第71部 1882年 85才 奈良監獄署への御苦労、まつえ出直し
明治15年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【毎日つとめ最終日のいきさつ】
 「おつとめ」は、泉田事件、我孫子事件が大きな社会問題として取り上げられている最中にも、陰暦9.1日から9.15日まで、教祖自ら北の上段の間にお出ましの上、毎日公然と勤め続けられた。その「毎日づとめ」の最終日のいきさつを見ておく。この日は1 0.26(陰暦9.15)日で、石上神宮の祭礼の日であった。年に一度の秋祭とて近郷からも人の出が多く、酔漢の喧嘩などもつきもので、それらを取り締まるために多数の巡査が集まってくるのが慣わしであった。今日こそは咎めだてされるのではなかろうか、これは、一応誰もが抱く人間心の不安であった。この日、炊事当番を勤めた山本利三郎が、餠につくもち米を誤って朝のご飯に炊いてしまった。又、いよいよおつとめにかかろうとする時、つとめ人衆の一人前川半三郎が辻とめぎくの琴につまずいて倒れた。こうした異変の数々が起こるに連れ、益々もって只事ではないと不安の空気が広がった。ところが不思議にも、この日は何のこともなく、教祖が仰せ下された毎日づとめは無事に終了した。

 変事がやってきたのは一切が無事におわった翌10.27(陰暦9.16)日であった。この日の警察の行動は、余程事前に準備と画策をしていたものと見え、その行動は今までにない激しさであった。お屋敷内にあるもので、凡そ信仰の用に供していたと思われるものは根こそぎ没収して、これを村総代に一応預けた上で引き揚げるという徹底した取締りとなった。

 ところが、皮肉なことには、この時没収されたものは、転輪王講社開設以来そのままになっていた曼陀羅をはじめ神仏混淆の祭祀用具一式であって、お道の祭典には必要がないばかりか、教祖が「むさくるしいてならん、すっきり神が取り払う」と仰せ下されたものばかりであった。こうして、この度の取締りも、教祖のお言葉通りの結果となって立ち現われることとなった。こうした事実を身をもって経験した道人は、今さらのごとく教祖の為さること、仰せくださることの不思議さに驚くとともに、この教祖の仰せのままについていさえすれば、絶対に間違いないとの確信を益々強めることとなった。こうして又も「ふしから芽が出る」の例え通りとなった。こうなると、お言葉のもう一つの予言であった「何時何処へ神がつれて出るや知れんで」とはどういう意味であろうかが気がかりとなった。
 初代真柱手記が次のように記している。
 「信徒の人の差し入れは日々引き切らず。この時、前川半三郎(半兵衛のこと)差し入れに行きし事あり。沢田権治郎、中山政(まさ)も差し入れ物に行けり」(復元第33号、263-265頁)。

【教祖、「二度目の御苦労」】 
 1882(明治15)年10.27日、警察が乗り込んできて、曼荼羅その他祭祀用具一切を取り払う事件が起こった。翌翌日の10.29日(陰暦9.18日)、教祖をはじめ5名の道人高弟(山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎(佐右衛門)、山本利三郎、森田清蔵)が奈良監獄に拘留された。教祖は、10.29日から12日間、「二度目のご苦労」をあそばされることとなった。山中忠三郎(現天理市乙木町の人)が、教祖のご苦労の際、入れ替わりに奈良監獄所で10日間の拘留を受けた。

 このたびは、「天理王の命という神は不敬な神であり、今後は何処までも圧制して倒してしまへ」との政府の命令での拘引となった。教祖は人を惑わすという罪で勾留され、12日間の「御苦労」となった。お道は天理王命などと云うどこにもない神名を唱える不都合により解散を命ぜられた。教祖は先に「このところより下へも下りぬもの、何時何処へつれて出るや知れんで」と予言的にお示しされていたので、道人は先刻承知しており、動揺は起らなかった。 

【飯降伊蔵にまつわる官憲の姦計】 
 この時、教祖が出獄される前日に飯降伊蔵が留置され、教祖のお帰りの時刻を見計らって、すれ違い様に奈良監獄に送られるという作為が為された。教祖のお帰りを迎えて喜びに湧く人々の心に、暗い衝撃を与えようとの官憲の企みであった。

