第64部 1877年~ 80才 鳴物の教え、たまへの誕生
明治10年~

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「鳴物の教え、たまへの誕生」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【お筆先】
 1877(明治10)年、教祖はお筆先十三号をご執筆なされている。

【鳴物の教え】
 この頃教祖は、自ら琴、三味線、胡弓など「おつとめ」用の「三曲の鳴物」を教えて、鳴物入りの陽気な「おつとめ」を勤めることをおせき込みになった。この時の様子は次のようであった。最初に教祖直々に女鳴物を教わったのは、琴は辻とめぎく(辻忠作の娘、8歳)、三味線は飯降よしえ(飯降伊蔵の娘、12歳)、胡弓は上田ナライト(上田の娘、15歳)、控えは増井とみえ(11歳、1867(慶応3)年、現大阪府柏原市大県生まれ。増井りんの長女。同41年、42歳で出直し)。この頃、飯降よしえはほとんどお屋敷に留まり、時には一ヶ月もつききっきりで教祖の側で鳴り物を習っていた、と伝えられている。飯降よしえは「三味線を持て」というお言葉により、「郡山へでも習いに行きましょうか」と伺ったところ次のように仰せられた。
 習いにやるのでもなければ、教えに来て貰うのでもないで。この屋敷から教えだすものばかりや。世界から教えて貰うものは、何もない。この屋敷から教えだすので、理があるのや。

 他にも次のようなお言葉が為されている。
 これら先になれば、我も我もと出たがる者がるで。それで、代わりに出してやるが良い。なれども、三味線だけ持たねばいかんで。外の鳴り物は、地の者がなかったら、並べておいても役に立つで。
 稽古できてなければ、道具の前に座って、心で弾け。その心を受け取る。
 取締りの側からすれば、器物を没収しても直ぐに新しいものを作るし、信仰をやめろと命じても、効き目がないどころか却って積極的な動きさえみえる。こうした「お道」の信仰態度が当局を刺激して、取締りの方向をますます厳重なものへと追いやっていったともいえる。しかし、それを危ぶむのは人間思案のなせることであって、教祖の思し召しはそのようなことには一切無頓着で、つとめをせき込み、助けをせき込む一念があるばかりであった。こたび鳴物入りの「おつとめ」となり、取締り側の監視の目が厳しくなる一方となった。
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「みちのだい叢書より(その六)②」を転載しておく。
 「(つづき)丁度、この頃は教祖様には深い思召のまゝに神楽づとめの準備を次々とおすすめ遊ばしていられました頃でありますが、子供あがりの芳枝祖母様でありましたが、結講にも勤めにんぢう、鳴物人ぢうとしての御命を頂かれたのでありました。その時の感激を後日、【鳴物人衆としては、初め三人お定めになったのや(註/他に控え一人あり)そのうちで私が一番先にお言葉を頂いたのやが、私のおさわりは右の人さし指が痛むので教祖様にお伺いすると『三味線を稽古させよ』と仰言った。(中略)それからは毎日教祖様の御前で教えて頂いたのや。教祖様はまた『これから先になれば、我も我もと出たがるものがあるで、それは代りに出してやったらよい。けれども三味線だけはこっちで持たんといかんで。外の鳴物は出る者がなかったら列べといても役に立つで』と仰言った。(中略)この様に夫々稽古したのやが、教祖様は、『まさかの時に間に合わせにゃならんから、しっかり手合わせをせよ』と仰言って、みんな一生懸命にしたのやが、いよ/\初めて本勤したのが、前々から云うた通り明治13年の旧8.26日やったのや(復元第三巻所載、飯降尹之助様著「永尾芳枝祖母口述記」参照以下同様)

