【この頃の逸話】 |
梅谷四郎兵衛 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「117、父母に連れられて」。
「明治15,6年頃のこと。梅谷四郎兵衛が、当時5,6才の梅次郎を連れて、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、梅次郎は、赤衣を召された教祖にお目にかかって、当時煙草屋の看板に描いていた姫達磨を思い出したものか、達磨はん、達磨はん、と言った。それに恐縮した四郎兵衛は、次にお屋敷へ帰らせて頂くとき、梅次郎を同伴しなかったところ、教祖は、『梅次郎さんは、どうしました。道切れるで』と仰せられた。このお言葉を頂いてから、梅次郎は、毎度、父母に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いた、という」。 |
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稿本天理教教祖伝逸話篇「126、講社のめどに」。
「明治16年11月(陰暦10月)、御休息所が落成し、教祖は、11.25日(陰暦10.26日)の真夜中にお移り下されたので、梅谷四郎兵衞は道具も片付け、明日は大阪へかえろうと思って、26日夜、小二階で床についた。すると、仲田儀三郎が、緋縮緬の半襦袢を三宝に載せて、この間中は御苦労であった。教祖は、『これを明心組の講社のめどに』下さる、とのお言葉であるから有難く頂戴するように、とのことである。すると間もなく、山本利三郎が、赤衣を恭々しく捧げて、『これは着古しやけれど、子供等の着物にでも、仕立て直してやってくれ』との教祖のお言葉であると唐縮緬の単衣を差し出した。重ね重ねの面目に、結構な事じゃ、ああ忝ない、と手を出して頂戴しようとしたところで目が覚めた。それは夢であった。こうなると目が冴えて再び眠ることが出来ない。とかくするうちに夜も明けた。身仕度をし、朝食も頂いて休憩していると、仲田が赤衣を捧げてやって来た。『これは明心組の講社のめどに』下さる、との教祖のお言葉である、と昨夜の夢をそのままに告げた。はて、不思議な事じゃと思いながら、有難く頂戴した。すると、今度は、山本が入って来た。そして、これも昨夜の夢と符節を合わす如く、『着古しじゃけれど子供にやってくれ』、と教祖が仰せ下された、と赤地唐縮緬の単衣を眼前に置いた。それで、有難く頂戴すると、次は、梶本ひさが、上が赤で下が白の五升の重ね餅を持って来て、教祖が、『子供達に上げてくれ』、と仰せられます、と伝えた。四郎兵衞は、教祖の重ね重ねの親心を、心の奥底深く感銘すると共に、昨夜の夢と思い合わせて、全く不思議な親神様のお働きに、いつまでも忘れられない強い感激を覚えた」。 |
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教祖への思慕の情が如何に強く、深く人々の心を占めていたかを物語る次のような挿話がある。御休息所の建築当時のことであったと云われているので丁度この当時のことであったと思われる。
梅谷四郎兵衛は明治14年2月に信仰を始めた。入信後まもない頃、教祖直々に「梅谷さん、低いやさしい心になりなされや。人を救けなされや。自分の癖、性分を取りなされや」と優しくお諭し下されていた。生来、四郎兵衛は気の短い方であった。梅谷四郎兵衛は日を追うて信仰の熱度を高めたが、明治15年11月に始まった御休息所の建築が、16年の5月に棟上げが行なわれ、やがて壁塗りの行なわれる頃、入信前から左官職を営んでいたので、身についた職をもって御奉公させて頂きたいと決意し、昼は朝から忙しく大阪で立ち働いて、一日の仕事を終えた後、夜の時間を利用して徒歩でお屋敷に帰り、翌早朝から甲斐甲斐しく御休息所の壁塗りひのきしんに精を出すという、まさに夜を日に次いでの大活躍をしていた。