 伊蔵の拘留事件の様子を見ておくこととする。次のように語られている。
 「教祖ご苦労の最中、伊蔵は、大工の弟子である音吉なる者の寄留届けを怠っていたのを口実に、宿屋営業法違反のかどで出頭を命じられた。伊蔵は、寄留届けを怠っていたくらいの理由なら叱責されるくらいで済むだろうと気軽に考えて、「ちょっと警察に立ち寄って」、その足で「明日お迎えに行く時に持参する教祖のお召し物をもらってくる」と云って出かけることとなった。罪人の入る獄舎でお召し頂いたような汚れたお召物のままでお帰り頂くことは申し訳ないという気持ちから、仕立ておろしの新しいお召し物とお取換頂いてお帰り願うようにと、仕立屋へ注文してあったのを受け取りに回る段取りであった。

 ところが、その伊蔵がいくら経っても帰ってこないので変だと思って尋ねてみたら、伊蔵さんなら、とっくに腰縄付きで奈良の方へ引かれていかれるのを見たと言う人があった。早速、人をもって警察に尋ねにやったところ、そんなものは、とうに送ってしまったとの返事であった。仕方がないので、注文してあった教祖のお召し物は娘のよしゑが受け取りに行って、お迎えの時に持参した。ところが、いよいよお帰りの当日、教祖をお迎え申すついでに、父の伊蔵に差し入れ物をする為に尋ねてみたが、そんな者は来ておらんとのことであった。丹波市ではとっくに送ってしまったと言うし、奈良ではおらんと言う。変な話だと思いながら、仕方がないから教祖の一行の跡を追って帰途についた。

 すると、伊蔵は奈良の文珠の前でお帰りになる教祖の一行とすれ違った。一行の跡を追って帰途についたよしゑが、前方から腰縄付きで大手を振ってよって来る人を認めて、よく見ると、それが父の伊蔵であるので驚いた。監獄にいなかった筈である、今頃曳かれていくんだものと思いながら近づいて行くと、キッと、こちらを見た伊蔵は、「行って来るで」と大きな声で言った。その声に応じて娘のよしゑが「家の事は心配いらぬさかえ、ゆっくり行ってきなはれ」と言うと、これに安心したのか伊蔵は後をも見ずに悠々として曳かれていった。

 お帰りの一行と、曳かれて行く人が途中ですれ違いになったのは、実は当局が、わざわざ仕組んだ意地の悪い計画であったわけである。即ち、前日に些細なことを理由に引致した伊蔵を、その日一日留置して、教祖のお帰りの時刻を見計らって、奈良監獄に送ったのである。教祖のお帰りを迎えて喜びに湧く人々の心に、暗い衝撃を与えようとの悪だくみであった。しかしこれくらいのことで、教祖の健やかなお顔を拝して喜びに湧いている人々の心を曇らすことはできなかった。曳かれて行く伊蔵も、これを見送る娘よしゑも、教祖のひながたを踏ませて頂けるという信仰の喜びに徹していたことは、この短い会話の中にもよく現われている」。

【飯降伊蔵の言上】
 明治15年10.29日、教祖の奈良監獄署への十二日間の御苦労が始まった日の夜、飯降伊蔵の口を通して、次のようなお言葉があった。
 「ようよう金と、銀と、鉛(なまり)と、しようもない金と、吹き分けたで。さあさあこれが大道のちょっとの掛り、さあさあ十のものなら、九つまで案じる者ばかり。どうも案じる事ばかりや。十人の者なら、九人まで逃げ、残る一分は真実やで」。(「正文遺韻抄」の「道すがら外編一」より)

