第7部 | 1817~1820年 | 20~23才 | 「おかの寵愛事変」.長男誕生、出産の慶び |
文化14~文政3年 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.16日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、1817(文化14)~1820(文政3)年、みき20歳~23歳頃の逸話「おかの寵愛事変」、「長男誕生、出産の慶び」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【夫婦和合と情愛(おかの寵愛事件を通して)】 | ||
稿本天理教教祖伝では、この頃の出来事として、夫善兵衛の「おかの寵愛事件」が伝えられている。厳格な意味での史実性が乏しいと指摘されている向きもあるが、概略このような事件が生起していたのではないかという観点から、「みき」の精神史的行程において見過ごすことのできない事件であったものとして着目してみようと思う。 | ||
蓮誉勝岸智宝禅定尼という戒名をもらって授戒会より帰った「みき」を待ち受けていたのは、夫善兵衛の下女おかの寵愛であった。善兵衛の女道楽は、これまでも為されていたようであるし、当時の庄屋階層には習俗的におりがちなことであったから、善兵衛が下女おかのに手をつけたこと事態は、さほどの問題ではなかったろう。もっとも、「みき」がそうしたしきたりにどのような思いを抱いたかは、ここでは問わない。 ここで「おかの寵愛事変」を特別に論ずる意味は、この度のおかの寵愛が、それまでの善兵衛の女道楽一般とは趣を異にして、「みき」の主婦の座を圧迫するものとして立ち現われたことと、これに対処した「みき」の有り様が並みでなく興味深いこと、及びこの事件の与えた影響が、「みき」に少なからず夫婦の役割を開花せしめ、こうした経過を経て練成された「夫婦和合の教え」が、後に教祖として変貌を遂げた際の最もねんごろな「お諭し」の分野になること等による。 善兵衛夫婦は、美男美女の取合せで、世間的にも羨ましがられた程の間柄であり、これまで従順なみきとの間に取り立てての波風がたっていたわけでもない。但し、結婚生活ほぼ十年にならんとするこの頃になって、世継を為さないみきの立場が少々怪しくなっていた気配があった。当時は、いわゆる「三従七去の戒め」(君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友、長幼、賓客に関する人倫の道の教え)の時代であり、「子なきは去る」の戒めはその筆頭に挙げられていた頃である。もっとも、みき19才の折に待望の初産があったようである。しかしこの時は喜びも束の間で、その子供は名もつけないうちに亡くなって、泡水童子という戒名しか残っていない。どんなにみきを悲しませ、家族の者たちを失望させたであろうか。 こうした間隙を抜うようにして善兵衛の下婢おかの寵愛が始まり、善兵衛夫婦の最初の危機として進行して行くこととなった。善兵衛のおかの寵愛は次第におおっぴらになり、顔髭を剃らせたり、一緒に遊山に出かけるなど我が物顔となっていった。恐らく善兵衛にすれば、「みき」が働き者の家政堪能な申し分のない女房であったにせよ、当時の嫁の絶対の務めであった世継を設けない恐れと、信仰一途のみきの精神状況から憶測するのに、夫婦の交わりにおいても至って淡泊で、夫婦和合における在り方として、善兵衛を性的に満足させる為の工夫を気遣うという点については、全く無知であったのではなかろうか。善兵衛のおかの寵愛が、舅夫婦の暗黙の了解のうちに為されていたように伺えることと、「みき」への当てつけ的な行動を伴っていることを思案する時、そのような推測を容易にする。 こうした事態を迎え、「みき」が対処した様が興味深い。「みき」は、当然のことながら人並みに嫉妬の感情を燃えたたせたであろうし、善兵衛の素行に煩悶もしたであろう。しかし、夫をかのと奪いあうような醜態があったとは伝わっておらぬところを見ると、恐らく内省的な「みき」は翻って自らの至らぬところを深く反芻し、けなげな対応を試みたり静かに苦吟する日々であったのではあるまいか、と思われる。あるいは、女性の身の憐れを思いながらも、当時の習俗からして、ありがちなこととして受け入れていたのであろうか。 ところが、事態が急転直下する。善兵衛の寵愛に日増しに増長していったおかのは、勝手な振舞が多くなると同時に、「みき」の後釜として主婦の座を思い詰めるようになったか、或るとき食事時にみきの汁の中へ毒を盛るという事件を起こした。にわかに苦しみだした「みき」を見て、家内一場騒然となる。皆な驚いて、懸命に看護の手を尽くす一方、その原因を詮索するうちにも、おかのがブルブルと震え始め、嫌疑が一身に集まる。日頃から「みき」の立場を気遣っていた家作人一同、この時とばかり責め立てる折も折り、「みき」は苦しい息の中から、「これは、神や仏が私の腹の中をお掃除下されたのです。後生ですから事を荒立てず、おかのを許してやって下さい」と言ったと云う。周りの者は呆気にとられてうな垂れてしまった。この「みき」の広い度量と器量の違いを見せつけられたおかのは、深く恥じるところところとなり、初めて迷いの夢から醒め、やがて自ら暇乞いして中山家を去る身となった、と伝えられている。 稿本天理教教祖伝の「第二章 生い立ち」16-17pは次のように記している。