 としみじみと述べられるのが常でありました。十四、五才の小娘ながら鳴物人衆の理を頂き、その使命を一生涯果たし通されたことは 今なお御承知の方も多いことと思います。こゝに至るまでには子供ながら数々の苦労の中もよくたえて、純真な乙女心のまゝに真直ぐに伸ばされて行った強い堅い信仰があったのでありました。こうした中に明治も十年を過ぎ、教祖様の御身辺には愈々圧迫干渉が日毎に激しく、それとともに飯降の家には度々身上事情で伏せ込みをお急き込み頂き、遂に明治14年の秋、『とても櫟本にいては、教祖様の御身を守ることはでけんから、せめてお前だけでも教祖様のお側へ常詰させて貰え』との父様の言葉に従って母様は只一つ風呂敷包をさげ、二人の子供の手をひきながら櫟本の我が家を去って、先にお屋敷へ伏せ込ませて頂いたのでありました。その後、16才の芳枝祖母様は櫟本に残って、お屋敷へと通う父様の身のまわりや家事万端を引き受け、なおまた家を引き払う後々の整理片付けをきりまわされたのでありました。教祖様は『何にも持って来るのではないで。神の方で用意して待っている』と仰言ったとかねがね申しておられましたが、娘盛りの着物一枚も着飾りたい年頃に、村人が『どうでも行きなはるなら、乞食する覚悟で行きなはれ』とまで言うたお屋敷へ、只一途に教祖様のお言葉のまゝに伏せ込ませて頂く上から、家財を一つ一つ始末し、処分して行った十六娘の芳枝祖母様の心境は思うさえ涙の浮ぶものがありますが、御当人には既に強い堅い信仰に燃え立った心定めが、しっかりと出来ていたのでありました。(つづく)」。
 2017.1.17日付ブログ「九つの道具と九つの鳴物」が次のように述べている。
  「神様は人間に陽気ぐらしをさせたいと九つの道具をお与えになられた。目、耳、鼻、口、右手、左手、右足、左足、男女一の道具である。おつとめは九つの鳴物で執り行われる。そして、九つの鳴物は九つの道具に対応していると教えられている。拍子木は目、チャンポンは耳、胡弓は鼻、笛は口、三味線は右手、すり鉦は左手、琴は右足、太鼓は左足、小鼓は男女一の道具。諸井政一氏が教祖の高弟から聞いた話である。これ以外に記録も口伝も存在しない。であれば、これ以外の説はあってはならない」。
 52「琴を習いや」。
 明治十年のこと。教祖が、当時八才の辻とめぎくに、「琴を習いや」と、仰せになったが、父の忠作は、「我々の家は百姓であるし、そんな、琴なんか習わせても」と言って、そのままにして、日を過ごしていた。すると、忠作の右腕に、大きな腫物が出来た。それで、この身上から、「娘に琴の稽古をさせねばならぬ」と気付き、決心して、郡山の町へ琴を買いに行った。そうして、琴屋で、話しているうちに、その腫物が潰れて、痛みもすっきり治まった。それで、「いよいよこれは、神様の思わくやったのや」と、心も勇んで、大きな琴を、今先まで痛んでいた手で肩にかついで、帰路についた、という。
 53「この屋敷から」。
 明治十年、飯降よしゑ十二才の時、ある日、指先が痛んで仕方がないので、教祖にお伺いに上がったところ、「三味線を持て」と、仰せになった。それで、早速その心を定めたが、当時櫟本の高品には、三味線を教えてくれる所はない。「郡山へでも、習いに行きましょうか」と、お伺いすると、教祖は、「習いにやるのでもなければ、教えに来てもらうのでもないで。この屋敷から教え出すものばかりや。世界から教えてもらうものは、何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや」と、仰せられ、御自身で手を取って、直き直きお教え下されたのが、おつとめの三味線である。

 註 飯降よしゑは、明治二十一年結婚して、永尾よしゑとなる。

 54「心で弾け」。
 飯降よしゑは、明治十年十二才の時から三年間、教祖から直き直き三味線をお教え頂いたが、その間いろいろと心がけをお仕込み頂いた。教祖は、「どうでも、道具は揃えにゃあかんで」、「稽古出来てなければ、道具の前に坐って、心で弾け。その心を受け取る」、「よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ッと鳴るやろが。そうして、稽古するのや」と。
 55「胡弓々々」。
 明治十年のこと。当時十五才の上田ナライトは、ある日、たまたま園原村の生家へかえっていたが、何かのはずみで、身体が何度も揺れ動いて止まらない。父親や兄がいくら押えても、止まらず、一しょになって動くので、父親がナライトを連れて、教祖の御許へお伺いに行くと、「胡弓々々」と、仰せになった。それで「はい」 とお受けすると、身体の揺れるのが治まった。こうして、胡弓をお教え頂くことになり、おつとめに出させて頂くようになった。

