第73部 1883年 86才 御休息所の建てかけ
明治16年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「御休息所の建てかけ」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【鴻田忠三郎が「建言書」提出】
 3.15日、鴻田忠三郎が、大蔵省宛に「建言書」を提出している。文言は次の通り(れんだいこ訳)。
 建言書

 私儀者は、幼年の時より農事につき種々穀物上品を年々撰し出して、その上試験して作増し相成る種子を人々に施こし候折柄、御維新に相なり、然るところ大坂府に於て政府の綿糖共進会を開きに相なりの際、元三大区中人撰を以って出張するところ則ち農事集談会と相なりにつき、而は会員に被任、その砌に通信委員の儀被仰、しかるところ亦々東京に於て第二博覧会の節も農談会の時会員に被任、畢てその後新潟県へ勧農教員に被雇、二ケ年相勤て暇乞し、本国へ帰国す。就中、このたび山辺郡三嶋村、中山氏八十六歳の老母に珍し助けありしにつき、如何にも審儀の事と察し、則ち剋限待て月日自ら如何なる病気といえども、これまでの悪事を懺悔して天道の教えの道、実と思い、人の道を違わずして、神の取次の仰せに随い政心をして願えば何程の難しき難病においても速に全快するによって、只今に而は十六、七ケ国より日々参詣有のところ、大坂府に於て天輪王命と云う神の者はなき者と、何らの取調べもなくして人を助けるを差し留めに相成り居る。然るといえども遠国より日々参詣者段々と増すばかり。尤も、旧幕の頃には京都吉田殿より免もあり、今差し留め相成時は、神の立腹は漸意成る事でなし。この儀如何なる咎めも難斗と申し候ハ、神の源を尋る、月日がこのたび天輪王命と顕て珍しい助けを被成候哉に察し、如何にも審儀成る、神の御言は之写并筆先を見るに、これ全人間の業にてハ有まじき事右様の故、人並にてハ迚も不云事出来候故斗、何らの事でも勤め一条ハ病気は勿論百姓第一の助け、芽出の札、実のり札、肥し助け札、蟲害除け札、その他何によらず願い道は何に叶わずという故に更になし。この神の筆先にも有りし通り、徳川天下の亡る事も前年に仮合ひて、御噺も有りし、取次人ハ存じ居り候。その他異人杯も来る事も前の如く先に見得る。然ると雖も、右始末の儀ハ皆々存し居り候え共、只今迄ハ御上を恐れて詳に申し上る人ハ更になし。このたび者私農事通信免も有故、一日も早く万民を助け農作増相成を相弘るに於てハ、是末代の普益相成事者不過の則皇国第一の事と愚慮仕儀につき、この段恐も不顧奉建言候。

 右ニ付神の筆先は壹号より十七号迄有の内六号十号書抜 十二下リ勤 〆四点相添エ御高覧奉入候 右を建言するは此神者可建置神と察し候間依而奉上申仕候也
   
    大坂府下大和国 式下郡檜垣村
    明治十六年三月十五日            鴻田忠三郎
    東京 大蔵省御庁

【お筆先の危難】
 3.24日、丹波市署の巡査・中田某が突然巡回にやってきた。この時、鴻田忠三郎がお筆先を筆写しており、他にも泉田藤吉他数名が居合わせた。巡査はお筆先に目をつけ、戸主を呼べと言いつけた。稿本教祖伝は次のように記している。
 「(この時)丁度、真之亮は奈良裁判所へ出かけて留守であったので、その旨を伝えると、戸主が帰ったら、この本と手続書を持参して警察へ出頭せよ、と申せ、と云うて引き上げて行った。帰ってこの事を聞いた真之亮は当惑した。ここでお筆先を持って行って没収でもされれば、それまでである。と気づいたので、(留守番役の)やまさ等にも話して、どんな事があっても、この書き物を守り抜こうと決心した。そこで、その本はおまさ、おさとの二人が焼いたということにして、(苦心して書いた)手続書だけを持って丹波市署へ出頭した」。

 蒔村分署長がお筆先の不提出をなじり、清水巡査が家宅捜査に出向こうとする。が、「それには及ばぬ」となり、お筆先が無傷で守られた。

 ここのところ、「稿本教祖伝」は次のように記している。
 「ソノ際御巡回之御方ヨリ右天輪王ニ属スル書類ハ焼キ捨テツベキ様御達シニヨリ、私同居罷りアリ候飯降伊蔵妻さとナル者、右忠三郎披見ノ書類、即時焼キ捨テ申義ニ御座候」。

【真之亮の手続書】
 3.25日、真之亮が次の手続書を丹波市内分署に差し出している。
 昨24日午前10時頃、当分署より御巡回廻りに相成り候みぎり、御見回り下され候際、私宅へお立寄りに相成り、参詣人有りの趣に付き、手続き書差し出すべく旨御口達しによりありていに申し上げ奉り候。

 この義兼ねて御差止め有り、これに付き、断じて申し居り且つ又参詣の義は断るの書き付け等も表口に張りおきありに候に付き参詣人は決してござなく候ほどでござ候。然るに私儀は本月23日に奈良裁判所に出頭仕り居り候留守中にて参詣人有無存し申さず候えども、帰宅のところ手続書差し出すべき旨お達しの趣承り、家内へ尋問候ところ、前国式上郡桧垣村の鴻田忠三郎なる者の天輪王命の由来書を見て申し上げにられるには、見せ居り候その節何国の者か云々。

【例祭の日の官憲当局との綱引き】
 6.1日(陰暦4.26日)、この日は例祭の日であったが、お屋敷側より、参拝人取締りのために、警官の出張を頼んだところ、この警官達によって、権力を笠に着た調書捏造によって取調べが為された。この頃においては、お屋敷の方でも取締り慣れとでも云うべき対処法が為されていたようであり、押収される物件と云えば、常にお供えであったり、教祖のお召しものであったりで、幾ら取り押えられても、罪の臭いがしそうになく、被疑事実に該当するものを見当らなくさせていたのであろう。とはいえ、官憲達は、取り締まれという命令を受けている以上、参拝の人波をそのまま黙って見過ごすわけにもいかず、又お屋敷で行なわれる信仰の行事を黙認する訳にもいかぬということで、焦りというべきか、見通しを持たない無定見な取調べに及ぶこととなった。こうして、官憲当局との綱引きの様な一時が流れていった。

 暫く、この経過を見ておくこととする。当時、参拝人を入れてはならぬという達しは厳しく、これに違背すれば咎められるが、門前に参拝人お断りの貼紙をして、かくの如くお断り申し上げておりますという口実にしていたが、最早そんなことぐらいでお茶を濁していることの出来ない事態となった。そこで考えた末、特に参拝の多い陰暦26日の例祭日には、お屋敷側より、警官の出張を依頼することにしたようである。黙っていても巡査の来ない例祭日はありえず、この場合は参拝者をいれた責任をお屋敷側が問われる。こうして、あらかじめ頼んでおけば、いくら参拝者があっても責任は取締り当局にあるのであって、お屋敷の責任が逃れれるばかりか、当局に協力しているという口実にもなるだろう、との配慮からであった。

 陰暦4.26日(6.1日)、この日は、願い出によって、朝から3名の巡査が出張してきたが、参拝人が多くて防ぎ切れないので、午後になって更に私服2名を増員してきた。ところが、午後3時ごろになると、さすがに参拝者も閑散になってきたので、この5名の巡査は、「本官等は暫く巡回してくるから、その間、そちたちは、参拝者をいれないように充分気を配れ」というような意味の、しかつめらしい注意を残して出かけていった。その実、彼らの行く先は、当時、布留にあった魚磯という小料理屋であった。ここで憂さ晴しをした後、一杯ほろ酔い機嫌で再びやって来た。署へ帰って報告する材料でも捜しに来たのであろうかそのまま真っ直に神前に進み、小餅をお供えしてあった三宝の上に銭銅貨が一枚混じっているのを見つけると、早速これを口実に真之亮を呼び出し、「この餅の中に一銭銅貨を入れてあるのは、定めし本官等が他所巡回中に参拝させたのであろう」と、どなりつけた。「あなた方がお出ましになった頃は、参拝の人は極く少数でありましたから、私は門についておりまして、一人も入れません」と答えると、巡査は怒って、いきなり小餅を壁土の中へ投げ込んだ。はなから言掛りを求めて来ている連中でありその上一杯機嫌であるからたまらない。勢いの赴くままに、ついに親神様のお社や祖先の霊璽に至るまで焼き捨てるという乱暴を働いた。

 ところが、ここまできた時に、酒に酔った彼らの頭にも、流石にいささか冷静な反省が戻ってきた。これは、少々度が過ぎた。うっかりすると自分たちの失策になりかねないぞという不安である。そこで、これを糊塗する為に、自分たちに都合の良い文案を考え、真之亮の名義で手続書として提出させ、これを言い逃れの証拠書類として持ち帰った。

