第63部 1876年 79才 応法の理の動きその2、秀司が風呂屋と宿屋営業
明治9年

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「応法の理の動きその2、秀司が風呂屋と宿屋営業」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【お筆先の執筆】
 この年、教祖は、お筆先十二号をご執筆されている。
 この時期、みきは、お筆先で、秀司が正しい方向に進むよう諭し続けている。
 身の内に どこに不足の ないものに
 月日いがめて 苦労かけたで
十二号118
 年限は 三十九年も 以前にて
 心配苦労 悩み掛けたで
十二号119
 それゆえに 月日ゆう事なに事も
 疑(うたご)うている これ無理でない
十二号120
 このたびハ この胸の内 すきやかに
 晴らす模様や これが第一
十二号121
 この心 月日の方へ しいかりと
 つけん事にハ どんな話も
十二号122
 続いて、この時期、みきは、お筆先で、「この世うの本元なるの真実」(本真実)として泥海こふき譚の一節を自ら綴っている。その前置きは次の通リ。
 何もかも 神の云うこと しかと聞け
 何を云うても 違うことなし
十二号136
 真実に 珍し助け 教えたさ
 そこでどのよな ことも云うのや
十二号137
 この世うを 初めてからに ないことを
 どんなことをも 教えたいから
十二号138
 この世うの 本元なるの 真実を
 しっかり承知 せねばいかんで
十二号139
 この元を しっかり知りて いる者は
 どこの者でも 更にあるまい
十二号140
 このたびは 本真実を 言うて聞かす
 何を言うても しかと承知せ
十二号141

【おふでさき十二号のお歌の順番考】
 「おふでさき十二号のお歌の順番について(その一)」、「おふでさき十二号のお歌の順番について(その二)」参照。※これは昭和42年1月に二代真柱さんが、天理大学宗教学科生ならびに天理教校本科生に対して講義されたお話よりの抜粋である。(天理教校論叢第九号「おふでさきの書誌について」29−30p)
 「(前略)さきほど、ここへ(黒板)表で書きましたが明治15年から、ずっと写本で伝わっているんです。写本で伝わっているんですが、おもしろいことにですね、十二号の181と182のお歌、それが156と157のお歌の間に入って写されているもの、これは外冊にあったのですが、ちょっと忘れましたが、そういうな事があるんです。それは、どうも、それの方が私は正しい順序ではないかと思っています。いいかえますると、そのことについては、この『おふでさき概説』の中で書いておきました。正冊で申せば、156、181、182、157というような順序、そういうような順序が元の姿ではないかと思われるんです。それは、この書かれてある本の中で181と182の、それだけのお歌が別に綴じられてですね、”かんより”で一番最後の表紙の内ら側に綴じこめられておる。それは写本で写してくるときは、順番なしに写していくならば、その番号の書いたように写していくのが当然なんですが、最後の頁の方にくっついとった歌は前の方からは続きの歌なんです。あとのお歌はこの次へくる歌であるはずのものが、糊でくっつけてないから、”かんより”でくっつけてますから、最後の頁の間に、こう結びつけられたんじゃないかという、解釈なんです。どうも外冊か、なんかそういうふうな順序のものがでてきたんです。 従って、ここへつけられたものの順序が逆に、こっちにあったときのものがでている、ということになるんです。いまじゃ正冊、あるいはその、発表しておるものが、いま申した順序になっておるが故に順序を変えるわけにいきませんが、そういうふうなものの発見が外冊によって現われてきておる。ただ、おかしなことには、長らくの時代の間の写本の中では、そういうふうな誤りはほとんどありません。ほとんどありませんと言えば、あるかもしれないという想像なんで、私は見たことがありませんと言った方が正しいかもしれない。しかし、そういうような書誌的にみて、そこに一つの疑点がでる場合がある。それは帳綴じするときに、最後の頁の内ら側へ、ちょっと、その”かんより”でつけられておったものが、一時的なものと思われるものが、それが永久の姿となってしまった。そういうふうに解釈するのが至当ではないか。書誌的にみて、おふでさきの正冊なり、外冊なりのところに、そういうふうな一つの問題が残っておる。お歌を一つずつから見れば、何ら問題はありませんが、続けて読むときには、そこの順序を変えた方がいいんじゃないか。もう、番号うっているから、どうもこうもしようがありませんから、156、181、182、157というような順序にするのが元の姿ではなかろうか、ということが言われるとともに、それのでてきたところの原因なるものは、”かんより”で最後の頁の裏にくっつけられたというのが一つの問題である。これは、この『おふでさき概説』の中、読んでもらえりゃ書いてありますから、君ら手になけりゃ、図書館にあるはずです。一昨年の四月に拵えたんだと思うんです。もっと前から話したやつを合本したもので‥‥。(後略)」。
 ※参考までに、前述の順番(おふでさき第十二号150−156、181、182)を確認しておく。
 けふの日に どのよな事も ゆうほどに
 なにをゆうても 承知してくれ
十二号150
 いまゝでも 神の思惑 まゝあれど
 ひがきたらんで しかゑいたるで
十二号151
 段々と もふひがつまり きるからハ
 どんな事でも ゆふてをくぞや
十二号152
 これまでハ どこの人でも をなじ事
 なにをゆうても みなうたごふて
十二号153
 このたびハ ほん真実で あるからに
 これそむいたら すぐにかやすで
十二号154
 世界にわ あめをほしいと をもたとて
 このもとなるを たれもしろまい
十二号155
 このもとを しいかりゆうて かゝるから
 どんな事でも しよちするなら
十二号156
 六月廿八日 五どきよりはなし
 けふの日ハ このよはじめて ないはなし
 なにをゆうても これきいてくれ
十二号157
 このはなし 月日の心 ばかりやで
 にんけん心 あるとをもうな
十二号181
 この事を みな一列ハ しんちつに
 をもてたのめば どんな事でも
十二号182