【和太鼓】
 和太鼓は生活に欠かせない祈りと深い関係がある。次のように述べられている。
 太鼓の歴史は古く、縄文時代の頃から存在していた。情報伝達の道具、仲間同士の伝達の合図や、神や祖先との対話の為の道具として使われていたと推測される。やがて神道が生れるや神事として行われるようになった舞踊や歌謡に太鼓も用いられ、祈りを神に伝える神具としての役割、太鼓の反響音が儀式を神聖化する役割も果たすようになった。古来、太鼓の音は神鳴りの雷に例えられ神聖な力を持ち、遠くまで響くを打つことが神に願いを届けるとされた。太鼓を叩くことにより村の田に巣食う邪気を払い、五穀豊穣をもたらすとされた。

【教祖の「上、高山」批判】

 教祖の高山批判はお筆先三号に続き、十三号でも次のように記されている。

 しかと聞け 高山にても 谷底も
 見れば月日の 子供ばかりや
十三号26
 世界中 一列は皆な 兄弟や
 他人というは 更にないぞや
十三号43
 高山に 暮らしているも 谷底に
 暮らしているも 同じ魂
十三号45
 それよりも 段々使う 道具わな
 皆な月日より 貸しものなるぞ
十三号46
 それ知らず 皆な人間の 心では
 なんぞ高低 あると思うて
十三号47
 月日には この真実を 世界中へ
 どうぞしっかり 承知さしたい
十三号48
 これさい 確かに承知 したならば
 謀反の根は 切れてしまうに
十三号49
 月日より 真実思う 高山の
 戦い災禍 治めたるなら
十三号50
 この模様 どうしたならば 治まろう
 陽気尽くめに 出たることなら
十三号51
 しかと聞け 高山やとて 谷底を
 ままにしられた 事であれども
十三号56
 月日には どんなところに いるものも 
 胸の内をば しかと見ている
十三号98
 胸のうち 月日心に かのうたら 
 いつまでなりと しかと踏ん張る
十三号99

 この年の2月、西南の役が起こっている。これが倒幕運動、西南の役と続く権力闘争に対する教祖の観点であった、と思われる。この観点は後に更に補強されている。

 今日までは 大社高山 はびこりて
 ままにしていた 事であれども
十四号30
 これからは 親が替わりて ままにする
 これ背いたら すぐにかやすで
十四号31
 今までは 高山やとて けんけんと
 ままにしていた ことであれども
十五号57
 これからは 如何ほど高い 山でもな
 谷底ままに さらに出来まい
十五号58

(私論.私見)

 つまり、明治新政府の動きを上述のように捉え、「高山の説教」と断定し、これに真っ向から教義的に対決していったのが教祖であったという構図が見えてくる。ちなみに、この観点は、当時の教派神道13派の中にあって最も先鋭的な政府批判であった。

【たまへの誕生】

 1877(明治10)年、2.5日(陰暦9.12.23日)、たまへが秀司の一子として平等寺村で生まれた。たまへの誕生は、かねてから思し召しを述べて、待ち望んで居られたところである。教祖は、西尾ゆき等を供として、親しく平等寺村の小東家へおもむかれ、嫡孫の出生を祝われた。