【教祖の獄中の態度】

 この時の奈良監獄での「ご苦労」の様子は次のように伝えられている。教祖は、拘留の間、監獄のものは水一滴もお口に為されなかった。これが教祖の獄中での態度であらせられた。教祖が拘留中、警察署や監獄署の支給する飲食物を全く召し上がらなかったのは一貫している。教祖を、「月日のやしろ」とは知る由もない獄吏達にしてみれば、何時も何時も、水一滴お口にされることなく過ごされてみれば、いささか気がかりになるのも当然である。断食一週間以上に及んだとき、心配してか「婆さん、ちょっと手を出してご覧」と安否を確かめようとした。教祖は言われるままに手をだして、先方の手をお握りになった。獄吏が、「もう、それだけしか力がないのか、もっと力を入れてご覧」と言うので、教祖はニッコリ笑って、少し手に力をお入れになると、手がちぎれそうに痛むので驚いて、「もうよし、もうよし」と恐れ入った。こうしたことが伝えられるにつけ、信者たちの心に、益々強く、「月日のやしろ」におわす尊い理がしみ通っていったことは言うまでもない。

 この時の逸話に次のようなものが語り継がれている。同室の女囚が獄中でお産をした。教祖が親しくお助けされ、無事出産となった。以来、女囚は教祖を慕い、毎日お休みのお髪(くし)をすき、何かと御用を足した。出獄後、お屋敷へお礼参拝に来た、と言い伝えられている。
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「教祖の御苦労」が、この時の証言「山沢為造先生お話(27才頃の信仰)」を紹介している。これを転載しておく。
 「(前略)〜教祖が御苦労下された道を一つ申しておく。奈良は、教祖が監獄へお入り下された因縁のある処である。明治15年と17年の2回、監獄へ御苦労下された。15年には教祖は反対であったが、当時金剛山の麓の地福寺から支部の手続きを受けたというので、神仏混合は不都合であるという上から、教祖は監獄へお出ましになった。その時、古い先生方五、六人一緒に行かれたが、その中に私の父(良助)も連れて行かれた。まだ秋であった。お父さんは監獄でどんなにしておられるやろう、心配でならなかった。毎日弁当は運んでいるが、一と目会いたくてならないので、それには理由をこしらえねばならん。父の印形(いんぎょう)が必要であるが、印形はどこに入れてあるか聞きたいと申出た。やがて聞きずみとなって、三人の役人付添いで面会させてくれた。印形のありか以外のことは話してはならんと注意された。重い扉が開いて中にはいると、お父さんは頭を下げて坐って、何か思案しておられるようであった。明日家に印形がいります、何処にあるか教えて下さいと申したが、実際は印形のことじゃなくて、心配で見舞いに来てくれたと本当の心を見抜いておられた。教祖のご様子はいかがかと尋ねることも出来なかった。別れの際にもう一度振向いたら、父は左の袖を右手で二、三度引張って見せられた。袷(あわせ)ではもう寒い、綿入れを入れてくれといわれているのやと思うた。その時父は52才、教祖は85才、年の若い父が着物を入れてくれと頼む位やから、教祖はどんなにかお寒いだろう、さぞ御苦労やろうなあと思うと、帰るとき泣きの涙で門を出た。一方思うには、父やお伴の方の友達は、夫々出してもらおうと運動している、けれど教祖はお出ましできない。教祖は獄舎で御一人おわすことになる、これは申訳ないと思えば、胸が張りさけるようで、道々涙が止まらなかったのである。この拘留は十日間でお帰りになった。当日飯降伊蔵先生が、入れ代りにおはいりになった。教祖は元気でお帰りになったが、寒かった、つらかったなどと一ト言も申されない。『匂いがけ匂いがけ』と二タ言仰って喜ばれる。又或る時は、『わしが警察へ行ったら、皆がたすかることなら、なんぼでも行くで』と、いそいそとお出ましになった」。
 (昭和45年12月発行「史料掛報」163号、「山沢為造先生お話(27才頃の信仰)」宇野晴義より。宇野さんが、昭和4.1.23奈良三重教務支庁書記の時、奈良教務支庁で聞かせて頂いたお話です)

