪立証は困難であったが、「上からの達し」で「お道」に対する監視指令があり、彼らとしては取締りの手をゆるめるわけにはいかなかったのであろう。ところが、当時の信仰者にとって、数々の節を乗り越える中で、信仰は既に生死を賭した揺るぎのないものとなっていた。お上のご威光が、御無理御尤もとして民衆を従わせる威力のあった当時ではあるが、そのご威光を笠に着ても既に人々の信仰を思いととどませることはできなかった。かくて弾圧はいよいよ頻度を増し激しさを加えたが、当時の信仰者にとって、如何に理不尽な取扱いを受けようが、不条理な嫌がらせをされようが、信仰の喜びの前には一切は物の数ではなかった。教祖への信仰と思慕の情はそれほど深いところで結ばれていた。




(私論.私見)