 5.14日(陰暦4.2日)、丹波市村事務所の沢田義太郎が、お屋敷にやってきて、神前の物を封印した。秀司が、平等寺村の小東家へ行って不在中の出来事である。


【秀司が40日収監される】

 5.21日(陰暦4.9日)、奈良警察署から秀司宛てに召喚状がきた。秀司は、楢警察署に十日留置、次に奈良監獄署に三十日拘留で都合四十日間留め置かれた上、罰金に処せられ、帰ってきたのは、6.29日(陰暦5.19日)であった。その理由は、杉本村の宮地某が、ひそかに七草の薬を作り、これを秀司からもらったものであると警察署へ誣告した為である。この頃から、秀司は、「人さえこなければ、こんなことはない」と云って、道人のやってくるのを拒み始めていた形跡がある。諸井政一手記「改定正文遺韻」が、この時の教祖のお言葉を次のように伝えている。

 「監獄へ曳かれるというのも誰がしたと思うなよ。神の事聞かんから神が連れていぬのやで。神が止めているから出られんのや。神の云う通り早くつとめに掛かるなら直ぐに連れて帰るほどに。つとめをせよ」(諸井政一手記「改定正文遺韻」)。

 桝井伊三郎が次のように証言している。

 「今から三十六年前の事でした。それは先生が奈良の警察へ呼び出されて色々尋問をお受けになりました際、先方では何か薬でも用いるのであろう、それを明白(あきらか)に白状しろと申すのですが、こちらには全くそんな事がないので、あくまで知らぬと仰せられたそうです。ところず一人の探偵が申しますには、この場では薬を用いたと云わなければ、どうしても済まないのだから、用いたと云えと無理強いに強いられたので、先生は止むを得ずそう仰せられたところから遂に無実の罪にお落ちになられたのでございます。実に御心の裡(うち)のやるせなさ御察し申すも恐れ入る次第です。ところがそれより三年経ってその探偵の息子の嫁の姉が俄かに気狂いになって、三島の地場が恐ろしいと狂気の中から云ったので、大変探偵もその天罰に驚いて懺悔したそうでございます」(みちのとも第219号34頁、桝井伊三郎「中山秀司先生を憶ふ」、明治43.3.10日発行)。

 諸井政一手記「改定正文遺韻」は、刑を終えて帰宅した秀司の言葉を記している。

 「先生は熱心の人々に対して、『皆が寄って来てくれるは誠に忝(かたじけな)いけれども、かように色々心配しても、どうしても警察の権利で苦しめられるから、もうこれからは小始末(こじまつ)するほどに、皆もなるだけ来んようにしてくれるよう』と、返す返す仰(おっしや)る」。

 これに対し、教祖は、「こじまつするとこじまつになるぞ」と仰せられた、と伝えられている。


【教祖の「年のよるのを、まちかねる」の御言葉】

 諸井氏の「正文遺韻抄」p140-141は、この頃と思われる教祖の次のような御言葉を「年のよるのを、まちかねる」と題して記している。

 「一つには、四十代や、五十代の女では、夜や夜中に男を引きよせて、話をきかすことはできんが、もう八十すぎた年よりなら誰も疑う者もあるまい。また、どういう話も聞かせられる。仕込まれる。そこで神さんはな、年の寄るのを、えらう、お待ちかねで御座ったのやで」。
 「八十過ぎた年寄りで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら神の力としか思はれやうまい。よって力だめしをして見せよと仰有る」。

【キリスト教問答】
 「奥野道三郎氏の話(その二)、その話、あんたが言うたと思うか」。
 「明治十年頃の話し。山本利三郎が大阪へ出て、神様のお話を伝えていたとき、キリスト教の信仰者が出て来て問答を言いかけて来たそうです。先方の質問に対し、こちらは不思議とすらすらと答弁ができて、先方はむしろ感心して引きさがって行ったということです。その後、山本は、おぢばへかえって来て、信者仲間にその問答のやりとりなどを話しました。そのとき、教祖は、その話をお聞きになって、『山本さん、それ、あんたが言うたと思いますか』とお尋ねになりました。山本は、しばし、その意味がわかりかねて、返事にとまどっていますと、教祖は、『それなァ神が言わしたのやで』と仰せられたということです」。