 概略次のような書面となった。
 「本日午前9時からご出張下され、参詣の信者の取締りは勿論のこと、家宅内の不審と思われる場所は残らずご巡視の上、取調べを頂きました。その際、特に祖先の亡霊を祭祀してあるところがいけないので、取り除くようにとご注意を頂きながら、そのご注意を守らず、午後ご巡視にお越し下された時も、まだそのままになっておりましたので、お叱りを蒙り没収を受けました。勿論、ご注意を守らなかったのは当方の落ち度でございますので、この没収を受けた品物にたいしてはいかようのご処置にも不服は申し上げないことを承認する意味で、私も現場に立会いの上で焼却して頂きました。今後も、ご巡視の際に不審の物がございました際は、即時没収を受けましても、決して不服は申し上げません」。

 この上もない得手勝手な文案である。この様なでたらめな取調べを権力を笠に着て日常的に立ち入り検束されていたことになる。やられる方はたまらない。初代真柱はじめ当時側近に仕えていた人々の苦労と、その心中さこそと察することが出来というものである。
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「永尾芳枝祖母口述記(その九)」を転載しておく。
 「(つづき)これからは益々反対攻撃、政府の弾圧が烈しなって来て、松恵さんの出直さはった時(明治15年旧9.30日)などは警官が出張って来て家族の取調べをして、中山家と飯降家の家族の他は一人も寄せつけなんだ。丁度梶本松次郎さんも来てはったが、警官に「お前は何者や」と問われて、松次郎さんは「私は櫟本の親類の者で葬式に来て居ります」と答えると、警官は「葬式が済んだら用はないやろ、早よう帰れ」と言う。松次郎さんはまた「御存知の通り飯降さんは拘留されて、(伊蔵様は25日(?、為)以来奈良の監獄に十日間の御苦労中であった。家には年寄りや女子供ばかりで御座りますので留守番して居ります」と只管(ひたすら)頼んでやっと滞在することが出来たのやった。次におひさはんにも「お前は誰や」と言うので、おひさはんは「私は松次郎の妹で御座りますがお葬式の手伝いに参じて居ります」と答えると、警官は「葬式が済んだら用はあるまい、とっとゝ帰れ」と厳しく言うので、おひさはんはやむなく帰らんならん始末やった。お政はんは教祖様の御長女として特に許され、重吉っつぁんは百姓男やと言うて滞在を許されたのやった。

 何しろ当時は、中山家と飯降家の家族の他は一人も出入り出来ず、滞在なんどはもとより出来やへんので、熱心な人達は絶えず逃げ隠れしてお参りしに来たのやった。一番心配なは、毎日毎夜お参りしに来る人を隠すことや。丁度中川勘平さんと清水さんの家とが表と裏になっていたので、警官が調べに来ると直ぐにお参りの人等をこの二軒の家に隠れて貰うて、誰も参拝者が無い様に見せたのやった。そんなふうやから、ほんの一と言話しするのにもまるで内密話する様に、耳へ口を寄せて小声で話し合うて家の中はひっそりとしていたのや。この当時の有様は何ともかとも言いようのない程やった。明治16年旧4.26日の御命日やった。父様が丹波市警察分署へ行って「今日はひょっとすると参拝者があるかも知れませんから出張って下はりますか」と願い出やはると、直ぐに制服の巡査一人出張って来て参拝者が門内に立ち入らんように見張りしていた。警察からの達しで、参拝者のあることが確かに判っている日は斯(こ)うして此方から願い出て、警官に出張って貰うことになっていたのや。その折柄、三、四人の和服の警官が、瀧本の紡績工場(?為)からの帰り掛けやと言うて酒に酔うて入って来て、上段の間へ自分等が一銭玉をばらまいて置き乍ら、それを拾うて「この賽銭があるからには参拝者を引き入れたのに違いない」と言うて怒鳴ったり暴れたりして、終いに御供に封を付けて、丁度その時教祖様の御休息所が建築中やったが、その壁の為に捏(こ)ねてあった泥土の中へ投げ捨てゝ三宝やらは火鉢の中へ放り込んで焼いて、そのまた火鉢を外へ擲(なぐ)り出して、割ってしまうという乱暴狼藉やった。あんまりのことに母様とお政はんは警官に向い「この火鉢は貧乏人飯降の家の後にも先にもないたった一つの大切な火鉢だす、これが割れてはあとに懸け替えがありまへん、どうして下はりますか、あんまり無茶でっしゃないか、このことを警察の偉い人に訴えますさかいに名前を聞かしとくなはれ」と言うと、乱暴を極めた警官も始めて気がついたのか、「警察から取りに来るまでこの御供に触ることならんぞ」と厳しく言うて帰って行ったが、酒の上とは言え乱暴過ぎた事に気が引けたのか、その後いつまでたってもその御供を取りに来なんだ。(つづく)」。

【真之亮の手続書】
 6.1日、真之亮が先の手続書に続いて同様書を丹波市内分署に差し出している。
 右、私儀明治16年5月31日、届書を以て、今6月1日即ち旧4月26日は天輪王祭日に相当なるにつき、遠近諸国の人民御政体の御趣意を弁えず、参詣する者数多くなるにつき、私戸主につき、右参詣人制すると雖も、到底私一人の力難及び候につき、昨31日該御分署へ御出張の上、右参詣愚昧の者共へ御説諭成り下され候様願い出、本日午前九時より御出張相成り、参詣人は勿論、家宅内不審の場所と巡視相成り、私先祖亡霊を祭祀致し候処、御出張の際、取り除くべき様御説諭に預り、その後午後に至り、再び御出張に相成り、右場所矢張り従前のまま差し置き候につき、御説諭の趣意相守らず候につき、断然右祭祀したる物品没収相成り候段、奉り恐れ入り候(以下略)。

【山澤良助(良治郎)出直し、山沢為造が跡を継ぐ】 
 6.19日、山澤良助(良治郎)が出直す(享年53歳)。山澤為次(ためつぐ)の「教祖様御伝編纂史(前半)」に「病気は食道がんだったらしい」と記されている(復元第8号41頁)。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「120、千に一つも」。山沢為造がいよいよおぢばに伏せ込まれる直前の逸話「伏せ込みお諭し」。

 「山澤為造は、父の良治郎が病に倒れて以来、父の信仰をうけつかねばならぬと堅く心に決めて、一日も早くお屋敷へ伏せ込ませていただきたいと思っていた。ところが、母ののぶと兄の良蔵からは、為造が次男であることから、早く身の決まりをつけよ、と勧められていた。明治16年の春頃、山沢為造の左の耳が、大層腫れた。教祖(おやさま)にお伺いすると、『伏せ込み、伏せ込みという。伏せ込みが、いつの事のように思うている。つい見えて来るで。これを、よう聞き分け』とのお言葉を聞かせて頂いた。又、『神が一度言うて置いた事は千に一つも違わんで。言うて置いた通りの道になって来るねで』とも聞かせて頂いた。母なり兄から、早く身の決まりをつけよとすすめられ、この旨を申し上げてお伺いすると、教祖は、『これより向こう満三年の間、内の兄を神と思うて働きなされ。然らば、こちらへ来て働いた理に受け取る』とお聞かせ下された。この直後の6.29日、父・良治郎が出直す(享年53歳)。為造は父の後を受けてお道の上で活躍する事になる 」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「133、先を永く」。
 「明治16年頃、教祖が、山沢為造に次のようにお諭しされている。『先を短こう思うたら、急がんならん。けれども、先を永く思えば、急ぐ事要らん』、『早いが早いにならん。遅いが遅いにならん』、『たんのうは誠』」。

【御休息所の建てかけ】

 明治16年の5月、こうした厳しい迫害と不安な環境の中にも、御休息所の棟上げが行なわれた。休息所の建築は昨明治15年11月に始まっていた。これが飯降伊蔵の最後の大工仕事となった。普請は順調に進み、このたび棟上げが行なわれた。着工より丸一年の後に内造りが完成した。

 11.25日(陰暦10.26日)、三間に四間の建物で、四畳と八畳の二間御休息所が竣工した。その日の深夜、教祖は、親神のお指図のまにまに刻限のくるのを待って、八年間お住まいになった中南の門屋(表通用門)から、この新築成った御休息所へ御移りになった。教祖が御休息所にお移りになられてからは、それまでお住みされていた中南の座敷に伊蔵一家が移り住むこととなった。