【お節会の始まり】
 「お節会の話」(昭和59年3月発行 道友社新書19「先人の遺した教話(四) 教祖より聞きし話・高井猶吉」154−158p、天理時報、昭和6年1.1日号、昭和7年1.8日号)参照。
 「初めのうちは三人五人のみ信仰するものばかり。お正月に神様に奉献したのを頂いたが、明治初年頃になって随分沢山になって来たので、教祖は帰って来る信徒及び村方の人達に頒(わ)けて食ってもらうことにしたい、そしてそれを、『お節会(せち)と称える』と仰せになったのが初めであって、その当時から、4日は鏡開き、5日は村方、6、7、8日は一般信徒の人達に振る舞うことに定められたのであった。そしてその当時の食堂は、今(註・昭和6年1月当時)の教校にあるあのつとめ場所の上段の間で、一々お膳をこしらえて、丁寧にお手盆に牛蒡(ごぼう)、煮豆、数の子を盛り分けて、三種(みいろ)を食膳にのせて御神酒も飲み次第にして、一人々々にどうかご遠慮なくと給仕をしたものである。そうしておったところが、明治13年からは到底そんな小さい場所では収容が仕切れないので、食堂は露天にして、炊事場、餅焼場だけは板で小屋掛をして行うこととなった。その板というのも、その頃のお道はまだまだ小さかったので、板の材木屋(今の滝本)と、櫟ノ本板宗という材木屋で借りたものであった。その板を借るについて面白いことがあったよ。それは、初めて借りた年などは随分燻(くす)ぶったので嫌がったのであったが、それが三年目頃から、例えば当方から十坪と注文して借りて来ると、また後から十坪も余計に持って来てくれるということになり、今、約束の分は借りて来たから結講だと断ると、『いや、それは渡したことは知っておりますのやが、しかしこれだけ余分に使って頂きたいのです。それは、この節会に使った物が良く売れますのやから、値は御用渡しの分だけで結構すぎるくらいで。いやどうか一束でもより多く使って頂きましたら』と言って、材木屋から貸してくれたものであったが、その後、前の別席場が出来たので、そこで食膳を今の様子の如くにしたものである(註・昭和6年当時)。それから後は一度参拝者が多かって、餅が不足してついに飯を煮出してにぎり飯を四石ほど炊いて食って頂いたこともあった。また、こんなこともあったよ。それはよほど年を経てからである。本席様の在世当時であったか、余り沢山の鏡餅が上ったので、どうしても処分をつけられないから、一層のこと信徒へは直轄教会へひとたび下げてから、一々生餅で分配してもらうことにしたらどんなものだろうか。そうすると汁も煮(た)くことはいらないし、餅を焼くこともいらないのだものと、本席様に願ってみたのであった。ところが、神様からお叱りを受けて、従来通りにしたらよいというお言葉によって、またまた元々通りにすることにして現在に至ったのである」。
 ”お節会の起源”

