第59部 1874年 77才 教祖赤衣を召す
明治7年

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年.1.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖赤衣を召す」を確認する。「天理教教理を学び神意を悟る」 の

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【教祖赤衣を召す】

 翌12.26日(陰暦11.18日)、教祖は急に「赤衣を着る」と仰せになられた。朝からまつえとこかんが奈良へ布地を買いに出掛け、昼頃に帰って来た。教祖は「出来上がり次第に着る」と仰せになられたので、その時、お屋敷へ手伝いに来ていた西尾ナラギク(後の桝井おさめ)、桝井マス(後の村田すま)、仲田かじなども仕立てを手伝い、夕方にはできあがった。教祖は毅然として赤衣をお召しになられ壇の上に坐られた。教祖はこれ以後赤衣を脱ぐことは一切なく、常に赤衣をお召しになられることになった。使いこなした赤衣は細かく裁断されて「証拠守り」とし、寄り来る道人に手渡されていくことになった。35「赤衣」が次のように記している。

 教祖が、初めて赤衣をお召しになったのは、明治7年12月26日(陰暦11月18日)であった。教祖が、急に、「赤衣を着る」と、仰せ出されたので、その日の朝から、まつゑとこかんが、奈良へ布地を買いに出かけて、昼頃に帰って来た。それで、ちょうどその時、お屋敷へ手伝いに来ていた、西尾ナラギク(註、後の桝井おさめ)、桝井マス(註、後の村田すま)、仲田かじなどの女達も手伝うて、教祖が、「出来上がり次第に着る」と、仰せになっているので、大急ぎで仕立てたから、その日の夕方には出来上がり、その夜は、早速、赤衣の着初めをなされた。赤衣を召された教祖が、壇の上にお坐りになり、その日詰めていた人々が、お祝いの味醂を頂戴した、という。

 その理について、「明治7.12月21日よりはなし」との書き込みで、お筆先が次のように誌している。

 この世を 始め出したる 屋敷なり
 人間創(はじ)め 元の親なり
六号55
 月日より それを見澄まし 天降(あまくだ)り
 何か万(よろづ)を 知らしたいから
六号56
 今までも 月日の社(やしろ) しっかりと 
 貰(もろ)てあれども  いづみ居たなり
六号59
 このたびは 確か表へ 現れて 
 何か万(よろづ)を 皆な言(ゆぅ)て聞かす
六号60
 今迄は 御簾(みす)のうぢらに いたるから
 何よの事も 見へてなけれど
六号61
 この度は 赤い所い 出たるから
 どのよな事も すぐに見えるで
六号62
 この赤い 着物を何と 思ている
 中に月日が こもりいるぞや
六号63
 今までも 月日のままで あるなれど
 日が来たらんで 見許していた
六号64
 このたびは もう十分に 日も来たり
 何か万(よろづ)を 侭(まま)にするなり
六号65
 それ知らず 高山にては 何もかも
  何と思うて 侭にするぞや
六号66
 何事も このところには 人間の
 心は更に あると思うな
六号67
 どのような 事を言うにも 筆先も
  月日の心 指図ばかりで
六号68
 高山は 何を言うても 思うにも
 皆な人間の 心ばかりで
六号69
 月日より 付けた名前を 取り払い
 この残念を 何と思うぞ
六号70
 真実の 月日立腹 残念は
 容易なることで ないと思えよ
六号71

 その神意を解すれば次のようになる。

 「12.21日のお筆先より、『神』が『月日』と改められることになった。これまでは、教祖は『神の社』として『みすのうぢらにいた』が、今後は『赤いところへ出』て直接現われることとする。その証として教祖が赤衣をお召しになられることになった」

 というところにあった。こうして、教祖は、従来の「神の社」としての口述者の立場から、教祖自身が「入魂神」として「月日」となられるという「理」を姿の上にも明示されることとなった。

