第63部 | 1876年 | 79才 | 応法の理の動きその2、秀司が風呂屋と宿屋営業 |
明治9年 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.20日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「応法の理の動きその2、秀司が風呂屋と宿屋営業」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【お筆先の執筆】 | ||||||||||||
この年、教祖は、お筆先十二号をご執筆されている。 | ||||||||||||
この時期、みきは、お筆先で、秀司が正しい方向に進むよう諭し続けている。
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続いて、この時期、みきは、お筆先で、「この世うの本元なるの真実」(本真実)として泥海こふき譚の一節を自ら綴っている。その前置きは次の通リ。
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【おふでさき十二号のお歌の順番考】 | ||||||||||||||||||||||
「おふでさき十二号のお歌の順番について(その一)」、「おふでさき十二号のお歌の順番について(その二)」参照。※これは昭和42年1月に二代真柱さんが、天理大学宗教学科生ならびに天理教校本科生に対して講義されたお話よりの抜粋である。(天理教校論叢第九号「おふでさきの書誌について」29−30p)
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【お節会の始まり】 | |||||
「お節会の話」(昭和59年3月発行 道友社新書19「先人の遺した教話(四) 教祖より聞きし話・高井猶吉」154−158p、天理時報、昭和6年1.1日号、昭和7年1.8日号)参照。
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【秀司派が蒸風呂、宿屋の営業】 | |
1876(明治9)年、秀司は、こうした状況の中、道人の集まる口実として宿屋、蒸風呂の営業鑑札を受けている。「応法の理その2」とでも云うべき動きであった。この年の春の始め頃、堺県へ出掛けて許可を得た。お供したのは桝井伊三郎であった。このたびの応法派の動きには背景となる社会事情があった。当時自由民権運動が全国的な拡がりを見せており、これを圧迫する為に、明治政府により人の集まりそのものが規制され始めた。1876(明治9)年、各府県に、個人の邸宅内に神仏の名をかりて人々を参拝させてはならないという府県令という法令が出された。人が寄って話しをすれば、必ずといってよいほど政府のやり方を批判するからであった。
他方、教祖は、もとより警察の干渉など問題になさって折らず、それがどんなに激化しても、全くの無頓着で無防備のまま、ただ一筋に「助け一条」の道をお進めになられた。こうして、「お道」は再び岐路に立たされることとなった。一方での教祖教理派、他方での秀司ら応法派、そして中間派という三派が、それぞれの派の論理のままに別個の動きを見せていくこととなったのである。しかし、教祖は、応法派の動きを認めようとは為されなかった。糊塗的な方法を好まず、秀司達がこの願いで赴く時などは、「親神が途中で退く」とさえ仰せになられた。それをしも、敢えてこれを実現した秀司の胸中は、複雑であったものと思われる。 |
【秀司が奈良監獄署に30日間拘留される】 |
ところが、明治9年の末頃、秀司は、無許可営業でつかまることとなった。「応法の理」は、この後も「お道」にあって延々と続いて行くことになるが、応法により順応していけども、今度は順応の仕方の科により取り締まられるという悪循環に陥ることになる。こうして、秀司は、10日間取調べを受けた末、こんどは奈良監獄署で30日間も拘留された。当時の監獄は想像できないほど厳しくて恐ろしい所だった。57才の秀司にはひどくこたえた。 |
【雨乞いつとめ】 |
8.17日(陰暦6.28日)、松田利平の願によって、大和国川東の小坂村(田原本町)にて、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎等の面々により雨乞いを行う。この時、教祖は、「雨降らぬ時ほど、人の田に水を遣る心を定めるように」と諭されており、「この時、雨は降らなかったけれども皆な勇んで帰って来た」と伝えられている。 |
(道人の教勢、動勢) | |||
「1876(明治9)年の信者たち」は次の通りである。この頃、京都に「お道」が広がる。 | |||
板倉槌三郎(17歳) | |||
1876(明治9)年、河内国高安郡智恩村(現・大阪府八尾市恩智)の農業/板倉槌三郎(17歳)が兄の病をきっかけに入信。(稿本天理教教祖伝逸話篇56「ゆうべは御苦労やった」) 1937(昭和12).2.27日、出直し(78歳)。明治9年、中河分教会(現大教会)2代会長、平安支教会(現大教会)2代会長、水口大教会2代会長。 |
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奥野伊平、奥六兵衛 | |||
1876(明治9)年、山本利三郎の手引きで古市村の奥野伊平が入信する。この時、同家に居候していた京都の奥六兵衛も入信。これが京都の明誠社の信仰の始まりとなる。 | |||
上田嘉治郎(嘉助、47歳) | |||
9月、大和国山辺郡園原村(現・奈良県天理市園原町)の農業/上田嘉治郎(嘉助、47歳)が四女のナライトの気の病が手引きで入信。(稿本天理教教祖伝逸話篇48「待ってた、待ってた」)
1895(明治28).1.21日、出直し(享年66歳)。 |
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【この頃の逸話】 | |
増井りん | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「44、雪の日」。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「45、話の理」。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「46、何から何まで」。
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仲田儀三郎 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「47、先を楽しめ」。
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林芳松 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「49、素直な心」。
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(当時の国内社会事情) |
1.11日、廃刀令を発布。3月、帯刀を禁止。6.7日、医学者・ベルツ、東京医学校教授に就任。8.14日、クラーク、札幌農学校教頭に就任。10.24日、熊本神風連の乱。太田黒伴雄ら、熊本鎮台、県令宅を襲撃。10月から11月にかけて熊本.福岡.山口では政府に不満をもつ支族の反乱が相継ぎ、茨城.三重などで地租改正に反対する農民一揆が起こった。10.25日、神風連、鎮圧される。10.27日、秋月の乱。宮崎車之助ら、秋月で挙兵。10.28日、萩の乱。前参議・前原一誠ら、萩で挙兵。11.5日、前原一誠、新政府軍に捕縛される。12.3日、前原一誠など三乱の首謀者を斬罪にする。12.3日、警視庁大警視・川路利良、警部の中原尚雄らを鹿児島へ潜入させる。年末には、その地租改正の発案者である大久保利通内務卿が自ら地租の減額を提案しなければならないほど、政府に対する風当たりが強くなっていた。しかも、年明け早々の1.30日には西郷隆盛を信奉する若者達が鹿児島で挙兵し、西南戦争が勃発することになる。福沢諭吉「学問のススメ」出版。 |
(宗教界の動き) |
1876(明治9)年、1月、全国の教導職を四部に分け管長を置き統轄、第三部の管長に稲葉正邦が分掌事務に当たった。一派の教義を立てて神道修成派と黒住教が別派独立する。それぞれ神道黒住派、神道修成派と称した。家伝と称して、施薬することを禁ずる。 |
明治 9年、黒住派、修成派の別派独立など、国家的な神社制度とは区別された神道宗派が分出するようになった。 |
4.10日、新政府、日蓮宗不受不施派を認可。 |
政府は靖国神社の社領を年7550円の現金に改め、「寄付金」へと改称した。 |
(当時の対外事情) |
1876年、日朝修好条規(光華条約)が結ばれる。 |
(当時の海外事情) |
1876年、ベルが電話を発明する。エジソンが蓄音機を発明。 |
(私論.私見)