第65部 1880年 83才 応法の理の動きその3、転輪王講社の設置
明治13年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「応法の理の動きその3、転輪王講社の設置」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【お筆先の執筆】
 1880(明治13)年、1月、教祖がお筆先十五号をご執筆されている。

【「転輪王講社」の設置】
 この頃、お道内には又しても秀司らの応法派の動きが強まりつつあり、これに対して教祖は、道を間違わないようにときつく言い聞かせている。むしろ憂いをも滲ませており、次のように記されている。
 このたびは どんな試しを するやらな
 これでしっかり 心定めよ
十五号6
 いかほどに せつない事が ありてもな
 親が踏ん張る 承知していよ
十五号8
 これからは 親の言ふ事 しいかりと
 承知してくれ 案じないぞや
十五号9
 あすからは 親が働き する程に
 どんな者でも そむきできまい
十五号10
 今までも 四十三年 以前から
 親が現われ 始めかけたで
十五号11

 この頃、秀司とその側近達による応法派は、「応法の理その3」とでも云える動きをしている。この度の「応法の理その3」は仏教系の動きで為された。金剛山地福寺の傘下に入り、「転輪王講社」を設置することによって、合法的な布教を得ようとしていた。当時、布教が公認される為には神道か仏教かキリスト教に属さねば許可されないという宗教統制が敷かれており、秀司ら応法派はこれに対応しようと適宜な寺院.神社の配下になろうと画策し始めた。但し、その為には記紀神話の受け入れが要件とされていた。こうした折、金剛山地福寺との関係取り持ちができた。

 その経過は次のようであったと伝えられている。秀司は、乙木村の山本吉五郎を介して同村の行者山中忠三郎と知り合った。山本吉五郎は、転輪王講社事件に出てくる山本吉治郎の子で幼名を亀之助と言った。「3人の人足社」の一人である。「3人の人足社」とは、安堵村の飯田岩次郎、乙木村の山本吉五郎、上田ナライトを云う。山本親子は、明治初年に息子の吉五郎が神経病で仕事もしないで遊んでいたのを助けられた縁で親子三人熱心に信仰していた。行者曰く、「そういうことなら、金剛山地福寺に願いでたらよろしおます。地福寺は、堺真言教会として認可も受けて皇道仏教でやっているから弾圧はうけませんわ。住職の日暮宥貞(ゆうてい)さんは、教導職の少講義頭やし、仏教についても大変な学僧ですわ。あの方なら万事うまくやりますわ」ということだった。事実、日暮宥貞は、千葉県出身の、若い頃からあらゆる仏法理論を学び、その後さらに長谷寺(真言宗豊山派総本山)で真言蜜教を学んだ俊英だった。祈祷を主にした修験寺であった地福寺の住職となってからも、政府の方針に則りながら、近隣に仏法を復活させるほどのやり手だった。

 しかし、教祖は、この度もこうした「応法の道」をお許しにならず、「そんな事すれば、親神は退く」と仰せられて、厳しくお止めになられた。しかし、先に親神様のお諭しによりおちえを実家に帰して思召しに従った秀司であったがこのたびは、「あんなに怒られるが、何とかして詣るようにしておかないと警察がやかましいから」の伝があるように「教祖の身の安全と道人が不安なくお屋敷に出入りできる道を開く為には止むなし」との判断が勝り、「わしは行く」とて一命を賭して出掛けた。

 こうして、「五月秋」(陰暦五月の田植え時期で陽暦の6、7月に相当する)の前、秀司は、信者でまだ若い岡田与之助と共に地福寺へ出発した。岡田与之助は、足の悪い方をお一人行かせるには忍びないと、自ら進んでお供した。両名は、芋ケ峠通称蒸し芋峠を越えて吉野へ出、金剛山の麓にある久留野の地福寺へとおもむいた。秀司は、平地は人力車に乗り、山道は歩いた。峠では随分困り、腰の矢立てさえも重く、抜いて岡田に渡した程であった。こうして地福寺へ着くと、話しはとんとん拍子に進み、お屋敷は地福寺の部下の堺真言教会三島出張所の説教所ということになった。帰ってきたのは出発以来3日目であった。