どこにも心を磨く砥石はあるものである。誰が言ったのか、梅谷の仕事をしている姿を指しながら、「あれ、見てみなされ。大阪の食い詰め左官が大和三界までやって来て、のらりくらりと仕事をしておりますわい」というような陰口を囁く者があった。これが本人の耳に入ったのだからたまらない。如何に信仰があるとはいえ、一生懸命に真実を傾け尽くしていただけに、思いも寄らぬ悪口は痛く梅谷の心をかき乱した。それが、他所でもない神の館と信ずるお屋敷での出来事であっただけに、ひとしお大きな衝撃を与えられる結果となった。抑えようのない激しい憤りから、二度とこんなところへ来るものかと梅谷は覚悟を決めた。けれども、売り言葉に買い言葉で、その場で直ちに激しい言葉の応酬をやり、捨てせりふを残して、その場を立ち去るような、はしたないことは、さすがに信仰者としての梅谷の人格が許さなかった。そしてその夜、人々の寝静まるのを待って、ひそかに荷物を取りまとめ、お屋敷の門を出た。
丁度その当時は、まだ御休息所は完成 しておらず、中南の門屋、すなわち中南の門に続く西側のお部屋が、教祖の御住居であった。従って、門をでて西に向かう人は、当然教祖のお部屋の軒を通らなければならないようになっていた。梅谷が足音を忍ばせつつお部屋の軒下にさしかかった時、お部屋の中からコホンと一つ、咳を為さる声が聞こえてきた。そのお声が梅谷の耳に届いた瞬間、梅谷の足はその場に立ち竦んで、前に進めることができなくなった。それと同時に、梅谷の胸中には、激しい反省の心が突き上げてきた。自分は今、昼間のことに腹をすえかねて、お屋敷を逃げ出そうとしているが、こんな去り方をすれば再びここには戻れない。もとより二度と足を向けないと心に決めた上での行動ではあったが、そんなことをしてしまえば、もう二度と、あのお懐かしい教祖に御目にかかることができなくなってしまうのだと。思いがここに及んだ時、教祖への思慕の情が、胸元に込み上げてきて、昼間の意地も腹立ちも、何時しかどこかへ消えてしまった。こうなると、もう足は、一歩も前へ進むどころか、無意識の中に元の方向へそろそろと引
き返していた。そして、再びお屋敷の門をくぐり、人に気づかれぬように夜具の中へもぐり込んだ。
翌朝、起き出て見ると、「四郎兵衛さん」と教祖の御呼びがある。おっかなびっくりで、教祖の御前に出ると次のようなお諭しがあった。
「四郎兵衛さん、人がめどうか、神がめどうか。信心というものはなあ、長ぁい思案と、深ぁい心でするのやで」。 |
あの晩、もしも教祖のお咳が聞 こえなかったら、また、翌朝あのお諭しを頂かなかったら、短慮な自分はどうなっていたかわからないと、梅谷が述懐していたと云う。これは梅谷の次男、喜多秀太郎から聞いた話である。教祖のお咳一つを聞いただけで、意地も憤怒も、一度に雲散霧消して、ただ、教祖なつかしさの気持で胸が一杯になってしまう。ひながたの親として、日夜限りない親心で人々をいつくしみ、お連れ通り下された教祖の
親心が、これほどまでに力強く、信仰者たちの心の奥深くに影響をお与えくだされたのである。
また、月日の社として、いかなる人々の心底をも見抜き見透され、その人の心の動きを、掌を指すような正確さでご指摘下され、お諭し下されるお仕込みは、その人の生涯をも動かす力をもって、聞
く人たちの心にくいこんでいった。かくて、人々は、教祖のひな形に習い教えに従って通らせて頂くことに至上の喜びを感じ、何ものをもってして も動かすことのできない心の安らぎを覚えた。
教祖にお目にかかり、その 教えを受ける為には、どんな苦労も厭わなかった。それを果たす為には、 警察官憲の迫害干渉も、世人の嘲笑も、何等意に介するところではなかった。教祖にお喜び頂けることなら、困難も苦労も、かえって不思議な喜びとなり、万難を排して進もうとする勇気を与えられた。こうして、人々の信仰は教祖中心に、教祖目標に進められていったから、めいめいの苦労や 困難は物の数ではなく、かえって喜びでさえあったが、そのかわり、教祖に御苦労をおかけすることだけは、何とも申し訳のないかぎりであり、この上もない心配の種となった。 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「123、人がめどか」。
