第57部 | 1874年 | 77才 | 教祖の中南の門屋建築の仰せ、大和神社での神祇問答の節 |
明治7年 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.19日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「教祖の中南の門屋、建築の仰せ、高山布教のさきがけとしての神祇問答」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【教祖、引き続き「中南の門」の建築普請を促す】 | |||||||
「お筆先三号解釈その1(1〜4)」参照。 1874(明治7).1月、教祖は、先ず門とそれに続いた住居と倉の建築を指針せられた。それには屋敷内の地取りをせねばならず、その当時屋敷内には邪魔になる建築があったので、それを取り払うて早く屋敷内の掃除をするようにと急がれた。 お筆先三号で次のように急かされている。
神意はこうであった。「この度は屋敷内の邪魔になる建物を取り払うて了え。速やかに残る隅なく屋敷の掃除ができたならば、なわむね(縄棟)を急いで張るように」。かく、教祖は、お住いになる建物の建築を急き込まれた。こうして、今やまさに、教祖に対する留置投獄という形を以って「高山布教」が始まろうとしている前夜、後日警察の干渉の原因ともなった、中南の門の建築を仰せ出され、次のように宣べられた。
これにより、表門のところに窓なしの倉と教祖の座敷住居が拵えられることになった。引き続き、上段の間と、二階建て一棟の普請が為されている。当時30名ほどが熱心な信者として集っており、銘々より寄付が為され、普請の手間は、伊降とその弟子等の僅かな人数で引き受けることになった。明治7年9.13日から始まって10.26日に棟上げされている。棟上したものの警官の咎めだてにより又も普請がのびのびになったが、この干渉による渋滞を許さず年内に何事もなかったかのように立派に内造りが完成した。 |
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これを思案するのに、教祖は、明治維新政府の弾圧をものともせず否むしろ敢然と更に意気軒昂に独立独歩「お道」の前進を図ろうとしていたことになる。「闘う教祖」の姿をそこに見ることができよう。 |
【教祖の中南の門屋、建築の仰せ考】 | |||||||||||||||||||
教祖の仰せの「邪魔になる建物」とは何か。芹沢茂(著)「おふでさき通訳」(道友社、1981年)は次のように記している。
ここで、「邪魔になる建物」として「掘立小屋の程度の建物」が特定されている。この「掘立小屋の程度の建物」について、松谷武一(著)「先人の面影」32−35頁(天理教青年会本部、1981年)がさらにくわしく史実の検討を行って「掘立小屋取払いは、秀司先生と内縁関係にあった婦人の住居のため」として次のように述べている。
ここに出てくる「おちゑ」は、お筆先1号39で、「一寸はなし 正月三十日と ひをきりて をくるも神の 心からとて」と書かれている方である。秀司は、教祖の思召しに添って、おちゑを子供の音次郎(数え年9歳)と一緒に実家に帰している。そのおちゑは幾日も経たぬうちに病死したと伝えられている。「正月三十日」とは、明治2年のことで、3号が書かれる5年前のことである。 |
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【「註釈」異説としての「かんろだい」場所の整地説/「ほんあづま」120号】 「註釈」とは違うお筆先のお歌の流れを重視した解釈を試みた例もある。八島英雄(著)「ほんあづま120号」112頁(1979年)では、「かんろだい」の場所の整地という考えが示されている。
この解釈でも、「かんろだい」を立てる場所という具体的な場所のイメージから自由になれていない。 |
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【「もんのうちのたてもの」とは、「つとめ場所」―「原典成立とその時代」】 このような流れの中で、天理図書館収蔵史料「明治七年七月/巡回説教聴衆扣/石上神社」の検討から、「教祖とその時代」の「X原典成立とその時代(池田士郎著、石崎正雄編.1991.道友社.188頁)が、「もんのうちのたてもの」とは「つとめ場所」であるという説が出てきた。池田氏の記述を引用する。(編集替え文責/れんだいこ)
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【教祖、迫害を予見す】 | ||||||||||
1874(明治7)年頃、教祖は、「近代神道的国民教化の教説」を押しつけようとし始めた「高山の説教」に対抗する「高山布教」の旬に至ったことを道人にお示しされるようになり、お筆先五号において次のような予言を為された。
その神意はこうであった。
