第62部 | 1875年 | 78才 | 中南の門竣工し教祖移る |
明治8年 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「中南の門竣工し教祖移る」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【中南の門竣工し教祖移る】 |
1875(明治8)年、教祖ご苦労の原因ともなり、取り調べの対象ともなった問題の中南門屋(なかみなみのもんや)の建築が竣工し中南の門屋と呼ばれた。これにより教祖は北の上段の間からこちらへ移られ、その西側の10畳の部屋を居間として、日夜寄り来る人々に親神の思召しを伝えられることとなった。教祖は明治8年から16年まで、ここで教えを説かれ、その後久しい間、運び場所となった。 |
中南の門屋は表通常門、長屋門ともいう。明治8年(1875)の建築、平家瓦茸両妻入母屋建て。間口6間半。奥行2間半。明治16年御休息所が完成するまで、教祖(おやさま)のお居間に使用された。大和では、門屋構えの住宅は村で数軒の豪農に限られたものである。中央に出入口があり、その左右は、下男部屋や道具小屋にあてられる習わしである。教祖は、「その西側の10畳の部屋をお居間として、日夜寄り来る人々に親神の思召を伝えられた」(『稿本天理教教祖伝』134頁)。また東側の10畳は窓なし倉とし、永尾旦上皇の口述記には、教祖の指示により窓をつけず、末では75人のつとめ大衆の生き姿をおさめる所とされたという。「中南」という表現をとったことの意は定かではない。しかし、次のような説が見られる。@おやしきの表正面の門であるから。A中とは、「ぢば」を指し、そのぢばから南であるから。B後に、中南の門屋の西側に天理教教会本部の門が、東側に東門ができたことから。 〔参考文献〕松隈青壷『稿本天理教教祖伝参考事典』。「永尾芳枝祖母口述記」(『復元』第3号)。 |
【「一列澄ますかんろだい」の手振リ加えられる】 |
この頃、「一列澄ます甘露台」の手をつけられた。又、「をびやつとめ」などの手を教えられた。こうして、「み神楽歌」、これに節つけ、手振りによる「おつとめ」の礼拝要領も定まり、お筆先、折々の「お諭し」によるお仕込みも進み、「お道」の教理体系が次々と整えられて行った。後は、ぢばに甘露台を据え、道人の「一手一つ」の神楽づとめを陽気にとり行う日を待つばかりとなった。これに伴い、教祖の「助け一条の道」も「急き込み」急となり、熱心な道人には「授けの理」が渡され、用木(ようぼく)が次から次へと生まれて行く等、陽気世界創出に向かっていよいよ積極的な布教活動を見せて行くこととなった。 |
【教祖の予言】 | |
明治8年頃、教祖は、伊蔵に次のような予言をされている。
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【まつえが男子を産む】 | ||||
この年、明治8年、秀司の若い女房まつえに子供が生まれた。まつえは、夏の終り頃男子を生んだ。教祖は、生まれる前より「たまえ」と命名されていた。だが、「たまえ」は生れつき身体に色素不足の障害のある虚弱な子だったこともあり、明治12年に4才で死亡した。その時、「たまえ」には、まちという2才の妹がいたが、そのまちが結婚した後、「たまえ」と改名することになる。 まつえが最初の子を産んだ頃、お屋敷には、秀司が外婚していたおちえとの間に生まれた音次郎(当時18才)がいたし、外にはその姉のおかのもいた。ほかに、お秀のことも触れなければならない。お秀は、明治3年に病気で亡くなった。まつえとお秀は7ケ月間ほどしか一緒に暮らすことがなかったが、まつえにとって嫁にいく前から気がかりな存在であった。たまえとは、2才違いにも関わらず、義理の娘になるのだった。この為、両者の間にはどうしてもしっくりとこない一面があった。お秀の母親は小作の娘であった。まつえは平等村の素封家小東家の娘であった。まつえには、そういう自負が強かった。だが、この時期に懸かれたお筆先には、その腹の子はお秀と同じ魂であり、共に秀司の肉体の素質を持っている。誰から生まれたから卑しいとか誰の腹で生まれたから尊いなど尊卑の隔てなどはない、月日からみれば共に可愛いい子供、まったく同じ値打ちを持った人間であるという内容が書かれている。 |
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この頃のお筆先を確認しておく。
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【教祖、伊降一家のお屋敷住み込みを促す】 |
この頃、伊蔵夫婦は櫟本(いちのもと)と庄屋敷の間を往復していた。大抵お屋敷に勤めていたが、家計の不如意から何時までも「ひのきしん」している訳にもいない状況にあった。それに対し、教祖は頻りに「一日も早く屋敷に移るよう」促された。伊蔵は、「はい、移らして貰います」と答えていたものの、人間思案による先案じも種々あり延び延びにしていた。そうしたある日、伊蔵は目の障りとなり、一夜のうちに梅干のように真っ赤になった。直ちにお屋敷へ参って教祖に伺うと、「何も案じることはいらん。すぐ直るで。一日も早くこの屋敷へ住み込む心になりさえすれば、何も言うことはいらん」と仰せになられた。伊蔵もおさとも、一度ならず二度三度決心して家族一同お屋敷へ引き移る心定めしていたが、引き止める人もあり、それなりの仕事の請負も頂いており逡巡していた。ある日のこと、家の普請をしている時にはずみで木屑を右足の親指の肉と爪の間に深く入りこませた。直ちにお屋敷に参って教祖にお伺いすると、「案じることいらん。すぐ直るで。一日も早く家族もろとも帰っておくれ。私一人に任せてどうするかえ。早く住み込んでくれ」と仰せになられた。しかし、この時もやり過ごした。 その原因の真相はこの頃の秀司の態度にあったというのが史実であるように思われる。官憲の取締りが次第に激しくなりつつあり、「人さえこなければ、こんなことはない」として、秀司が伊蔵の住み込みも含めて好まなかった。他方、教祖は急き込まれていたという関係にあった。 |
明治8年頃、伊蔵は、教祖から、言葉をもって指図することを許される「言上の伺い」を戴かれている。 |
【この頃の逸話】 | |||
明治8.11.21日、教祖は、辻ます、村田かじ、飯降さと、桝井さめの娘達に次のようなお話をされている。
解説すれば、教祖の言う神の子としての道は、人の喜びを見て楽しめる心への成人というものであった。加えて、天輪王の心になって陽気づくめの共同社会を創るために日々を過ごすようにとのお諭しであった。 |
(私論.私見)