【教祖ご苦労時の監獄でのご様子】
 「監獄における教祖様(その一) 」、「監獄における教祖様(その二) 」( 昭和12年2月号みちのとも「教祖様に触れた人々」峯畑長太郎より、※峯畑さんが、永原さんより聞かれた御話)。
 「私は永原と申す者で、まだ信者として加盟はしていません。若い時から至って悪戯者でありまして、真面目に働くこともせず博打にふけっていました。処が明治15年、ついに刑罰に処せられて奈良監獄に繋がれました。その時、獄内の一室に赤い着物の一老女の居るのを見ました。囚人らはこれを見て、妙なお婆さんが監禁されていると噂していました。或る時その室の前を通ると、老婆は小声で呼び止めるので、監視の居らぬのを幸い近づきました。老婆は『お前様は何処の人か、何をして此処へ来たのか』と尋ね、『人間は神様の子やで、悪い心を出してはなりませぬ。如何に好きな事やからとて悪い事をすれば、孫子の末まで浮かばれぬのや。何ほど難儀苦労しても悪い心さえ使わねば、将来結構な日は必ず巡り来るのやで。これ限り悪い心を打ち捨てて真面目に働きなされや』と親が子に意見する様に、涙を浮かべて懇々と説き聞かせて下さいました。然し、当時私たちは変わったお婆さんだ、自分も獄屋に繋がれながら人に意見するとは、全く正気の沙汰ではなかろうと思っていました。他の囚人も呼び止められて諭されたと言い合って居りました。時には監視に見付かって叱り付けられた事もありましたが、老婆は平身低頭で『私から呼び止めたのです。この人が言い寄ったのではありません。私が悪いのです、以後は慎みますからお許し下さいませ』と自分引き受けて詫びられる。それでも又、囚人を見れば前同様諭される。度々叱られてお詫びをされたそうです。私達も諭される言葉は誠意のこもった話と感じますが、場所柄をも考えず、叱られてお詫びしながらも、なお同じ事を繰り返すを見れば、常人の仕業とは思えない。ことにあの衣類や態度のすべてを見ても、普通の人ではない、多分発狂しているのだろうと、言い合って居りました」。
 「私も出獄して暫らくは真面目でいましたが、若干の月日を送る中に暑さ忘れりゃ笠忘れるで、また元の地金を出して飛び回る様になりました。その頃丹波市の庄屋敷村に狐憑きの神様があって、人を騙して首を吊らすとか、色々の悪口を聞いていましたが、間もなく宇陀吉野の山奥にも、その庄屋敷の天理さんが弘められ、不思議な御助けを受けて熱心に信仰する人が次第に増えるようになりました。処がその天理さんの神様という老婆は、いつも赤い着物を召して居られると聞きまして、入獄の時の事を思い出され、その時諭された御言葉がしみじみ思い起こされて、今更何とも言えぬ感にうたれました。その後私は自発的に悔悟の念が起こり、深き決意の下に従来の道楽は全く思い切って、将来日の照る真人間にならねばと、山の谷間に這入って炭焼きに丹精を凝らして居ります。そして村の信者さんの家に行われる天理さんの御祭りには、お参りを致しまして有難い神様のお話を拝聴して、あの時の御教祖様の御言葉を思い浮かべて、自分の過去の罪を悔い、将来の幸運を祈って居ります」。

【梅谷四郎兵衞の差し入れ】
 稿本天理教教祖伝逸話篇「106、蔭膳」。
 「明治15年10.29日(陰暦9.18日)から12日間、教祖は奈良監獄署に御苦労下された。教祖が、奈良監獄署に御苦労下されている間、梅谷四郎兵衞は、お屋敷に滞在させて頂き、初代真柱をはじめ、先輩の人々と、朝暗いうちから起きて、三里の道を差入れのために奈良へ通っていた。奈良に着く頃に、ようやく空が白みはじめ、九時頃には差入物をお届けして、お屋敷に帰らせてもらう毎日であった。ある時は、監獄署の門内へ黙って入ろうとすると、挨拶せずに通ったから、かえる事ならん、と言うて威かされ、同行の三人は、泥の中へ手をついて詫びて、ようやく帰らせてもらった事もあった。お屋敷の入口では、張番の警官から咎められ、一晩に三遍も警官が替わって取り調べ、毎晩二時間ぐらいより寝る間がない、という有様であった。11.9日(陰暦9.29日)、大勢の人々に迎えられ、お元気でお屋敷へお帰りになった教祖は、梅谷をお呼びになり、『四郎兵衞さん、御苦労やったなあ。お蔭で、ちっともひもじゅうなかったで』と仰せられた。監獄署では、差入物をお届けするだけで、直き直き教祖には一度もお目にかかれなかった。又、誰も自分のことを申し上げているはずはないのに、と、不思議に思えた。あたかもその頃、大阪で留守をしていた妻のタネは、教祖の御苦労をしのび、毎日蔭膳を据えて、お給仕をさせて頂いていたのであった。そして、その翌10日から、教祖直き直きにお伺いをしてもよい、というお許しを頂いた」。