【三島村と庄屋敷村が合併】
 1877(明治10)年、三島村と庄屋敷村が合併し、三島村となった。現在の天理市三島町東部が庄屋敷村に当たる。

 (道人の教勢、動勢)
 「1877(明治10)年の信者たち」は次の通りである。明治10年代、次の講が作られている。真栄講(大縣)、神徳講(古市)、真明講(芦津)、明心組(船場)、天地組(北)、天水組(網島)、恵心組(大江)、平真講、真誠講、一心講、永続講、敬真講、天徳講、天心講、天恵組。
 岡田與之助(後の宮森與三郎、20歳)
 1877(明治10)年、大和国式下郡北檜垣村(現・奈良県天理市檜垣町)の岡田與之助(後の宮森與三郎、20歳)が左腕の痛みから入信。幼い頃、岡田家より宮森家へ養子入籍。明治14年5月、おさづけを頂く。(稿本天理教教祖伝逸話篇69「弟さんは、尚もほしい」、「83. 長々の間」)

 1936(昭和11).1.25日、出直し(享年80歳)。
 山田長造()
 1877(明治10)年、河内国若江郡刑部村(現・大阪府八尾市刑部)の山田長造が長患いをご守護頂いた霊救、みかぐら歌に感じて入信。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「58、今日は、河内から」。
 「明治10年頃のこと。当時20才の河内国の山田長造は、長患いのため数年間病床に呻吟していた。ところが、ある日、綿を買い集めに来た商人から、大和の庄屋敷には、不思議な神様が居られると聞き、病床の中で、一心に念じておすがりしていると、不思議にも気分がよくなって来た。湯呑みで水を頂くにも、祈念して頂くと、気分が一段とよくなり、数日のうちに起きられるようになった。この不思議な御守護に感激した長造は、ぜひ一度、庄屋敷へお詣りして、生神様にお礼申し上げたいと思い立った。家族は、時期尚早と反対したが、当人のたっての思いから、弟与三吉を同行させて、二本の松葉杖にすがって出発した。ところが、自宅のある刑部村から一里程の、南柏原へ来ると、杖は一本で歩けるようになった。更に、大和へ入って竜田まで来ると、残りの一本も要らないようになった。そこで、弟を家へかえして、一人でお屋敷へたどりついた。そして、取次から、あんたは河内から来られたのやろう。神様は、朝から、『今日は、河内から訪ねて来る人があるで』、と仰せになっていたが、あんたの事やなあ。神様は、待っていられるで、と聞かされて、大層驚き、本当に生神様のおいでになる所やなあ、と感じ入った。かくて、教祖にお目通りして、数々のやさしいお言葉を頂き、約一週間滞在の上、すっきり御守護頂いたので、お暇に上がると、『又、直ぐ帰って来るのやで』、とお言葉を下さった。こうして、かえりは信貴山越えで、陽気に伊勢音頭を歌いながら、元気にかえらせて頂いた、という」。

 1918(大正7).6.27日、出直し(享年75歳)。
 明治10年、諸井政一が、山名大教会初代会長/諸井國三郎の長男として出生。明治21年暮、12歳でおぢばの人となった。生来の向学心から教会本部の先生方から聞き書きしたものをまとめ、自ら作成した用紙に書き記し、正文遺韻を出版する。

【この頃の逸話】
 矢追楢蔵(当時9才)
 稿本天理教教祖伝逸話篇「57、男の子は,父親付きで」98-100p。
 「明治10年夏、大和国伊豆七条村の矢追楢蔵(当時9才)は、近所の子ども二,三名仁村の西側を流れる佐保川に川遊びに行ったところ、ーの道具を蛭にかまれた。その時はさほど痛みも感じなかったが、二、三日経っと大層腫れてきた。別に痛みはしなかったが、場所が場所だけに両親も心配して医者にもかかり、加持祈祷もするなど種々と手をつくしたが、一向に効しは見えなかった。その頃、同村の喜多次郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キクとはすでに熱心に信心していたので、楢蔵の祖母ことに信心をすすめてくれた。ことは、元来信心家であったので、直くその気になったが、楢蔵の父惣五郎は百姓一点張りで、むしろ信心するものを笑っていたくらいであった。そこで、ことがわたしの還暦祝いをやめるか、信心するか、 どちらかにしてもらいたい、とまでいったので,惣五郎はやっとその気になった。11年1月(陰暦前年12月)のことである。そこで、祖母のことが楢蔵を連れておぢばへ帰り、教祖にお目にかかり、楢蔵の患っているところをご覧いただくと、教祖は、『家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで』と、お言葉を下された。それからというものは祖母のことと母のならが三日目毎に交替で、一里半の道を楢蔵を連れてお詣りしたが、はかばかしくご守護をいただけない。