「教祖は、入信後間もない梅谷四郎兵衛に、『やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや』、とお諭し下された。生来、四郎兵衛は気の短い方であった。明治16年、折りから普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、大阪の食い詰め左官が大和三界まで仕事に来て、との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜ひそかに荷物を取りまとめて大阪へもどろうとした。足音をしのばせて中南の門屋を出ようとした時、教祖の咳払いが聞こえた。あ、教祖が、と思ったとたんに足は止まり、腹立ちも消え去ってしまった。翌朝、お屋敷の人々と共に、御飯を頂戴しているところへ、教祖がお出ましになり、『四郎兵衛さん、人がめどか神がめどか、神がめどやで』、と仰せ下された」。 |
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梅谷四郎兵衛の孫の梅谷忠雄の講話「人がめどうか、神さんめどうだっせ」は次の通り。(みちのだい教話第一集、おやの思い活かす道 梅谷忠雄)
「話は明治16年の昔に遡(さかのぼ)りますが、教祖の御休息所を建築させて頂くことになり、ご本席様が建築の責任をとられ、私の祖父は、この建物の壁を塗らせて頂くことになったのであります。そこで、ご本席様と打ち合わせて、いついつかに来るからと固く約束して、その日に祖父は大阪から十余里もある十三峠を道具箱を肩に、はるばるお屋敷へやって来ましたところが、まだ建築の方が進んでおりません。そこで再度お屋敷へ参りましたところ、やっぱりでき上がっておりませんので、やむなく再度、登参の日を約束して空しく大阪へ戻り、後日三度目にやっと左官仕事に取りかかれたのであります。そのあいだ祖父は、一言半句の不足不満さえ申さなかったのでありますが、仕事のためにお屋敷帰在中のある時、ある人が、梅谷さんは大阪で職にあぶれているのや。あぶれているからこそ大和三界まで飯を食いに来ているのや、と本人を前にして露骨に申されたのですから、元来腹立ちの祖父は、とうとう辛うじて抑えられていた癇癪玉(かんしゃくだま)を破裂させたのであります。だがあいにく夕食時の事で、茶漬け飯をかき込もうしている最中だったものですから、何くそっと言おうとした声をお茶漬けと共に飲み込んでしまったのです。ポロポロとあふれ落ちる涙さえも、そのご飯と一緒に喉の奥深く飲み込んでしまったのであります。よっしゃ、そんなにまで言われてここに居れるかい。もうこんな所へ二度と来るかい。祖父は憤りの心を抑えようもなく、その夜早速、帰阪の準備を急ぎました。
祖父のことを私から申し上げるのは恐縮でありますが、祖父は左官は左官でも普通の左官ではなく、十四代も続いて、多くの内弟子まで抱えていた棟梁(とうりょう)なのであります。小さい時から御茶、御花、謡曲なども仕込まれてきております。私の宅にも祖父の用いていました謡曲本の「猩々(しょうじょう/オランウータン)」や「狸」など残っておりますが、なぜそんな、おおよそ左官らしくもない習い事をしたかと申しますと、大家(たいか/資産家)へ出入りしていた関係上、常に大家の人達の相談にのらねばならない。この床にはどんな塗りを、この床にはどんな軸を、というような事まで知っていねばなりません。したがって華道の方も奥伝までとっております。こういう風でありますので、ありふれた左官同様の扱いどころか、聞くに耐えぬ罵言を露骨に聞かされたものですから、立ててはならぬ腹を立てるのも無理ならぬ事であったろうと思われます。
さて祖父はその夜中遅く道具箱を肩に、ぬき足さし足にて教祖のお寝みになっておられる中南の門の脇を通ってくぐり、足を運ばせて行きましたところが突然中から『ゴホン、ゴホン』と咳払いの声が二声三声聞こえて参りました。いうまでもなく、これは教祖のお咳払いだったのであります。祖父はこのお咳払いの声を聞くや、そのまま足が釘づけにされてしまいました。ああ申し訳ない。教祖がおいでになる。わしは教祖のおいでになることを忘れていた。教祖に救けて頂いた御恩を忘れて、腹立ち紛れにこのお屋敷を抜け出すとは何としたことか、と深い反省心が湧いてきたのであります。心を取り直して静かに、祖父は何気ない風で、寝床にお詫びの一夜を明かしたのでございます。翌朝、目を覚まして教祖にお目通り致しましたところ、『四郎兵衛さん。このお道は人(にん)がめどうか、人がめどうか、神さんめどうだっせ』、と教祖がやさしくお諭し下さったのであります。