 桝井孝四郎の岡田与之助聞書(ききがき)が当時の生々しい雰囲気を伝えている。これを確認する。
 「秀司先生の御供をして私が地福寺へ行ったのは、明治13年の頃であったと思う。そして春であって、五月秋の前だった。秀司先生が行かれるという事に就いて、神様は飛び返るほど大きに怒られた。行くなら神が退くとまで仰せられたのである。だから誰もお供をして行く者がない。皆は青くなっていた。朝の五時頃であつた。私は草鞋(わらじ)を穿(は)いて弁当を持って行った。秀司先生はお車であったので、私はその車の後押しをして行った。秀司先生は白の小倉の縦筋(たてすじ)の通った袴を穿いて居られた。そして腰には大きなやたてをさして居られた。というのは吉野で、ごまの札を書いて貰われる為であった。それで岡の方から芋蒸坂の方から登って行った。土佐の城を右の方に見ながら登って行った。その芋蒸坂と云うのは、鼻の下に芋をぶら下げておいたら、その坂があまり急であるので、フウフウ鼻息を荒くして行くと、その内に芋が蒸されてしまうからである。と云うぐらいに急な坂であつた。弁当はその坂の麓で食べた。そしてその坂まで先生の車が行った。そこから車からお降りになってお歩きになった。その坂であるから、私は先生の後から後押しをして登って行った。先生は腰にさしたるやたてすら重いと云われたので、そのやたても私が持って、どんどんと坂を登って行った。そして上市(かみいち)に出て、上市の渡しを渡って吉野に行った。日暮れであつたが未だ明るかったので、芳水院(よしみずいん)へ連れて行って貰った。弁慶の力釘(ちからくぎ)を見たりしていた。それから宿に着いた。宿と云ってもお寺が宿をやっているのである。その寺でごま札ほ書いて貰われた。その夜、先生がお風呂に入られた時に、私が肩を流しにやらして貰った。その時に先生が仰言(おっしゃ)った。『あんなに怒られるが、何とかして詣るようにしておかないと、警察がやかましいから』と先生が云って居られた。それで先生のこの時の御心持ちは十分に解(わか)る」(「みちのとも」昭和11年4月号77-78頁、「地福寺へ御供せられた話」)。
 9.22日(陰暦8.18日)、金剛山地福寺住職の日暮宥貞を講社社長、秀司を副社長、取締役出納役を山澤良助、山本亀三郎、出納役を辻忠作とする天理如来という仏式の講社「転輪王講社」の開莚式を行なうこととなった。開莚式の日、修験者の祈祷の続く中、お屋敷の門前で五分角ほどの青杉葉を積んで大護摩がたかれ、日暮宥貞が祭主として仕切り、山伏の法衣で戒刀を抜いて盛んに祈祷を勤めた。この時、大勢の信者が参拝していたと伝えられている。この時より、お屋敷内は、教祖の「おつとめ」と日暮の「おつとめ」が別々に行われるようになった。
 「3人の人足社と言われ中の1人、乙木村の山本吉五郎(他の人足社は、安堵村の飯田岩次郎、上田ナライト)」。
 「転輪王講社事件に出てくる山本吉治郎の子、吉五郎は幼名を亀之助と言った。明治13年、余り迫害が激しくなるので、秀司先生は乙木村の山本吉治郎の勧めで、金剛山地福寺の転輪王如来を祀り、布教認可を取ろうとした。余り反対が激しいので、山本吉治郎が「天理王命がない神様で警察から止められるなら、天輪王命としたらどうだ。天輪王というのは仏教にチャンとある。大日如来即ち、太陽のことだ。天輪王命としたら警察も叱らんやろ」と申し出たのである。この山本吉治郎という人は、明治初年に息子の吉五郎(当時は亀之助)が神経病で仕事もしないで遊んでいたのを助けられ、親子三人熱心に信仰していた。後、吉五郎さんは転輪王事件で懲りて以後信仰を中絶したが「人足社」と神様からいわれたほどの理のある人であった。何故、山本吉治郎が金剛山の日暮宥貞を知っていたかというと、彼は金剛山地福寺の初穂のいはば周旋方であった」。
 中山慶一本部員が次のように評している。
 「そりもう、親を思う秀司先生の、人間としての真実の心と、人類の親としての教祖の御思いとは、いつでも食い違う。悲しい食い違いやな。秀司先生がせっかく命を懸けて一生懸命に努力されても、いつも悲しい食い違いができたのや。秀司先生には男の涙がある、と私は若い時分から思う👇きた。しかし、たまたま地福寺出張所開莚式があったので、その月の月次祭に鳴り物を入れておつとめができたわけで、秀司先生は本当に満足だったと思う。大きな教えの台になってくださったと思うね」(「教祖伝参考写真集」)。

