第59部 | 1874年 | 77才 | 教祖赤衣を召す |
明治7年 |
更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年.1.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「教祖赤衣を召す」を確認する。「天理教教理を学び神意を悟る」 の。
2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【教祖赤衣を召す】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
翌12.26日(陰暦11.18日)、教祖は急に「赤衣を着る」と仰せになられた。朝からまつえとこかんが奈良へ布地を買いに出掛け、昼頃に帰って来た。教祖は「出来上がり次第に着る」と仰せになられたので、その時、お屋敷へ手伝いに来ていた西尾ナラギク(後の桝井おさめ)、桝井マス(後の村田すま)、仲田かじなども仕立てを手伝い、夕方にはできあがった。教祖は毅然として赤衣をお召しになられ壇の上に坐られた。教祖はこれ以後赤衣を脱ぐことは一切なく、常に赤衣をお召しになられることになった。使いこなした赤衣は細かく裁断されて「証拠守り」とし、寄り来る道人に手渡されていくことになった。35「赤衣」が次のように記している。
その理について、「明治7.12月21日よりはなし」との書き込みで、お筆先が次のように誌している。
その神意を解すれば次のようになる。
というところにあった。こうして、教祖は、従来の「神の社」としての口述者の立場から、教祖自身が「入魂神」として「月日」となられるという「理」を姿の上にも明示されることとなった。 「十六年本(桝井本) 神の古記」は次のように記している。
それまでの教祖は、「どろ染め」の黒い衣を着ておいでなされた。その後、「黒いものを着ると身体が苦しい」というようになり、上衣はもとより襦袢(じゅばん)から足袋(たび)にいたるまで一切(いっさい)赤いものを用いられた。「くらいところ(暗い所)では働きがにぶい(鈍い)。赤きところ(明き所)に月日がこもりいる(籠り居る)」との御言葉を遺している。「そやよって、悪口いう人は、赤いものやよって『ホーヅキ婆さん』なんていうたこともある、と仰ったこともある」(みちのとも大正9年2月号、宮森與三郎「三昔四昔の回顧」)。
教祖の赤衣着用経緯が次のように証言されている。
「辻忠作文書」は次のように記している。
諸井政一「正文遺韻抄」12-13頁は次のように記している。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「赤、黒、白の意味」についての次のようなお指図が遺されている。
|
【警察の教祖の赤衣着用干渉】 | |||||||
「教祖の赤衣着用」につき、「永尾(飯降)芳枝/雨乞ひ勤め」(みちのとも、昭和4年5.20日号)が次のように伝えている。
「暗闇」に関連するお指図は次の通り。
「おさしづ」は次の通り。
|
![]() |
教祖は自ら赤衣を召して、「月日の理」を、その姿の上にも明らかにして、益々積極的な行動を進める旨を宣明した。このことは、いよいよ容赦なく天理を鮮明にしていくとの能動的な宣言と拝察させて頂くのであるが、お屋敷を取り巻く前後の事情を思案すれば、この宣言は、官憲の迫害に対する、教祖の側からする対抗的なものであったであろう。明治維新権力との遭遇に対して、教祖の取った態度が赤衣化であり、不退転の闘う決意の表明であったことが興味深い。なお、「赤」着は、当時の神道の白、仏教の黒紫の装束に対する識別でもあったようにも思われる。人間思案の常識からすれば、こんな雲行きの悪い時は暫くそっとして、時機を見て動きだすという考えによるべきであろうが、教祖には、その様な思案の影は微塵もなく天衣無縫の行動を示している。こうして、「お道」の神髄として、「お道」を歩む者は、この道を阻む者が何であれ四囲の事情や人々の思惑などに心労せず、まっしぐらに親神様の思し召しを貫き通せとのひながたが示されることとなった、と拝するべきであろう。 |
【「おさづけの理」 をお渡す】 | ||||||||||||||||||||||||||
教祖は、更にその赤衣を召された同じ日に、「一に息は仲田、二に煮たもの松尾、三にさんざい手踊り辻、四にしっくりかんろだい手踊り桝井」と、四名の者に直々「お授けの理」 をお渡しになられた。これが、「身上助け」の為に「お授けの理」を渡された始まりである。「お授けの理」 が4名に渡されているので仮に「四授け」と看做すことができる。補足すれば、「一に息は仲田」とあることからして、この時点では、仲田儀三郎が一の高弟として「お道」の束ね役の立場にあったことが拝察される。ちなみに「息のさづけ」を教祖から直々に頂かれた人物は二人しかいない。仲田儀三郎と高井直吉である。教祖御昇天後、飯降伊蔵から梅谷四郎兵衛と増井りんの二人が「息のさづけ」を頂かれているが、この四人以外に「息のさづけ」を頂かれた者は居ない。