何にもご存知ないと思っていた教祖は『腹立ての梅谷』を矯(た)め直してやりたさに、このような試練の場を通してお仕込み下さったのであると悟り、かつ私は今も、この教祖のお咳払いがあったればこそ今日の私の家があり、船場大教会があるのだという事をつくづく考えては、感涙にむせぶのであります。もしあの時、教祖のお咳払いが祖父の耳に入らなかったら、今の私はどうであろう。ほら来た、よし来た、そこ塗れ、そこ塗れ、という調子で今ごろ盛んに塗っているかも知れません。あるいは左官の走り遣いくらいのものかも知れません。『梅谷さん、低いやさしい心になりなされや。人様を救けなされや。自分の癖性分を取りなされや』と、祖父の顔を見ては優しくお諭し下さった、教祖の見抜き見透しの思召に私は常に感じ入っては、今日の幸福を感謝申し上げているのでございます」。
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高井、宮森、井筒、立花 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「119、遠方から子供が」。
「明治16年4、5月頃(陰暦3月)のある日、一人の信者が餅を供えに来た。それで、お側の者が、これを教祖のお目にかけると、教祖は、『今日は遠方から帰って来る子供があるから、それに分けてやっておくれ』と仰せられた。お側の人々は、一体誰が帰って来るのだろうか、と思いながら、お言葉通りに、その餅を残して置いた。すると、その日の夕方になって、遠州へ布教に行っていた高井、宮森、井筒、立花の四人が帰って来た。しかも、話を聞くと、この四人は、その日の昼頃、伊賀上野へ着いたので、中食にしようか、とも思ったが、少しでも早くおぢばへ帰らせて頂こうと、辛抱して来たので、足の疲れもさる事ながら、お腹は、たまらなく空いていた。この四人が、教祖の親心こもるお餅を頂いて、有難涙にむせんだのは言うまでもない」。 |
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山田伊八郎、とその妻こいそ |
稿本天理教教祖伝逸話篇「121、いとに着物を」。
「明治16年6月初(陰暦4月末)、山田伊八郎、とその妻こいそは、長女いくゑを連れて、いくゑ誕生満一年のお礼詣りに、お屋敷へ帰らせて頂いた。すると、教祖は大層お喜び下され、この時、『いとに着物をして上げておくれ』、と仰せられ赤衣を一着賜わった。これを頂いてかえって、こいそは、6月の末(陰暦5月下旬)に、その赤衣の両袖を外して、いくゑの着物の肩布と袖と紐にして仕立て、その着初めに、又、お屋敷へお礼詣りをさせて頂いた。その日は、村田長平が、藁葺きの家を建てて、豆腐屋をはじめてから三日目であった。教祖は、『一度、豆腐屋の井戸を見に行こうと思うておれど、一人で行くわけにも行かず、倉橋のいとでも来てくれたらと思うていましたが、ちょうど思う通り来て下されて』、と仰せられ、いくゑを背負うて井戸を見においでになった。教祖は、大人だけでなく、いつ、どこの子供にでも、このように丁寧に仰せになったのである。そして、帰って来られると、『お蔭で、見せてもろうて来ました』、と仰せられた。この赤衣の胴は、おめどとしてお社にお祀りさせて頂いたのである」。 |
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桝井伊三郎 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「122、理さえあるならば」。
「明治16年夏、大和一帯は大旱魃であった。桝井伊三郎は、未だ伊豆七条村で百姓をしていたが、連日お屋敷へ詰めて、百姓仕事のお手伝いをしていた。すると、家から使いが来て、村では田の水かいで忙しいことや。村中一人残らず出ているのに伊三郎さんは一寸も見えん、と言うて喧しいことや。一寸かえって来て顔を見せてもらいたい、と言うて呼びに来た。伊三郎はかねてから、我が田はどうなっても構わんと覚悟していたので、せっかくやがかえられん、とアッサリ返事して使いの者をかえした。が、その後で思案した。この大旱魃に、お屋敷へたとい一杯の水でも入れさせてもらえば、こんな結構なことはない、と自分は満足している。しかし、そのために、隣近所の者に不足さしていては申し訳ない、と。