 明治11年3月中旬(陰暦2月中旬)、ことが楢蔵を連れてお詣りしていると、辻忠作が、男の子は父親付きで、とお聞かせくださる。一度、惣五郎さんが連れて参りなされ、と言ってくれた。それで、家に戻ってから、 ことは、このことを惣五郎に話して、ぜひお詣りしておくれ、と言った。それで,惣五郎が、3月25日(陰暦2月22日)、楢蔵を連れておぢばへ詣り、夕方帰宅した。ところが、不思議なことに、翌朝は最初の病みはじめのように腫れ上がったが、28日(陰暦2月25日)の朝にはすっかり全快のご守護を頂いた。家族一同の喜びは警えるにものもなかった。当時十才の楢蔵も心に泌みて親神様のご守護に感激し、これが一生変わらぬ堅い信仰のもととなった」。
 桝井キクは、娘のマス(後の村田すま)
 稿本天理教教祖伝逸話篇「50、幸助とすま」。 
 「明治10年3月のこと。桝井キクは、娘のマス(註、後の村田すま)を連れて、三日間生家のレンドに招かれ、二十日の日に帰宅したが、翌朝、マスは、激しい頭痛でなかなか起きられない。が、厳しくしつけねば、と思って叱ると、やっと起きた。が、翌22日になっても未だ身体がすっきりしない。それで、マスは、お屋敷へ詣らせて頂こう、と思って、許しを得て、朝8時、伊豆七条村の家を出て、10時頃、お屋敷へ到着した。すると、教祖は、マスに、『村田、前栽へ嫁付きなはるかえ』、と仰せになった。マスは、突然の事ではあったが、教祖のお言葉に、はい、有難うございます、と、お答えした。すると、教祖は、『おまはんだけではいかん。兄さん(註、桝井伊三郎)にも来てもらい』、と仰せられたので、その日は、そのまま伊豆七条村へもどって、兄の伊三郎にこの話をした。その頃には、頭痛は、もう、すっきり治っていた。それで、伊三郎は、神様が仰せ下さるのやから、明早朝伺わせて頂こう、ということになり、翌23日朝、お屋敷へ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、『オマスはんを、村田へやんなはるか。やんなはるなら、26日の日に、あんたの方から、オマスはんを連れて、ここへ来なはれ』、と仰せになったので、伊三郎は、有難うございます、とお礼申し上げて、伊豆七条村へもどった。翌24日、前栽の村田イヱが、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、『オイヱはん、おまはんの来るのを、せんど待ちかねてるね。おまはんの方へ嫁はんあげるが、要らんかえ』、と仰せになったので、イヱは、有難うございます、とお答えした。すると、教祖は、『26日の日に、桝井の方から連れて来てやさかいに、おまはんの方へ連れてかえり』、と仰せ下された。26日の朝、桝井の家からは、いろいろと御馳走を作って重箱に入れ、母のキクと兄夫婦とマスの四人が、お屋敷へ帰って来た。前栽からは、味醂をはじめ、いろいろの御馳走を入れた重箱を持って、親の幸右衞門、イヱ夫婦と亀松(当時26才)が、お屋敷へ帰って来た。そこで、教祖のお部屋、即ち中南の間で、まず教祖にお盃を召し上がって頂き、そのお流れを、亀松とマスが頂戴した。教祖は、『今一寸前栽へ行くだけで、直きここへ帰って来るねで』、とお言葉を下された。この時、マスは、教祖からすまと名前を頂いて、改名し、亀松は、後、明治12年、教祖から幸助と名前を頂いて、改名した」。