 沢田権治郎。弘化3年(1846)現天理市海知町生まれ。妻ふじゑの産後の患いをたすけられ入信。明治15年(1882)10月の教祖のご苦労の際に、奈良警察署へと差し入れに行った1人。大正13年(1924)79歳で出直し。


【教祖お帰りの様子】

 11.9日(陰暦**.**日)、教祖がお帰りなされた。その際には、お迎えの人力車百五、六十台を連ねた。この時も、御帰りの日は、ちょっとでも教祖の御側近くお供をさして頂きたいとの思いからお迎えに参集した道人は千数百人と記録されており、この日、奈良、丹波市界隈に空いている車は一台も見当らなかったと言われる程、おびただしい車の列と、喜びに湧く群衆の列に迎えられた。その数は数百台を数えられ、又、お迎えの人数は万をもって数えるほどであった。よし善で休憩の上、人力車を連ね、大勢の人々に迎えられてお帰りになった。

 こうして、教祖の二度目の「ご苦労」に対しても、道人は、ご帰還を供にしながら、成人の姿を見せて行くこととなった。押さえつけられれば押さえつけられるほど、叩かれれば叩かれる程芽を吹く「お道」の姿となった。教祖が、日頃 

 「連れに来るのも親神なら、呼びに来るのも親神や。ふしから大きいなるのやで」。
 「何も心配はいらんで。この屋敷は親神の仰せ通りにすればよいのや」。
 「節から芽が出る。どんな節もあるで。如何なる節と云えども、節を楽しめ。節がなくては芽は出んで」

 と、お諭し下されているお言葉通りに、今後ともいかなる事態に出会っても、ただ教祖のお言葉を信じ、そのお指図を肝に銘じて通らせて頂こうという強い一途の信念が道人の心となり、道人の信仰はいよいよ燃え盛るばかりとなった。この頃のいつの時期のことかまでは不明であるが、教祖が、「(ぢばのある)中山五番屋敷に縄はかけられまい」と仰せられた、というお言葉が口伝として伝えられている。

 取締り当局は、強烈な道人の信仰の姿をまざまざと見せつけられるほど以後躍起となって厳しさを増すこととなった。官憲が強硬手段に出ることになり、お屋敷の門を閉ざさせた。それでも信者は教祖を慕いやって来た。


【蒸風呂廃業】 
 教祖お帰りの前日、蒸風呂に薬袋が投げ込まれる事件が起こった。幸いに発見が早かったので事なきを得たが、これを機会に11.8日、蒸風呂は即日廃業されることとなった。数日後の11.14日、宿屋営業も廃業した。いずれも、先年人集めの口実として開業したものであったが、教祖の思し召しに叶わなかったのは言うまでもない。

 「蒸風呂薬草投げ込み事件」の経過は次のようであった。これを見ておくこととする。この日、或る信者が空風呂に入ったところ、非常に薬の香りがしたので、驚いて早速その湯を捨てたところ、一時間ほど経って私服2名、正服3名の警官がやってきて、直ちに湯殿の点検を始めた。案に相違したような顔をして、「今日は婆さんの帰る日だから、忙しいだろう」と捨て台詞を残して立ち去るところとなった。思えば、先に薬を忍ばせておいて、空風呂の営業違反として難癖つける魂胆であったことが歴然であった。この節を幸いにして、空風呂を廃業することとした。