 御本部でお節会が行われましたのは、明治8、9年頃からであると思います。当時は現在教校に移されてある旧つとめ場所で、参拝に来た信徒さん達に一人一人お膳を出して振る舞われたのであります。何故お節会が始められたかと申しますと、せっかくはるばるお正月に親里に帰って来た子供達に充分満足して帰ってもらうようにという、有難い教祖の思召からで、最初から村方と一般信徒とは区別されて振る舞われたように思います。
 ”お節会の沿革”

 お道がだんだんと弘まり、年ごとに多くの信徒さんたちが帰って来るようになりましたので、狭いつとめ場所で一人一人お膳を出すことができなくなり、明治13年頃からお屋敷の空地を利用して杭を打ち、これに板を張って、床机のようなものを作って、そこで立ちながら頂くようになったのであります。
 ”お肴について”

 ただ今では、お節会には御神酒とこんぶとごぼうとを振る舞われていますが、当初はこんぶとごぼうとかずのこの三種のお肴を出されていたのであります。けれども人が多くなるにつけて今日のように二つのものとされました。なお当初から、村方への振る舞いには、以上の三つのお肴の他に焼物を添えられていました。
 ”服装について”

 今はお節会のお酌人達が装束を着けておられますが、それは本教が独立して、神道の一派となってからのことであります。昔は普通の羽織袴の先生方がお酌して下さったものですが、現今の人々にはそうしたことは偲ばれもしないだろうと思われます。

【秀司派が蒸風呂、宿屋の営業】

 1876(明治9)年、秀司は、こうした状況の中、道人の集まる口実として宿屋、蒸風呂の営業鑑札を受けている。「応法の理その2」とでも云うべき動きであった。この年の春の始め頃、堺県へ出掛けて許可を得た。お供したのは桝井伊三郎であった。このたびの応法派の動きには背景となる社会事情があった。当時自由民権運動が全国的な拡がりを見せており、これを圧迫する為に、明治政府により人の集まりそのものが規制され始めた。1876(明治9)年、各府県に、個人の邸宅内に神仏の名をかりて人々を参拝させてはならないという府県令という法令が出された。人が寄って話しをすれば、必ずといってよいほど政府のやり方を批判するからであった。

 1880(明治13)年、集会条例が出された。この条例により、三人以上の人間が寄って話しをすることが禁じられることとなった。こういう状態だったから、天輪王明神の拝み祈祷でも人を寄せにくくなりつつあった。なんとか人寄せの合法的な口実を考えなくてはならないとの考えから思いついたのが蒸風呂と宿屋の営業であった。八島教理では、書類によると風呂は明治11年に堺県より、旅籠や営業は明治13年に許可が出ているとある。明治11年3.27日に、中山音次郎名義で蒸気風呂の営業許可、明治13年に、中山秀司名義で旅籠屋の許可を受けている。教祖は、又も強硬に反対したが、応法派は構わずこれを推し進めていった。確かに道人たちは集まりやすくなった。 

 このたびの「応法の理」について、教理では次のように説いている。

 とみに激化していく官憲の干渉を思えば、何かこれを防止する策を講じなければ、「お道」がこのままでは済まされない状態に立ち至っており、このまま捨ておいては、教祖の身に再びの迷惑のかかることは火をみるより明らかであり、戸主としての責任上、又親を思う子の真心から、たとえ我が身はどうなってもと、捨て身の覚悟で敢行したのであった云々。