 この時の様子が次のように語り継がれている。この日、御移りのことを聞き伝えて参集した信者たちが、教祖の御渡りになる両側に、それぞれ講名入りの提灯をつけて、庭一杯になって待ち受けていた。その中を、当年86才の教祖が、「そうかや、用意ができたかや。刻限が来たら移りましょうな」、「さあ刻限が来た。移りましょう。たまさんおいで」と仰せになって、7才になる嫡孫たまへの手をお引きになり、提灯の光に照らされながら静々と行かれると、居並ぶ人垣の間からパチパチと拝む拍手の音が起こり、教祖が歩みをお進めになるに連れて、次々と響き続いていった。お屋敷内のことであるから、そう大した距離ではないが、後年、たまへがこの当夜の様子を述懐して、相当長い距離であったように思うたといっている。厳粛にして、かつ荘厳な当夜の様子がよく伺われる。

 御休息所にお着きになった教祖は、静かに上段の間にお座りになり、真之亮とたまへに、「ここへおいで、ここへお座り」と仰せになり、ご自分の左右に御据えになって、それから信者一同の挨拶をお受けになった。ご挨拶申し上げる者が整然と座りおわると、静かに襖を開いて、取次から、「只今は、真明組でございます」、「只今は、明心組でございます」と、一々お取次ぎを申し上げ、次々と回を重ねて、組ごとに講ごとにご挨拶を申し上げた。教祖にお目通りさせて頂き、お言葉をかけていただくことに、無上の喜びと生き甲斐を感じて帰参していた講中と信者の数は相当な数にのぼっていたと見え、この夜の挨拶は夜通し続いたと伝えられている。

 親を慕う子供の真実と、子供の成人をお待ちかね下さる親心との温かい触れあいは、人々の胸中深くに燃える信仰の火に、ますます力を加えていったことであろう。又人々の胸中に燃え盛る信仰の火は、やがて自ずから外に向かって燃え移り燃え広がっていくことになった。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「128、教祖のお居間」。
 教祖は、明治16年までは、中南の門屋の西側、即ち向かって左の十畳のお部屋に、御起居なさっていた。そのお部屋には、窓の所に、三畳程の台が置いてあって、その上に坐っておられたのである。その台は、二尺五寸程の高さで、その下は物入れになっていた。子供連れでお伺いすると、よく、そこからお菓子などを出して、子供に下された。明治16年以後は、御休息所にお住まい下された。それは、四畳と八畳の二間になっていて、四畳の方が一段と高くなっており、教祖は、この四畳にお住まいになっていた。御休息所の建った当時、人々は、大きなお居間が出来て嬉しい、と語り合った、という。

【飯降伊蔵が教祖の代役「ほこりの仕事場」を勤め始める】

 この頃、伊蔵は、教祖より「ほこりの仕事場」と云われ、「お道」の世俗的な事情伺いにつき教祖のお立場の代役をしていた。この経過が次のように伝えられている。ある時教祖に身上迫り、「伊蔵さんを呼んでくれ」と仰せになり、伊蔵が御前に進み出ると扇の伺いをして次のように仰せつけられた。

 「さあ、仕事をやめ。何にも仕事をすることは要らん。今日限り仕事はやめてくれ。そんな仕事をしていては、神の用事の邪魔になる。早くやめてくれ」。

 以降、伊蔵は、教祖が御休息所へ移る前まで住んでいた中南の門屋を引き継ぎ、妻子を寄せて住むことになった。これに合わせて、教祖直々の「ほこりのことは仕事場へまわれ」というお指図が為されるようになり、伊蔵は、「扇の伺い」を頂いたことにより、それによって神意を伝えることになった。

 これを裏付ける話が「道乃友」(大正15.5月号)に宮森与三郎の回想として次のように明かされている。

 「明治15年の頃には、何か伺うことがあって教祖に申し上げると、伊蔵さんに聞いて来いと仰せられるので、私も再々櫟本へ行って本席に伺いを立てたことがある」。

 つまり、伊藤蔵の伏せこみ前から、伊藤蔵が世俗的な伺いの応答人になっていたことが知れる。

 教祖が伊蔵を「仕事場」と定めるにあたって、教祖は次の御言葉を為されている。

 「例えば、理を立てて身が立つ。人を立てた理によって我が身が立つ。必ず人様を立てるようにして、自分はのぼらぬようにせよ。もし人々から立てられる身になっても、高い心を使わぬようにすることが肝心や。十人の上に立てられたならば、十人の上に立って仕事はしていても、その心は一番下に置くように。百人の上に立てられたならば、百人の上に立って仕事はしていても、その心は百人の下に置くように。千人万人の上に立てられた時も同様、心は千人万人の一番下に置くようにせよ」。

 (道人の教勢、動勢)
 「1883(明治16)年の信者たち」は次の通りである。この頃教勢は、強い勢いで伸び拡がり、この年明治16年には、講社は大和、山城、摂津、河内、泉などの近国だけに留まらず、西は播磨、備中、四国の阿波、東は遠州方面にまで伸びるという勢いであった。
 この年、鴻田忠三郎、公認の手がかりを得ようと大蔵省に建言書提出。但し却下される。
 諸井国三郎(44歳)
 1883(明治16)年、2月、遠州遠江国山名郡広岡村下貫名(現・静岡県袋井市広岡)の殖産行/諸井国三郎(44歳)が三女甲子の咽喉痛を手引きに入信。前年、諸井家に寄留していた吉本八十次が織物教師・井上マンの歯痛をお助けしたのがきっかけで匂いがかかる。この年、子供の病から夫婦で信心の心を定め、この年初参拝。明治20.7.14日、本席よりおさづけ。山名分教会(現大教会)初代会長。

 1918(大正7).6.22日、出直し(享年79歳)。
 稿本天理教教祖伝逸話編「118、神の方には倍の力」。

 「明治16年2.10日(陰暦正月3日)、山名郡広岡村(静岡県袋井市)の諸井国三郎が、はじめておぢばへ帰って、教祖(おやさま)にお目通りさせて頂くと、『こうして手を出してごらん』と仰せになって、掌を畳に付けてお見せになる。それで、その通りにすると、中指と薬指とを中へ曲げ、人差し指と小指とで、諸井の手の甲の皮を挟んで、お上げになる。そして、『引っ張って取りなされ』と仰せになるから、引っ張ってみるが、自分の手の皮が痛いばかりで離れない。そこで、恐れ入りましたと申し上げると、今度は、『私の手をもってごらん』と仰せになって、御自分の手首をお握らせになる。そうして、教祖もまた諸井の手をお握りになって、両方の手と手を掴み合わせると、しっかり力を入れて握りやと仰せになる。そして、『しかし私が痛いというたら、やめてくれるのやで』と仰せられた。それで、一生懸命に力を入れて握ると、力を入れれば入れる程、自分の手が痛くなる。教祖は、『もっと力はないのかえ』と仰っしゃるが、力を出せば出す程、自分の手が痛くなるので、恐れ入りました、と申し上げると、教祖は、手の力をおゆるめになって、『それきり力はでないのかえ。神の方には倍の力や』と仰せられた」。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「教祖の元はじまりのお話」。
 「諸井国三郎(44歳)が、御礼の旅に出発し6日間かけてお屋敷に到着し、教祖にお目にかかり、子供の命をたすけて貰った御礼を申し上げましたところ、教祖は、その場で國三郎に親神様のお話を親しくいろいろとお聞かせくだされた。親神様のお話とは、元はじまりのお話のことで、その頃の教祖は訪れる人々に常にお教えになられていた。それによると、『今、世界の人間が元を知らんから、互いに他人といってねたみ合い、うらみ合い、我さえ良くばで、皆な勝手勝手の心をつかい、はなはだしき者は、敵同士になってねたみ合っているのも、元を聞かしたことがないから仕方がない。なれど、このままにいては、親が子を殺し、子が親を殺し、いじらしくて見ていられぬ。それでどうしても元を聞かせねばならん』と仰ってからお話を始められ、親神様がこの世と人間を創造されたこと、人間存在の目的が陽気ぐらしにあること、親神様の子供である人間が自らの心を澄まして互いにたすけ合って暮らすのが人の道であることを説き分けていた。最後に、『こういうわけゆえ、どんな者でも、仲よくせんければならんで』とお聞かせになられて話しを結んでいた」。
 「諸井国三郎」(「清水由松傳稿本」123-125p)。
 「遠州磐田郡久努村の出身で明治16年2月の入信である。とても負け嫌いの度胸のある大法師であった(抱負師、悪い意味では謀反師)。初代真柱様や松村吉太郎先生とも意見が合わぬ時は、真向から反対された。明治21年、教会本部創立の際には非常な貢献をし、初代真柱様のお力となり、明治22年には山名分教会を創立し、又台湾布教に先鞭をつけ道の為貢献する所が多かった。日露戦后不景気の為教会は負債に苦しみ、その結果生命保険会社を創立し、その資金を融通することになって難関を切抜けようとしたが思うようにゆかず、本部としても「みちのとも」に廣告して、それに関係することないよう警告された。当時本部はそれをさしとめようとされる。諸井先生はやろうとされるので、一時はどうなるかと思う程であった。同先生の没後先妻たまさんの養子清麿さんと、后妻そのさんの娘ろくさんの養子慶五郎さんとの間に、継嗣問題が起り、慶五郎さんは養嗣子だから、諸井家を継承して山名大教会長となるべきだと主張するし、清麿さんは姉婿だからこちらこそ継承者だと主張して、双方ゆづらず、遂に山名を二分して名京と山名とにし、山名を慶五郎さん、名京を清麿さんが継いで円満解決を見たのである。