 「十六年本(桝井本) 神の古記」は次のように記している。
 「老母に赤き着物ハ天照の如く、月日、天に現れて照らすは、りよにんのめなり(両人の眼なり)。眼は開くゆえに世界中明らかなり。それゆえに、やしろの赤きゆえに、世界中は明らかなり。それゆえにやしろは何の事でも見えるなり。それゆえに他なる着物は着れば身が苦しいゆえ、着て居ることは出来ぬ事」(中山正善「成人譜その三 こふきの研究」133-134頁)。

 それまでの教祖は、「どろ染め」の黒い衣を着ておいでなされた。その後、「黒いものを着ると身体が苦しい」というようになり、上衣はもとより襦袢(じゅばん)から足袋(たび)にいたるまで一切(いっさい)赤いものを用いられた。「くらいところ(暗い所)では働きがにぶい(鈍い)。赤きところ(明き所)に月日がこもりいる(籠り居る)」との御言葉を遺している。「そやよって、悪口いう人は、赤いものやよって『ホーヅキ婆さん』なんていうたこともある、と仰ったこともある」(みちのとも大正9年2月号、宮森與三郎「三昔四昔の回顧」)。

 教祖の赤衣着用経緯が次のように証言されている。
 「教祖が、初めて赤衣をお召しになったのは、明治7年12月26日であった。教祖が急に、『赤衣を着る』と仰せ出されたので、その日の朝から、まつゑとこかんが、奈良へ布地(きれぢ)を買いに出かけて、昼頃に帰って来た。それで、ちょうどその時、お屋敷へ手伝いに来ていた、西尾ナラギク(後の桝井おさめ)、桝井マス(後の村田すま)、仲田かじなどの女達も手伝うて、教祖が、『出来上がり次第に着る』と仰せになっているので、大急ぎで仕立てたから、その日の夕方には出来上がり、その夜は、早速、赤衣の着初めをなされた。赤衣を召された教祖が、壇の上にお座りになり、その日、詰めていた人々が、お祝いの味醂を頂戴した、という」。(稿本天理教教祖伝逸話篇35「赤衣」57-58p)

 「辻忠作文書」は次のように記している。
 「それまで教祖様(おやさま)は、黒き着物に、白糸で三つ菊の紋〈の〉付いた紋付を着ておいでなされたが、〈月日親神様が〉 『赤き着物を着よ』と言う事にて、『この赤い着物を何と思ている 中に月日が籠り居るぞや』 と仰せありました。お召し下ろしの着物をもって、 『悪難除けの守り、息かけて出せ』 と仰せありました」。(大正9年4.25日、道友社「本部員講話集 中」辻忠作「ひながた」より)
 「それより教祖様(おやさま)は、黒き着物を着てござったに、神の御指図(おさしづ)にて、赤き着物をお召しになりました。この赤い着物を何と思ている 中に月日が籠り居るぞや  (六 63)とお付けになりて、それより召し下ろしの衣物(赤衣)をもって「悪難除け守り」(大(外側?)は三日三夜に宿し込みの理で三寸四方。人初(人間初め?)生まれ出し五分からの理で中五分布(中の五分の布?)に「神」と書く)お息をかけてお出しになります。『疱瘡(ほうそう)守り』は一寸(いっすん)にて、中に五分の布(きれ)に無という字書いて、お息かけてお出しになります」。(辻忠作文書、初代真柱様へ提出の「別席之御話」(明治31年)より)

 諸井政一「正文遺韻抄」12-13頁は次のように記している。
 「そこで神様のお話に、『この屋敷へ、木仏、金仏、石仏を据えたところで、神が入り込んでものを言わする訳にいかんで。元なる親の魂に、人間五体の生を受けさして、神が天よりその心を見澄ましていた』と伝えられる」。
 「赤、黒、白の意味」についての次のようなお指図が遺されている。
 「赤き道とゆふは、わかりかけた心、赤キ道也(なり)。黒キ道とゆふは、何事もわが思案の心、黒キ道也(なり)。 白キ道とゆふは、世界なみの心、これを白キ道とゆふなり」。(お指図、明治20.11.2、「根のある花・山田伊八郎」所収。赤き道とは「神意、教えの理が理解(わか)りかけた心」で、黒き道とは「何事も自分中心に考える『ほこり』の心」で、白き道とは「世界並みの心」と説明されている)
 「間違う指図、指図に間違いはない。取りよう聞きようで腹と背となる。どう思うてもならんで/\。悩み/\身の難儀、赤い黒いも分からず、そもそもの心を吹き出し、段々事情と言えば、これも十分の心とは言えようまい」。(お指図、明治26.5.18)