 他方、教祖は、もとより警察の干渉など問題になさって折らず、それがどんなに激化しても、全くの無頓着で無防備のまま、ただ一筋に「助け一条」の道をお進めになられた。こうして、「お道」は再び岐路に立たされることとなった。一方での教祖教理派、他方での秀司ら応法派、そして中間派という三派が、それぞれの派の論理のままに別個の動きを見せていくこととなったのである。しかし、教祖は、応法派の動きを認めようとは為されなかった。糊塗的な方法を好まず、秀司達がこの願いで赴く時などは、「親神が途中で退く」とさえ仰せになられた。それをしも、敢えてこれを実現した秀司の胸中は、複雑であったものと思われる。


【秀司が奈良監獄署に30日間拘留される】

 ところが、明治9年の末頃、秀司は、無許可営業でつかまることとなった。「応法の理」は、この後も「お道」にあって延々と続いて行くことになるが、応法により順応していけども、今度は順応の仕方の科により取り締まられるという悪循環に陥ることになる。こうして、秀司は、10日間取調べを受けた末、こんどは奈良監獄署で30日間も拘留された。当時の監獄は想像できないほど厳しくて恐ろしい所だった。57才の秀司にはひどくこたえた。


【雨乞いつとめ】
 8.17日(陰暦6.28日)、松田利平の願によって、大和国川東の小坂村(田原本町)にて、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎等の面々により雨乞いを行う。この時、教祖は、「雨降らぬ時ほど、人の田に水を遣る心を定めるように」と諭されており、「この時、雨は降らなかったけれども皆な勇んで帰って来た」と伝えられている。

 (道人の教勢、動勢)
 「1876(明治9)年の信者たち」は次の通りである。この頃、京都に「お道」が広がる。
 板倉槌三郎(17歳)
 1876(明治9)年、河内国高安郡智恩村(現・大阪府八尾市恩智)の農業/板倉槌三郎(17歳)が兄の病をきっかけに入信。(稿本天理教教祖伝逸話篇56「ゆうべは御苦労やった」)

 1937(昭和12).2.27日、出直し(78歳)。明治9年、中河分教会(現大教会)2代会長、平安支教会(現大教会)2代会長、水口大教会2代会長。
 奥野伊平、奥六兵衛
 1876(明治9)年、山本利三郎の手引きで古市村の奥野伊平が入信する。この時、同家に居候していた京都の奥六兵衛も入信。これが京都の明誠社の信仰の始まりとなる。
 上田嘉治郎(嘉助、47歳)
 9月、大和国山辺郡園原村(現・奈良県天理市園原町)の農業/上田嘉治郎(嘉助、47歳)が四女のナライトの気の病が手引きで入信。(稿本天理教教祖伝逸話篇48「待ってた、待ってた」)
 明治九年十一月九日(陰暦九月二十四日)午後二時頃、上田嘉治郎が、萱生の天神祭に出かけようとした時、機を織っていた娘のナライトが、突然、「布留の石上さんが、総髪のような髪をして、降りて来はる。怖い」と言うて泣き出した。いろいろと手当てを尽したが、何んの効能もなかったので、隣りの西浦弥平のにをいがけをするうち、次第によくなり、翌月、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂いたところ、「待ってた、待ってた。五代前に命のすたるところを救けてくれた叔母やで」と、有難いお言葉を頂き、三日の間に、すっきりお救け頂いた。時にナライト十四才であった。

 1895(明治28).1.21日、出直し(享年66歳)。
【教祖の媒酌で、桝井伊三郎と西尾庄助の娘ナラギクが結婚】

 この頃、桝井伊三郎が伊豆七条村の西尾庄助の娘ナラギクを、教祖の媒酌で迎えることになった。お祝い如何の作法について、教祖の次のようなお言葉が伝えられている。

 「こっちから(結納金を)やったら、又向こうも(花嫁道具を)心配せにゃならん。そんなことしな(さんな)。その代わり扇子一対」。

 祝いの杯の当日、双方から教祖の居間に参った。出来て一年ばかりの表通常門(中南の門屋)である。そこで固めの杯を交わした。教祖は二人の手をお握りになって、「これでちゃんと治まったで、『おさめ』や」と、ナラギクの名を「おさめ」と改められた。