【教組の立腹の様子】
 開莚式の日、教祖は中南の門屋から出られて、暫くその様子をご覧ぜられていたかと思ううちに引き下がられた。その後、十畳の部屋に三尺もの高い段をつくり、そこに赤い座布団を乗せて、その上に座して、「あんなもの嘘やで、つとめ場所は嘘やで、これのみが真実なのや」とお話された、と伝えられている。

 稿本天理教教祖伝逸話篇73「大護摩」。
 「明治十三年九月二十二日(陰暦八月十八日)転輪王講社の開筵式の時、門前で大護摩を焚いていると、教祖は、北の上段の間の東の六畳の間へ、赤衣をお召しになったままお出ましなさ、お坐りになって、一寸の間、ニコニコとごらん下されていたが、直ぐお居間へお引き取りになった。 かねてから、地福寺への願い出については、「そんな事すれば、親神は退く」とまで、仰せになっていたのであるが、そのお言葉と、「たとい我が身はどうなっても。」 と、一命を賭した秀司の真実とを思い合わせる時、教祖の御様子に、限りない親心の程がしのばれて、無量の感慨に打たれずにはいられない」。
 教祖は、こうした「お道」の変質化に対し、激しく「残念、立腹」のお言葉を発し、かってなかったほどお怒りになられた。
 さあ今日は 月日の腹が はぢけたで
 控えていたる 事であれども
十五号13

 神意は、もはや辛抱も限界に達した、もう鼻緒の尾が切れたということである。余程にご立腹されたということになる。次のようにも宣べられている。

 こらほどに 残念積もりて あるけれど
 心次第に 皆なたすけるで
十五号16
 如何ほどに 残念積もりて あるとても
 踏ん張りきりて 働きする
十五号17
 この元は 四十三年 以前から
 えらいためしが かけてあるぞや
十五号41
 この話 四十三年 以前から
 えらいためしが これが一条
十五号50
 この先は 谷底にては 段々と
 多く陽気が 見えてあるぞや
十五号59
 段々と 用木にては この世を
 始めた親が 皆な入り込むで
十五号60

 更に、秀司を念頭において、次のように厳しく叱責している。

 この話 四十三年 以前から
 胸の残念 今晴らすでな
十五号81
 それ知らず 内なる者は 何もかも
 世界なみなる 様に思ふて
十五号82
 この道は 四十三年 以前から
 まこと難渋な 道を通りた
十五号83
 このたびの つとめ一条 止めるなら
 名代なりと すぐに退く
十五号88
 この話し 何と思う�て 傍(そば)なもの
 もうひと息も 待ち�ていられん
十五号89
 早々と 鳴り物なりと たしかけよ
 つとめばかりを せへているから
十五号90

 教祖は、秀司らに対しては、早くより「九ツ ここでつとめをしていれど、胸の分かりた者はない」(み神楽歌三下り目)ともどかしさを述べられていたが、この度の叱責は秀司の進退に関わる重大な予言を為された。例え中山家の戸主であろうと、教祖の世界助けのおつとめをねじ曲げたり邪魔するようであったら命が危ないぞ、と厳しいお仕込みをしていた。そこには、拝み祈祷の金儲けに向かう道を峻拒する強い姿勢が見られた。教祖は、こうした中途半端な「応法の道」を一日も早く一掃して、お屋敷内の応法的な動きに対抗するかの如くに、例え官憲の圧迫があろうともそうした外部からの圧力に心を奪われず、ただ一条に「世界たすけの道」に向け「おつとめ」に精励することを促された。

 しかし、これが一時的にせよ警察の目を塞ぐ防壁となったのか、この月の命日の9.30日(陰暦8.26日)には、初めて三曲をも含む鳴物、おつとめの手も揃えて「神楽の本づとめ」が行なわれた。これが「お道」初めての本格的「神楽の本づとめ」となった。伊蔵が「かしこねのみこと」の役を勤めている。道人は、官憲の取締りも地福寺の出張所も全く眼中になく、たゞ一条につとめを急込まれる親神の思召のまに/\、心から勇んで賑やかに勤めた。