 註 レンド レンドは、又レンゾとも言い、百姓の春休みの日。日は、村によって同日ではないが、田植、草取りなどの激しい農作業を目の前にして、餅をつき団子を作りなどして、休養する日。(近畿民俗学会「大和の民俗」、民俗学研究所「綜合日本民俗語彙」)
 村田イヱ
 稿本天理教教祖伝逸話篇「51、 家の宝」。
 「明治10年6、7月頃(陰暦5月)のある日のこと。村田イヱが、いつものように教祖のお側でお仕えしていると、俄かに、教祖が、『オイヱはん、これ縫うて仕立てておくれ』、と仰せられ、甚平に裁った赤い布をお出しになった。イヱは、妙やなあ。神様、縫うて、と仰っしゃる、と思いながら、直ぐ縫い上げたら、教祖は、早速それをお召しになった。ちょうどその日の夕方、亀松は、腕が痛んで痛んで困るので、お屋敷へ詣って来ようと思って、帰って来た。教祖は、それをお聞きになって、『そうかや』、と仰せられ、早速寝床へお入りになり、しばらくして、寝床の上にジッとお坐りになり、『亀松が腕痛いと言うているのやったら、ここへ連れておいで』、と仰せになった。それで、亀松を御前へ連れて行くと、『さあさぁこれは使い切れにするのやないで。家の宝やで。いつでも、さあという時は、これを着て願うねで』、と仰せになり、お召しになっていた赤衣をお脱ぎになって、直き直き、亀松にお着せ下され、『これを着て、早くかんろだいへ行て、あしきはらひたすけたまへ いちれつすますかんろだいのおつとめをしておいで』と、仰せられた」。
 辻忠作-辻とめぎく
 稿本天理教教祖伝逸話篇「52、琴を習いや」。
 「明治10年のこと。教祖が、当時8才の辻とめぎくに、『琴を習いや』、と仰せになったが、父の忠作は、我々の家は百姓であるし、そんな、琴なんか習わせても、と言って、そのままにして日を過ごしていた。すると、忠作の右腕に大きな腫物が出来た。それで、この身上から、娘に琴の稽古をさせねばならぬ、と気付き、決心して、郡山の町へ琴を買いに行った。そうして、琴屋で、話しているうちに、その腫物が潰れて、痛みもすっきり治まった。それで、いよいよこれは、神様の思わくやったのや、と心も勇んで、大きな琴を、今先まで痛んでいた手で肩にかついで、帰路についた、という」。
 飯降よしゑ
 稿本天理教教祖伝逸話篇「53、この屋敷から」。
 「明治10年、飯降よしゑ12才の時、ある日、指先が痛んで仕方がないので、教祖にお伺いに上がったところ、『三味線を持て』、と仰せになった。それで、早速その心を定めたが、当時櫟本の高品には、三味線を教えてくれる所はない。郡山へでも、習いに行きましょうか、とお伺いすると、教祖は、『習いにやるのでもなければ、教えに来てもらうのでもないで。この屋敷から教え出すものばかりや。世界から教えてもらうものは、何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや』、と仰せられ、御自身で手を取って、直き直きお教え下されたのが、おつとめの三味線である」。