【警察の教祖の赤衣着用干渉】

 「教祖の赤衣着用」につき、「永尾(飯降)芳枝/雨乞ひ勤め」(みちのとも、昭和4年5.20日号)が次のように伝えている。

 概要「警官が見えるたびいつも、 御教祖様(おやさま)に対して、『赤い着物を着て人を迷わしている』、『やまこを張っている』などと難癖をつけ、『赤い着物は着てはいかん』と叱っていた。警察がかく干渉し始めた。教祖(おやさま)は、これを頑として受けつけなかった。ある時、教祖は側の者に次のように仰せになられている。
 『私し(わし)が赤い着物を着ていりゃこそ世界が明るいのや。わしが赤い着物を着なければ、世界は暗闇やで』。

 (※「やまこを張る」とは、(「虚勢を張る」、「ハッタリをかます」など強気な態度、大袈裟な言動で相手を威圧、恫喝、脅迫すること。できないのにできる振り、弱いのに強い振りなどをすることを云う)」。

 「暗闇」に関連するお指図は次の通り。
 「これもう一つ ほこり立ったら暗闇やで」(お指図、明治30.11.20)
 「何ぼ言うて聞かしたてならん。我が身仕舞いではならん。それでは灯火(ともしび)消えて、今一時点けようと言うたて行きやせん。暗闇という。聞き分け」(お指図、明治33.10.14)。

 「おさしづ」は次の通り。
 「警察が一人も〈参詣者を〉寄せ付けなんだ日もあった。又〈無理に〉黒衣を着せた日もあった」。(お指図、明治20.3.16午後8時)
 「春風のような そよ/\(そよそよ)風の間は 何も言う事は無い。神も勇んで守護する。 なれど今の事情はどうであるか。黒ほこり、泥ぼこり立ち切ってある。  この黒ほこり、泥ぼこりの中で、どうして守護出来るか。又(また)守護した處(ところ)が、世界へどう見えるか。よう聞き取れ。大変 口説き話である程に/\」。(お指図、明治30.2.1)
 「あちらから黒ぼこり こちらから黒ぼこり、年限よう/\一寸(ちょっと)事情、払うて/\どうでも払い足らん。未だもう一段 払い足らん。そこで刻限一寸(ちょっと)諭さにゃならん」。(お指図、明治31.5.9夜)

(私論.私見)  教祖赤衣考、「月日」考
 教祖は自ら赤衣を召して、「月日の理」を、その姿の上にも明らかにして、益々積極的な行動を進める旨を宣明した。このことは、いよいよ容赦なく天理を鮮明にしていくとの能動的な宣言と拝察させて頂くのであるが、お屋敷を取り巻く前後の事情を思案すれば、この宣言は、官憲の迫害に対する、教祖の側からする対抗的なものであったであろう。明治維新権力との遭遇に対して、教祖の取った態度が赤衣化であり、不退転の闘う決意の表明であったことが興味深い。なお、「赤」着は、当時の神道の白、仏教の黒紫の装束に対する識別でもあったようにも思われる。人間思案の常識からすれば、こんな雲行きの悪い時は暫くそっとして、時機を見て動きだすという考えによるべきであろうが、教祖には、その様な思案の影は微塵もなく天衣無縫の行動を示している。こうして、「お道」の神髄として、「お道」を歩む者は、この道を阻む者が何であれ四囲の事情や人々の思惑などに心労せず、まっしぐらに親神様の思し召しを貫き通せとのひながたが示されることとなった、と拝するべきであろう。