(私論.私見) 「お筆先十五号88」の「名代」考
 「お筆先十五号88」の「名代」は、秀司説、秀司の庶子の音次郎説、教祖説がある。これを愚考する。名代を神の名代として受け取るならば教祖説、教祖が御身を隠された後は本席になる。しかし、名代をお道の名代として受け取るならば、秀司説ということになる。秀司の庶子の音次郎説は考えにくい。

【「転輪王講社」の動き】

 今や、つとめ場所には仏像だけでなく星(転輪王)曼陀羅が飾られることになり、真言宗の象徴である輪宝が染め抜かれた紫の幕が張り廻らされ、転輪王講社と書かれた提灯が釣り下げられた。全くお寺風の雰囲気になり、この後暫くの間お屋敷内では、社長の日暮宥貞による星曼陀羅教理に基づく説教が始まることとなった。

 星曼陀羅とは、真中に大日如来や釈迦如来で表した転輪王を置いて、七曜星、九曜星、十二宮(十二支)、二十八宿(吉凶日判断)などを配置して、自分の運命をしり、その中尊の転輪王を拝んで、又は祈祷して良い運勢に変えて頂くというものだった。これを、みきの教えの言葉を使って説くところが日暮宥貞の才知に長けたところであった。即ち、星曼陀羅の配列を、月日親神のぬくみ、すい気などの十の働きで説き分け、そのそれぞれに中尊の転輪王を守る十人の守護神名を付け、「転輪王と十柱の神々」を祀っていた。又、破軍星や源助星などの星の話しが入り込み、方位の話しも入りまじった。その説法は立板に水の如く、そして変化に富み、みきの高弟や新たに寄り来る信者たちにもよく理解できた、それは、みきの諭すような話しと違って、華やかで感動的で多分に演出されて面白く、十分に人の耳や眼をひきつけるものだった。こうして、みき教理が日暮教理へと変質しつつ、「星曼陀羅の祈祷話し」に変わって行くこととなった。

 ところで、八島教本では、転輪王曼荼羅には二系統あると云う。一つは、一字金輪像で、壺坂寺の転輪王曼荼羅が大日如来の姿で転輪王が描かれているのがこれに相当する。王の持っている宝は世界助けする為に民から借りているものである、という借物の理を説く。東寺、和歌山の高野山などに伝わる。もう一方の系統は、四角図の星曼荼羅で、その中尊には釈迦如来の姿で転輪王が描かれている。住みよい世界を作った理想的な王の姿を釈迦如来で表し、転輪王に助けて貰おうという祈祷系で、月様、日様、星様に願いを掛けるという拝み祈祷系の教説に拠っている。法隆寺や長岳寺などの丸い星曼荼羅と四角図の星曼荼羅があり、このたび日暮れが説いていたのは星曼荼羅教説であった。

 日暮宥貞は日を定めて説教にやって来始めた。秀司や高弟たちからそれなりのみきの話しを聞き、それなりに理解し、それを仏教理論と折衷させ、独特の教義を生み出していた。その話しは例えば次のようであった。

 「死んでも霊魂は不滅だから、生前の行いに見合った身体や境遇に生まれ変わる」。
 「人は皆な前生因縁を通り返ししている輪廻転生の中を生きている」。
 「教祖は、天皇家のご先祖イザナミノミコトの生まれ変わりの尊い魂だから、天皇家の御先祖、オモタリノミコト様は、天にては云々、 神道にては云々 、仏教にては云々 」。

 その他「元始まりの話し」も「かんろ台づとめの理」も大きく変質された。56億7千万年後に再びこの世に生まれでて人々を救いたいという弥勒菩薩思想に合わせて、「9億9万9千9百9十9年立ったから教祖は神の社に定まった」と説いた。ぢばに神名をと、神を中山家の屋敷内に取り込んだ。天皇政府の方針に合わせて、「教祖には天皇家の先祖たちが次々に天降ったから百姓の中山みきでも神懸かって立教できた」という話しになった。

 日暮の説教は、真言蜜教と「お道」教義を折衷させた出色のものであったが、「おつとめを通じて世の立替え、世直しに向かう」と云う「お道」教義の眼目が去勢されていた。拝み祈祷的なものに回帰させられていたが、俗耳に入りやすかった。それは、生まれ変わりの因果応報論や星占いの話しが、それまでの仏説によって説き続けられており、既に下地ができていたことによると思れる。この経緯で、「お道」教義が「日暮教理」とでも云える方向へ変質させられて行くこととなった。私には、この教理が根強く教内に今日も続いているやに見受けられる。