この頃、「仲田先生はお道で最初の話医者だった」。これにつき、教義及史料集成部/昭和42年6月発行の「史料掛報6月号(121号)」の宇野晴義氏による「仲田佐右ヱ門先生に就て~増井里ん記録」中、文末が次のように記している。
「天理教教理随想」の「No.16 教祖を身近に連載 第16回 身上だすけのたすけ」が次のように解説している。
「二に煮たもの松尾」とあることからして、この時点では松尾市平衛が第二の高弟として「お道」の束ね役の立場にあったことが拝察される。「煮たもの」とは、煮たものぢきもつ(食物)の授け(米三合を袋に入れ、煮立ち湯に三遍ひたし、その柔らかくなった米がぢきもつで、これを三粒ずつ包んで与える)のことである。
「さんざい手踊り辻」の辻忠作が第三。 「天理教教理随想」の「No.16 教祖を身近に連載 第16回 身上だすけのたすけ」が次のように解説している。
「しっくりかんろだい手踊り桝井」の桝井伊三郎が第四高弟であることが分かる。 「天理教教理随想」の「No.16 教祖を身近に連載 第16回 身上だすけのたすけ」が次のように解説している。
「天理教教理随想」の「No.16 教祖を身近に連載 第16回 身上だすけのたすけ」が次のように補足解説している。
「お授けの理」 の意義は、お筆先に次のように説かれている。
|
||||||||||||||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||||||||||||
神意は、この授けによって、どのような自由自在の守護をも現わし、心の底から病の根を切って、今までにない真実の助けをする、と教えられたことにあった。これこそ先に、みすの中から明るいところへ乗り出して、積極的な活動をするとの宣言の具体的な裏づけに他ならない。即ち、従来の「お助け」は、生神様の噂を聞いた人々がお屋敷を訪れ、教祖直々か、あるいはこかんの取次によって「理」をお聞かせ頂いて、「お助け」を頂いた恩返しに生神様の有り難さを伝える「匂いがけ」の程度に留まっていた。それが、今ここに、有り難い「お授けの理」を授けられたことにより、その者たちが、その「理」の効能によって、如何なる痛み、悩みも助けさして頂くことのできる道をお開きくだされたことになる。いわば、教祖の権能の一部が付与されることにより布教への力強い後押しに急き込まれた、と拝察させていただく。教祖は、来るべき事態に備えて、「高弟にお授けの理を渡し、教祖の分身を複数作り出すことにより組織を戦闘的且つ柔構造にするという対応を見せたことが分かる。まさに凄いと拝させて貰う以外にない。こうして、「お道」は活発な伝導活動の第一歩を踏み出すこととなったのである。 小滝透氏は「おやさま」文中で次のように述べている。
|
||||||||||||||||||||||||||
「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「山中忠七先生について(その三)」を転載しておく。
|
【「用木」(ようぼく)】 | |
この「お授けの理」を頂いた道人には、「用木」(ようぼく)と云う名辞が与えられ、かくして用木は、「助け一条」の御用にお使い頂ける信仰の喜びを頂くことになった。「用木」には、その尊い御用を通して、銘々の成人の歩みに素晴らしい道が開かれた。助けて頂きたいから「助け一条」の喜びを味わわして頂ける道にお連れ通り頂けるに至ったのである。これはまさに信仰上の一大躍進であった。山村御殿の節から中教院の干渉と引き続いた節も、道の動きを萎縮させるどころか、こうして信仰上の一大飛躍を与えられ、まさに「節から芽が出る」というお言葉、如実の姿として実現されていくのであった。続いて、
と数え歌に現わして「理」を教え、お屋敷に勤める人々の心の置き所を諭された。 |
【赤衣のお守り】 | |||
教祖は、赤衣のお召しおろしを証拠守りとして、広く道人に渡された。これは、一名一名に授けられるお守りで、これを身につけると、親神は、どのような悪難をも祓うて、「大難は少難、少難は無難」に守護されるとされた。
教祖様がお召しになった赤衣はお守りに使われることになった。次のように証言されている。
|
【教祖のご立腹】 | ||||||||||||
「山村御殿問答、中教院の節」を経て、 奈良中教院より信仰差し止めの通知、お屋敷の幣帛、鏡、みす等の祭具没収、県庁よりお屋敷への参拝人の出入り禁止命令が出され、これに対して教祖は真っ向からご立腹されている。この頃のお筆先に次のように記されている。
お筆先六号の112から117まで、「神の口説き」、「月日の残念」、「かやし」、「大社高山 取り払い」、「天日火の雨 海は津波」、「月日の心 心配」なる激烈な表現が登場している。 |
(私論.私見)