そこで、ああ言うて返事はしたが一度顔を見せて来よう、と思い定め、教祖の御前へ御挨拶のために参上した。すると、教祖は、『上から雨が降らいでも、理さえあるならば、下からでも水気を上げてやろう』とお言葉を下された。こうして、村へもどってみると、村中は、野井戸の水かいで、昼夜兼行の大騒動である。伊三郎は、女房のおさめと共に田へ出て、夜おそくまで水かいをした。しかし、その水は、一滴も我が田へは入れず、人様の田ばかりへ入れた。そしておさめは、かんろだいの近くの水溜まりから、水を頂いて、それに我が家の水をまぜて、朝夕一度ずつ、日に二度、藁しべで我が田の周囲へ置いて廻わった。こうして数日後、夜の明け切らぬうちに、おさめが、我が田は、どうなっているかと、見廻わりに行くと、不思議なことには、水一杯入れた覚えのない我が田一面に、地中から水気が浮き上がっていた。おさめは、改めて、教祖のお言葉を思い出し、成る程仰せ通り間違いはない、と深く心に感銘した。その年の秋は村中は不作であったのに、桝井の家では段(反)に一石六斗という収穫をお与え頂いたのである」。 |
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梶本ひさ |
稿本天理教教祖伝逸話篇「124、鉋屑の紐」。
「明治16年、御休息所普請中のこと。梶本ひさは、夜々に教祖から裁縫を教えて頂いていた。ある夜、一寸角程の小布を縫い合わせて、袋を作ることをお教え頂いて、袋が出来たが、さて、この袋に通す紐がない。どうしようか、と思っていると、教祖は、『おひさや、あの鉋屑を取っておいで』と仰せられたので、その鉋屑を拾うて来ると、教祖は、早速、器用に、それを三つ組の紐に編んで袋の口にお通し下された。教祖は、こういう巾着を持って、櫟本の梶本の家へチョイチョイお越しになった。その度に、家の子にも、近所の子にもやるように、お菓子を袋に入れて持って来て下さる。その巾着の端布には、赤いのも、黄色いのもあった。そして、その紐は鉋屑で、それも、三つ組もあり、スーッと紙のように薄く削った鉋屑を、コヨリにして紐にしたものもあった」。 |
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中山コヨシ |
稿本天理教教祖伝逸話篇「125、先が見えんのや」。
「明治16年8.27日、コヨシは中山重吉と結婚した。結婚後まもなく、夫重吉のお人好しを頼りなく思い、生家へかえろうと決心した途端、目が見えなくなった。それで、飯降おさとを通して伺うてもらうと、教祖は、『コヨシはなあ、先が見えんのや。そこを、よう諭してやっておくれ』とお言葉を下された。これを承って、コヨシは、申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫びした途端に、目が又元通りハッキリ見えるようになった」。 |
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稿本天理教教祖伝逸話篇「127、東京々々、長崎」。
「明治16年秋、上原佐助は、おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いた。この時はからずも、教祖から、『東京々々、長崎』というお言葉を頂き、赤衣を頂戴した。この感激から、深く決意するところがあって、後日、佐助は家をたたんで、単身、赤衣を奉戴して、東京布教に出発したのである」。 |
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今川聖次郎 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「129、花疥癬のおたすけ」。