 國三郎先生が本部員になられたのは、明治24、5年頃であったと思う。実際から言えば御昇天后あたりにあるべきが遅れたのである。天性なかなか剛腹ではあったが、心はいたって親切であった。そして初代真柱様に対しても遠慮なく正面きって反対されたが、それは皆道の為を思っての事であり、松村(吉)先生ともよく対立され、又本部員会議では井筒五三郎さんと、なかなか激しいやりとりもあった。これは先生の性格の然らしむる所であろう。保険会社の件の時には、初代真柱様は十ヶ所ほどの有力な直轄教会長を呼んで、それに関係せぬよう注意をお与えになった。そして松村(吉)先生は、断然諸井先生を辞職させよ、と強硬に主張されたが、初代真柱様がまあまあと抑えられて事なく済んだ。然し当時は全教内から事の成行きがとても気づかわれたが、その后何事もなく治りがついた。出直されたのは大正7年6.22日、79才であった」。
【遠州真明組講社結成】
 1883(明治16).2.26日、遠州の諸井国三郎の宅で、諸井を講元とする11名による「天輪講」が組織された。お屋敷の仲田佐衛門の命を受け、3.14日、高井猶吉、岡田(後の宮森)与之助、大阪真明講講元の井筒梅次郎、同講周旋方の橘善吉の4名が諸井講元宅を訪ね十日間ほど滞在した。この間、お神楽勤めの稽古、お話、お助けに励んだ。3.23日のお屋敷帰りの際に作成した講社名簿によれば、講社数84戸。この時、「天輪講」を「遠州真明組」(講元・諸井国三郎)と改称している。この遠州布教が、開教以来初の遠地布教となったと云う意味で特記される。続いて山名大教会が布教線拡大に向かうことになる。

 「遠州真明組」の規則は次の通り。1、三条の御教即の遵守を致すべきこと。1、講社の主意は神徳、皇恩に報ゆるに人心和合共助して、勧業を専らとすること。1、講社中外を不問信義を旨とし、勤倹守分、勧業積善を成るべきこと。1、講社中互いに補助し、徳業を修むべきこと。1、自権利を主張し、官裁を仰ぐ等は無論、争論につき一切致しまじきこと。1、怠惰驕奢の者には説喩を加え、勤倹なさしむべきこと。1、神祇をブ亡し、朝政を誹謗する者は、入社を許さず。(「いちの本分署跡参考館発行資料」参照)

 その年の夏、8.29日、講社の木村林蔵氏と共に袋井を発って、9.3日、お屋敷に到着。2回目の登参を果した。この滞在中に國三郎は、後の本席・飯降伊蔵を通して親神様から、「さあさあ、珍しい事や、珍しい事や、国へ帰ってつとめをすれば、国六分の人を寄せる。なれど心次第や」という頼もしいお言葉をいただきました。神様のお言葉どおり國三郎が国に帰って講社でつとめを勤めるごとに不思議なたすけは次々と現れ、講社の数も増えていった。講社は、講の組織化とともに「天理王講社 遠江真明組」(てんりおうこうしゃ とおとうみしんめいぐみ)と名称を変えた。
 村田忠三郎()
 「村田忠三郎氏の話」(高野友治著「御存命の頃」379-382p、道友社、平成13年1月発行)。
 「私が入信したのは明治16年の2月、確か23日だと思います。その以前から妻が目を患っていました。そこへ笠村の”おりよ”さんという人が商売に来て、その人が、天理さんへお詣りしなされと教えてくれました。それで妻がお詣りに行っておりました。”おりよ”さんは、『この道は夫婦揃うて心を定めねばなおらん』、と教祖はおっしゃるから、あなたもお詣りしなされ、と言いました。そんな馬鹿なことありますかい、と言っていましたが、妻が頼むので、それじゃ行こうかと出かけたのが2月の23日でした。私も少し風邪を引いておりました。お詣りの場所に拍子木がボテコの中に入れてありました。拝もうとすると社がありません。教祖の申されるには、『二、三日前に誰かが来て持って行きました。心に思うこと精神込めてお願いしなされ。それでいいのや。風邪というものは、どこから来るか知っておりますか。顔から起こるのや。人間の顔には耳、鼻、目、口の四ッの引き手がある。その引き手で引っぱって持ってくるのや。それで四百四病(しひゃくしびょう)という。風邪は元やで。このどれ一つ引かんと、皆な喜んでな、”いんねん”を喜びなされ』と申されました。なあ、人間というものは、目で見て美しいと、あれ欲しいなあというて我が身に引っぱってくる。耳で聞いて美しいと、あれ欲しいなあというて我が身に引っぱってくる。鼻でかいでいい香りだと、あれ欲しいなあと我が身に引っぱってくる。口で味おうてうまいと、あれ欲しいなあと我が身に引っぱってくる。我が身に良ければ他人にも良かろうと思うて、他人と喜びを共にせんなんらん。それを他人はどうあろうと我が身にだけ引っぱってくる。それが”ほこり”や。それでいろいろの病のことを四百四病という。皆なこの四つの引き手で引っぱってくるから四百四病というのや、とお教え下されるのでありましょう。風邪は身びいきや。風邪は万病の元や。この年、教祖から”おさづけ”を戴きました。81人目の”おさづけ”やと仰せられた。門屋の所で戴いた(”おさづけ”の件、聞いたまま記す)。それから教祖は、『神はやおよろずの神というが、道ばたで出ている神もある。だが理のついた神は一つしかない。理は寝ていても、風が吹いてものびる』、と仰せられました。また、『日々に冥加(神様のお陰のこと)と喜ばねば寿命ぐすりにはならん』、『博士は薬なければ人は助けられん。薬は野山にある。天の徳は野山にある。人の知らぬところにある』、『敵は味方や』、と色々教えていただきました。そしてまた、『朝起き十両、こんき五両、しまつめ三両(倹約のこと)。これ合わせて十八両、人間日々十八両ずつ働いていくのやで。これさえ忘れなんだら、人間病みわずらうことはないで』、とお教え下さいました」。
 (註・村田忠三郎氏は大和椎木村の出身、本部員堀越儀郎氏の実父。私がお会いしたのは昭和10だったと思うが、91歳で南部支教会の前会長であった。明治16年入信当時は農家であったと思う。笠村の”おりよ”さんというのは北葛城郡広陵町笠の”りよ”さんで、この名は慶応3年の御神前名記帳に二度出ている。~後略)
 茨城基敬()
 3.6日、後の北大教会の初代会長となる茨城基敬が、大恵組四番講元の泉田藤吉に手引きされておぢば帰りし、教祖に引見する。教祖は、初対面の茨城基敬に会うなり、顔をほころばせて次のように宣べられた。
 「いつも神の子供に一文二文と恵んでやってくれる気持に、月日は厚くお礼をいいますで」。
  
 茨城基敬は、教祖が全て見通ししていることに驚き信仰の決意を打ち立てた。教祖は、茨城基敬に月日の金の模様のついた盆と赤衣の襦袢を与えた。初対面としては破格の待遇であった。教祖の期待にこたえるかのように熱心な布教活動に取り組み、翌年には北大教会の前身の天地組一番の総長となる。昭和14年には天理教教会の中で最大規模の北大教会を発足させる。
 「茨木基敬」(「清水由松傳稿本」122-123p)。
 「明治15年11月、入信。大阪市土佐堀の油屋であった。追々信徒も増加するにつれ一時中途で神代復古などと教の理にないこととなえて皆を困らしたことがあった。明治24年、北分教会を創設。本席様の御晩年にその部下教会が百三十ヶ所もあるのだから、準員にして頂きたいとお願いされたがお許しがなく、明治40年、本席様がおかくれになって本教が一派独立してから、明治42年、準員を拝命し、翌44年10.26日、北禮拝殿起工式の日に梶本宗太郎、山田伊八郎、井筒五三郎、畑林為七さんと共に本部員に御任命頂いたが、その后別席にも出ず、間もなく心が狂って自ら神様になってしまい、天啓があると称し鳳凰紋の入った装束をつけ、本部へ乗込んで本席の座に座ると言い出した。それを信用して部下教会の人達の中には大分経済的に支援した者もある。そこで本部では茨木会長を免職し、北大教会の神様を伊勢町に奉還し山中彦七さんを後任会長に任命した。次いで生野分教会は分離して本部直轄となり、その后更に山中会長のあとをうけた村田慶藏さんの時殆んどその直属部下を分離して本部直轄としバラバラにしてしまった。茨木さんがそんなになる少し前、当番していて掛の青年等に、世界並の八卦見のような話ばかりするので、皆も変だなと思い乍らも気にとめずにいる内、長らく休んで出て来ないと思ったら、右の始末であった。高慢が強すぎてのぼってしまったのであろう」。
 清水与之介(42歳)
 5月、近江国高島郡中野村(現・滋賀県高島郡安曇川町中野)出身の神戸で空瓶業/清水与之介(42歳)が父伊三郎の足痛を手引きに、端田久吉(真明講社兵庫一号講元)に匂いをかけられ入信、初参拝。明治20年のおつとめでてをどりをつとめる。兵神分教会(現大教会)初代会長。