【講社名簿が整頓される】

 この講社結成を一つの契機として講社名簿が整頓されることとなった。名簿は、第1号から第17号まであって、うち、第1号から第5号までは大和国の道人を誌し、その人数は584名、第6号から第17号までは河内国、大阪の道人を誌し、その人数は858名、しめて大和、河内、大阪に跨って1442名の名が連ねられている。今となっては、これが当時の教勢を偲ぶ、この上もない資料となっている。思いも寄らぬ副産物ではあった。高野友治が復元第5号に「天輪王講社名簿調査報告」を発表している。


【教祖が「道がつぶれる」と叱る】
 「道がつぶれる」(昭和8年11.5日号みちのとも「何も知らぬ子供のすること」佐津川準より)。
 「明治13年になってから、もう如何しても教会の組織をせん事には仕様がない。公けの許可がないばかりに益々迫害を受けるのだから、何とかして便法はないものかと思案した結果、金剛山地福寺の配下に所属して、転輪教会と云う仏式の教会を設ける事にしたのであるが、これは教祖のお心に添わぬところか、『お道は外から何ぼ潰そうとしても潰れるものではないが、潰されまいとして人間心を使えば神は退く。神が退いたらお道は潰れてしまう』と迄、キツイお叱りでありました云々」。

【教祖が「こふき話」を語り始める】
 この頃より、教祖が、「こふき話」(「元初まりのお話」を中心とする教理)を集中的に話し始める。

 (道人の教勢、動勢)
 夏頃、大和伊豆七条村(大和郡山市)に喜多治郎吉を講元とする誠心講(後の治道大教会)ができる。これより大和に講社が続々できる。積善講(平安)、心実講(城法)、心勇講(敷島)、永神講(梅谷)、天明講(八木)、日の本講(旭日)、天龍講(郡山)、治心講(中和)、大和講(櫻井)、明元講(田原)がつくられた。
 松田音次郎(37歳)
 1880(明治13)年、河内国若江郡刑部村(現・大阪府八尾市刑部)の農業/松田音次郎(37歳)が入信。
 上原佐助(30歳)
 この年、備中国小田郡笠岡村(現・岡山県笠岡市)出身で当時大阪在住の畳表商/上原佐助(幼名・政太郎、のち儀七)が(30歳)が伯父上原佐吉に匂いをかけられ、教理に感じて入信。入信。伯父上原佐吉を頼り大阪へ行き、生家笠原家より上原家の養子となり佐助を名乗る。明治7年、川合とよ(のちにさとと改名。笠岡大教会設立・初代会長)と結婚。(稿本天理教教祖伝逸話篇127「東京々々、長崎」)

 1912(明治45).3.11日、出直し。翌年、初参拝。明治16年、教祖より赤衣を貰う。明治18年、店をたたみ、家族と別れ東京布教に出る。さとらは笠岡へ。明治24年、本席より「清水のさづけ」。東分教会(現大教会)初代会長。