「明治16年、今川聖次郎の長女ヤス9才の時、疥癬にかかり、しかも花疥癬と言うて膿をもつものであった。親に連れられておぢばへ帰り、教祖の御前に出さして頂いたら、『こっちへおいで』と仰った。恐る恐る御前に進むと、『もっとこっち、もっとこっち』と仰るのでとうとうお膝元まで進まして頂いたら、お口でご自分のお手をお湿しになり、そのお手で全身を、『なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと』と三回お撫で下され、続いてまた三度また三度とお撫で下された。ヤスは子供心にももったいなくてもったいなくて、胴身に沁みた。翌日起きてみたらこれは不思議、さしもの疥癬も後形もなく治ってしまっていた。ヤスは子供心にも、本当に不思議な神様や、と思った。ヤスのこんな汚いものを、少しもおいといなさらない大きなお慈悲に対する感激は、成長するに従いますます強まり、用木としてご用を勤めさして頂く上に、いつも心に思い浮かべて何でも教祖のお慈悲にお応えさして頂けるようにと思って、生涯ようぼくとして勤めさして頂いたという」。 |
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高井直吉 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「130、小さな埃は」。
「明治16年頃のこと。教祖からご命を頂いて、当時二十代の高井直吉は、お屋敷から南三里ほどの所へ、お助けに出させていただいた。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、わしはな、未だかって悪いことをした覚えはないのや、と剣もほろろに喰ってかかってきた。高井は、私は未だそのことについて教祖に何も聞かせた頂いておりませんので、今すぐ帰って教祖にお伺いしてまいります、と言って、三里の道を走って帰って教祖にお伺いをした。すると教祖は、『それはな、どんな新建の家でもな、しかも中に入るらんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書けるほどの埃が積のやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やたら目につくよってに掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに放っておくやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり』と仰せ下された。高井は、有り難うございました、とお礼申し上げ、すぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、ただ今こういうように聞かせていただきました、とお取り次ぎした。すると先方は、よくわかりました。悪いこと言ってすまなんだ、と詫びを入れてそれから信心するようになり、身上の患いはすっきりと御守護いただいた」。 |
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高井直吉、宮森与三郎との力比べ |
稿本・天理教祖伝逸話篇「131、神の方には」。
「教祖は、お屋敷に勤めている高井直吉や宮森与三郎などの若い者に、『力試しをしよう』と仰せられ、ご自分の腕を、 『力限り押さえてみよ』と仰せられた。けれども、どうしても押さえきることができないばかりか、教祖が、少し力を入れて、こちらの腕をお握りになると、腕がしびれて、力が抜けてしまう。すると、
『神の方には倍の力や』と仰せになった。又、『こんなこと出来るかえ』と仰せになって、人差し指と小指で、こちらの手の甲の皮を、おつまみ上げになると、非常に痛くて、その跡は、色が青く変わるくらい力が入っていた。
又、背中の真ん中で、胸で手を合わすように、正しく合掌なさったこともあった。これは、宮森の思い出話である」。 |
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孫のたまへと、二つ年下の曽孫のモト |
稿本天理教教祖伝逸話篇「134、思い出」。
「明治16、7年頃のこと。孫のたまへと、二つ年下の曽孫のモトの二人で、お祖母ちゃん、およつおくれ、と言うてせがみに行くと、教祖は、お手を眉のあたりにかざして、こちらをごらんになりながら、『ああ、たまさんとオモトか、一寸待ちや』と仰っしゃって、お坐りになっている背後の袋戸棚から出して、二人の掌に載せて下さるのが、いつも金米糖であった。又、ある日のこと、例によって二人で遊びに行くと、教祖は、『たまさんとオモトと、二人おいで。さあ負うたろ』と仰せになって、二人一しょに教祖の背中におんぶして下さった。二人は、子供心に、お祖母ちゃん、力あるなあ、と感心したという」。