 1901(明治34).5.13日、出直し(享年60歳)。
 上村吉三郎入信()。
 寺田半兵衛(46歳)
 摂津国平野町(現・大阪市中央区平野町)の寺田半兵衛(46歳)が長女たきの産後の患い、長男・城之助の労咳を手引きとして泉田籐吉を訪ねる。その後二男卯之助が5才で急死。親子で信心を固め、初参拝、入信。生家・堺屋より京都山科で目薬を商う寺田家の娘まつの婿養子となる。大坂でメリヤス業を興す。1883(明治16)年、長男・城之助の妻は上田ナラトメ(ナライトの妹)。明治21年7月、本席より神水のさづけ。綱島分教会初代会長。

 1907(明治40).3.29日、出直し(享年71歳)。
 「寺田半兵衛」(「清水由松傳稿本」121-122p)。
 「山城國八幡の人、医者を業としていたが、明治16年入信された。丸顔で温厚篤実、おとなしく気の小さい上品な人で、大勢の人なかへ出て話をすると、のぼせて耳がジャンジャン鳴るからと言って別席にも出ず、仮席だけはどうにかつとめられた。網島分教会の創設者で本部員拝命は明治28年頃かと思う。別に極立ったこともなく、信徒がちょっと大金をお供しても、それを受けとることが出来ずに返してやる人であった。びくびくとして人間としては上品すぎた。元来がお医者なので本席様の身上の時は、つききりで良くお世話されたが、どんどん人に道の働きさしてゆく力がなく、日常のつとめをどうにかつとめられた。身体がひ弱いせいもあってのことであろう。明治40年3.29日、68才で出直された」。
 久保小三郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「135、皆丸い心で」。
 「明治16、7年頃の話し。久保小三郎が子供の楢治郎の眼病を助けていただいて、お礼参りに妻子を連れておぢばへ帰らせて頂いたときのことである。教祖は赤衣を召してお居間に端座しておられた。取り次ぎに導かれて御前へ出た小三郎は、恐れ多さに頭も上げられないほど恐縮していた。しかし楢治郎は当時7、8歳のこととて気兼ねもなくあたりを見回していると教祖の傍らに置いてあったブドウが目に付いた。それでそのブドウをじっと見つめていると、教祖は静かにその一房をお手になされて、『よう帰ってきなはたなあ。これをあげましょう。世界はこのブドウのようになあ皆丸い心でつながり合うてゆくのやで。この道は、先長く楽しんで通る道や程に』と仰せになって、それを楢治郎に下された」。
 6.19日、山澤良治郎(良助より改名)が出直し(亨年53歳)。二男為造が後を引き継ぐ。

【この頃の逸話/斎藤織造証言「警察のスパイとの遣り取り」】
 諸井政一氏の手記「改訂正文遺韻」に「斎藤織造氏の話」がある。それによると、斎藤氏は岡山県笠岡警察署の探偵(今日で云う刑事)で、署長命令で信者を偽装してお屋敷に参入し、教祖のお話を聞いていた。お話が終わって退座するとき、教祖の方から「斎藤さん」と声掛かりが為され、次のように話されている。
 「斎藤さん、世の中というのものは、様々だすなぁ。鉦や太鼓叩いて南無阿弥陀仏を唱えて、世を渡る商売もありますなぁ。そうかと思ゆあ、警察というものがありますなぁ。人を括って人を罪に落として、手柄やというて、これも商売だすなぁ。その警察の中に、探偵というものもありまいなぁ。(中略)世の中は、色々の商売がありまいなぁ」。

 斎藤氏は胸に釘を打たれる思いをしたが、開き直って、世界の人間は増えているか減っているか、と教祖に尋ねたら、教祖は、「全て増えているで、ただハワイという国だけは減っている。7分まで減ってしもうて、今は3分しか残っておらん」と仰せられ、日本はいくら、中国はいくら、朝鮮はいくら、天竺(インド)はいくら、と人間の数を数えられた。斎藤氏は笠岡に帰り、署長に報告した。署長から政府に伺ったところ、教祖のお話通りだった。斎藤氏は感服するところあり、後に入信している。これによると、教祖は警察の仕組みや、探偵の仕事、世上の動きに通じていたことになる。

【この頃の逸話/桝井孝四郎証言「教祖様の御言葉を待つ」】
 「神様のお出ましについて」、天理青年教程第二集(天理教青年会本部編)、「教祖様の御言葉」桝井孝四郎より。
 「かように申し上げて参りましたならば、それならば教祖様の所へ、さあ身上や、さあ事情や、運ばして頂きます。何時でも教祖様がお出まし頂くかというと、そうはいかんのです。今日もお出ましにならなかった。今日も折角はるばる来て待っておったがお出ましにならなかった。五日、十日の事はまゝございます。がしかし、或る日、父にお尋ねしたのでございまするが、では一番長い時は何日間位、お父さんお屋敷で滞在しなさったか。まあ、わしの一番長かったのは二十三日間待ったという。今日もお出ましにならん、というて二十三日間も待ったらたいていの者は帰ってしまうが、道は五十町でございましても帰りもせず、ああ今日お出ましになるか、今日お出ましになるかというて二十三日間待った。二十三日間待って、始めてお話を聞かして頂く。そこで道の話しというものは、教祖様のお仕込みは真実話や、とったかみたか(註・捕ったか見たか?!)の命がけの話しや。『真実話しはこうした真実の者でなけりゃはまらん。真実でなければ理が映らん』と仰せ下さるのは、こゝでございます」。
 「御教祖様が話しをしてやるから皆な来い、と言われると信徒が二三十人も出かけて行く。そうすると毎晩一寸もお話しをして下さらん。それやから皆なの者がしまいには怒って帰ってしまう。そして五晩六晩になったら、中田さんや中野さんやら三四人の者が残っていた。すると教祖は、『さあさぁ埃が皆な帰った。さあさぁこっちへおいで、これから話をしてあげるで。あ、その襖の陰にまだ埃が居る、いなしておくれ/\』というて、ちゃんと隠れている者まで教祖様には見え透いてあるのやから、それを帰らせて、しみじみ御教祖のお話しを聞かして下されたことがある。『人間はあざないものや。我が強すぎていかん。この結構な教え、教えとも思わんで、勝手な道を通りたがってな。珍しいものができると直ぐその方へ行ってしまうでいかん』と聞かされた。又、『他所にはニセの本部ができてくるで。それに迷わん様にせないかんで』と聞かして下された事がある」(「埃は帰る 」、昭和三年四月発行「教祖とその高弟逸話集」(天理教赤心社編)より)

【この頃の逸話】
 梅谷四郎兵衛
 稿本天理教教祖伝逸話篇「117、父母に連れられて」。
 「明治15,6年頃のこと。梅谷四郎兵衛が、当時5,6才の梅次郎を連れて、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、梅次郎は、赤衣を召された教祖にお目にかかって、当時煙草屋の看板に描いていた姫達磨を思い出したものか、達磨はん、達磨はん、と言った。それに恐縮した四郎兵衛は、次にお屋敷へ帰らせて頂くとき、梅次郎を同伴しなかったところ、教祖は、『梅次郎さんは、どうしました。道切れるで』と仰せられた。このお言葉を頂いてから、梅次郎は、毎度、父母に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いた、という」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「126、講社のめどに」。
 「明治16年11月(陰暦10月)、御休息所が落成し、教祖は、11.25日(陰暦10.26日)の真夜中にお移り下されたので、梅谷四郎兵衞は道具も片付け、明日は大阪へかえろうと思って、26日夜、小二階で床についた。すると、仲田儀三郎が、緋縮緬の半襦袢を三宝に載せて、この間中は御苦労であった。教祖は、『これを明心組の講社のめどに』下さる、とのお言葉であるから有難く頂戴するように、とのことである。すると間もなく、山本利三郎が、赤衣を恭々しく捧げて、『これは着古しやけれど、子供等の着物にでも、仕立て直してやってくれ』との教祖のお言葉であると唐縮緬の単衣を差し出した。重ね重ねの面目に、結構な事じゃ、ああ忝ない、と手を出して頂戴しようとしたところで目が覚めた。それは夢であった。こうなると目が冴えて再び眠ることが出来ない。とかくするうちに夜も明けた。身仕度をし、朝食も頂いて休憩していると、仲田が赤衣を捧げてやって来た。『これは明心組の講社のめどに』下さる、との教祖のお言葉である、と昨夜の夢をそのままに告げた。はて、不思議な事じゃと思いながら、有難く頂戴した。すると、今度は、山本が入って来た。そして、これも昨夜の夢と符節を合わす如く、『着古しじゃけれど子供にやってくれ』、と教祖が仰せ下された、と赤地唐縮緬の単衣を眼前に置いた。それで、有難く頂戴すると、次は、梶本ひさが、上が赤で下が白の五升の重ね餅を持って来て、教祖が、『子供達に上げてくれ』、と仰せられます、と伝えた。四郎兵衞は、教祖の重ね重ねの親心を、心の奥底深く感銘すると共に、昨夜の夢と思い合わせて、全く不思議な親神様のお働きに、いつまでも忘れられない強い感激を覚えた」。
 教祖への思慕の情が如何に強く、深く人々の心を占めていたかを物語る次のような挿話がある。御休息所の建築当時のことであったと云われているので丁度この当時のことであったと思われる。

