第66部 1880年 83才 真之亮養子入り、教祖が伊蔵の伏せこみ要請
明治13年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「真之亮養子入り、教祖が伊蔵の伏せこみ要請」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【真之亮養子入り】

 1880(明治13)年9月、中山眞之亮15才の時、こうした事情の中、いちの本の梶本惣治郎に嫁いだ三女おはるの三男真之亮(1866(慶応2)年、現天理市櫟本町生まれ)がお屋敷へ移り住むようになった。秀司は一人息子として音次郎をもうけていたが、音次郎は「お道」には無関心だった。教祖は、秀司父子よりも、おはるの御子にしてこかんに育てられたことのある真之亮に、教え所の名義人であり、助け場所に相応しい戸主となってもらいたいとの期待をかけていたようである。こうして、真之亮はお屋敷入りするが、官憲の取締りの厳しさに驚ろくことになる。真之亮は後に中山家の養子として入籍し、1882(明治15)年、中山家の家督を相続し、後に初代真柱となる。1914(大正3)年、出直し(享年49歳)。


【初めて三曲を含む鳴り物を揃えてのよふきづとめ】
 この年9.30日(陰暦8.26日)、初めて三曲を含む鳴り物を揃えて、よふきづとめが行われた。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「74、神の理を立てる」。
 明治13年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急き込み下された。警察の見張り、干渉の激しい時であったから人々が躊躇していると、教祖は、『人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、二つ一つの返答をせよ』と刻限を以て厳しくお急き込み下された。そこで、皆々相談の上、心を定めておつとめをさしてもらおう、ということになった。ところが、おつとめの手は、めいめいに稽古も出来ていたが、かぐらづとめの人衆は、未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、これもお決め頂いて、勤めさせて頂くことになった。また、女鳴物は、三味線は飯降よしえ、胡弓は上田ナライト、琴は辻とめぎくの三人が、教祖からお定め頂いていたが、男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄のことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手に出来ないという上から、教祖にこの旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は、『さあさあ鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神が許す。皆な勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け』と言う意味のお言葉を下されたので、皆な安心して勇んで勤めた。山沢為造は、一二下りのてをどりに出させて頂いた。場所は、つとめ場所の北の上段の間の、南に続く八畳の間であった。

【秀司が河内教興村の松村栄治郎宅で巡教】
 開莚式後の10.6日、秀司は、河内教興村の松村栄治郎宅を訪ね、巡教している。「高安大教会史」38頁に次のように記されている。
 「明治13年10.6日、.秀司殿が松村家へお越しくだされた最後の時などは、山本利八、山本利三郎両氏も同道であったが、その夜、沢山(たくさん)の講社が集まり、秀司殿よりお話のさ中、その場席へ巡査の皆地嘉平という人が来て、秀司殿が『どんな病も助かる』と云われたひと言を挙げ足に取り、『そんなら今、病人を連れて来るから助けろ』と夜遅くまで喧(やかま)しく何やかやと質問をしたようなこともあつた。が、秀司殿の一行はその翌日も滞在し、講社の人々に向って神の教えを説き、八日、平等寺(村の小東家)へ向けて出発せられたのである」。

【教祖が伊蔵の伏せこみ要請】

 この頃、教祖は、伊蔵に対して、お屋敷へ「伏せこみ」(移り住み)、教えの取次人として一緒にやってくれまいか、と頻りに仰せになられた。教祖は、かねてからその旨をお望み為されていたが、伊蔵は、秀司を筆頭とする「応法派」との折り合いに難があり、延ばし延ばしにしていた。お屋敷内には、教祖派と、応法派、そのどちらでもない中間派の三派に分かれており、伊蔵はこのたびも逡巡することになる。伊蔵がお屋敷に伏せこむのは、秀司が亡くなった翌年の1882(明治15)年3月になってであり、妻子はその半年前から移り住むことになるが、この動きは後述する。

 先の明治8年頃、伊蔵は、教祖から、言葉をもって指図することを許される「言上の伺い」を戴かれている。明治13年頃になると、教祖が、「身上や事情の伺い」につき「仕事場へ回れ」、「それは伊蔵さんに聞いてくれ」と仰せられるようになり、伊蔵お指図が出始めていた。更に、その時その旬の事柄についてもお言葉が出されるようになっていった。