 註 飯降よしゑは、明治21年、結婚して永尾よしゑとなる。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「54、心で弾け」。
 「飯降よしゑは、明治10年、12才の時から3年間、教祖から直き直き三味線をお教え頂いたが、その間いろいろと心がけをお仕込み頂いた。教祖は、『どうでも道具は揃えにゃあかんで』、『稽古出来てなければ、道具の前に坐って、心で弾け。その心を受け取る』、『よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ッと鳴るやろが。そうして、稽古するのや』、と」。
 上田ナライト
 稿本天理教教祖伝逸話篇「55、胡弓々々」。
 「明治10年のこと。当時15才の上田ナライトは、ある日、たまたま園原村の生家へかえっていたが、何かのはずみで、身体が何度も揺れ動いて止まらない。父親や兄がいくら押えても、止まらず、一しょになって動くので、父親がナライトを連れて、教祖の御許へお伺いに行くと、『胡弓々々』、と仰せになった。それで、はい、とお受けすると、身体の揺れるのが治まった。こうして、胡弓をお教え頂くことになり、おつとめに出させて頂くようになった」。
 板倉槌三郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「56、ゆうべは御苦労やった」。
 「本部神殿で、当番を勤めながら井筒貞彦が、板倉槌三郎に尋ねた。先生は何遍も警察などに御苦労なされて、その中、ようまあ、信仰をお続けになりましたね、と言うと、板倉槌三郎は、わしは、お屋敷へ三遍目に帰って来た時、三人の巡査が来よって、丹波市分署の豚箱へ入れられた。あの時、他の人と一晩中、お道を離れようかと相談したが、しかし、もう一回教祖にお会いしてからにしようと思って、お屋敷へもどって来た。すると、教祖が、『ゆうべは御苦労やったなあ』、としみじみと且つニコヤカに仰せ下された。わしは、その御一言で、これからはもう、かえって、何遍でも苦労しよう、という気になってしもうた、と答えた。これは、神殿が、未だ北礼拝場だけだった昭和6、7年頃、井筒が、板倉槌三郎から聞いた話である」。

 註 板倉槌三郎は、明治9年に信仰開始。よって、教祖のお言葉をお聞かせ頂いたのは、明治9年又は10年頃と推定される。

 (当時の国内社会事情)
 1.11日、教部省を廃止、内務省に社寺局を置き事務を移管する。これにより政府の政策は放任状態となり、仏教各宗派、神道各宗派が地方に教会結社をつくり活発に布教活動に励むようになった。
 2.15日-9月、政府に尋問の筋これあり」なる挙兵の理由を掲げ、60年ぶりといわれる大雪の中、西郷軍の前衛隊(本隊1・2番隊)が鹿児島を出発した。以後順次大隊が鹿児島を出発した。これにより「西南の役」始まる。西郷の率いる薩摩軍と政府軍が、熊本県の田原坂(たばるざか)で17日間に及ぶ死闘戦を展開。薩摩軍が敗退し、鹿児島に退却を余儀なくされた。西郷は城山で落命し、7ヶ月に及んだ内戦に終止符が打たれた。両軍の戦死者は1万名を越えた。
 この年、東京開成学校と東京医学校とを合併し、東京大学と改称。
 この年、コレラ流行。欧化主義論議盛んになる。マルクス主義者河上肇(‐1946)出生。

 (宗教界の動き)
 教部省廃止。機能は内務省社寺局へ移される。
 神宮・官国幣社の神官を廃して祭主以下の職員の官等・月俸を定めた。
 この頃、神道事務局が伊勢派と出雲派に分裂し、烈しい分派闘争を繰り広げている。出雲派のイデオローグ・千家尊福(天穂日命あめのほひのみこと・の後裔を認じ、千家80代目の当主にして出雲大社の宮司)は、神道事務局神殿の新築にあたり、従来の主神四柱(①・アメノミナカ主、②・タカミムスビ、③・カムミムスビの造化三神と④・天照大神)に加え大国主命を合祀するよう次のように主張していた。
 「大国主命は、単なる神徳を備えた伝統神であるだけでなく、国譲り(国土奉還)の事実によって、天皇(皇祖神)に対する臣下の道を具体的に指し示し、同時にその後は幽界にあって天孫の御代を守護してきた最も重要な神である。しかるに、『そうした威徳のある神をないがしろにして祭らないとは何事か』」。

 この説は、平田篤胤の幽冥論からきた思想であったが、尊福はこの幽冥論の裏づけをもって顕界を支配する天皇家と対峙しようとしていた。伊勢派のイデオローグはこれを異端として排撃し、明治天皇の勅裁によって退けられている。千家尊福は、「よし勅定であるとも所信を曲げて聴従することはできませぬ」として神道事務局から分派していく。これが大社教の誕生となる。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)
 1877年、英領インド帝国が成立する。




(私論.私見)