【この頃の逸話】
 井筒梅治郎夫婦、娘たね
 稿本天理教教祖伝逸話篇「71、あの雨の中を」。
 「明治13年4.14日(陰暦3.5日)、大坂本田(ほんでん)町(大阪市西区本田)の井筒梅治郎・とよ夫婦は、腹から下へかけての百いぼをご守護頂いた長女娘のたね(2歳)を伴って、初めておぢばへ帰らせて頂いた。大阪を出発したのは、その前日の朝で、豪雨の中を出発したが、おひる頃カラリと晴れ、途中一泊して、到着したのは、その日の午後4時頃であった。早速、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、『あの雨の中を、よう来なさった』と仰せられ、たねの頭を撫でて下さった。更に、教祖は、『おまえさん方は、大阪から来なさったか。珍しい神様のお引き寄せで、大阪へ大木の根を下ろして下されるのや。子供の身上は案じることはない』と仰せになって、たねの身体の少し癒え残っていたところに、お紙を貼って下さった。たねが、間もなく全快の御守護を頂いたのは、言うまでもない。梅治郎の信仰は、この、教祖にお目にかかった感激とふしぎなたすけから、激しく燃え上がり、ただ一条に匂いがけ、お助けへと進んで行った」。
 村上幸三郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「72、救かる身やもの」。
 「明治13年4月頃から、和泉国陶器村(大阪府堺市)の村上幸三郎(41歳)は、男盛りのさ中というのに座骨神経痛のために手足の自由を失い、激しい痛みにおそわれ、食事も進まない状態となった。医者にもかかり様々な治療の限りをつくしたが、その効果なく、本人はもとより、家族の者も、奈落の底へ落とされた思いで、明け暮れしていた。何とかしてと思う一念から、竜田の近くの神南村にお灸の名医が居ると聞いて行ったところ不在のためガッカリしたが、この時、平素、奉公人や出入りの商人から聞いていた庄屋敷の生神様を思い出し、ここまで来たのだからとて、庄屋敷村をめざして帰って来た。そして、教祖に親しくお目にかからせて頂いた。教祖は、『救かるで、救かるで。救かる身やもの』とお声をおかけ下され、いろいろ珍しい、お話をお聞かせ下された。そして、かえり際には、紙の上に載せた饅頭三つとお水を下された。幸三郎は、身も心も洗われたような、清々しい気持ちになって帰途についた。家に着くと、遠距離を人力車に乗って来たのに、少しも疲れを感ぜず、むしろ快適な心地であった。そして、教祖から頂いたお水を、なむてんりわうのみこと、なむてんりわうのみこと、と唱えながら、痛む腰につけていると、三日目には痛みは夢の如くとれた。そして半年。おぢば帰りのたびに身上は回復へ向かい、次第に達者にして頂き、明けて明治14年の正月には本復祝を行った。幸三郎42才の春であった。感謝の気持ちは、自然を足をおぢばへ向かわしめた。おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。教祖は、『金や物やないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように』と仰せられた。幸三郎は、そのお言葉通り、たすけ一条の道への邁進を堅く誓ったのであった」。
 真明組周旋方の立花善吉
 稿本天理教教祖伝逸話篇「115、おたすけを一条に」。
 「真明組周旋方の立花善吉は、明治13年4,5月頃自分のソコヒを、続いて父のせん気をお助け頂いて入信。以来数年間、熱心に東奔西走してお助に精を出していたが、不思議なことに、お助にさえ出ていれば、自分の身体も至って健康であるが、出ないでいると何となく気分がすぐれない。ある時、このことを教祖に申し上げて、何故でございましょうかと伺うと、教祖は、『あんたは、これからお助を一条に勤めるのやで。世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。道は辛抱と苦労やで』、とお聞かせ下れされた。善吉は、このお言葉を自分の生命として寸時も忘れず、一層助一条に奔走させて頂いたのである」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「94、善吉さん、良い声やったなぁ」。
 「或る日、立花善吉は、大阪から十里の道のりを歩いて、ようやく二階堂村(天理市)まで来ると元気が出て、得意の浄瑠璃の一節を語りながらおぢばに向った。お屋敷に到着して、教祖にお目にかかると、教祖は、『善吉さん、良い声やったな』と仰せになられた。善吉は、教祖が見抜き見通されていたことへの驚きと、道の子供への有難い心配りへの感激に、言葉も出なかった」。
 山沢為造、良蔵
 稿本天理教教祖伝逸話篇「80、あんた方二人で」。
 「明治13、4年、山沢為造が24、5才の頃。兄の良蔵と二人で、お屋敷へ帰って来ると、当時、つとめ場所の上段の間にお坐りになっていた教祖は、『わしは下へ落ちてもよいから、あんた方二人で、わしを引っ張り下ろしてごらん』、と仰せになって、両手を差し出された。そこで、二人は、畏れ多く思いながらも、仰せのまにまに、右と左から片方ずつ教祖のお手を引っ張った。しかし、教祖は、キチンとお坐りになったまま、ビクともなさらない。それどころか、強く引っ張れば引っ張る程、二人の手が、教祖の方へ引き寄せられた。二人は、今更のように、人間業ではないなあ。成る程、教祖は神のやしろに坐します、と心に深く感銘した」。
 山本藤四郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「62、これより東」。
 「明治13年夏、山本藤四郎は、妻・しゆの腹痛を、その後、次男・耕三郎の痙攣(けいれん)をお助け頂いて、一層熱心に信心を続けていた。ある年の秋、匂いのかかった病人のお助けを願ってお屋敷へ参拝した処、教祖から『笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで』とお言葉を頂戴して、家へ帰って見ると、病人は既に助けて頂いていた。こうして信心するうちに親しくなった鴻田忠三郎が、藤四郎の信心堅固なことを教祖に申し上げると、教祖から、『これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ』とのお言葉がなされた。そこで、忠三郎は、辻忠作と同道して笠村へ行き、藤四郎にこのお言葉を伝えた」。
 中川文吉
 稿本天理教教祖伝逸話篇「75、これが天理や」。「教祖の力比べ説話」の一つである。
 「明治12年秋、大阪の本田に住む中川文吉が、突然眼病にかかり、失明せんばかりの重態となった。隣家に住む井筒梅治郎は、早速おたすけにかかり、三日三夜のうちに、鮮やかな御守護を頂いた。翌13年のある日、中川文吉は、お礼詣りにお屋敷へ帰らせて頂いた。教祖は、中川にお会いになって、『よう親里を尋ねて帰って来なされた。一つ、わしと腕の握り比べをしましょう』と仰せになった。日頃力自慢で、素人相撲の一つもやっていた中川は、このお言葉に一寸苦笑を禁じ得なかったが、拒む訳にもいかず、逞ましい両腕を差し伸べた。すると、教祖は、静かに中川の左手首をお握りになり、中川の右手で、御自身の左手首を力限り握り締めるように、と仰せられた。そこで、中川は、仰せ通り力一杯に教祖のお手首を握った。と、不思議な事には、反対に自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛さを感じたので、思わず、堪忍して下さい、と叫んだ。この時、教祖は、『何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか』と仰せられた」。