【この頃の逸話】
 増井りん
 稿本天理教教祖伝逸話篇「44、雪の日」。
 「明治8、9年頃、増井りんが信心しはじめて、熱心にお屋敷帰りの最中のことであった。正月10日、その日は朝から大雪であったが、りんは河内からお屋敷へ帰らせて頂くため、大和路まで来た時、雪はいよいよ降りつのり、途中から風さえ加わる中を、ちょうど額田部の高橋の上まで出た。この橋は、当時は幅三尺程の欄干のない橋であったので、これは危ないと思い、雪の降り積もっている橋の上を、跣足になって這うて進んだ。そして、ようやくにして、橋の中程まで進んだ時、吹雪が一時にドッと来たので、身体が揺れて、川の中へ落ちそうになった。こんなことが何回もあったが、その度に、蟻のようにペタリと雪の上に這いつくばって、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、一生懸命にお願いしつつ、やっとの思いで高橋を渡り切って宮堂に入り、二階堂を経て、午後4時頃お屋敷へたどりついた。そして、つとめ場所の、障子を開けて、中へ入ると、村田イヱが、ああ、今、教祖が、窓から外をお眺めになって、『まあまあ、こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。ああ、難儀やろうな』と、仰せられていたところでしたと、言った。りんは、お屋敷へ無事帰らせて頂けた事を、ああ結構やなあと、ただただ喜ばせて頂くばかりであった。しかし、河内からお屋敷まで七里半の道を、吹雪に吹きまくられながら帰らせて頂いたので、手も足も凍えてしまって自由を失っていた。それで、そこに居合わせた人々が、紐を解き、手を取って、種々と世話をし、火鉢の三つも寄せて温めてくれ、身体もようやく温まって来たので、早速と教祖へ御挨拶に上がると、教祖は、『ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ。さあさぁ親神が十分/\受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ』と仰せられて、りんの冷え切った手を、両方のお手で、しっかりとお握り下された。それは、ちょうど火鉢の上に手をあてたと言うか、何んとも言いあらわしようのない温かみを感じて、勿体ないやら有難いやらで、りんは胸が一杯になった」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「45、話の理」。
 「或る時、増井りんが教祖に、『お手許のおふでさきを写さして頂きたい』とお願いすると、『紙があるかえ』とお尋ねになられたので、『丹波市へ行って買うて参ります』と申し上げると、教祖は『そんな事していては遅うなるから、わしが括ってあげよう』と仰せになり、座布団の下から紙をお出しになり、大小不揃いの紙を、ご自身で綴じて下された。そして、『さあ、わしが読んでやるから、これへお書きよ』と、おふでさきをお読み下され、りんは筆を執って書かせていただいた。その時、教祖は次のように諭されている。『皺だらけになった紙を、そのまま置けば、落し紙か鼻紙にするより仕様がないで。これを叮嚀に皺を伸ばしておいたなら、何なりとも使われる。落し紙や鼻紙になったら、もう一度引き上げることはできぬやろう。人の助けもこの理やで。心の皺を、話しの理で伸ばしてやるのやで。心も、皺だらけになったら、落し紙のようなものやろ。そこを、落とさずに助けるが、この道の理やで』」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「46、何から何まで」。
 「或る日、秀司様が増井りんに、信者がお供えした大きな魚を料理するように言ったが、当時のお屋敷には菜刀(ながたな、菜切り包丁)しかなかった。余りのことと思ったりんは、ある日、お暇を願って河内へ戻り、八尾へ出かけて出刃包丁、薄い刺身包丁、鋏(はさみ)などを一揃い買って、お屋敷へのお土産として差し上げさせて頂いた。秀司様も、まつえ様も大層喜ばれて、秀司様は『こんな結構なもの、お祖母様(ばあさま)に見せる。一緒にお出で』と言われた。教祖にお目通りすると、教祖はお土産を頂きになり、『おりんさん、何から何まで、気をつけてくれたのやなあ、有難いなあ』と仰せ下された」。
 仲田儀三郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「47、先を楽しめ」。
 「明治9年6月18日の夜、仲田儀三郎が、教祖が、よくお話の中に、『松は枯れても案じなし』と、仰せ下されますので、どこの松であろうかと、話し合うているのですが、と言ったので、増井りんは、お祓いさんの降った松は枯れる。増井の屋敷の松にお祓いさんが降ったから、あの松は枯れてしまう。そして、あすこの家はもうあかん。潰れてしまうで、と人々が申しますと、人の噂をそのままに話した。そこで、仲田が、早速このことを、教祖にお伺いすると、教祖は、『さあさぁ分かったか、分かったか。今日の日、何か見えるやなけれども、先を楽しめ、楽しめ。松は枯れても案じなよ。人が何んと言うても、言おうとも、人の言う事、心にかけるやない程に』と仰せ下され、しばらくしてから、『屋敷松、松は枯れても案じなよ。末はたのもし打ち分け場所』と、重ねてお言葉を下された」。
 林芳松
 稿本天理教教祖伝逸話篇「49、素直な心」。
 「明治9年か10年頃、林芳松が5、6才の頃のことである。右手を脱臼したので、祖母に連れられてお屋敷へ帰って来た。すると、教祖は、『ぼんぼん、よう来やはったなあ』、と仰っしゃって、入口の所に置いてあった湯呑み茶碗を指差し、『その茶碗を持って来ておくれ』、と仰せられた。芳松は、右手が痛いから左手で持とうとすると、教祖は、『ぼん、こちらこちら』、と御自身の右手をお上げになった。威厳のある教祖のお声に、子供の素直さから、痛む右手で茶碗を持とうとしたら、持てた。茶碗を持った右手は、いつしか御守護を頂いて、治っていたのである」。

