第72部 | 1882〜84年 | 85〜87才 | 燃え上がる信仰と弾圧 |
明治15〜17年 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「燃え上がる信仰と弾圧」を確認しておく。 |
【燃え上がる信仰と弾圧】 | ||
この頃、「ご苦労」下される教祖に、何とかして、少しでもごゆっくりお休み頂きたいとの真心をもって御休息所の普請が計画された。この普請は、教祖のお帰り下された月のうちに始められている。このように、節に出会えば出会うほど人々の信仰は鍛えられ磨かれて、それが講社の結成となり、各地にその数が次々と増えて行き、前年の明治14年には十余りであったものが、明治15年上半期には、大和、山城、河内、大阪、堺、伊賀、伊勢、摂津、播磨、近江の国々にわたって20有余にも及ぶこととなった。更に、教勢は静岡、東京、四国へと広がりつつあった。取り締まる側から見れば、叩けば叩くほど伸びてくる「お道」の姿であった。
取り締まる側の執拗さに対して、これしきのことで、参詣人をせき止めることのできよう筈はない。例え警察に連行されようが、説諭を受けようが、どんなことをしても参拝せずにはおれないのが、当時の信仰者の心情であった。又、こうした厳しい監視の中を危険を顧みず参拝するだけに、皆なそれ相応に不思議なご守護を頂いたことも事実であった。こうして、益々お屋敷に慕い寄る信者の動きが活発となるので、取締りはいよいよ厳重になり、そのしわ寄せは、教祖やお屋敷の人々の上に降り注がれてきた。
初代真柱は当時、数え年僅かに17才であったが、前々年の明治13年に中山家へ入籍し、戸主として、又当時中山家に在住するただ一人の男性として、一切の責任を背負って、ひっきりなしにやって来る巡査の応対に当っていた。 |
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「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「思い出の一端(その三)」が、この頃の「参拝お断り」事情を証言している。「みちのとも昭和4.4.20号/思出の一端 山澤ひさ」を転載しておく。
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【毎日つとめ始まる】 |
こうして、官憲の取締りはいよいよ露骨に強化され始め、甘露台の石を没収してからは、その取締りの対象が、教祖とその主だった道人の身に集中してきた感があった。教祖は、そのような中にも関わらず、ただ一条に「おつとめ」をせき込められ、特に10.12日(陰暦9.1日)から10.26日(9.15日)まで、自ら転輪王講社の祭壇の場所となっている北の上段の間にお出ましの上、毎日毎日「おつとめ」が行なわれた。この時期、教祖が、道人に一層の成人を促そうとのお仕込みに懸命であらせられたことが分かる。 応法派の教理では、人間思案の常識からすれば、これほど無謀極まる危険なことはなかった。取締り当局の目が、お屋敷に、教祖に、一層の厳しさをもって注がれている真っ只中に、おつとめを公然と鳴物入りで、しかも毎日続けているのである。人々の心は、何とも言えない無気味さで一杯であり、隠しきれない不安の明け暮れとなった、と説く。 |
【蒸し風呂宿屋廃業】 |
明治15年10.8日、教祖が、明治9年からお屋敷で営んでいた蒸し風呂宿屋業を廃止させた。「親神が、むさくろしいてむさくろしいてならんから取り払わした」と仰せられている。 |
木村正則、明治15年(1882)の金剛山地福寺よりの「差入申証券」に「全寺納所」として署名のある人物。
(私論.私見)
2007.11.30日 れんだいこ拝
川端義観
明治15年(1882)の金剛山地福寺よりの「差入申証券」に「嶺明代理」として署名のある人物。