【「おさづけの理」 をお渡す】

 教祖は、更にその赤衣を召された同じ日に、「一に息は仲田、二に煮たもの松尾、三にさんざい手踊り辻、四にしっくりかんろだい手踊り桝井」と、四名の者に直々「お授けの理」 をお渡しになられた。これが、「身上助け」の為に「お授けの理」を渡された始まりである。「お授けの理」 が4名に渡されているので仮に「四授け」と看做すことができる。補足すれば、「一に息は仲田」とあることからして、この時点では、仲田儀三郎が一の高弟として「お道」の束ね役の立場にあったことが拝察される。ちなみに「息のさづけ」を教祖から直々に頂かれた人物は二人しかいない。仲田儀三郎と高井直吉である。教祖御昇天後、飯降伊蔵から梅谷四郎兵衛と増井りんの二人が「息のさづけ」を頂かれているが、この四人以外に「息のさづけ」を頂かれた者は居ない。

仲田儀三郎
松尾市兵衛 煮たもの
辻忠作 さんざい手踊り
桝井伊三郎 かんろだい手踊り

 この頃、「仲田先生はお道で最初の話医者だった」。これにつき、教義及史料集成部/昭和42年6月発行の「史料掛報6月号(121号)」の宇野晴義氏による「仲田佐右ヱ門先生に就て~増井里ん記録」中、文末が次のように記している。

 「先生は神さまから大層〔か〕あいがられてゐた。御教祖は何時も『佐右衛門さんは一の子供やで』と仰せられました。そう仰せられてゐる御教祖のお姿が眼にうつってゐます。先生のお手振の御上手であることは言ふまでもなく皆様の御存知のことで御座います。先生は直接御教祖様よりお習(ならい)なされてそれを皆に教へてくだされたのであります」。

 「天理教教理随想」の「No.16 教祖を身近に連載 第16回 身上だすけのたすけ」が次のように解説している。

 「その内容をみますと、まず息の授けは、親の息を教祖にかわってかけさせて頂ける授けで、教祖在世中は仲田儀三郎さんと高井猶吉さん、本席時代になってからは梅谷四郎兵衛さん、増井りんさんの四名にしか渡されていない授けであります。教祖は平身低頭している人の頭から身体中へ、強く長いお息を三度おかけになられ、授けを渡されます。これを頂いた人は、お息を病人の身体や紙〔お息の紙として御供(ごく)とともに渡される〕にかけることを許されます。この授けはいざなぎ、いざなみの命が人間産みおろしのときに、産み下ろすごとに親の息をかけられた(十六年桝井本)理に基づくもので、教祖在世当時、遠方の信者が身上のためお屋敷に帰ってこれないとき、その家内の者が病人が身につけていた着物、下着などを持ち帰って、教祖にお願いしてお息をかけて頂き、それを頂いて帰って病人に着せると鮮やかな御守護を頂いた、と聞かして頂きます」。

 「二に煮たもの松尾」とあることからして、この時点では松尾市平衛が第二の高弟として「お道」の束ね役の立場にあったことが拝察される。「煮たもの」とは、煮たものぢきもつ(食物)の授け(米三合を袋に入れ、煮立ち湯に三遍ひたし、その柔らかくなった米がぢきもつで、これを三粒ずつ包んで与える)のことである。

 「天理教教理随想」の「No.16 教祖を身近に連載 第16回 身上だすけのたすけ」が次のように解説している。

 「二つ目の煮たものの授けは『にたものじきもつ』の授けと云われるもので、この授けは普通の授けのように取次ぐものではなく、じきもつの御供(ごく)を病人にお下げ下される授けです。その御供は白米三合を袋の中に入れて、煮え立った湯の中に三遍浸し、少しふやけたお米、それがじきもつで、それを保存しておき、病人に御供として与えられます。このほかに『じきもつのこう水』の授けもあります。これは山沢良治郎さんに教祖が渡されたもので、清水の中に白砂糖を入れ、授けを頂いた方が先に三口飲み、その理によって、その水が『じきもつのこう水』になり、これを病人に頂かせます。『じきもつ』の授けは松尾市兵衛さん、『じきもつこう水』の授けは山沢良治郎さん、山沢為造さんにだけ渡された、と云われています」。