以上が「おかの寵愛事変」の経緯である。この話し自体が創作なのか、おかのの毒盛りが作り過ぎなのか、史実として根拠が薄いという指摘も為されているようでもある。しかし稿本天理教教祖伝に記載されている内容でもあり無視するわけにも行かない。実際におかのが毒を盛ったかどうかは別にして(みきの神経性胃炎かも知れない)、善兵衛の寵愛を受けた女性が、一時にせよみき以外に存在した時期があり、為にみきを苦しめ抜いた経過は史実として本当なのではなかろうか、と思案させて頂く。重要なことは、こうした一部始終で、みきが対応した様が並みと違う点で味わい深いということを了解することが肝要なのではあるまいか。真実に「みき」はかくも心の広い、慈悲の厚い気性穏やかな才の持主であったことと拝察されるのである。ともあれ、このおかの事件を通して、善兵衛夫婦は大きな試練を乗り越えた。「みき」は、この時の経験を契機に悟るところもあったのであろう、「雨降って地固まる」の例え通りに、二人はいよいよこまやかな情愛で結ばれる夫婦として、歩み始めて行くこととなった。 |
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「善兵衛の下女おかの寵愛事件」につき次のように記されている。(「No.97 教理随想(48)やさしき心」を参照する)
この逸話の出所が分からないが、この通りであるとすると、「善兵衛の下女おかの寵愛事件」は「隣家の足達家の当主の忠言」に始まったことが分かる。この事件は、「善兵衛の下女おかの寵愛」に対する「みきの対応の様」がハイライトになっている。 |
【みきの宗教的精神史足跡行程(6)、「夫婦和合」諭しの発起】 |
「おかの寵愛事変」の過程は、恐らく「みき」にとって自分自身のことで苦しんだ最初の試練であったのではなかろうか。浄土の教えから離れて現実そのものと赤裸々に向かい合っていくこととなったこの時期のみきに立ちはだかった最初の課題が、「夫婦和合」の嶮であった。それは、社会的事象への関心を一層深めつつあった「みき」が、己自身の苦悩を重ねて味わわねばならなかった領域でもあった。 ともあれ、こうして夫婦の問題は、「みき」自身を苦しめ、それを乗り越えると同時に今後とも種々思いを尽くすこととなる対象となったことをここで見ておきたい。夫婦和合の問題は、余人に相談もままならぬ事柄でもあり、どうして良いか分からず、大いに悩み苦しんだことであろう。「おかの事件」も、おかのが毒を盛ったかどうか定かでない。我々が了解すべきことは、この事件で、「みき」自身が今日の医学で云う神経性胃炎的な症状を見せるまでに悩み抜き、吐き気を催すまでに苦しんだということであろう。 「おかの寵愛事変」を通じての「夫婦和合」の課題は、「みき」自身が自力で解決にむかうべき取組む世界であり、みきなりの精一杯の踏ん張りで凌いだ結果、この後立教に至る天理教の教えの中でも最も懇ろな諭しとなる。そう云う意味で、この事件は貴重な体験であった、と思案させて頂く。これを「みき」の宗教的精神史足跡第6行程とする。 |
【「女衆かの」考】 | |||
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【長男誕生、出産の慶び】 | |||||||||||||||||||
「みき」が中山家に嫁いでいつしか10年の月日が流れようとしていた。この頃になって、自然に夫婦の気持が融けあうようになったようである。こうした折、1820(文政3)年6.11日、「みき」23才の時、舅の善右衛門が亡くなった(享年62才、戒名専誉称念禅定門)。善右衛門にとって、孫の顔を見ることなく死して行くのはさぞ心残りであったであろう。その善右衛門の悲しみを自分の咎として受け止めたのか、「みき」はその年の秋口懐妊した。待望の世継を身籠ったみきの主婦としての地位は、こうして揺るぎないものとなった。
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(当時の国内社会事情) |
1817(文化14)年、仁孝天皇即位式、全国五万石以上の大名が上京。大和よりも見物に行く。 |
1817(文化14)年、蘭学者の杉田玄白没。 |
1818(文政元)年、本田畑の甘藷栽培を禁ず。常陸一揆。 吉野龍門郷に百姓一揆。 |
1818(文政元)年、伊能忠敬が全国測量後、没。 |
1819(文政2)年、阿波・摂津一揆。 |
(二宮尊徳の履歴) |
1817(文化14)年、31歳の時、“きの”と結婚。用地3町8反余となる。 |
1818(文政元)年、32歳の時、小田原藩(藩主・大久保忠真)家老・服部十郎兵衛家の財政立て直しを依頼され、倹約と借入金の運用による取り組みに着手する。5年の約束で見事に藩の借金を返し、さらに五百両という蓄えもこしらえ家老夫妻に感謝される。この功により、小田原藩主大久保忠真から善行表彰を受ける。1819(文政2)年、33歳の時、長男・徳太郎が誕生するが、まもなく死亡。“きの”と離婚する。1820(文政3)年、34歳の時、岡田峰右衛門の娘“波”(16歳)と再婚する。考案した年貢枡を藩主に献上する。下級藩士の為に低利貸付法と五常講を立案する。1821(文政4)年、35歳の時、伊勢参り、高野山参拝。8.1日、宇津家桜町領調査の指示あり、下野国宇津家桜町領の調査を開始する。9.25日、嫡男・弥太郎誕生。服部家第1回家政再建完了。 |
(宗教界の動き) |
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(当時の対外事情) |
1817(文化14)年、英国船が浦賀に来る。 |
1818(文政1)年、英国船が浦賀に来航し通商要求。 |
1820(文政3)年、幕府は浦賀奉行に海岸防備を厳命。 |
(当時の海外事情) |
1819(文政2)年、英国がシンガポール建設。同じく英国で世界最初の鉄道開通。 |
1819(文政2)年、蒸気船サヴァンナ号が大西洋横断に成功する。 |
(私論.私見)