教祖が、国家権力の側からする弾圧を、むしろ「高山たすけの高山布教」の好機としてお受けとめされていることが分かる。この教祖の予言が来るべき事態に備えた優れた指針となった。事実、この予言通りに警察の干渉が強まり、教祖は、爾後満12年間に亘り約18回に及ぶ「ご苦労」をすることになった。 本部教理は次のように述べている。
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【古代史上の神話と大和神社の関係について】 |
大和神社は、記紀に登場する倭大国魂大神(やまとのおおくにのみたまのおおかみ)などの神々を祭神としており、日本最古の神社であるとも云われている。「延喜式神名帳」にも大和国山辺郡13座の初めに「大和坐大国魂神社(おおやまとにますくにたま)とある。もともと「大倭」と記されていたが、後に「大和」と書いて「おおやまと」と呼ばれるようになった。この説明ではまだ足りない。次に述べる「大和神社問答事件」との絡みで、ここで「古代史上の神話」について考察しておくこととする。 |
【高山布教その1、大和神社での神祇問答の節】 |
この年陰暦10月のある日、「大和神社問答事件」が起こった。「お道」は、結果的にこの事件を契機に国家権力の弾圧水路を開くこととなった。この問答を通して判明することは、教祖が余程詳しく大和神社の縁起についてご承知されている節があることである。この種の観点よりの考究は全く為されていないが重要なことであるように思われる。取り敢えずこの事件の顛末を見ておこうと思う。実際の問答は別物であったと思われるが、他に資料もないので天理教本部の稿本教祖伝によらざるを得ない。 |
【高山布教その2、石上神宮神職問答の節】 | |
「大和神社問答事件」は尾を引くことになった。事件の翌日、石上神宮の神官5名が弁難にやって来た。これは大和神社の神職が、「庄屋敷村は石上神宮の氏子である。自分の氏子の中に、あんな愚説を吐く者がいるのを、そのままにしているということは、石上神宮の取締りが不十分であるからだ」と、その筋から石上神宮神職を責め立てた為であった。石上神宮の神官は、まず秀司に向かって問答を仕掛けた。秀司が「知らぬ」と答えると、「村の役までする者が知らぬ筈があるものか」としつこく迫って来たので、辻忠作が、「昨日、大和神社へ行った者が居りますゆえ、こちらへ来てくだされ」と話しを引き取った。 この時、教祖は「親しく会う」と仰せられ、衣服を改めた上、直々自らお相手下さった。ここに神職側と教祖の間に宗論が展開されることになった。稿本天理教教祖伝は「教祖は親神の守護について詳しく説き諭された」として次のように記している。
真相は恐らく、上述のやり取りの他に、このたびの祭神替えの不義について「それはならぬ、ならぬこと」と論難したのではなかろうか。教祖は、大和神社、大神神社、石上神宮に伝わる大和王朝以前からの歴史性に言及し、「記紀学問は作り物に過ぎない。大和神社、大神神社、石上神宮に祀られている祭神のお働きは記紀学問のはるか前より伝わる古くよりの真実である」と述べられたのだろうと思われる。教祖の弁論は大和神社神職らの時局迎合性を鋭く突いていた。石上神宮の神官達は反論する気迫もなく唖然として立ち去った、と伝えられている。 |
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こうした経過を見ていると、「この道を つけよふとてに し拵(こしら)へ」と仰せられている通り、「大和神社での神祇問答の節」がその証左であり、迫害の口火に火を点じたのは、むしろ教祖の側にあったことになる。問題は、稿本天理教教組伝式「大和神社問答事件」では真相が分からないことにある。かの問答が、伝えられているような表層的なものであったかどうか疑問としたい。真実は、教祖が、「お道」の高弟を送りこんだその日は、大和神社の御神体替えを信徒総代に説明する日に当っていた。こうした事情を考えると、教祖は、大和神社の御神体替えの事情を察知しており、旧御神体の価値を認め、それを変更させようとしている時の大和神社神職達の時局迎合ぶりを揶揄する意図をもって高弟を送りこんだ節が窺える。こうして意図的にその種の論議を仕掛けさせた。大和神社神職は痛いところを突かれた腹いせに石上神社及び奈良県庁へ訴えでた、と拝察させて頂く。こうした背景を踏まえて「大和神社問答事件」を窺う必要があるように思われる。いずれにしても、こんな経緯から迫害干渉が始まることとなった。それが、やがて教祖はじめ熱心な信仰者逹の拘引、留置、投獄という、何よりも忌まわしい出来事として発展していったのである。 |
【丹波市分署による手入れ】 |
これで彼らの腹の虫が納まったわけではない。石上神宮の神官たちは思うようにならなかった腹いせに、そのまま足を丹波市分署に向けた。「庄屋敷村は、丹波市分署の管轄内である。その管轄内でご政令に背くような妄説を吐かしておいては、貴公らのお役目が立つまい」、こんな意味の言いぐさで、警察分署の人々を煽り立てたことと察する。こうなっては、丹波市分署もじっとしていられなくなり、日ならずして、お屋敷に闖入して、神前の幣帛(へいはく)、鏡、簾、金燈籠などを没収し、これを村役人に預けた。こうして遂に迫害干渉の口火が切られることとなった。 |
(私論.私見)