 (当時の国内社会事情)

 1.11日、廃刀令を発布。3月、帯刀を禁止。6.7日、医学者・ベルツ、東京医学校教授に就任。8.14日、クラーク、札幌農学校教頭に就任。10.24日、熊本神風連の乱。太田黒伴雄ら、熊本鎮台、県令宅を襲撃。10月から11月にかけて熊本.福岡.山口では政府に不満をもつ支族の反乱が相継ぎ、茨城.三重などで地租改正に反対する農民一揆が起こった。10.25日、神風連、鎮圧される。10.27日、秋月の乱。宮崎車之助ら、秋月で挙兵。10.28日、萩の乱。前参議・前原一誠ら、萩で挙兵。11.5日、前原一誠、新政府軍に捕縛される。12.3日、前原一誠など三乱の首謀者を斬罪にする。12.3日、警視庁大警視・川路利良、警部の中原尚雄らを鹿児島へ潜入させる。年末には、その地租改正の発案者である大久保利通内務卿が自ら地租の減額を提案しなければならないほど、政府に対する風当たりが強くなっていた。しかも、年明け早々の1.30日には西郷隆盛を信奉する若者達が鹿児島で挙兵し、西南戦争が勃発することになる。福沢諭吉「学問のススメ」出版。


 (宗教界の動き)
 1876(明治9)年、1月、全国の教導職を四部に分け管長を置き統轄、第三部の管長に稲葉正邦が分掌事務に当たった。一派の教義を立てて神道修成派と黒住教が別派独立する。それぞれ神道黒住派、神道修成派と称した。家伝と称して、施薬することを禁ずる。
 明治 9年、黒住派、修成派の別派独立など、国家的な神社制度とは区別された神道宗派が分出するようになった。
 4.10日、新政府、日蓮宗不受不施派を認可。
 政府は靖国神社の社領を年7550円の現金に改め、「寄付金」へと改称した。

 (当時の対外事情)
 1876年、日朝修好条規(光華条約)が結ばれる。

 (当時の海外事情)
 1876年、ベルが電話を発明する。エジソンが蓄音機を発明。





(私論.私見)