 中川文吉は嘉永元年生れ。明治12年、前田藤助(種市)の話を隣家の井筒梅治郎に伝え、藤助のお助けで井筒たねが御守護をいただく。同年、文吉も眼病を助けられて入信する。明治32年、教会設置。芦津部属・本津初代会長。大正7年、出直し(享年71歳)。


 (当時の国内社会事情)
 1880(明治13).4.5日、集会条例制定される。許可を受けずに3人以上の者が寄って話し合ってはいけないという厳しい法律となった。背景には、盛んな自由民権運動があった。憲法を制定する替わりに民権運動をやめろという政策が為された。7.17日、太政官(だじょうかん)第36号布告刑法が公布される。
 1880年、国会期成同盟ができる。
 この年前後、米値高騰する。六合雑誌創刊。
 (田中正造履歴)
 1880(明治13)年、40歳の時、栃木県会議員に当選、以後4回連続当選。有志とともに国会開設運動に尽くす。

 (宗教界の動き)
 1880(明治13)年、7.17日、太政官布告第36号(これが旧刑法第427条第12号に繋がる)で「妄りに吉凶禍福を説き、又は祈祷、符呪等を為し、人を惑わして利を図る者を拘留または科料に処す」。
 12月、芝東照宮から東京の日比谷に設けられた神道事務局神殿へ祭神を遷す際、祭神をめぐり神道界に激しい教理論争が起こった。神道事務局は事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、その中心を担っていたのは伊勢神宮大宮司の田中頼庸ら「伊勢派」の神官であった。これに対して千家尊福を中心とする「出雲派」は「幽顕一如」を掲げ、祭神を大国主大神を加えた五柱にすべきとした。こうして神道事務局に祭神論が起こり、神道大会議を開くことを決議する。伊勢派のなかにも出雲派支持者が多く出たが、伊勢派の幹部はこれを危惧し、明治天皇の勅裁により収拾した。神道事務局神殿は宮中三殿の遙拝殿と決定し、事実上の出雲派の敗北となった。政府は、神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したと云われている。
 
 この経緯は「神道大教の教史」に次のように記されている。
 「神道事務局は、神道教導職分離以後、大教院を移して、神道大教院の神殿に遷座祭が行われんとする明治13年、この事務局の神殿に大国主命を合祀するか否かで出雲派と伊勢派とに別れ祭神論争に発展、政府は神道大会議を開催し御祭神については、勅裁を仰ぐ事となり、明治14年2月勅裁によって宮中の三殿を遥拝すべき旨が仰付けられ、又、管長に代えて神道総裁に一品有栖川宮幟仁親王が御就任なされた。この時、『天神地祇・賢所・皇霊殿』の二幅対軸の御神霊軸を御親筆され祭神論は収拾された」。

 奥美州等、天輪王明誠教団を創立。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)





(私論.私見)