 「さんざい手踊り辻」の辻忠作が第三。

 「天理教教理随想」の「No.16 教祖を身近に連載 第16回 身上だすけのたすけ」が次のように解説している。
 「三つ目の辻忠作さんに渡された『さんざいてをどり』の授けは、現在満席になって頂く授け『あしきはらいのさづけ』ともいいます。『さんざいこゝろをさだめ』(一下り、三ツ)と教えられますように、人間心のない三才心、無邪気な心、親神の御心にかなう素直な心はお道の信仰において一番大切な心であり、この心で取次がせて頂くことによって不思議を見せて頂けます。三遍を三回撫でる理は、教祖の親心を撫でる理によって表す。三編撫でるのは身につく、六編はろっくに治まる、九遍で苦がなくなる、とも聞かして頂きます」。
 
 「しっくりかんろだい手踊り桝井」の桝井伊三郎が第四高弟であることが分かる。

 「天理教教理随想」の「No.16 教祖を身近に連載 第16回 身上だすけのたすけ」が次のように解説している。
 「四つ目の授けは『かんろだい』の授け。『かんろだいてをどり』の授けともいわれるもので桝井伊三郎さんにだけ教祖から渡されます。この授けの取次ぎはかぐらづとめの第二節『ちよとはなし』の手振りのあと、『あしきはらひたすけたまへ いちれつすうますかんろだい』を三編唱え三編なでる、これを三回繰り返すことは、『あしきはらい』のさづけと同じ取次ぎ方になります。尚『あしきはらひたすけたまへ いちれつすうますかんろだい』は明治十五年のかんろだいの石の取払い後は、『あしきをはろふてたすけせきこむ いちれつすましてかんろだい』と変更になります。この授けは本席さんが明治二十年三月二十五日、本席になられて初めて、西浦弥平さんに渡されています。本席さんが本席になられる前、十日余り病名のわからない不思議な熱病になられた時、それを聞かれた西浦弥平さんが毎夜お屋敷に来られては、かんろだいに本席さんの身上平癒の願いをしておられたそうで、その真実がこの授けを頂くもとになっていると思われます」。

 「天理教教理随想」の「No.16 教祖を身近に連載 第16回 身上だすけのたすけ」が次のように補足解説している。
 「四つの授けの他に、本席さんを通じて、水の授けが渡されますが、これは先に三口飲んで、あと病人に飲ますもので、『人間元初まりの時、三尺まで水中住居、この清水を与える理、又三口飲むは、三日三夜に宿し込みた、この理によって与える』(M20.5.6)と教えられています」。

 「お授けの理」 の意義は、お筆先に次のように説かれている。
 今迄は 病とゆへば 医者薬
 皆な心配を したるなれども
六号105
 これからは 痛み悩みも できものも
 息手踊りで 皆な助けるで
六号106
 この助け 今迄知らぬ 事なれど
 これから先は 試ししてみよ
六号107
 どのよふな 難しきなる 病でも
 真実なるの 息で助ける
六号108
(私論.私見) 「おさづけの理」 考
 神意は、この授けによって、どのような自由自在の守護をも現わし、心の底から病の根を切って、今までにない真実の助けをする、と教えられたことにあった。これこそ先に、みすの中から明るいところへ乗り出して、積極的な活動をするとの宣言の具体的な裏づけに他ならない。即ち、従来の「お助け」は、生神様の噂を聞いた人々がお屋敷を訪れ、教祖直々か、あるいはこかんの取次によって「理」をお聞かせ頂いて、「お助け」を頂いた恩返しに生神様の有り難さを伝える「匂いがけ」の程度に留まっていた。それが、今ここに、有り難い「お授けの理」を授けられたことにより、その者たちが、その「理」の効能によって、如何なる痛み、悩みも助けさして頂くことのできる道をお開きくだされたことになる。いわば、教祖の権能の一部が付与されることにより布教への力強い後押しに急き込まれた、と拝察させていただく。教祖は、来るべき事態に備えて、「高弟にお授けの理を渡し、教祖の分身を複数作り出すことにより組織を戦闘的且つ柔構造にするという対応を見せたことが分かる。まさに凄いと拝させて貰う以外にない。こうして、「お道」は活発な伝導活動の第一歩を踏み出すこととなったのである。