【この頃の仲田佐右衛門伝】
 10月、この頃の仲田佐右衛門について、「仲田佐右衛門先生に就て(その四)」に次のように記されている。
 「仲田先生が、河内へ来ました、一寸よりましたと申されまして、二三日御滞在になったことが御座ります。その時先生の申されるのに、『おりんさん。あなたがお助けいたゞきなされた時、神様よりあゝした結構なお言葉をいたゞきなされましたなあ。あなたさんの様な有難いお言葉をいたゞきなされたお方はほんまに誰もありません。そう思ふとあんたは誠に結構ないんねんのある家やなあ』と如何にもその時を思い出す様にお話になったことは今だに先生のお顔が眼の前に浮ぶ様に思われるので御座ります。

 御苦労の道中をお通りくださる先生に対して及ばずながら何かにつけて御相談さしていたゞけたことは、御生前中の先生を偲ぶにつけて喜ばしく思ふところで御座りまする。なお当時、神様は毎晩お説き流しのお話しの中に、『もりがいる、もりがいる』と、それは/\毎晩の様に仰せられたので御座ります。それで当時お取次の先生方は毎晩、このお説き流しのお言葉について何とか早くお決め申上げて神様のお言葉に御満足を差上げねばならんと言ふので、寄り/\御相談になったので御座ります。その結果、お取次の仲田先生と辻先生のお二人の先生様よりこの由を秀治先生(註・秀司先生の間違い)に御上申致すことになって、仔細を段々両先生より秀治先生に言上いたされたので御座ります。ところで、秀治先生はなかなか『そをか/\』とお申しになるだけでなかなかお取り上げになりませんでした。それで翌日再び仲田先生より再度のお願いをなされたので御座いまするが、やはりお取上げになりません。ところで一方神様は以前にもまして『もりがいる/\』との激しい御催促で御座いまするので、その都度何とかお指図なしくださりまするようにと言って仲田先生より秀治先生にお願ひくださったので御座いまするがなかなか容易に受けつけられなかったので御座りまする。秀治先生様がなにが為にお取上げにならなかったのかと申上げますると、当時御教祖様に対するお上の圧迫迫害が大層厳しく御座いました。そして、この御教祖様に対する圧迫が転じて秀治先生に大小となく降りかゝって来ましたので、先生は御責任者として何事も矢表にお立ちになったので御座ります。それで秀治先生も大変お困り遊ばされていたように拝察するので御座います。先生が御教祖様とお上との間にお立になってどのくらい御苦労になったかは当時の事情の御存知のお方々様はよく御存知のことゝ思います」。

【秀司が病床に就く】
 11月頃、秀司が病床に就いている。「高安大教会史」9頁に次のように記されている。
 「11月26日、栄次郎ハ中山秀司殿の病気ニ見舞ニ行く。而(しか)して中山家ノ台所一条ヲ山澤良助、仲田佐右衛門ト談合ノ上午後帰宅ス」。

【村田長平夫妻がお屋敷の北側を借りて豆腐屋を始める】
 この頃、村田幸右衛門の長男長平の妻かじがお屋敷に勤めだしている。11月の終わり頃、お屋敷の北側を借りて豆腐屋を始めた。

【隠れ御手振り稽古】
 「大県(おおがた)中教会の沿革」42−43頁が興味深い話を伝えている。これを確認しておく。
 「或る時には前裁の村田幸右衛門さんの家(うち)を借り、佐右衛門さんを頼んで稽古させて稽古させて頂かれた事もあった。その時の人数は桝井伊三郎さん、幸助さん、山本利八さん、越木塚の富男さん、お梶さん、おすまさん、おりうさんであったと思うと申される(増井りんの口述)。村田幸右衛門さんは地方(じかた)であつた。当時は官憲の圧迫が甚だしいので、御屋敷内で御手振りの御稽古させて頂かれると御上が目を光らすので、秘密に他所(よそ)の家を借りて御稽古されたのであつた。或る時も村田さんの家を借りて、こっそり御稽古して居られると、秀司先生には奈良街道よりお見えになり、幸右衛門さんの家へ入られた。それでさっそく御手振りを止め、佐右衛門さんを隠し素知らぬ顔をして居られた。ところが秀司先生は『御手振りをまたして居るのか』と仰せられたが、『いいえ何もしておりません』と申されるのであった。御上の圧迫は秀司先生へ集中されて居たので、先生は御上の目にかかってはと御屋敷は勿論、他所でもお手振りを止めておかれたので、かく申されたのであった」。

 この年、秀司は上田嘉治郎と共に、丹波市分署へ一日留め置かれた。翌年春の出直しと思い合わせると、これが秀司にとって最後の留置であった。




(私論.私見)