【まつえ出直し】
 こうした折、お屋敷内ではまつえに関わる変事が発生していた。ここで、まつえについて少々触れておくことにする。まつえは、去る日秀司の年若い女房としてお屋敷にやって来る身となったが、「お道」の信仰の上からは取り立てての足跡は見当らない。察するに、まつえ自身は、世間常識に富んだ性質の御方であったものと思われる。お屋敷内でのまつえの振る舞いは、全て秀司の妻としての立場から中山家再興を画した夫との連携において役目を任じていた風があり、世間常識の上からは何ら非に値しないものの、教祖の「助け一条の世直し、立替え」の教えに対しては理解が覚つかぬままに「お道」と関わり続けていた。ここにまつえの悲劇性と異質性があった。

 夫秀司出直し後は、親戚連合で「お道」利権を手にし、かなりの贅沢三昧をしていたことも知られている。以下伝聞であるが、そうした中で、後ろ盾に頼んでいた前川半七との間に関係ができ、妊娠するという不祥事が出来していた。このことが関係していたと思われるが、教祖が「ご苦労」から戻られた翌日(明治15年9月)、まつえは30才で隠居した。この為、真之亮がわずか17才で戸主となった。

 11.10日、まつえが妊娠中絶の失敗で急死した(享年32歳)。秀司が死去してから約一年後のことだった。葬儀にはお屋敷の者以外は一人として立ち入れなかった。まつえ出直しの「ふし」は、「お道」の世界助けの道をいささかも曇らすことはなかった。

 その通夜から葬儀にかけてのこと、警官が出張してきて、中山家と飯降家の家族以外一人も滞在を許されなかった。中山家の親戚の者と云えども、「葬式が済めば用はあるまい、早く帰れ」と追い払われている。柳井徳次郎氏の「たすけのだい」の「本席長女永尾としえのお話」は次のように記している。
 「これより益々参拝も厳禁されて、古い先生方や熱心な人たちは絶えず逃げ隠れてはお屋敷に詰められたのであります。一番心配なのは、毎日毎夜参拝して詰めている人を隠すのが、何よりの心配でありました。それが後に中川勘平様と清水様とは、丁度、その家がお屋敷の裏門を出た所の、裏と表になって居りましたから、警官が取り調べに来た時などは直ちに、右の熱心な人々は、この両家に匿もうて、誰も参拝者の無いように装うたのであります。そう云う風でありますから、一言話をするのも小声に囁くように、なるべく中はひっそりして、恰も人無きが如くにしたのであります。この当時の有様は、このように実に何とも申されぬほどでありました」。
 諸井政一「改定正文遺韻」が次のように記している。
 「この御方は、切る一方の御魂の因縁でありますから、御教祖様のおそばに日夜お仕え申す中に、とかく御教祖様と寄り来る信者との間を、切る様な事になされまして、それ故、信者もよほど熱心でなければ信心が続きませなんだわけで、すなわち神様が真実の深い者とないものとを、選り分けなさる一つの道具に御引き寄せ遊ばされたるものと、古い先生の御話でござります」(51頁)。
 「(まつえ出直しについて)もはや神様のお話に『ようよう金と銀と鉛と、しょうもないかねと吹き分けた』と、仰せられし通りで、真実と不真実のものと、選り分けができましたから、そこで御引取に成ったわけかと、恐れながら思わして頂きますが、しかしどうもえらい合図立てあいでござります」(83頁)。
 「秀司先生の未亡人まちえ様は、厳しきいたでを為されて、何一つお貸し下さらず、火鉢を借りても、布団を借りても、皆な損料貸しにして、すべて神様より聞いた事と違うにより、なかなかの困難にて、又折々それが為も不足心を起こす事も多かりしと」(113頁)。

【ご休息所の普請始まる】
 11月、迫害激しい困難のさなかではあったが、この頃、教祖の高齢の身をもって一日の平安もなく御苦労をお続けている様子を見るにつけ、せめてゆっくりご休息下される場所をと願う道人の誠心から休息所の普請が始まった。この普請が伊蔵の仕納めの普請となった。

 12.14日、地福寺との関係を引き払い、断絶した。






(私論.私見)