 梅谷四郎兵衛は明治14年2月に信仰を始めた。入信後まもない頃、教祖直々に「梅谷さん、低いやさしい心になりなされや。人を救けなされや。自分の癖、性分を取りなされや」と優しくお諭し下されていた。生来、四郎兵衛は気の短い方であった。梅谷四郎兵衛は日を追うて信仰の熱度を高めたが、明治15年11月に始まった御休息所の建築が、16年の5月に棟上げが行なわれ、やがて壁塗りの行なわれる頃、入信前から左官職を営んでいたので、身についた職をもって御奉公させて頂きたいと決意し、昼は朝から忙しく大阪で立ち働いて、一日の仕事を終えた後、夜の時間を利用して徒歩でお屋敷に帰り、翌早朝から甲斐甲斐しく御休息所の壁塗りひのきしんに精を出すという、まさに夜を日に次いでの大活躍をしていた。

 どこにも心を磨く砥石はあるものである。誰が言ったのか、梅谷の仕事をしている姿を指しながら、「あれ、見てみなされ。大阪の食い詰め左官が大和三界までやって来て、のらりくらりと仕事をしておりますわい」というような陰口を囁く者があった。これが本人の耳に入ったのだからたまらない。如何に信仰があるとはいえ、一生懸命に真実を傾け尽くしていただけに、思いも寄らぬ悪口は痛く梅谷の心をかき乱した。それが、他所でもない神の館と信ずるお屋敷での出来事であっただけに、ひとしお大きな衝撃を与えられる結果となった。抑えようのない激しい憤りから、二度とこんなところへ来るものかと梅谷は覚悟を決めた。けれども、売り言葉に買い言葉で、その場で直ちに激しい言葉の応酬をやり、捨てせりふを残して、その場を立ち去るような、はしたないことは、さすがに信仰者としての梅谷の人格が許さなかった。そしてその夜、人々の寝静まるのを待って、ひそかに荷物を取りまとめ、お屋敷の門を出た。

 丁度その当時は、まだ御休息所は完成 しておらず、中南の門屋、すなわち中南の門に続く西側のお部屋が、教祖の御住居であった。従って、門をでて西に向かう人は、当然教祖のお部屋の軒を通らなければならないようになっていた。梅谷が足音を忍ばせつつお部屋の軒下にさしかかった時、お部屋の中からコホンと一つ、咳を為さる声が聞こえてきた。そのお声が梅谷の耳に届いた瞬間、梅谷の足はその場に立ち竦んで、前に進めることができなくなった。それと同時に、梅谷の胸中には、激しい反省の心が突き上げてきた。自分は今、昼間のことに腹をすえかねて、お屋敷を逃げ出そうとしているが、こんな去り方をすれば再びここには戻れない。もとより二度と足を向けないと心に決めた上での行動ではあったが、そんなことをしてしまえば、もう二度と、あのお懐かしい教祖に御目にかかることができなくなってしまうのだと。思いがここに及んだ時、教祖への思慕の情が、胸元に込み上げてきて、昼間の意地も腹立ちも、何時しかどこかへ消えてしまった。こうなると、もう足は、一歩も前へ進むどころか、無意識の中に元の方向へそろそろと引 き返していた。そして、再びお屋敷の門をくぐり、人に気づかれぬように夜具の中へもぐり込んだ。

 翌朝、起き出て見ると、「四郎兵衛さん」と教祖の御呼びがある。おっかなびっくりで、教祖の御前に出ると次のようなお諭しがあった。
 「四郎兵衛さん、人がめどうか、神がめどうか。信心というものはなあ、長ぁい思案と、深ぁい心でするのやで」。

 あの晩、もしも教祖のお咳が聞 こえなかったら、また、翌朝あのお諭しを頂かなかったら、短慮な自分はどうなっていたかわからないと、梅谷が述懐していたと云う。これは梅谷の次男、喜多秀太郎から聞いた話である。教祖のお咳一つを聞いただけで、意地も憤怒も、一度に雲散霧消して、ただ、教祖なつかしさの気持で胸が一杯になってしまう。ひながたの親として、日夜限りない親心で人々をいつくしみ、お連れ通り下された教祖の 親心が、これほどまでに力強く、信仰者たちの心の奥深くに影響をお与えくだされたのである。

 また、月日の社として、いかなる人々の心底をも見抜き見透され、その人の心の動きを、掌を指すような正確さでご指摘下され、お諭し下されるお仕込みは、その人の生涯をも動かす力をもって、聞 く人たちの心にくいこんでいった。かくて、人々は、教祖のひな形に習い教えに従って通らせて頂くことに至上の喜びを感じ、何ものをもってして も動かすことのできない心の安らぎを覚えた。

 教祖にお目にかかり、その 教えを受ける為には、どんな苦労も厭わなかった。それを果たす為には、 警察官憲の迫害干渉も、世人の嘲笑も、何等意に介するところではなかった。教祖にお喜び頂けることなら、困難も苦労も、かえって不思議な喜びとなり、万難を排して進もうとする勇気を与えられた。こうして、人々の信仰は教祖中心に、教祖目標に進められていったから、めいめいの苦労や 困難は物の数ではなく、かえって喜びでさえあったが、そのかわり、教祖に御苦労をおかけすることだけは、何とも申し訳のないかぎりであり、この上もない心配の種となった。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「123、人がめどか」。
 「教祖は、入信後間もない梅谷四郎兵衛に、『やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや』、とお諭し下された。生来、四郎兵衛は気の短い方であった。明治16年、折りから普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、大阪の食い詰め左官が大和三界まで仕事に来て、との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜ひそかに荷物を取りまとめて大阪へもどろうとした。足音をしのばせて中南の門屋を出ようとした時、教祖の咳払いが聞こえた。あ、教祖が、と思ったとたんに足は止まり、腹立ちも消え去ってしまった。翌朝、お屋敷の人々と共に、御飯を頂戴しているところへ、教祖がお出ましになり、『四郎兵衛さん、人がめどか神がめどか、神がめどやで』、と仰せ下された」。
 梅谷四郎兵衛の孫の梅谷忠雄の講話「」は次の通り。(みちのだい教話第一集、おやの思い活かす道 梅谷忠雄)
 「話は明治16年の昔に遡(さかのぼ)りますが、教祖の御休息所を建築させて頂くことになり、ご本席様が建築の責任をとられ、私の祖父は、この建物の壁を塗らせて頂くことになったのであります。そこで、ご本席様と打ち合わせて、いついつかに来るからと固く約束して、その日に祖父は大阪から十余里もある十三峠を道具箱を肩に、はるばるお屋敷へやって来ましたところが、まだ建築の方が進んでおりません。そこで再度お屋敷へ参りましたところ、やっぱりでき上がっておりませんので、やむなく再度、登参の日を約束して空しく大阪へ戻り、後日三度目にやっと左官仕事に取りかかれたのであります。そのあいだ祖父は、一言半句の不足不満さえ申さなかったのでありますが、仕事のためにお屋敷帰在中のある時、ある人が、梅谷さんは大阪で職にあぶれているのや。あぶれているからこそ大和三界まで飯を食いに来ているのや、と本人を前にして露骨に申されたのですから、元来腹立ちの祖父は、とうとう辛うじて抑えられていた癇癪玉(かんしゃくだま)を破裂させたのであります。だがあいにく夕食時の事で、茶漬け飯をかき込もうしている最中だったものですから、何くそっと言おうとした声をお茶漬けと共に飲み込んでしまったのです。ポロポロとあふれ落ちる涙さえも、そのご飯と一緒に喉の奥深く飲み込んでしまったのであります。よっしゃ、そんなにまで言われてここに居れるかい。もうこんな所へ二度と来るかい。祖父は憤りの心を抑えようもなく、その夜早速、帰阪の準備を急ぎました。