 小滝透氏は「おやさま」文中で次のように述べている。
 「(さづけは)それまで教祖の専権事項であったのだが、この時から教祖の認めた高弟にも与えられるようになってゆく。宗教社会学でいう『カリスマの分与』である。つまり、彼らは、教祖になり代わり、人を救済できる地位をこの時持ったということだ。ここに天理教が『つとめ』と並んで『たすけ一条の道』と呼ぶ『さづけ』が確立したのである。教祖は、自らの巨大なカリスマ(神の恩寵)の断片を、こうした人々に分与しながら、世の難儀する人々を救い、同時に来るべき事態に備えようとしたのである」。
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「山中忠七先生について(その三)」を転載しておく。

 山中忠七先生について(その三)(昭和28年12月発行「清水由松傳稿本」(編者・橋本正治、芳洋史料集成部発行)90-91pより)

 (中略)~さて忠七先生の頂かれた扇の伺いというのは、その理を許された人が神様に向って座り、日の丸扇子笏板(しゃくいた)で一揖(※1)する時の様に両手でもって平伏して神意を伺う。その時伺う人の心に浮ばして下さる。それを伺った人にとりつぐのであって、伺の扇が倒れる方向によって神意をさとるものだという人があるのはどうかと思う。「よろづ伺い」は、その理をゆるされた人が扇子をもたずに神前に平伏し心に浮んだ理をとりつがれるのである。「肥のさづけ」は、さづけを頂いてる人が土三合 糠(ぬか)三合 灰三合をまぜあわせて神前にお供してお願すると、それが肥一駄即ち四十貫の肥になる。然しこれは自分の田畑にだけ使用することに限られているから、他人に与えても理がきかない。辻忠作先生のお話では「神さんは反四石五石米をとらすと仰言っていたが、人間心の欲があってそれだけ与を頂くだけに心が澄まんからいかんのや」と仰言っていた。大体普通の肥を置かずに収穫は相当頂けるが、藁が余り大きくならない。その上肥のさづけを置いたものは、長年にわたって出来不出来がなく、収量が平均しているから結局ずっと普通より出来が良いということである。忠七先生は又めどう(目標)の御幣をきってそれを記念(※2)して神様に御祭りさしてもらう理も頂いておられた。私の実父が忠七先生に「忠七さん、内の神さんのめどう ないよってん(無いから)あんた御幣さんきって、一ついわいこめてもらいたい」とたのんで、忠七さんにすぐそうしてもらって、それを朝夕拝んでいたが、その後本部から「奉修天理王命」というお札を頂いて、共に神棚におまつりした。これを当時「おがみつけ」と言い、後明治四十一年秋、一派独立なってから、現在と同様御神鏡を下附される事になった。さて忠七先生は、晩年おやしき内に家を一軒東南隅に建てて頂き(小南の南側東寄り)そこに住居し、御供包みなどしていられたが、後老衰して大豆越の離れの上段の間に起居し、明治三十五年十一月二十二日七十六才で出直しされた。葬儀は初代真柱様斎主の下に執行され大豆越の墓地に葬られ、そのみたまは夫婦とも、中山家のみたまやへ本席夫婦と共に合祀された。


【「用木」(ようぼく)】

 この「お授けの理」を頂いた道人には、「用木」(ようぼく)と云う名辞が与えられ、かくして用木は、「助け一条」の御用にお使い頂ける信仰の喜びを頂くことになった。「用木」には、その尊い御用を通して、銘々の成人の歩みに素晴らしい道が開かれた。助けて頂きたいから「助け一条」の喜びを味わわして頂ける道にお連れ通り頂けるに至ったのである。これはまさに信仰上の一大躍進であった。山村御殿の節から中教院の干渉と引き続いた節も、道の動きを萎縮させるどころか、こうして信仰上の一大飛躍を与えられ、まさに「節から芽が出る」というお言葉、如実の姿として実現されていくのであった。続いて、