註 この頃、たまへは7、8才。モトは5、6才であった。およつは、午前十時頃。午後二時頃のおやつと共に、子供がお菓子などをもらう時刻。それから、お菓子そのものをも言う。 |
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飯降伊蔵 |
この頃の逸話証言「もてなしのお諭し」。
「ある夜、教祖は伊蔵に向かって次のように仰せられた、と伝えられている。『先になったらなぁ、国々所々からこのぢばへ元の親里やというて帰って来る大勢の子供には皆な言葉を掛けて満足させることができんから、人々へは皆なよう帰ったなぁ帰ったなぁと親切に云うて心から取り持って、何もご馳走することいらんから気楽に薮入りさせてやっておくれ。暑い時には何なくとも人の喜ぶ冷たいもので、冬は火の一つも起こして心からのご馳走をしてやって下されや』」。 |
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【この頃の逸話/○○氏の一人相撲譚】 |
「神明派講元○○平四郎さんの失敗談」(昭和43年4月発行「史料掛報」第131号「おぢば参謁記(十)」白藤義治郎より)。
「○○平四郎氏は、その結講前後からして、よく大和の御地場へ参詣して、御教祖に御目に掛って居た。その頃(明治16年頃)の御教祖は、先に富田伝次郎氏の御地場参詣の記事にも記した様に、参詣して来る信者達に、『御息の紙』や、『おりきもつ』(麦粉に太白(精製した純白の砂糖)を入れたもの)を下されて居た。人々はそれを持ち帰って、病人があるとそれを頂かせた。するとどんな大病人でも不思議に助かって行った。思うに御教祖の長年の御苦労の理、御徳の理が、その者に働いて、かような珍しい御利益となったものであろう。○○氏もまた当時の信者の一人として、御地場に処々参詣する毎に、その『御息の紙』や、『おりきもつ』を頂いて帰って居た。そうしてそれによって、多くの人々の難病を助かって貰って居たのであった。○○氏が早くその結講当初に、どんな病気でも直す人として全神戸区から評判されたのも、畢竟(つまるところ、結局)その御教祖の御徳の理によってであったのである。然るにそうした理合に充分の理解のなかった彼れ○○氏は、助かった人々の神様へとの御礼の金品を、処々御地場へ御届けして居たが、何日もそれを御受けになる御教祖が、その氏の労をねぎらわれて、『これは当座の路銀やで』と言って下さる分量が、氏の持参する金品の多寡によらず、いつも同じであったところから、ふと不満を感じ出した○○氏は、その後は、先ず持参するに先だって我が欲するだけを着服し、その余を御届けする様になった。然るにそれより後は、先の日の珍しい霊験は漸次薄らぎ始めて、やがてその『御息の紙』や、『おりきもつ』が、その働きを為さぬ様になって行った。その為に、○○氏は自ら恥かしいと云う自責の念で、御地場へ帰って、御教祖に御目に掛れぬ様になって来た。然しながら、氏が一度得たる評判は、尚多数の人々をして、その『おりきもつ』などを頂きに来らしめた。その一方には、氏の豊かならぬ家計の逼迫(ひっぱく)の事情もあって、遂に自ら『おりきもつ』などを拵えて配らねばならぬ様になった。その結果が、全く霊験その跡を断って、返って同志の教人達の悪評を買い、にっちもさっちも行かなくなって、前記、唄(ばい)こふじ女の語の如く、『本部へ願い出て、赤衣を取払って、阪倉佐助氏へ納付せしめ、○○氏は、それっきり信仰を止めてしまった』と云う結果となったのである」。 |
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この頃、真之亮が、教祖に「京学」をしたいと願い、教祖は次のように仰せになられている。(「真之亮の「京学願い」に対する教祖の仰せ」)
「私も連れて行け。そうしたら、何処え行きても宜し」。 |
「真之亮が京学するのなら、さあさあ私も玉さんも一緒に行きましょう」。 |
こう仰せになられたので、沙汰止みとなった。
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