  祖父のことを私から申し上げるのは恐縮でありますが、祖父は左官は左官でも普通の左官ではなく、十四代も続いて、多くの内弟子まで抱えていた棟梁(とうりょう)なのであります。小さい時から御茶、御花、謡曲なども仕込まれてきております。私の宅にも祖父の用いていました謡曲本の「猩々(しょうじょう/オランウータン)」や「狸」など残っておりますが、なぜそんな、おおよそ左官らしくもない習い事をしたかと申しますと、大家(たいか/資産家)へ出入りしていた関係上、常に大家の人達の相談にのらねばならない。この床にはどんな塗りを、この床にはどんな軸を、というような事まで知っていねばなりません。したがって華道の方も奥伝までとっております。こういう風でありますので、ありふれた左官同様の扱いどころか、聞くに耐えぬ罵言を露骨に聞かされたものですから、立ててはならぬ腹を立てるのも無理ならぬ事であったろうと思われます。

 さて祖父はその夜中遅く道具箱を肩に、ぬき足さし足にて教祖のお寝みになっておられる中南の門の脇を通ってくぐり、足を運ばせて行きましたところが突然中から『ゴホン、ゴホン』と咳払いの声が二声三声聞こえて参りました。いうまでもなく、これは教祖のお咳払いだったのであります。祖父はこのお咳払いの声を聞くや、そのまま足が釘づけにされてしまいました。ああ申し訳ない。教祖がおいでになる。わしは教祖のおいでになることを忘れていた。教祖に救けて頂いた御恩を忘れて、腹立ち紛れにこのお屋敷を抜け出すとは何としたことか、と深い反省心が湧いてきたのであります。心を取り直して静かに、祖父は何気ない風で、寝床にお詫びの一夜を明かしたのでございます。翌朝、目を覚まして教祖にお目通り致しましたところ、『四郎兵衛さん。このお道は人(にん)がめどうか、人がめどうか、神さんめどうだっせ』、と教祖がやさしくお諭し下さったのであります。何にもご存知ないと思っていた教祖は『腹立ての梅谷』を矯(た)め直してやりたさに、このような試練の場を通してお仕込み下さったのであると悟り、かつ私は今も、この教祖のお咳払いがあったればこそ今日の私の家があり、船場大教会があるのだという事をつくづく考えては、感涙にむせぶのであります。もしあの時、教祖のお咳払いが祖父の耳に入らなかったら、今の私はどうであろう。ほら来た、よし来た、そこ塗れ、そこ塗れ、という調子で今ごろ盛んに塗っているかも知れません。あるいは左官の走り遣いくらいのものかも知れません。『梅谷さん、低いやさしい心になりなされや。人様を救けなされや。自分の癖性分を取りなされや』と、祖父の顔を見ては優しくお諭し下さった、教祖の見抜き見透しの思召に私は常に感じ入っては、今日の幸福を感謝申し上げているのでございます」。
 高井、宮森、井筒、立花
 稿本天理教教祖伝逸話篇「119、遠方から子供が」。
 「明治16年4、5月頃(陰暦3月)のある日、一人の信者が餅を供えに来た。それで、お側の者が、これを教祖のお目にかけると、教祖は、『今日は遠方から帰って来る子供があるから、それに分けてやっておくれ』と仰せられた。お側の人々は、一体誰が帰って来るのだろうか、と思いながら、お言葉通りに、その餅を残して置いた。すると、その日の夕方になって、遠州へ布教に行っていた高井、宮森、井筒、立花の四人が帰って来た。しかも、話を聞くと、この四人は、その日の昼頃、伊賀上野へ着いたので、中食にしようか、とも思ったが、少しでも早くおぢばへ帰らせて頂こうと、辛抱して来たので、足の疲れもさる事ながら、お腹は、たまらなく空いていた。この四人が、教祖の親心こもるお餅を頂いて、有難涙にむせんだのは言うまでもない」。
 山田伊八郎、とその妻こいそ
 稿本天理教教祖伝逸話篇「121、いとに着物を」。
 「明治16年6月初(陰暦4月末)、山田伊八郎、とその妻こいそは、長女いくゑを連れて、いくゑ誕生満一年のお礼詣りに、お屋敷へ帰らせて頂いた。すると、教祖は大層お喜び下され、この時、『いとに着物をして上げておくれ』、と仰せられ赤衣を一着賜わった。これを頂いてかえって、こいそは、6月の末(陰暦5月下旬)に、その赤衣の両袖を外して、いくゑの着物の肩布と袖と紐にして仕立て、その着初めに、又、お屋敷へお礼詣りをさせて頂いた。その日は、村田長平が、藁葺きの家を建てて、豆腐屋をはじめてから三日目であった。教祖は、『一度、豆腐屋の井戸を見に行こうと思うておれど、一人で行くわけにも行かず、倉橋のいとでも来てくれたらと思うていましたが、ちょうど思う通り来て下されて』、と仰せられ、いくゑを背負うて井戸を見においでになった。教祖は、大人だけでなく、いつ、どこの子供にでも、このように丁寧に仰せになったのである。そして、帰って来られると、『お蔭で、見せてもろうて来ました』、と仰せられた。この赤衣の胴は、おめどとしてお社にお祀りさせて頂いたのである」。
 桝井伊三郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「122、理さえあるならば」。
 「明治16年夏、大和一帯は大旱魃であった。桝井伊三郎は、未だ伊豆七条村で百姓をしていたが、連日お屋敷へ詰めて、百姓仕事のお手伝いをしていた。すると、家から使いが来て、村では田の水かいで忙しいことや。村中一人残らず出ているのに伊三郎さんは一寸も見えん、と言うて喧しいことや。一寸かえって来て顔を見せてもらいたい、と言うて呼びに来た。伊三郎はかねてから、我が田はどうなっても構わんと覚悟していたので、せっかくやがかえられん、とアッサリ返事して使いの者をかえした。が、その後で思案した。この大旱魃に、お屋敷へたとい一杯の水でも入れさせてもらえば、こんな結構なことはない、と自分は満足している。しかし、そのために、隣近所の者に不足さしていては申し訳ない、と。そこで、ああ言うて返事はしたが一度顔を見せて来よう、と思い定め、教祖の御前へ御挨拶のために参上した。すると、教祖は、『上から雨が降らいでも、理さえあるならば、下からでも水気を上げてやろう』とお言葉を下された。こうして、村へもどってみると、村中は、野井戸の水かいで、昼夜兼行の大騒動である。伊三郎は、女房のおさめと共に田へ出て、夜おそくまで水かいをした。しかし、その水は、一滴も我が田へは入れず、人様の田ばかりへ入れた。そしておさめは、かんろだいの近くの水溜まりから、水を頂いて、それに我が家の水をまぜて、朝夕一度ずつ、日に二度、藁しべで我が田の周囲へ置いて廻わった。こうして数日後、夜の明け切らぬうちに、おさめが、我が田は、どうなっているかと、見廻わりに行くと、不思議なことには、水一杯入れた覚えのない我が田一面に、地中から水気が浮き上がっていた。おさめは、改めて、教祖のお言葉を思い出し、成る程仰せ通り間違いはない、と深く心に感銘した。その年の秋は村中は不作であったのに、桝井の家では段(反)に一石六斗という収穫をお与え頂いたのである」。
 梶本ひさ
 稿本天理教教祖伝逸話篇「124、鉋屑の紐」。
 「明治16年、御休息所普請中のこと。梶本ひさは、夜々に教祖から裁縫を教えて頂いていた。ある夜、一寸角程の小布を縫い合わせて、袋を作ることをお教え頂いて、袋が出来たが、さて、この袋に通す紐がない。どうしようか、と思っていると、教祖は、『おひさや、あの鉋屑を取っておいで』と仰せられたので、その鉋屑を拾うて来ると、教祖は、早速、器用に、それを三つ組の紐に編んで袋の口にお通し下された。教祖は、こういう巾着を持って、櫟本の梶本の家へチョイチョイお越しになった。その度に、家の子にも、近所の子にもやるように、お菓子を袋に入れて持って来て下さる。その巾着の端布には、赤いのも、黄色いのもあった。そして、その紐は鉋屑で、それも、三つ組もあり、スーッと紙のように薄く削った鉋屑を、コヨリにして紐にしたものもあった」。
 中山コヨシ
 稿本天理教教祖伝逸話篇「125、先が見えんのや」。
 「明治16年8.27日、コヨシは中山重吉と結婚した。結婚後まもなく、夫重吉のお人好しを頼りなく思い、生家へかえろうと決心した途端、目が見えなくなった。それで、飯降おさとを通して伺うてもらうと、教祖は、『コヨシはなあ、先が見えんのや。そこを、よう諭してやっておくれ』とお言葉を下された。これを承って、コヨシは、申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫びした途端に、目が又元通りハッキリ見えるようになった」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「127、東京々々、長崎」。
 「明治16年秋、上原佐助は、おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いた。この時はからずも、教祖から、『東京々々、長崎』というお言葉を頂き、赤衣を頂戴した。この感激から、深く決意するところがあって、後日、佐助は家をたたんで、単身、赤衣を奉戴して、東京布教に出発したのである」。
 今川聖次郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「129、花疥癬のおたすけ」。
 「明治16年、今川聖次郎の長女ヤス9才の時、疥癬にかかり、しかも花疥癬と言うて膿をもつものであった。親に連れられておぢばへ帰り、教祖の御前に出さして頂いたら、『こっちへおいで』と仰った。恐る恐る御前に進むと、『もっとこっち、もっとこっち』と仰るのでとうとうお膝元まで進まして頂いたら、お口でご自分のお手をお湿しになり、そのお手で全身を、『なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと』と三回お撫で下され、続いてまた三度また三度とお撫で下された。ヤスは子供心にももったいなくてもったいなくて、胴身に沁みた。翌日起きてみたらこれは不思議、さしもの疥癬も後形もなく治ってしまっていた。ヤスは子供心にも、本当に不思議な神様や、と思った。ヤスのこんな汚いものを、少しもおいといなさらない大きなお慈悲に対する感激は、成長するに従いますます強まり、用木としてご用を勤めさして頂く上に、いつも心に思い浮かべて何でも教祖のお慈悲にお応えさして頂けるようにと思って、生涯ようぼくとして勤めさして頂いたという」。
 高井直吉
 稿本天理教教祖伝逸話篇「130、小さな埃は」。
 「明治16年頃のこと。教祖からご命を頂いて、当時二十代の高井直吉は、お屋敷から南三里ほどの所へ、お助けに出させていただいた。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、わしはな、未だかって悪いことをした覚えはないのや、と剣もほろろに喰ってかかってきた。高井は、私は未だそのことについて教祖に何も聞かせた頂いておりませんので、今すぐ帰って教祖にお伺いしてまいります、と言って、三里の道を走って帰って教祖にお伺いをした。すると教祖は、『それはな、どんな新建の家でもな、しかも中に入るらんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書けるほどの埃が積のやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やたら目につくよってに掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに放っておくやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり』と仰せ下された。高井は、有り難うございました、とお礼申し上げ、すぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、ただ今こういうように聞かせていただきました、とお取り次ぎした。すると先方は、よくわかりました。悪いこと言ってすまなんだ、と詫びを入れてそれから信心するようになり、身上の患いはすっきりと御守護いただいた」。
 高井直吉、宮森与三郎との力比べ
 稿本・天理教祖伝逸話篇「131、神の方には」。
 「教祖は、お屋敷に勤めている高井直吉や宮森与三郎などの若い者に、『力試しをしよう』と仰せられ、ご自分の腕を、 『力限り押さえてみよ』と仰せられた。けれども、どうしても押さえきることができないばかりか、教祖が、少し力を入れて、こちらの腕をお握りになると、腕がしびれて、力が抜けてしまう。すると、 『神の方には倍の力や』と仰せになった。又、『こんなこと出来るかえ』と仰せになって、人差し指と小指で、こちらの手の甲の皮を、おつまみ上げになると、非常に痛くて、その跡は、色が青く変わるくらい力が入っていた。 又、背中の真ん中で、胸で手を合わすように、正しく合掌なさったこともあった。これは、宮森の思い出話である」。
 孫のたまへと、二つ年下の曽孫のモト
 稿本天理教教祖伝逸話篇「134、思い出」。
 「明治16、7年頃のこと。孫のたまへと、二つ年下の曽孫のモトの二人で、お祖母ちゃん、およつおくれ、と言うてせがみに行くと、教祖は、お手を眉のあたりにかざして、こちらをごらんになりながら、『ああ、たまさんとオモトか、一寸待ちや』と仰っしゃって、お坐りになっている背後の袋戸棚から出して、二人の掌に載せて下さるのが、いつも金米糖であった。又、ある日のこと、例によって二人で遊びに行くと、教祖は、『たまさんとオモトと、二人おいで。さあ負うたろ』と仰せになって、二人一しょに教祖の背中におんぶして下さった。二人は、子供心に、お祖母ちゃん、力あるなあ、と感心したという」。