 「五つ、いつもの話し方、六つ、むごい言葉を出さぬよう、七つ、何でも助け合い、八つ、屋敷のしまりかた、九つ、ここでいつまでも、十ど処のおさめ方」

 と数え歌に現わして「理」を教え、お屋敷に勤める人々の心の置き所を諭された。


【赤衣のお守り】
 教祖は、赤衣のお召しおろしを証拠守りとして、広く道人に渡された。これは、一名一名に授けられるお守りで、これを身につけると、親神は、どのような悪難をも祓うて、「大難は少難、少難は無難」に守護されるとされた。

 教祖様がお召しになった赤衣はお守りに使われることになった。次のように証言されている。
 「あかき心。教祖様がお召しになった赤衣の布(きれ)を三寸角に、または二寸八分角に切って、これを三角に縫うて、中へ同じ赤衣五分の布に『神』という文字を書き入れ、これに三編の息をおかけ下されて『悪難除けお守(まも)り』と言うて、おぢばから出すのは、『子供が可愛い一条から、大難は小難、小難は無難に救けたい。それには、この守(まも)りのように‘’あかき心‘’になれ』とて、お出し下さる」(諸井政一「正文遺韻」229頁、「おまもりのり」より)。
 「この赤ききれ(布)は、教祖様が五十年の間 御艱難の道を、世界万民の助け一条の為のお通り下された、この光り輝くその赤き心であるから、月日様より赤き着物をお着せになりて、そこへ月日様のお心をこもり入りて、口を借りて話一条の理でお助け下さるで、教祖様のお召し替えの赤ききれ(布)である。そこで御守りはからだに貰うのやない、人々の心に貰うのである。そこで何程結構なるおまもりでも、世上あく風(悪風)に誘われ、又悪説にあやかりて、お話の理を心に守らにゃなんでもない」(山田伊八郎文書 351-352頁「おまもり」より)。
 「梅谷四郎兵衛先生が、ある時おぢばへ帰ってきた時、当時ご存命であった御教祖(おやさま)にご挨拶に出られたところが、そのとき突然喀血(かっけつ)された。畳を汚すまいとして受けた手の平(掌)には、真赤な血の固まりが一杯(いっぱい)あった。その様(さま)を見て、御教祖は傍ら、 『四郎兵衛さん!血というもんは赤いもんや。お前の‘’赤い心‘’がそこへあらわれたんや。何も心配することいらんで』と仰った。以来、喀血されたことはなかった(ご守護戴いた)。梅谷四郎兵衛先生は肺病で道に付かれたのであった」。(昭和3.1.25発行「洗心」第七号、六号活話(二)より)

【教祖のご立腹】
  「山村御殿問答、中教院の節」を経て、 奈良中教院より信仰差し止めの通知、お屋敷の幣帛、鏡、みす等の祭具没収、県庁よりお屋敷への参拝人の出入り禁止命令が出され、これに対して教祖は真っ向からご立腹されている。この頃のお筆先に次のように記されている。
 今までも たいて口説きも 説いたれど
 まだ云い足らん 月日思惑
六号112
 このたびは 何か月日の 残念を
 積もりてあるから 皆な云うておく
六号113
 このところ 助け一条 止められて
 何でも返し せずに居られん
六号114
 このかやし 大社高山 取り払い 
 みな一列ハ 承知していよ    
六号115
 この話し なんと思うて 聞いている  
 てんび火の雨 海ハ津波や
六号116
 こらほどの 月日の心 心配を    
 世界ぢうハ なんと思うてる
六号117

 お筆先六号の112から117まで、「神の口説き」、「月日の残念」、「かやし」、「大社高山 取り払い」、「天日火の雨 海は津波」、「月日の心 心配」なる激烈な表現が登場している。




(私論.私見)