第6部 1816年 19才 五重相伝の授戒、浄土宗との決別
文化13年

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「五重相伝の授戒、浄土宗との」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【五重相伝の授戒】
 御新造時代から「へらわたし」を経たこの時期にあって、「みき」の宗教史的行程上特筆すべき出来事が起こっている。この経過の一幕を窺ってみようと思う。嫁いで3年目にして主婦となったこの頃、子供の遅いのが気がかりであった。この当時嫁は、「3年にして子なきは去る」という時代である。「みき」は、どうしたわけか4年たっても5年たっても子種を宿さなかった。初孫を見て早く安心したいというのが、他に何ら不足のない「みき」に対する舅夫婦の心配であった。ところで、「みき」18才のとき、漸くにして身ごもることになった模様であるが、この喜びも束の間で、子供は名も付けぬうちに亡くなったと云われている。

 
失意の「みき」は、居辛くもあったであろう折も折、19才の1816(文化13)年3.15日の春、中山家の菩提寺である勾田村の浄土宗善福寺で催される「五重相伝の授戒会」に廻りあった。「みき」は欝っした気分を払うように、中山家の同意を得て遠近の村々より参集した19人の老人たちに混じって五重相伝を受けることになった。勾田村、守目堂村、三島村、庄屋敷村、田井庄村の5カ村から男7名、女12名の合わせて19人であったと伝えられている。うら若い「みき」の姿が人目をひいたことは想像に難くない。「みき」はこれまでも説法聴問に耳を傾けに出かけることはあったものの、この度の「五重相伝の授戒」というのは、浄土宗の宗義の秘奥骨目を伝えるために、次第順序をたてて行われる厳粛なもので、これにより宗祖法然以来の列祖の神髄に触れ、宝灯を受け継ぐという本格的な儀式であった。

 
この授戒会が「みき」にとって初めての本格的な宗教体験となった。元来、五重相伝は、浄土宗の第七祖了誉上人から始まったと云われており、往時には、受戒期間は百カ日に及んだが、いつしか20日になり、この頃には7日間に短縮されていた。この授戒会というものは住職一代に一回の勤行とされていたものであるから、「みき」にとって又とない機会に出会したことになる。参集した信者の人たちは、ひととせを経て来世の果報を望むばかりの老人たちであったとはいえ、厳修期間の7日間は、住職報誉上人により、早朝より夕べまで読経と説教聴聞に息つくひまもないほど密度高くとり行われたものと思われる。

 ちなみに五重とは、浄土宗の最高文書である1・難遂往生機(開祖法然作と云われる)、2・末代念仏授手印(二祖弁阿上人々)、3・領解鈔(三祖良忠上人々)、4・決答疑問鈔、5・十念相伝(曇鸞上人々)の五書を云い、相伝とは、この五書を伝燈師から口受されることを云う。やがて、「おかみそり」と云われる授戒を授かり、五重の巻物と「蓮誉勝岸智宝禅定尼」という戒名を頂いて終了となった。

 
儀式としてではあるが、「みき」は、これによって、弥陀の弟子として生まれ変わられたことになった。「みき」は、この「五重相伝」で説教僧が語る法話にひたむきに耳を傾けたようで、その様は、授戒会を終えて後、報誉上人が、「中山さんの御新造、ようおつとめなされました」、「今度の五重相伝を真心から受けた者は中山さんのご新造だけであった」と、問わず語りに漏らしたと伝えられているほどであった。 

【みきの宗教的精神史足跡行程(5)、五重相伝の授戒と浄土宗との決別】

 ところで、稿本天理教教祖伝では、「みき」の五重相伝授戒を単に記録的に記すにとどめており、「みき」が、この授戒会を格別熱心に取り組んだ様を伝えはするけれども、何故「みき」がかくも真剣に取り組んだか、又「みき」が、この伝授会について、その得るところは如何ばかりであったであろうか詮索することをしない。農家に嫁いだ主婦にとって、家業を離れての泊込みの7日間というのは、かなりの難事であったであろう。それをしも中山家の了解を頂き出向いたことには相応の理由があったに相違ない。 この時期の「みき」は、毎日の念仏称名を唱えながらも、主婦としての生活体験を重ねることにより、現世救済の方途を願うみきを亢進させつつあった。つまり、浄土の教えを通して、如何にして現世救済を為し得るのかということが、みきの心中の関心事となっていた。折々の説法聴門に出かけることもままあったものの、その心は満たされておらず、そういう意味で、この度迎えた授戒会が、日頃の鬱憤を晴らすかのごとく大いなる期待を抱かせたことは疑いない。

 
結果的に、五重相伝の授戒会は、「みき」にとって、浄土宗という立場からにせよ、この時期に仏教一般の教義的知識を体系的に知り得たことで貴重な体験となったものと拝察される。しかしながら、さほどの意気込みを持って臨んだこの伝授会について、「みき」のこれという感想を伝えるものがないことを、どの様に拝察すべきであろうか。「みき」のその後の足跡から推察するのに、この「五重相伝の授戒会」は、仏教的教義の体系に触れる機会を得たことの意義は見出されたものの、教義全体が、他宗旨とて同様であったと思われるが、「因果応報律の上に成り立つ因縁説話と輪廻転生説話」的教義に染まっており、中でも浄土宗の教義が表見的ではあろうが一層彼岸的に染まっており、現世救済よりも諦念を説く教説であることにより、むしろ失望と幻滅を感じさせ、却って浄土宗と決別する契機ともなった、ように拝察させて頂く。

 
仏の途は、「みき」がかっては尼になりたい程一途な思いを寄せた世界ではあったが、否応なく身を粉にして働くご新造時代の生活体験を加えることによって、「みき」の信仰はこの頃ますます現世の有効な処世法としての教説を渇望する身へと転回し始めており、そうした現世的な救済の方途を模索し始めていたのにも関わらず、浄土宗の最高の儀式においてでさえ、教えられることは欣求浄土思想の彼岸主義ばかりであり、そうした彼岸救済の方法しか持ち合わさない浄土宗の奥義までまさぐることによって、遂にその接点を見出すことができず、却って失望を覚えたのではなかっただろうか。実際、史実の伝える限り、これより以降も「みき」の求道精神は飽くことなく精進の日々に向かうも、授戒会以来その口葉からは「南無阿弥陀仏」の称名が寡聞となり、又浄土門への法話を聴問する姿も見られなくなったと云う。

 かくして「みき」は、浄土宗をその発心として歩み始めた宗教的足跡を、ここにきて授戒会を最後に浄土宗との決別を招来させることとなり、新たに「衆生の現世救済」の方途を求めて自力での精進を続けることとなった、と拝察させて頂く。こうして、授戒会体験は「みき」の宗教的行程の道すがらにおいて重要な転回点となった。この経過つまり「五重相伝の授戒」から浄土宗との決別までの期間を「みき」の宗教的精神史の第5行程として確認しておこうと思う。



 (当時の国内社会事情)
 1816(文化13)年、駿河一揆。
 (二宮尊徳の履歴)
 1817(文化14)年、31歳の時、キノをめとる。

 (宗教界の動き)
 −−−−−−

 (当時の対外事情)

 1816(文化13)年、英国船が琉球に来て通商要求。

 (当時の海外事情)





(私論.私見)