 註 この頃、たまへは7、8才。モトは5、6才であった。およつは、午前十時頃。午後二時頃のおやつと共に、子供がお菓子などをもらう時刻。それから、お菓子そのものをも言う。
 飯降伊蔵
 この頃の逸話証言「もてなしのお諭し」。
 「ある夜、教祖は伊蔵に向かって次のように仰せられた、と伝えられている。『先になったらなぁ、国々所々からこのぢばへ元の親里やというて帰って来る大勢の子供には皆な言葉を掛けて満足させることができんから、人々へは皆なよう帰ったなぁ帰ったなぁと親切に云うて心から取り持って、何もご馳走することいらんから気楽に薮入りさせてやっておくれ。暑い時には何なくとも人の喜ぶ冷たいもので、冬は火の一つも起こして心からのご馳走をしてやって下されや』」。
【この頃の逸話/○○氏の一人相撲譚】
 「神明派講元○○平四郎さんの失敗談」(昭和43年4月発行「史料掛報」第131号「おぢば参謁記(十)」白藤義治郎より)。
 「○○平四郎氏は、その結講前後からして、よく大和の御地場へ参詣して、御教祖に御目に掛って居た。その頃(明治16年頃)の御教祖は、先に富田伝次郎氏の御地場参詣の記事にも記した様に、参詣して来る信者達に、『御息の紙』や、『おりきもつ』(麦粉に太白(精製した純白の砂糖)を入れたもの)を下されて居た。人々はそれを持ち帰って、病人があるとそれを頂かせた。するとどんな大病人でも不思議に助かって行った。思うに御教祖の長年の御苦労の理、御徳の理が、その者に働いて、かような珍しい御利益となったものであろう。○○氏もまた当時の信者の一人として、御地場に処々参詣する毎に、その『御息の紙』や、『おりきもつ』を頂いて帰って居た。そうしてそれによって、多くの人々の難病を助かって貰って居たのであった。○○氏が早くその結講当初に、どんな病気でも直す人として全神戸区から評判されたのも、畢竟(つまるところ、結局)その御教祖の御徳の理によってであったのである。然るにそうした理合に充分の理解のなかった彼れ○○氏は、助かった人々の神様へとの御礼の金品を、処々御地場へ御届けして居たが、何日もそれを御受けになる御教祖が、その氏の労をねぎらわれて、『これは当座の路銀やで』と言って下さる分量が、氏の持参する金品の多寡によらず、いつも同じであったところから、ふと不満を感じ出した○○氏は、その後は、先ず持参するに先だって我が欲するだけを着服し、その余を御届けする様になった。然るにそれより後は、先の日の珍しい霊験は漸次薄らぎ始めて、やがてその『御息の紙』や、『おりきもつ』が、その働きを為さぬ様になって行った。その為に、○○氏は自ら恥かしいと云う自責の念で、御地場へ帰って、御教祖に御目に掛れぬ様になって来た。然しながら、氏が一度得たる評判は、尚多数の人々をして、その『おりきもつ』などを頂きに来らしめた。その一方には、氏の豊かならぬ家計の逼迫(ひっぱく)の事情もあって、遂に自ら『おりきもつ』などを拵えて配らねばならぬ様になった。その結果が、全く霊験その跡を断って、返って同志の教人達の悪評を買い、にっちもさっちも行かなくなって、前記、唄(ばい)こふじ女の語の如く、『本部へ願い出て、赤衣を取払って、阪倉佐助氏へ納付せしめ、○○氏は、それっきり信仰を止めてしまった』と云う結果となったのである」。

 この頃、真之亮が、教祖に「京学」をしたいと願い、教祖は次のように仰せになられている。(「真之亮の「京学願い」に対する教祖の仰せ」)

 「私も連れて行け。そうしたら、何処え行きても宜し」。
 「真之亮が京学するのなら、さあさあ私も玉さんも一緒に行きましょう」。

 こう仰せになられたので、沙汰止みとなった。



 (当時の国内社会事情)

 この年、鹿鳴館開館。日本銀行が開行する。7.20日岩倉具視他界(59歳)。井上哲次郎『倫理新説』。


 (宗教界の動き)
 教会・講社結集、説教所設置条件緩和される。
 金光教の教祖川手文治郎死去。
 大和干ばつで、石上神宮で雨乞い。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)
 カール・マルクス没(享年)。





(私論.私見)